「 伊勢に行きたい 伊勢路がみたい。 たとえ一生に一度でも 」 と伊勢音頭にも歌われ、
幕末近くにはおけら参りなどで五百万人もの人々が殺到したことでも有名である。
伊勢街道(参宮街道)は、東海道・四日市宿の日永追分から東海道と別れて、伊勢湾沿いに津、松阪と南下し、
伊勢へと至る街道である。
多くの人があこがれたお伊勢参りの道を江戸時代の気分で歩いてみたい。
平成21年2月13日(金)、今日から数回に分けて伊勢路の旅を楽しみたい。
名古屋を早朝に立ち、近鉄四日市駅で内部線に乗り換える。
内部線は二両連結のレールバスで、室内が狭く、登校時間にかさなり、生徒のバックが通路に置かれ、
踏み場もない状態だった。
そんな光景を見ながら、追分駅に降り立った。
追分駅を出て国道に出ると日永の追分で、今回の旅の出発地である。
そこには、大きな道標と石製の常夜燈が建っていた。
大きな道標には、「 右 京大坂道 」、「 左 いせ参宮道 」 と刻まれていて、
嘉永弐年(1849)の建立である。
その奥にある立派な常夜燈は、屋根は銅板、火袋は木製、台座は石製である。
その先にしめ縄があり、下に降りると、水が流れていた。
「日永の湧水」として有名で、地元の人達が当番制で水を守っている。
当日も一人の男性が境内を掃除しておられた。
小生は手ですくい、水を飲み、これで目が覚め、がんばろうという気力がわいた。
鳥居の前に大きな「日永の追分」の石柱があり、
左側に、「三重県史跡 日永の追分」の石碑が建っている。
神宮遥拝鳥居は、桑名の一の鳥居に対し、二の鳥居といわれる。、
石碑文面
「 日永の追分の神宮遥拝鳥居は安永三年(1774)、久居市の渡辺六兵衛氏が江戸に店を持ち、
東海道を上下する度毎に、参宮街道との分岐点、日永の追分に鳥居がないのを遺憾とし、
江戸店支配人伊勢屋七右衛門を願主として江戸で伊勢出身同志数名を募り、敷地を買い入れて鳥居を建設した。
更に今後の改修費として、私財金百両を寄付されたので、地元ではこれを基金として神宮式年毎に改造してきた。
その後、地元民は勿論旅人からの崇敬の的になり、昭和十三年県史跡に指定され、
昭和十六年日永村が四日市市に合併以来、日永地区連合自治会が管理にあたり、
毎年九月二十一日に鳥居祭を斉行している。 」
「日永の追分」という説明板もあった。
説明板
「 道が左右に分かれているところを追分と言う。 「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分かれ道である。
道路が拡張される前は伊勢街道の入口に道を跨いで、伊勢神宮の二の鳥居が立っていた。
この鳥居は、安永三年(1774)、久居の出身の渡辺六兵衛と言う人が、江戸から京都に行くとき、
ここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って立てたものである。
鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて、二十年ごとに建て替えられることになっていた。
今の鳥居は昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居になる。
また、追分は東海道五十三次の四日市宿と石部宿との間にあって、「間の宿」と言われ、
神宮遙拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ、茶屋が多かった。
そして、間の宿は本宿に比して割安に宿泊することが出来、旅人から歓迎されていた。
「日永の追分」は昭和十三年に三重県の史跡に指定され現在に至っている。 」
江戸時代には、神宮遥拝鳥居は伊勢街道の上にあり、旅人は鳥居の下をくぐり、伊勢に向っていた。
しかし、道路改修の際、現在のように道がずらされ、鳥居のある三角地は小公園になった。
伊勢街道は国道1号になっているので、歩道を歩き、伊勢に向かう。
四百メートル程歩くと、追分3交差点で、前方に高架橋が見える。
国道1号が国道25号と合流する立体交差のところであるが、伊勢街道はその下をくぐる。
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道は県道103号(四日市鈴鹿線)に変わり、右側にしか歩道がない。
左側の歩行者用の線が引かれているだけの歩きづらい道を三百メートル程いくと、
左に入る道の角に、四基の道標がある。
「三重四国八十八ヶ所十二番札所」とあるのが二つ、「子安地蔵密蔵院」、「大治田密蔵院」の道標、
その間に、壊れかけた祠の中に小さな石仏が祀られていた。
左に百メートル程入ると、蟹築山密蔵院がある。
「 この寺は、本尊が薬師如来であることから、薬師寺ともいう。
その昔、海中より蟹が薬師如来を運んできて、当寺に安置されたという伝承があり、本尊はかに薬師と呼ばれる。
天正三年(1575)の長島一揆では、織田信長の軍勢により焼き討ちされ、堂宇はことごとく焼失したが、
本尊と弁財天はかろうじて難を免れた。
現在の建物は明治十三年以降に再建されたものである。 」
街道に戻る途中、左折して一筋左の道に入ると、この道はかっての川尻道である。
この道に面してあったのは、鳥居の脇に奉納神明宮と、少し離れた左側に神明神社の石柱があった。
神明神社は、三重県に特に多い天照大神を祀る神社である。
境内の左側に、締め縄のついた金属製の鳥居の先にはいくつかの山の神碑が祀られていた。
街道に戻り歩き始めると、四百メートル位先の左側に三菱化工機、
右側に福島鉄工所見えたとこらから先は工場地帯で、多くの会社があった。
それを過ぎ、右側にDAISOの看板がある先に、僅か四百メートル足らずの区間に旧道が残っていた。
その先は土手に突き当たり、道は左にカーブし、県道に合流してしまった。
この川は内部川で、そこに架かる河原田橋の歩道橋を渡って行く。
渡り終えると、右折し、土手の上の道を行く。
先程の旧道の延長線にある導水管(?)の橋のところにある、左に降りる道を下った。
その先の道の両側の家は今まで歩いたところと違い、妥女集落の家は大きく古い家が多い。
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少し行くと、交差点の先の左側に、距 津市六里三十二町、海蔵村二里八町、
各地からの距離が刻まれた石柱が建っていた。
津市六里三十二町とあるのは、津市にある三重県庁からの距離である。
これは明治時代に建てられたもののようである。
その先には駐在所があったのだが、その場所は空き家になっていた。
以前歩いた人のホームページに駐在所とあったので、それを目指していったのだが、目印がなくなると、
困ってしまう。
この交差点の手前、右側の道は旧妥女道で、その先に入って行くと、用水のような小川が流れているが、
その手前に常夜燈が建っている。
天保十四年(1843)に建立されたという常夜燈で、
以前は内部川橋にあったのをこの北河原田の西端に移転した、という。
隣には、庚申と山の神と書かれた石碑と中央に役の行者像もあった。 これらの移転されたものである。
元の道に戻り、その先に進むと、交差点先の右側に鳥居と常夜燈、その先に狛犬、 その奥に河原田神社の標柱が見えた。
参道を上って行くと、先程の用水が流れていて、川の先には河原田神社の標柱と険しい石段があった。
険しい石段を避けて、左にある坂道を上って行くと、坂の途中に、三神山毘沙門天のお堂があった。
上った先には、河原田神社の社殿があった。
河原田神社は、この周囲の六村の六つの神社を明治四十二年に合祀してできた神社である。
社殿の右側の石垣の上には四つの山の神石碑が祀られていた。
社殿の左手には、神武天皇遥拝所があった。
参道を下り、川を渡った堤の道に戻り、左折して少し進んだところにある桜の下に、
庚申塔が八基並んで建っていた。
最初は場所が分からず、周りをうろうろし、たまたま通りかかった男性に聞いて、
やっと探すことができたのである。
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交差点に戻り、直進すると、左手に真宗高田派の名刹、光明山常超院があるが、
寄らずに通り過ぎる。
五百メートル程行くと、県道103号に合流した。
斜めに細い道があるので、県道に走る車に注意しながら、道を横断すると、ここから鈴鹿市高岡町である。
道を南下し、JR関西本線の踏切の前方には川の堤防が見えてくる。
踏切を渡ると右折して、線路に沿って進む。
前方には県道の高架橋、その奥に小さなトンネルが見える。
トンネルをくぐると、右側に式内高岡神社の大きな標柱があり、
その奥の踏切の前に鳥居が見えた。
そのまま進むと、 右手の空地に、大きな永代常夜燈が建っている。
もともとは高岡橋の北詰東にあったが、道路の工事等で、ここに移された、と思われる。
「 常夜燈は、寛政十一年(1799)の建立で、常夜燈の脇に 「江戸伊勢屋仁三郎」、 台座の左側に 「庄屋、年寄、組頭」、中央に 江戸、尾張、遠州、伊勢の寄進者の名が刻まれていた。 」
道を進むと堤防があったので上ると、左側に鈴鹿川が流れ、
その先に青い色の高岡橋が架かっていた。
江戸時代、嘉永六年(1853)に現在より西側に木橋が架けられるまでは、橋がなく、
すぐ増水して大変だった、という。
橋を渡り終えると右折して、少しの間、堤防道を歩く。
前方に常夜燈が見えてくるので、堤防道を下ると、常夜燈は三叉路の正面にあった。
「 常夜燈の正面には太神宮常夜燈、側面には国土安穏と五穀成就、 裏面には、文化四年(1807) 丁卯正月とあり、点燈のために階段が付けられている。 」
伊勢街道は、常夜燈の左側を下って行く。
集落に入ると、道の両脇に家が続くが、それはつかの間、その先は広々とした田畑が展開していた。
これは、奈良時代の条里制のなごりで、ここからしばらくはキチンと区画された土地が続く。
畷道のような道が一直線に続いているが、その道に車がけっこう入り込んでくる。
七百メートル程歩くと、家の数が増えてきた。
ここは、旧十宮村二軒屋の入口で、右側に常夜燈が建っていた。
これは、文化十四年(1807)に建立されたものを大正九年に再建したというものである。
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少し歩くと、道は右にカーブし、小川に橋が架かっている。
それを越えた右側に説明板があり、坂道の両側に石垣と土塁が現われた。
江戸時代、手前は須賀村、この地は神戸宿の十日町で、ここは、神戸藩の城下への入口にあたり、
石垣の間に、三間の木戸を設け、番所で城下に入る人を監視していた。
石垣は、神戸見附時代のものである。
説明板「三重県指定文化財 史跡 神戸の見付」
「 神戸見付は、伊勢街道神戸宿の入口にあたり、両側に土塁と石垣を築いたものである。
ここには、町の治安を守るために番人がいて、夜間おそくには木戸を閉じて通行を禁じたと言われる。
明治二年の絵図には、この見付の様子が描かれ、両側の石垣には木戸の柵を支えた溝が今も残っている。
平成三年三月 鈴鹿市教育委員会 」
石垣の先の左側には、「式内 阿自賀神社」の標柱が建っていた。
その先の右側の 「旅館 加美亭」 の看板がある家は、江戸時代に旅籠を営んでいた、という。
この通りには、二階建ての連子格子の家が何軒も残り、宿場町だった雰囲気を残している。
「 神戸が城下町として発展したのは、神戸信孝の時代で、
十日町を中心に、小山町、石橋町、新町の神戸四町ができた。
江戸時代に入ると、一柳直盛が神戸藩を創設し、城下町を拡張し、町数は八つになり、
本多氏の時代になると、伊勢街道の隆盛と共に、町は拡張し、明治に初めには、十一町になり、
家数は六百軒近くだった、という。 」
前述の阿自賀神社が気になり、訪れる。
交差点を左折し、県道を越えると、鬱蒼とした森があり、神社の入口は裏側のようなので、
道を探して、中に入っていった。
石段を上った先に社殿があった。
阿自賀神社の由来
「 当神社は、我が国で水稲農業が始まる西暦紀元前二乃至一世紀には創建されていたであろう。
紀元四世紀頃には、現在の古墳が築かれ、その後墳丘上に社殿が建立されたが、その時期は明白ではない。
記録上では、延喜式神名帳が初見である。
室町時代、将軍足利義満、足利義持公が、この須賀の地を東大寺八幡宮に寄進。
八幡宮を勧請し武運を祈願した。
神戸城主、一柳貞盛は氏神と崇め、大坂の役に際し弓矢を奉納して出陣し、弓矢八幡宮とも呼ばれたが、
江戸時代には須賀八幡宮といわれた。
明治に入り、旧名の阿自賀神社に戻り、今日に至っている。 」
小山と思っていたのは古墳で、その上に神社が建っていたので、驚いた。
大変古い歴史を持つ神社と共に、古い時代から豪族が勢力を張っていたのだと思った。
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街道に戻り、道なりに進む。 近鉄の踏切を渡ると、神戸八丁目の交差点がある。
交差点を越えて狭い道に入ると、その先には蛍の名所で有名な六郷川があり、川に大橋が架かっている。
橋を渡ると、三叉路がある。
伊勢街道はここを左折し、左側にある三重銀行の三叉路で、右折する。
このあたりは、江戸時代、高札場があったので、札の辻と呼ばれたところである。
最初の三叉路の角にある 「旅館 あぶい」 の前には、
神戸町時代に建てた標柱があり、「距津市元標五里参拾四町参拾六間」や、
周囲の長島、白子などの距離が書かれていた。
その下には、神戸町道路元標もあった。
江戸時代、このあたりが神戸宿の中心で、
右折した先の左側に古い家がわずかに残るあたりに本陣があったようである。
道の右側には江戸時代、旅籠を営んでいた旅館 辺見屋があったが、
今回訪れると、スーパー名門などの建物ができ、旅館はなくなっていた。
その先の栄橋西交差点の左右の道は車の通行が多い。
交差点を越え、道が狭くなる左側に、真宗高田派神戸別院 専修寺がある。
門前には、明治天皇行在所跡碑が三基も建っていた。
明治天皇は、明治十三年七月三日に立ち寄られ、今でも御殿が残っている、という。
道の反対側には、真宗高田派願行寺がある。
道は左に、右にゆるやかにカーブし、道なりに進むと、突きあたりに魚次商店がある三叉路に出た。
このあたりには古い家が残っていた。
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伊勢街道は左折であるが、神戸城跡に寄ることにして、逆に右折した。
右側に宗休寺、その先に慎福寺があり、左側の小路に入って行くと、
左に神戸高校、右側に神戸公園があった。
公園の奥に「史跡 神戸城祉」の石柱があり、その奥に野面積みの本丸部分の石垣が残っていた。
今も残るのは本丸の石垣とお濠の一部だけである。
説明板「神戸城跡」
「 伊勢平氏の子孫関氏の一族・神戸氏が、南北朝時代(十四世紀)飯野寺家町の地に
沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏の名跡をつき、
神戸氏七代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により、永禄十一年(1568)、
織田信長の三男・信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、天正八年(1580)、野面積みの天守台の上に、金箔張りの瓦も用いた五重六層の天守閣を築いた。
しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年、秀吉と対立して、知多半島で自刃し、
文禄四年(1595)には、天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通じて天守閣は造られず、
石垣だけが残された。
江戸時代、城主の一柳直盛、石川氏三代を経て、享保十七年(1732)、本多忠統が入国する。
本多氏の治世は一四〇年年間七代忠貫まで続き、明治八年(1875) 城は解体される。
その後、堀は埋められ、城跡は神戸高校の敷地となった。
天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
平成十四年三月 鈴鹿市教育委員会 」
街道に戻り、歩く始めると、右側カーブのところに真宗大谷派の浄願寺があった。
その先に、再び六郷川があり、川に架かるのは幸橋。
その先左に、背の高い常夜灯が見える。
平屋の家の屋根の上に見えるので、かなり大きなものである。
「 石の柵に囲まれた中に、三層に積まれた石の台座があり、
その上に五段の切石積と、常夜燈が乗っている。
嘉永二年(1849)に建立した常夜燈が、明治八年の洪水により倒壊してしまったので、
それを惜しんだ地元地子町の人々が再建したものである。 」
常夜燈の向かい側には、村瀬病院の大きな建物があった。
神戸宿の見附が何処にあったのか確認できなかった。
少し歩くと、県道8号の矢橋一丁目交叉点に出た。 時計を見ると、十二時少し前である。
次の白子宿までは約一里半あるので、ここで食事を捕ろうと思って、右手を見ると
ジョーリーパスタというイタリアンレストランがあった。
そこに入り、パスタとスープセットを頼み、休憩に入った。
三十分程で食事は終わり、午後の部が始まるが、天候があやしい。
朝の予報では、黄砂が多く、くもり、夜遅く雨である。
外に出て、空を見上げると、急速に雲が厚くなりつつある。
大丈夫だろうか?
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旅をした日 平成21年(2019)2月13日