JRの高茶屋踏切を渡り、右折すると津宿から続いていた住宅が途切れて、ここから雲出川までは自然が美しく残っている。
これまでの風景と一変し、解放感を感じさせる風景だった。
雲出島貫町は、江戸時代に伊勢街道の宿場があったところである。
史跡 明治天皇島貫御小休所址と書かれた背の高い石碑があるところには、江戸時代本陣の柏屋があり、明治時代まで営業していたというが、
今は宿場だった通りとは感じられない静粛があった。
前回終えた八幡神社の裏道の道標のある交差点から今日の旅を始めた。
交差点を越えると左側に地蔵堂があり、弘法大師の作と伝えられる地蔵を祀っている。
「 ここは松源寺の入口で、松源寺に立ち寄った後、 富士参りに出かけた人が山中で道に迷ったが、旅僧に姿を変えたお地蔵様に助けられた 、 という伝説が残っている。 」
このあたりの町名は八幡町である。
藤堂高次が、八幡神社をここに移した際、神社に奉仕させるため、住民を移して、町を作り、
八幡町と名付けた、と伝えられる。
道の両脇には古い家が残っていた。
道の右側の新築された家の前に、「史跡 明治天皇八幡町御小休所址」 の石碑が建っていた。
ここの家は、数年前には大きな古い町屋だった。
明治天皇が休憩したところだが、建物は跡かたもなく消えてしまっていた。
その先、鉤型のように少しなっているが、左に入る三叉路である。
三叉路の左手前に、「 県社 八幡神社 」 の標柱があるが、
ここは八幡神社の表参道の入口である。
「 八幡神社は、足利尊氏が京都の男山の岩清水八幡宮から勧請したと伝えられ、
寛永九年(1632)、津藩の二代藩主・藤堂高次が、垂水の山から現在の地に移し、
同時に藩祖高虎の霊を祀った。
高次は、祭礼を奨励し、移転した翌年に始まったのが、今の津まつりとなった。
八幡神社だったのが、津八幡宮に変わったのはいつかは分からないが、
石柱に県社とあるのを見ると、明治時代か?
華麗な社殿と多くの山車を誇っていた神社だったが、津の空襲時に建物も山車も全て焼失した。
現在の建物は再建された建築である。
祭も一時途絶えていたが、唐人踊りや八幡踊りが復活している。 」
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街道に戻ると、道は左にカーブし、その後、右にカーブしていく。
この道は狭いのに車の行き来が激しい。
カーブの先には、小さな川が流れ、橋が架かっていた。
橋の左手に、手作りの香良州(からす)道の道標があった。
三叉路を左折した細い道が香良洲道である。
「
この道は津市香良洲町にある香良洲神社へ向かう道で、
江戸時代、ここが香良洲道との追分になっていた。
香良洲神社は、天照大神の妹神・稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀った神社で、伊勢神宮の参拝客は、香良州神社も参詣しない、と片参りといわれたのである。 」
ここに架かる橋が思案橋といわれたのは、参拝しようか、そのまま行こうか、
と思案したことからである。
思案の末、参詣しない旅人は、ここから遥拝した、といわれる。
橋の川側の欄干の下側面には、松、扇、梅が浮彫されていて、少しこった造りであるが、
橋の上が生ゴミの集積場になっているようで、持ってきたゴミが目の前で増えていった。
伊勢街道は、直進なので、そのまま進むと、国道23号の垂水南交差点に出た。
道路は渋滞し、車が数珠つなぎに並んでいた。
狭い道に車が入ってくるのはこのせいと思った。
伊勢街道は直進なので、垂水南交差点を横断して、対面の道に入る。
JR紀勢本線藤枝踏切を渡ると、そこからはもっと細い道となった。
その先、三叉路の信号交差点の上の標識に、 「 この信号機は交互通行式です。 約4分間お待ちください。 」 と、書いてあった。
道が狭いので、信号で交互通行をする方式をとっているのである。
右側から合流してくるのは、寛永九年(1632)に、八幡町側に道を変える前の伊勢道である。
次の交差点の右側に、成就寺がある。
寺の山門の横に、「 清水不動参詣道コレヨリ三丁 」 の背の高い木造の案内看板が立つが、
これはその先にある清水不動院への案内である。
その下の安永二年(1733)建立の小さな道標には、「 大日如来出現所香水道 」と刻まれている。
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石段を上がると成就寺の本堂と鳥居のある社(やしろ)があった。
説明板「木像 大日如来坐像」
「 成就寺は、真言宗醍醐派の寺で、木造大日如来坐像がある。
織田信長の伊勢進攻で兵火に遭い、寺勢が衰えたといわれるが、
この南にある金剛寺(旧成就寺金剛坊) や南昌寺(同南昌坊)は同寺の塔頭だったのである。
寺に伝わる文禄弐年(1593)の縁起によると、行基が伊勢参宮の途中、
このあたりの土中から仏像を掘り出し、堂を建てて安置したという。
その仏像が出土した跡地から香水と称する一切の痛みがある病気を治す水が湧き出し、
その水を白河上皇(1053〜1129)に献上したところ、病気が治癒したことから七堂伽藍を建て、
寺領200貫を寄付されたと伝えている。
また、「伊勢参宮名所図会」に西行法師(1118〜1190)が当寺で、童と歌問答をしたとの説話を載せる。
堂の中央の厨子に本尊である大日如来坐像が安置されている。
腹前で左右の手を合わせて法界定印を結び、立派な宝冠をかぶり、堂々とした姿である。
像高94.4cm、ヒノキ材あるいはカヤ材を用いた割はぎ造で、当初は漆箔が見られ施されていたが、現在は木肌が表れている。
両腕など後補とされる部分も見られるが、顔などの表情は当初のまままで、弧を描いた眉、
伏し目がちの眼、きゅうと結んだ口元には、穏やかな中にも意思が感じされる。
造像の経緯など詳細は不明であるが、作風から判断して、平安時代後期、12世紀後半の作と、
考えられている。 」
本堂の前にある桜は、さる稚児さくらと呼ばれた桜の孫である、とあった。
左側に若い桜は咲いていたが、これもその子孫だろうか?
説明板「西行法師ゆかりの木 さる稚児桜」
「 西行法師が伊勢参りの途中に、垂水の成就寺に立ち寄った。
その境内で、一人の子供が遊んでいたが、西行法師の姿に気付くと何を思ったのか、
側の桜の木にスルスル登り、高い枝に腰をかけた。
余りの見事な木登りに、西行法師は思わず、
「 さるちごとみるより早く木にのぼり 」 と、上の句を口ずさんだ。
すると、木の上の子どもが、 「 犬のようなる法師来たれば 」
と、すかさず下の句をつけて返した。
歌人西行法師と田舎の子どもの痛快なやりとりであった。
この桜は、その後、「さる稚児桜」と呼れ、成就寺の名木となった。
今は孫の木になって、毎年見事な花を咲かせている。 」
街道に戻り、交差点を直進すると、右手に金剛寺と南昌寺がある。
このあたりは垂水であるが、右手は小高い山になっていて、街道と平行して続いている。
交差点を直進すると、道は左にカーブするが、道の右側に、
「須賀神社」の石柱、その奥に常夜灯と石の鳥居がある。
須賀神社は旧垂水村の産土神で、社殿へは、石段で山の上に登っていかなければならない。
その先の三叉路は左の道を行く。
少し歩くと右側に、明治弐年(1869)建立の式内加良比之神社の石柱がある。
その奥に、明和元年(1764)建立の銅製の常夜燈が建っていた。
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加良比之神社は、ここからニ百メートル程奥の山の中腹にあるが、立ち寄ることにした。
建物は燃失し、最近のものである。
延喜式内社という格式のある神社だったので、今日でも境内は広々としていた。
御神木かどうか分からないが、その木の下に片樋宮と書かれて石柱が建っていた。
境内にある説明板
「 垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神を奉戴し、
御遷座の時、ここに神殿を建設し鎮座したが、宮中は水利不便であるため、
樋を以って通したことから片樋宮と称した。
四年後、天照大神のご神託により、他所に遷座したが、宮跡に御倉板擧神、伊豆能賣神を祀り、
加良比乃神社と称した。
以後、土地の御産神として、今日に至る。 」
参道近くの円光寺は、嘉永八年(1631)の創建といわれる。
街道の左側に、ケヤキの一枚の板扉の立派な門を構え、
小屋根の軒下におおだれが付いている切妻妻入りの大きな家があった。
相川に架かる橋を渡る。
橋の上から下流を見ると、はるか彼方にドックのクレーンのようなものがあり、海も見えた。
少し行くと、小森上野町のバス停がある交差点で、右に上って行く道は広いが、 直進する狭い道が伊勢街道である。
その先の左側には用水が流れ、道の方が左側より高いので、 見晴らしもよいところで、地名も高茶屋である。
「
江戸時代、高茶屋は、津宿と雲津宿の中間にあたり、立場茶屋があった所である。
昔はここから富士山も見えた、といわれるが、今は海までぎっしり住宅が建てられていた。 」
その先の交差点も直進すると、天神川に架かる天神橋に出る。
江戸時代には、板橋だったようである。
小さな橋を渡った右側に、浄土宗の称念寺がある。
寺に入る石段を上ると、小さな常夜燈があり、その脇に「天神神社」の石柱がある。
川の手前左側に、大きな常夜燈がある。
「 この燈籠は、大正の末期まで当番で灯明をあげていた、といわれる。
常夜燈の脇には、「天満宮 十社の森」などが刻まれていた。 」
常夜燈の左手にある瓦葺き屋根のお堂は、昭和五十一年に再建された薬師堂である。
その前に、「南無阿弥陀佛」と「円光大師準二五霊場第十五番」の石柱が建っていた。
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少し行くと右側に、大きな高茶屋神社の石柱があり、その奥に石の鳥居が建っている。
「
右側の腰の低い石塀で囲まれた、背の高い春日型常夜燈は、「 十三社 常夜燈 」 と刻まれ、
文久三年(1863)の建立である。
昔、この神社は「十社の森」と称され、伊勢神宮へ参詣する勅使の休息所があったという。 」
道の両脇には、黒い瓦の重厚な家が建て並び、屋敷町風であった。
そこを過ぎると、最近の建物に代わり、その先には、「事故多し」 と赤く書かれた陸橋が見えてきた。
これは、国道165号の陸橋で、伊勢街道とJR紀勢本線を跨いでいる。
国道の下をくぐり、JRの高茶屋踏切を渡るとT字路で、左折すると、JR 高茶屋駅へ、
伊勢街道は右折する。
ここまでは住宅が続いていたが、ここから雲出川までは、これまでの風景と一変した。
幾つかの集落はあるのだが、自然が美しく残っているのである。
解放感を感じさせる風景である。
道の両側に広がる田畑を見ながら行くと、雲出島貫町池田集落に入った。
右側に「新四国八十八ヶ所」の石柱があるのは、玉造院である。
その先の三叉路を雲出用水に沿って右に五百メートル程行くと
、西島八兵衛を祀る水分神社がある。
そのまま通り過ぎると、池田集落が終わる。
その先は、左右に田畑が広がる自然が続く。
殿木集落に入ると、左側に津市雲出市民館がある。
突然、パカパカというような音楽が聞こえてきたので、その方向を見ると車が走ってきて、
車体にロバのパンとあった。
愛知県に就職した当時は、馬を使い売りにきていたので驚いたが、結婚した頃には車に変わった。
その後、見かけなくなったので、なくなったと思っていたが、今もあったのにはある意味感動した。
その先の左側に、「 現在地より北100mより移転した 」 と書かれた石碑と、
明治三十三年建立の記念碑があり、その左側に山の神が二基祀られていた。
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記念碑を過ぎると雲出集落に入る。
江戸時代には、伊勢街道の宿場・雲出宿があったところである。
左側に黒い羽目板の蔵がある信号交差点を越えて進むと、左側に有限会社 タイメックスがある。
その先に、「 史跡 明治天皇島貫御小休所址 」 と書かれた、背の高い石碑があった。
「
ここには本陣だった柏屋があり、明治期まで営業していた。
宿場の名前については、雲出宿と雲津宿と二種類の表示があるが、
現在の土地名に倣って雲出宿としたが、江戸時代はどうだったのだろう。
このあたりが雲出宿の中心部であったようだが、
現在の姿からは宿場があったことを想像するのは難しかった。 」
その先、道は右にカーブし、正面に土手が見えてきた。
道の左側の塀と民家の間の狭い道の角に、「神明社」の道標がある。
折れたのを貼り付けたような道標だったが、旧雲出長常村の神明社への道を示す道標である。
そこを過ぎると、雲出川の土手に突きあたり、道は右に直角に折れる。
小生はその先の三叉路で、左の道を上り、雲出川の土手に上った。
「
雲出川は、奈良県と三重県の県境の三峰山を源流にする川で、
県内では櫛田川、宮川と並ぶ大きな川である。
川は北勢と南勢の境をなし、南北朝の時代には、対立する南朝と北朝の境界になったため、
橋は架られず、小野古江(おののふるえ)の渡しと呼ばれる船渡しで、行き来していた。
江戸時代になり、板橋が架けられた。 」
この場所には、数年前までは、
昭和十五年に架けられた軽自動車が一台通れる程の狭い橋が架かっていたが、取り外されたので、
百メートル位上流に新たにできた雲出橋を渡ることになる。
下の道を見ると、右側に 「 開運 毘沙門天霊場 三十三所観世音分身安置 北畠大納言の守護尊 」 と書かれた石柱があり、その奥に沢山の小さなお堂が見えた。 円福寺であろう。
堤防の上を歩くと、新しい橋の反対側(右側)は小公園になっていた。
公園には、天保五年(1834)建立の常夜燈が建っていた。
これは先程の渡し場跡にあったものを移設したものである。
ここで一服して、コンビニで買ったあんパンを食べ、お茶を飲んだ。
一服した後、松坂宿に向かって、出発した。
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旅をした日 平成21年(2019)3月5日