旧河芸町にある甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂は、江戸時代、参宮道を歩く人の無事を祈願し、茶の接待したところといわれる。
江戸時代の上野宿の中心は、上野神社の辺りだったようで、
中町の西側に本陣、東側に高札場、問屋、脇本陣があった、というが、
残念ながら当時のものは残っていなかった。
今日は津宿の先にある結城神社まで歩くつもりである。
前回同様、名古屋駅より近鉄急行に乗り、白子で降り、ここで鈍行に乗り、鼓ヶ浦駅で下車し、旅が始まった 。
早速、前回終わった用水に架かる橋を渡ると、堀切川に出た。
前方には橋があるが、これは渡らずに右折して川に沿って歩く。
前方には近鉄の踏切があり、朝の通勤時間なので、遮断機が下りて待たされた。
その先には国道23号がある。
この先、国道23号は左右に位置を変えながら、津まで平行して続く。
江戸時代の橋は国道より上流にあったが、
その位置ははっきりしないようだ。
国道の橋を渡ってもよいのだが、右側の国道をくぐるトンネルをくぐり、川に沿って歩き、
水を調整する設備の手前の橋を渡った。
江戸時代よりは上流に来てしまったが、
スーパーの山中(現在はドン・キホーテ)の駐車場脇の道にでた。
伊勢街道は、山中の駐車場前を右折して、磯山集落に入っていく。
道が狭いので、国道からの車が流入してこないのは助かる。
このあたりには白子のような連子格子の家はなかった。
少し歩くと、右側に、村社八幡神社がある。
その先に連子格子の家が残っている。
少し歩くと、一時停止の交差点がある。 伊勢街道は直進である。
ここを左折すると、国道23号で、その先に磯山駅がある。
交差点を直進すると、道は左に右にカーブし、連子格子の家が何軒も残っていた。
右手奥に真宗高田派専照寺があり、やがて、コンクリートサイロが前方に見えてきた。
そのまま進むと、国道23号に合流。 目の前の川は中ノ川である。
伊勢街道はここから少しの間は国道を歩く。
中の川橋を渡ると、津市河芸町になる。 合併の前は河芸町だったところである。
国道を歩いた最初の交叉点が東千里交差点で、国道を横断して左側に渡る。
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ヤマハボートの看板先の近鉄踏切を渡り、その先の用水に架かる橋を渡る。
伊勢街道は、その先の三叉路で右折して南西に向かう。
右側の空地の先にあるお堂は、甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂と呼ばれるものである。
江戸時代、参宮道を歩く人の無事を祈願し、茶の接待したところといわれる。
道から左側に少し入ったところに、聖徳太子草創と伝えられる信光寺がある。
その先左側に「真宗大谷派 八葉山 本福寺」の標柱があり、
中に入ると鐘楼の所に「親鸞上人の御旧跡」の石柱が建っている。
本福寺は、親鸞の弟子・西念房が創始した寺である。
道脇に、かなり古い、「尾前(おざき)神社」の石碑があった。
神社はその奥を道なりに行ったところにあるようだが、そのまま進む。
「 尾前神社の四年に一度行われる獅子舞神楽は、
平安末期、承安三年(1173)に悪疫が流行した時、朝廷より獅子頭が奉納され、
獅子舞により病魔が終息した、と伝えられるもの。
境内には、街道筋から集められた山の神三基が祀られている。 」
街道を進むと、左側の正法寺入口脇に、丹羽君碑がある。
円応寺組十五ヶ村の大庄屋だった丹羽氏の屋敷がこのあたりにあった、という。
その先の変則交差点で、街道が二手に分かれる。
そのまま直進するのが巡礼道で、浜街道とも海街道とも呼ばれ、参宮街道よりも古い道である。
伊勢街道は、右にカーブする道で、左側に近鉄千里駅がある。
駅の右側の踏切を越え、千里駅前交差点で、国道23号を横切る。
突き当たりの床屋で左折して、百メートル程行くと、右側に田中地蔵堂がある。
道は右にカーブし、その先で左右の道に合流するので、左折して田中川に架かる大蔵橋を渡る。
橋を渡ると突きあたりを右折して、その先で左折し、狭い道に入る。
ここからは上野集落で、この通りには古い家が多く残っている。
上野小学校北交差点を越えて進む。
左右に連子格子の家があり、その先で右に左にカーブ。
上野小学校の先には、黒い連子格子の家があり、その先にも白い壁に連子格子の家があった。
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その先の道の右側には、「上野神社」の石碑があり、その先に鳥居と常夜燈が建っている。
「 上野神社は小高いところにある。
上野神社は、国司北畠氏の祈願所として創建され、祭神は八幡大神。
永禄年間(1558〜1570)、織田信長が太刀や鎧を奉納した、といわれる。 」
その先の右側に、真宗高田派の金光山最勝寺の石柱が建ち、
その先に寺に上る石段が続いていた。
道が右にカーブすると、左側に蔵と黒く塗られた虫籠窓と連子格子の家があった。
少しカーブした先の左側、四角い建物の中に、弘法堂と弘法井戸がある。
「
井戸は四百年前、元和年間(1615〜1623)の頃からといわれるので、
伊勢参拝の人は水の恩恵を受けたことだろう。
地元の共同井戸として大事に管理されてきたが、
水道の導入で現在は使用されていないようである。 」
その先は、鉤型のように、左右に曲がっている。
江戸時代の上野宿の中心は、この辺りだったようで、
この中町の西側に本陣、東側に高札場、問屋、脇本陣があった、という。
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少し歩くと、道の右側に「上野城跡」の標柱が建っていた。
この奥に見える森が伊勢上野城跡のようである。
「 伊勢上野城は、永禄十一年(1568)、織田信長の伊勢侵攻後、
織田氏と長野氏との和睦により、長野氏の養子となった信長の弟、信包が一時在城し、
文禄三年(1594)、信包が近江に移された後、
長野氏の一族・分部氏は豊臣秀吉から加増されて一万石になり、
関ケ原の戦いの後の慶長六年(1601)、安芸郡で知行されて二万石になり、
元和五年(1619)、近江国大溝に移されて廃城となった。
現在は本城山青少年公園になっている。 」
その先の道の左側に、旧上野村道路元標の復元されたのが建っていた。
この先にも、連子格子の家が残っていて、上野宿の道は昔の面影が残る道であった。
右手に臨済宗妙心寺派の光勝禅寺がある。
「 分部光嘉が長子光勝の菩提を弔うため、慶長六年(1601)、
西の桂芳の地に創建した寺で、光勝の名を寺号にした。
宝暦元年(1751)に現在地に移転。
本尊は宝冠釈迦如来、観音堂は聖観世音菩薩と馬頭観世音菩薩である。
建物は明治に焼失しているので、その後のものである。 」
左手の国道23号の一色交差点の近くにサークルKが見えたので、
お茶と豚まんを買って、小腹を満たした。
上野宿は、この先、国道を越えたところで終わる。
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旅をした日 平成21年(2019)2月18日