白子宿は江戸時代の江島、白子、寺家を含めた総称だったようである。
江戸時代の白子は伊勢街道一番の商業が栄えたところで、数多くの大きな問屋や廻船業者があり、伊勢商人が活躍していた。
伊勢型紙で染めた衣類は、江戸百万人に人気のある商品だったが、
松阪の三井家を筆頭とする伊勢商人は完成品をここ白子の港から江戸へ送りだした。
当時の資料が残る寺尾家の伊勢型紙資料館があるので、興味のある方は訪れるとよいだろう。
矢橋一丁目ん交叉点で、県道8号を斜めに横断すると、
道の左側に「式内 矢掎神社」の石柱がある。
常夜燈と鳥居をくぐって、中に入ると、社殿は比較的新しいものである。
「 矢掎神社は、伊勢神宮の外宮系で、祭神は建速須佐之男神である。
矢掎神社の椅はどう読むのか? サキと読めるが、地名が矢橋であり、今回の場合ははしと読む。
全国でも少ない名前で、同名の神社は鈴鹿市にもう一ヶ所あるようである。
社殿の左側に、「山神」と書かれた石碑が二基あり、吹きさらしではあるが、屋根が付いた下で祀られていた。 」
その先に進むと、右側の小路の両脇に、大日如来道の道標がある。
「
これらの道標は、その先百メートル先の大きな道を越えたところにある大日如来への案内であるが、
大日堂はなくなっていて、大日如来像は雨露に曝されている。
また、「鎌倉権五郎・・・」の石柱は、大日堂前の円柱に、寛治元年(1087)、鎌倉権五郎之塚とあるので、
歌舞伎で有名な、鎌倉権五郎景政の墓があった、という伝承があるのだろう。 」
その先で、伊勢鉄道のガードをくぐると、左手に鈴鹿駅がある。
ガードをくぐると、すぐ広い道があるが、道の左側に宇気比神社と八幡宮がある。
伊勢街道はこの広い道を斜めに横断する。
左側に鳥居と石の燈籠があり、小さな山神碑が祀られている。
南無滝谷不動明王の赤い幟を出した寺院が道の奥に見えた。
「豆腐力」の看板を出した家の手前に三叉路があり、左側にある交通安全の旗の下に、小さな道標がある。
「右若松道」とある道標であるが、注意しないと見落とす。
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豆腐力の看板をだした家の先で、道は右にカーブするが、右側には、鳥居と燈籠があり、また、山の神が祀られていた。
この先は、田畑の中に家があるという感じである。
道は左にカーブし、小さな金沢川を肥田橋で渡る。
少し歩くと、国道23号線の肥田町交差点である。
先程から雨つぶが、ぱらぱらしてきた。
今日は雨がない予報で、傘も雨具も持たずにやってきたが、冬の雨は身体に悪い。
交差点の数百メートル先にホームセンターなどの建物が遠望できたので、傘を購入するため、寄り道をした。
カーマで500円の軽量折りたたみ傘を購入したが、往復六百メートル歩くことに
なった。
その後、帰宅まで雨は降らなかったので、これに要した時間と労力は無駄に終わった 。
交差点を渡ると、左側にカンセイの工場があり、道は右へカーブするように続いていた。
国道23号と平行するように進み、小川に架かる島橋を渡ると、北玉垣町に入る。
道の右側に、新しい燈籠と鳥居があり、その奥に、山神が祀られている。
その左側にも常夜燈と鳥居があるが、その先は公民館のような建物で、裏にまわると小さいが、社殿があった。
伊勢神宮の神を祀る天白社のようで、前の建物は遥拝所だろうか?
その先の交差点を渡り直進すると、左側に玉垣小学校がある。
その先で道は突き当たり、その先はお寺になる。 伊勢街道はここで右に曲がる。
その曲がり角の家の角に、丸い自然石に「右さんぐう道」と刻まれた、
文化四年(1807) 建立の道標がある。
街道の案内には駐在所があり、とあったが、廃止になったようで、新しい家が建っていた。
右折すると、左側に古く大きな屋敷がある。
屋敷の角を左折し、黒い壁や塀を見ながら、通り過ぎ、道を直進すると、右手に車が多く走る道が見てくる。
右手は、国道23号がある西玉垣町交差点で、ここに入る車が信号待ちするため、道の先に何台も止まっていた。
伊勢街道はこの三叉路を左折するのであるが、車の影で見づらくなっているが、
道の奥右側に、元治二年(1865)建立の「左さんぐう道」の手指で方向を示す道標が建っていた。
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最近まで農地だったのが住宅地になりつつある状態が道の両側で、
農家のような大きな家と最近建てられた新しい家が混在している。
その先の交差点は、少し変形である。
伊勢街道は右折するのだが、交差点の先に神社の鳥居のようなものが見えたので、歩いていく。
「式内社 彌都加伎(みずかき)神社」の石柱と、常夜燈、鳥居があった。
神社の参道の砂も駐車場も建物も新しく、最近整備されたようだった。
社殿は今朝から見てきた神社とは比べものにならぬ大きさだったが、
コンクリートと思われる建物には歴史の重みが感じられなかった。
街道に戻り、旅を続ける。 このあたりは大きな古い家が多く建ち並んでいる。
道が右、そして、左にカーブした先の三叉路の左側に、
自然石で作られた、「 式内 彌都加伎神社」 の道標が建っていた。
明治弐年(1869) 、明治天皇が伊勢神宮参拝に際し、勅使を派遣されたのを記念して建てられたものである。
少し歩くと、道の右側に、赤い鳥居と常夜燈があり、山の神が祀られていた。
「
山神とは、山の神様で、山を治め、山仕事をする者を守護する神の総称であるが、
このあたりの住民の祖先が山の仕事に従事していたとは考えられない。
山神は、農業の神でもあった。 山の神は、春になると田んぼに出て、田の神となり、秋の収穫が終わると山へ帰り、山の神に戻るというものである。
この辺りは古くから農村地帯だったと思われるので、農業の神として祀られたのだろう。
それにしても、これだけの数の山神碑があるのは異常だし、
鳥居や常夜燈を造って祀っているところは他県ではほとんどない。 」
近くの電柱には「玉垣町」とあり、ここはかっての玉垣村の南の出口だったのだろう。
道はその先で右にカーブし、東玉垣交差点に出る。
左右の道は県道507号であるが、この道を横断して、斜めの道に入り、道なりに進む。
前方に大きな塔のようなものが見えるので、歩き続けると、左はフジクラ鈴鹿工場である。
道を横断し、工場の正門を見ながら進む。
工場は広いがこれを見ながら南下すると、菅原社の石柱があり、小高いところに社殿が見えた。
フジクラの工場が終わるあたりで、道はやや左にカーブする。
ここから北江島町で、開発された住宅地である。
道はその先で多少ぎぐしゃくするが、右側からの道が合わさった先で、
右にカーブすると、床屋のある交差点に出る。
交差点を横断し、斜めの道に入っていく。 このあたりは中江島町である。
少し歩くと、近鉄の線路に突き当たる。
ここで右折すると踏切があるので、踏切を渡る。
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(ご参考) 山の神信仰
「
太古の頃の人達は、自然界の山、川、水、火、太陽、月などに精霊がいると信じて信仰し、
あるいは恐れ敬った。
農耕技術の発達により、集団で作業する時代になり、集落が形成されるようになると、共同の神が誕生する。
それは一つの神ということもあるが、複数の神でもあっただろう。
また、集団の力の強弱は支配者と被支配者を生み、大きくなった集団は村を形成し、
集団の長が信仰する神に他の神は吸収されるか、切り捨てられてきた。
この段階では、神の正当性を示すため、物語も生まれた。 古事記に登場する大山祇神や木花之開耶姫、
海彦と山彦の話などはその例である。
大和政権が誕生した後、かれらの誕生の正当性を主張するため、日本書紀と古事記が造られたが、
その前の段階に旧辞があり、
これは当時、各豪族に伝えられた話を集めたもので、これが記紀のベースになったといわれる。
しかしながら、記紀では大和王朝に都合のよい部分を採用し、
都合のよいように書き換えられているように思う。
その後、律令国家の誕生で各地に国司が派遣される時代になると、宗教は国家の管理に移され、
一の宮、二の宮などの誕生や延喜式神名帳などによるランク付けや押し付けが行われて、
これまでの原始信仰は影が薄くなった。
大化の改新により、他国の神の仏教が入ってきて、中世には神仏習合が進むと、
山の神をはじめとする自然信仰は修験道の中に吸収されていく。
とはいえ、組織の小さな部分では、山を治め、山仕事をする集団、あるいは田や畑で耕作する農民達、
あるいは、小さな集落の単位では山への畏敬と山の恵みへの感謝、
あるいは、日照りや大水に対する農民の無力さを神に庇護してもらおうとして、祭や年中行事を通して、
今でも残っている。
小生は、これまで、東海道、中山道を始め、各地の街道を歩いてきたが、これだけ多くの山の神の石碑が残るのを見たのは初めてである。
しかも、鳥居を建て、常夜燈を備え、一つの独立した神社にしている。
そうした神社が鈴鹿市にこれだけ沢山あるのは特異である。
これまで見てきたのは、道祖神や馬頭観音や庚申塔と一緒になっていることが多かった。
これは道路工事などで一か所に集められた結果と思う。
あるいは、単独である場合、神社の入口のあたりの参道隅にさびしく置かれていることがおおかった。
今回、鈴鹿市を歩いていて感じたのは、神社は伊勢神宮系ばかりだった、ということ。
他の地区に多い熊野神社や津島神社、諏訪神社などの非神宮系の神社が見あたらなかったこと。
また、明治の神社統合令に合祀された神社がはっきりしないことである。
これらを考えると、伊勢には、他の地区より早く、天皇家の氏神の伊勢神宮が力を伸ばし、
実質的には神社をすべて支配したのではないか?
他の地区では、他所から勧請した神社にこれまでの地元神を加えて祭神とした結果、
山の神に類似する自然神は吸収されていった。
それに対し、この地はそうしたことが起きなかったため、原始時代の形態が今日まで残ったと思ったが、
間違いだろうか? 」
白子宿は、江戸時代の江島、白子、寺家を含めた総称だったようである。
ここは白子宿の北のはずれ、江戸口にあたる。
踏切を渡った先の左側の少し奥まったところに、北の端の地蔵堂がある。
「 少し離れたところに「六体地蔵尊菩薩」の石碑があったが、 お堂に祀られているのは、本体の周囲に、六道に迷う衆生を救う菩薩が刻まれている、 鎌倉時代に作られた石仏である。 北の端の地蔵さんと呼ばれるようになったのは江戸時代からで、 縁日の八月二十四日には参拝者が列をなす程賑わったといわれる。 白子や寺家等から江戸方面へ行商にでる型紙商人らは、旅の無事をいのり、 切ない見送りを受けたところである。 」
お堂の東側、道の反対側には、役の行者神変大菩薩が祀られていた。
踏切を越えたところまで戻り、踏切の先の道を右折して進む。
このあたりは東江島町だが、家の建ち方が直線でなく、ぎざぎざなのである。
これは防衛のためだったといわれる。
二百メートル程行くと、突き当たりに多くの看板がある江島本町交差点にでる。
伊勢街道は、この交差点を左折する。
道が屈折しているが、江戸時代にはここは鉤型になっていたのではないだろうか。
道の左手の奥に、背の高い木があり、その下に鳥居が見えたので、その方向へ歩いて行く。
鳥居の奥に常夜燈がずらりと並んでいて、その先に、赤い鳥居が林立している。
その前に行くと「若宮稲荷大明神」とあり、右手に大きな社殿が見えた。
小生は脇道から入ってきたようで、これは江島若宮八幡神社だった。
神社の由来書
「 平安時代初期、醍醐天皇が、宮中に奉祀されていた神社を伊勢神宮の戌亥の地に、転座したものである。
大鷦鷯命、品陀和気命、息長帯比売命を主祭神に、十七柱の神々を祀っている。
神社には、江戸時代に奉納された絵馬が百二十余残っている。 」
社殿は新しく建て替えたようで、拝殿を見渡しても、絵馬はどこにもなく、
「旅籠 のじまや」の看板と鏝絵が復元されて、掲示されているだけだった。
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先程の街道まで戻り、また、歩き始める。
すると、左に入る道の角に、「江島神社」と書いた大きな石柱があったので、入っていくと、
大きな常夜燈が見えてきた。
説明板
「 この常夜燈は、文政三年(1820)初秋に、
今の白子港から江戸に向け出帆する廻船問屋の船、
また、江戸から白子港へ来る船の航海安全を祈願して、
江戸にあった大伝馬町組と白子組の船荷取扱い関係者(これを江戸両組という)が、
この神社に寄進したものである。
そのころ、この常夜燈の東南は、港の入江の「小浜」と呼ばれる波打ちぎわで、
常夜燈は灯台の役目を果たしていた、という。
また、この常夜燈は、大黒屋光太夫らがロシアグスマンと北海道の根室に戻った年から
(折れていて、文字不明) に建ったものである。 」」
気がつかなかったが、常夜燈から参道が続き、現在は道路になっているところを横切ると、 「江島若宮八幡神社」の石柱と鳥居があり、そちらが正面だったのである。
江島本町の通りには、連子格子の家がところどころに残っていた。
左側の「鮮魚、仕出し 鈴鹿屋」 とある家と、右側の家の間に、「陣屋跡」の説明板があった。
陣屋は、ここから東の公民館あたりまであったようである。
「 ここ江島村は、江戸時代初期1648年まで天領だったが、
その後、紀州藩旗本の領地となり、享保年中には小笠原肥前守の知行地となって、
まもなくこの地に陣屋を建てた。
この陣屋には、本居宣長の門下の国学者村田橋彦が代官として勤めた。
また、明治2年3月14日には明治天皇が伊勢両宮参拝の帰路、
この陣屋で小休止された。
(以下省略)」
鈴鹿市白子コミュニティセンターの前には、「安濃津治安裁判所、登記所、法務局跡」の説明板があった。
「 明治時代になって私有財産権が認められ、住民の土地田畑等の所有権を公に
登記する必要な行政機関として、国内各地にその役所賀置かれた。
これが治安裁判所であり、白子地区にも設置が望まれ、
明治21年(1888)10月10日にこの地に置かれた。
その後、明治25年(1882)に役所が新築され、名称が登記所となり、
更にその後、法務局となった。
現在この役所は、神戸1丁目24に、津地方法務局鈴鹿出張所となっている。 」
江島二丁目には、連子格子の家だけでなく、卯建があり、虫籠窓の家も残っている。
やがて、県道551号が右手に向かう交差点に出た。
伊勢街道(県道6号)は直進であるが、交差点を渡ると、道は狭くなった。
なお、交差点を左折していくと、近鉄白子駅にでる。
直進すると、正面に白子本町郵便局と、隣に古く大きな屋敷がどんとある。
この屋敷を避けるように、道は右に、そして左に回っていくが、
江戸時代には、ここも鉤型になっていたのだろうか?
右折した右側の駐車場の一角に、高札場跡の説明板があり、
江戸時代には、白子代官の高札場になっていたところ、とあった。
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その先の左側に白子東町公園があり、「旧河芸郡役所跡」の石碑があった。
伊勢型紙資料館を探す。
その先の右側の旅館松葉屋があり、その先右側の小路を入った先にあると思ったが、そこには
龍源禅寺があった。
龍源禅寺は、当地では珍しい妙心寺派の寺で、
右手に「白陰禅師、東美祢禅師足跡地」の石碑があった。
更に北に向かい、左折して県道551号に入り、白子駅前を右折すると、勝速日神社があった。
「 寛永十一年(1634)、紀州藩の別邸と代官所を創設する時、
久留真神社が別の地に移転させられた。
その時、氏子は南北の二派に別れ、北側の氏子は、栗真にあった八重垣神社と勝手明神を合祀し、
現在の地に新たな神社・勝速日神社を作った。
八重垣神社は素盞鳴尊(牛頭天王)を祀っていたので、この地を牛天王(ごてんのう)と呼んだりするようになった、いう。
毎年春の祭礼日に出る山車は江戸時代のもので、木造の二階屋形で、高さ三メートル六十センチ、漆塗り、
金箔仕上げで、大変金をかけたものであるが、これは当時伊勢型紙を扱う羽振りの良い商人がいたためである。 」
道を迷っていたが、白子駅の南側にある林昌寺の北側の三叉路を入ると、
伊勢型紙資料館・寺尾家住宅があった。
龍源禅寺の先の交叉点を直進していたら、あったのである。
「
江戸時代の白子は、伊勢街道一番の商業が栄えたところで、数多くの大きな問屋や廻船業者があり、
伊勢商人が活躍していた。
伊勢型紙で染めた衣類は、江戸百万人に人気のある商品だった。
松阪の三井家を筆頭とする伊勢商人は、完成品をここ白子の港から江戸へ送りだした。
白子型紙問屋として最も大きな店が寺尾家だった。 」
街道に戻ると、その先は古き時代にタイムスリップしたように、古い家が両脇に建っていた。
県道6号の大通りを横断し、用水に架かる和田橋を渡り、三百メートル歩くと、道は突き当たるので、
右折、続いて、左折すると、右側に久留眞神社がある。
「 久留眞(くるま)神社の祭神は大己貴尊、須世理姫命、漢織姫命である。
かっては「福徳天王社」といわれた神社で、戦前は縣社で、神社が移転した経緯は前述の通りである。 」
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少し歩くと、正面に唯信寺、隣に黒塗りの立派な家がある。
道を右折すると、突き当るが、屋敷の角に、参宮街道道標が建っている。
道標の左面には、指矢印の←の下に 「神戸四日市 道」、
右面には、同→の下に 「さんぐう道」、と刻まれている。
説明板「伊勢参宮街道の道標」
「 その昔からこの道が伊勢参宮街道であることや、この付近の道は曲り角が多いため、
参宮の往来に道を迷わないため、ここの和田栄さんの先祖が昔ここに道標を建てたが、
その道標は再三再四倒されたので、昭和12年3月再び和田甚一郎さんが、人びとが道に迷わない
ため、現在のこの道標を建てられた。(当時は高さ3m 羽場34cm)
ところがまたしても昭和30年代にこれも倒されたので、和田さん方は今のように建てなおされた
ものである。 従って、高さは2m余となっている。
いま、この道標は街のシンボルとなっている。 」
白子二丁目にも、連子格子の家が多く残っていた。
金網で囲った空地に、「同心屋敷跡」の説明板がある。
「 同心は、江戸時代庶民の中に入って、犯罪者を摘発する役人で、
代官(奉行)の配下にある与力の指揮を受けて勤める役人であった。
この同心屋敷は、この付近の道路(伊勢参宮街道)を挟んで東西両側に相対して、
5軒づつ建っていた。 」
その先の民家の駐車場の一角に、「目付役所跡」の説明板がある。
「 目付役人は、政事や家臣の悲違糾察、秩序維持を目的とする監察、つまり、
代官以下庄屋に至るまでの人の素行、品行、身持ちを監視する役人で、
俸禄200石〜250石、2年ほどで交代した。
この役所は現在の白子2丁目19番の地内にあって、敷地の規模は敷地五反ほどで、
道路の西側で少し入り、敷地の東北隅に東を向いて門があり、北側は塀が東西にあって、
馬小屋があり、敷地東西南北の周りには竹藪の囲いで、役所は敷地中程に建坪50余坪で、
北向きに建てられていた。 」
少し歩くと、釜屋川が流れている。
このあたりから寺家である。 川に沿って左に入って行くと、近鉄鼓ヶ浦駅がある。
伊勢街道は橋を渡り、駐車場の先を右折すると、朱塗りの仁王門に突き当たった。
「 仁王門は元禄十六年(1703)に建立されたが、痛みが激しくなり、 昭和五十四年に修復された。 」
仁王門の前に、「子安観音寺」という大きな石柱が建っている。
この寺は、真言宗高野山派の子安観音寺である。
「 聖武天皇の天平勝宝年間(749〜756)に、道證上人により開山され、 室町時代には、正親町天皇の綸旨を賜い、勅願寺として寺領を授かっている、 千二百年前からある古刹である。 」
本尊は、日本三大観音の一つといわれる白衣観音である。
白衣観音の由来
「 平安時代の頃、白子浦の海から鼓の音がするので、網を投げ入れたところ、
鼓(つつみ)に乗った白衣観音が現れたので、お堂を建てて安置した、という言い伝えがある。 」
本堂の前に、立派な銅燈籠がある。
燈籠の正面に、 「 治工津之住前但馬守次男・辻弥三右衛門尉藤原玄種 」、
裏面に、「寛文六年(1666)丙ウ午暦十二月吉祥日」、と刻まれている。
「 辻家は梵鐘造りの名家である。
辻家は秀吉の死後、豊臣家を破滅に導いた方広寺の梵鐘を鋳造した時、脇棟梁を務めたのが、
祖先の辻越後守家種である。
上野東照宮の燈籠には辻重種が、一身田高田本山の燈籠には、辻陳重の名が刻まれている。 」
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本堂の左手に、「国天然記念物 白子不断桜」 の石標があり、説明板がある。
説明板
「 不断桜は、年中花や葉が絶えないことから名付けられた。
伊勢型紙はこの桜の葉が虫食ったのを見て思いついた、と言われる。 」
この桜は、秋冬春と咲くとあったので、四季桜の一つと思うが、
桜の木は冬空の寒さに打ちのめられたように立っていた。
桜が咲いている時に、もう一度、訪れたいと思った。
伊勢街道は、観音堂前を西に向かう。
吉原鍼灸接骨院の看板がある変則交差点は、看板の方に直進する。
三叉路に突きあたると、三叉路の手前の左角に、道標が建っていた。
「 高さ百二十七センチ、二十五センチの角の道標で、 西面に 「 左くわんおん道 」 北面に 「 右さんぐう道 」 南面に「弘化四年(1847)六月吉日再建」 と、刻まれている。 」
三叉路の駐車場の一角に、説明板が立っていた。
説明板
「 寺家は細い路地が入り組み、現在でも当時の面影が残っているが、
江戸時代にはその角々に伊勢路の道標が建っていた。
現在はこの道標とこの先の道標のみになった。 」
三叉路を右折すると、道は狭くなる。
約五十メートル行くと、三叉路の白い家の角に、「 左いせみち、右くわんおん道 」 と刻まれた道標がある 。
「 道標の頭部と北面に窪みがあるが、これは型紙職人が砥石をならすために出来たもので、 当地に伊勢型紙職人が多くいたことの証拠だという。
その先の交差点を越えて、左にカーブすると、右側に伊勢型紙工房 勇匠庵という家がある。
そのまま進むと左側から先程別れた道が合流した。
伊勢街道は、用水に架かる小さな橋を渡る。
その先には堀切川が流れていて、その先は磯山になるので、寺家はここまでである。
今日の旅はここまでとして、道を左折し、釜屋川の橋を渡り、左折して近鉄鼓ヶ浦駅へ向かう。
白子駅で急行に乗り換え、名古屋行き、て帰宅した。
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旅をした日 平成21年(2019)2月13日