尾張藩が長良川で取った鮎を御鮨所でなれずしに加工し、
岐阜街道(岐阜道)から、美濃路、東海道を経由して、
江戸幕府に献上したので、別名、御鮨街道と呼ばれた。
ところが、笠松町歴史民俗資料館では、
「 当地では鮎鮨街道と呼んでいる。 」、といわれた。
江戸幕府が管理する五街道以外は、幕府が街道名を付けなかったので、
地域により、呼び方が違っていたのだろう。
笠松問屋まで運ばれた鮎鮨は、笠松渡船場から宝江の渡しで、
木曽川を渡り、対岸の宝江の渡船場から一宮問屋へ中継された。
左側の笠松春日郵便局を過ぎると、
名鉄笠松駅から羽島方面に行く竹鼻線の踏切を渡る。
上新町になり、
右側に「高野山高野派大師教会笠松支部」と書かれた大きな石柱があり、
奥の建物には「真教寺」の看板が掲げられていた。
ここからは古い家が多く残っていた。
右側には地蔵堂があり、石仏が祀られていた。
また、左側には稲荷神社があった。
左の家の角には、「縣橋」の石柱が残っていた。
その先には、秋葉神社があった。
消防署を過ぎ、白い大きな建物の隣に、黒い板で囲まれた漆喰壁の家があった。
下新町に入る。
秋葉神社から二百七十メートル歩くと、右側に連子格子の商家がある。
店内に 「みそ・たまり、わた久」 の看板がある。
この家は、江戸時代、笠松問屋場・高島久右衛門家の跡である。
隣の倉庫の前には、道標と歌碑と説明板が建っていた。
道標の正面に 「鮎鮨街道」 、左側に 「名古屋街道 笠松道」、
右側に 「 笠松問屋跡 」 と書かれていた。
説明板「 鮎鮨街道 笠松問屋場跡 」
「 慶長八年(1603)、将軍徳川家康、秀忠に、鮎鮨を献上、
元和元年(1615) からは、毎年六月から九月まで、
月六回、鮎鮨を江戸城へ届けた。
岐阜町のお鮨元から、加納問屋を経て、ここ笠松問屋が受けつぎ、
一宮問屋へ送られた。
笠松からは、主に笠松の農民が一回十四人で、運ぶ仕事をしていた。
左側の石碑に刻まれている歌
「 鮎鮓の 桶かつぎ受けわたし 人びとは
江戸への道を ひたに走りき 」
なお、境川は下川手で渡ったが、洪水の時は、上流を渡り、
徳田村の堤を渡り、松栄町に出ていた。 」
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その先の右側の奥にお寺が見たので、入って行くと善光寺という寺だった。
境内には、「大臼塚跡」の石碑があり、
かくれキリシタンの処刑場に建てられていた石碑があった。
街道に戻り、今度は左手に入って行くと、蓮国寺がある。
境内には芭蕉のむくげ塚と高橋清斗の句碑があった。
「
むくげ塚は、蓮国寺の住職など六人の俳人が建立したもので、
石碑の裏側に、芭蕉が東海道の大井川で詠んだ、
「 道のべの 木槿(むくげ)は馬に かまりけり 」
の句があることから、むくげ塚と呼ばれている。
その隣には、北及の俳人高橋清斗の句碑があり、
「 此岸に くれば彼の岸 おなじ秋 」
と書かれていた。
街道に戻り、先を進むと三叉路の県道164号にでる。
御鮨街道は、三叉路を左折して、
ブティックカトレアとだるま薬局がある交差点を右折する。
小生はここで少し寄り道をする。
三叉路のすぐ左にある狭い道を入ると、右側に産霊神社がある。
建物は大正時代のものであるが、ここに移ってからでも四百年の歴史があり、
風格のある神社に思えた。
社伝
「 祭神は、高皇産霊神と神皇産霊神。 創建時期は不明。
もとは藤掛村高島の地にあって、藤掛、三屋両村の氏神であったが、
永禄から天亀年間(1558〜1570)の頃、牛頭天王と改称した。
慶長十年(1598)の洪水で、藤掛の堤が決壊し、本殿がここに漂着したので、
現在地に鎮座した。 明治四年に現在に社名になった 」
その前の住人の話では、
「 藤掛、三屋の村はこの南なので、ここに流れてくることは考えられない。
藤掛は堤防の上に家が立ち並んでいたが、行政指導で家は撤去され、
集落がなくなった。 」 と、話してくれた。
狭い道を進むと、左側の小高く石を積んだ所に、
小さな祠の稲荷神社があった。
その先の左手には法伝寺と愛宕神社がある。
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もとの道に戻り、旅を再開する。
その先の交差点、だるま薬局の角を右折すると、
十六銀行対面(右側)に笠松歴史民俗資料館(現歴史未来館)がある。
旧東海銀行の建物で、笠松町の歴史が紹介されている。
(9時〜17時、無料、月休)
資料館で教えられて、笠松陣屋跡に向かう。
笠松陣屋跡は、笠松町役場の反対側に入った奥だが、分かりずらい所に、
「 史跡 美濃郡代笠松陣屋 笠松県庁 跡 」 の石柱が建っていた。
「
旧笠松町は、天領だった中心部と、南部の旗本領、津田藩、などからなる。
笠松陣屋は、天領を管理するために幕府が置いたもので、
笠松県庁になるまでの二百年間、美濃国内の天領の管理と治水を行なった。
慶応四年(1858)笠松陣屋は朝廷の命で廃止され、笠松県の県庁となった。
明治四年(1871)には岐阜県の県庁となったが、
その後、岐阜県庁は岐阜町(現岐阜市)に移された。 」
歴史民俗資料館に戻ると、この通り(県道177号)は商店が多い。
この通りが、笠松のメーンストリートなのだろう。
昔を感じさせる商店街で、映画のロケ地になりそうに思えた。
「 笠松は、江戸時代から物資の中継地として栄え、 明治時代に入ると、美濃縞織が盛んになり、 美濃の商工業の中心として繁栄した、といわれる。 」
その先右側にある漆喰壁に卯建が上り、屋根神様がある杉山家は、 古い商家の住宅で、華やかだった時代を感じさせる重厚な建物である。
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隣の万代という造り酒屋は新しい建物だった。
そこを過ぎると、変則交叉点で、正面にある吉田建具店の右手下に、
「木戸跡」と書かれた木柱がある。
江戸時代、ここは御鮨街道と伊勢道路と京道の追分で、道標が建っていた。
復元された道標は、港公園内にある。
「
笠松陣屋は下本町のここに、木戸と関所を置いて、街道の監視をしていた。
江戸時代、この交叉点を右折する道は京道、まっすぐの細い道は伊勢道。
鮨街道は左に少し曲がっていく道である。 」
鮨街道(県道177号)を進むと、木曽川の堤防に突き当たり、
その先に港公園(笠松渡船場跡)がある。
小生は、正面の伊勢道である建具店横の細い道を入った。
その先の右側に「誓願寺」の石柱があり、その隣に石仏を祀った祠があった。
少し歩くと本願寺笠松別院があったが、
境内の大きなイチョウは黄色く色付いてきれいだった。
道の先の堤防の石段を登ると、右手に木曽川橋が見えたので、
堤防に沿って左に少し進むと、再現された川灯台と道標、そして、 説明板があった。
ここは笠松町港町で、笠松渡船場跡である。
江戸時代、ここから木曽川を舟で渡っていた、
説明板「 いせ なごや 京みち の道標」
「 陣屋が置かれた笠松は、美濃の国 幕府政治中心地であり、交通上も
大切なところであった。
中山道茶所から分かれて、ここを通り木曽川を越え、
一宮・名古屋への道を名古屋道、また、名古屋街道とか、笠松道といった。
将軍に献上する鮎すしや真桑瓜を運んだ道でもあった。
これを鮎ずし街道とも呼んだ。
ここから伊勢参りの近道が始まり、木曽川に沿って南にへ行けば桑名を経て、
伊勢に出る。 西に進めば京都への近道がある。
ここを通る旅人のため、天保四年(1833) 庄屋・高島久右衛門は道標を建てた。
笠松町 笠松町文化財保護審議会 」
(注)ペイントが劣化して読みずらくなっていた。
近くに同じ名前の「 いせ なごや 京道の道標」という説明板があった。
説明板
「 この道標は、天保四年(1833)、当時の 庄屋・高島久右衛門が、
ここから西の坂を三十メートル程、下本町の方へ下った辻に建てたものである。
昭和の初め、坂道をひろめる時、役場の庭に移した。
昭和六十三年、町制百年を記念してここに復元した。 」
この港公園は笠松町が町制百年を記念して設置したものである。
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その先に、「港公園の句碑」の木柱と、「野ざらし芭蕉道」 の石碑が建っている。
その左手に芭蕉の句碑が建っていて、
大きな円柱の石碑には、 「 時雨ふれ 笠松へ着 日なりけり 芭蕉 」 と書かれている。
その左側の四角の句碑には、 「 春かぜや きせるくわえて
船頭殿 はせを 」 と、刻まれていた。
句碑の右側に「野ざらし紀行足跡図」という説明板があった。
説明板には、「 昭和六十三年六月、笠松町制百年に際し、
笠松港公園みはらしの広場に句碑を建て、これら美濃国の足跡を総括して、
俳聖の「野ざらし芭蕉道」 と称することにした。 」 とあり、今須から鵜沼で詠まれた句碑がとこにあるか、図示されていた。
川畔まで下りてみると、 大力車や馬車が荷を揚げたであろう石畳が残っていた。
「
江戸時代の荷物の輸送には荷車は使用できなかったが、
江戸時代末から、大力車が認められるようになった。
堤防から川の渡船場までは、荷車などが土にめり込まないように、
石畳が敷かれたのだろう。
今は舟渡しはないので、木曽川橋を渡らなければならない。
木曽川は広いので、アーチ状の橋が六つ以上連なる橋を渡らないとならない。
「
現在の木曽川ができたのは、天正十四年(1586)の大洪水による。
慶安三年(1650)、美濃郡代・岡田将監善政が、
枝広の大洪水による木曽川堤の復旧に便利な笠町(現笠松町)に休憩所を置き、
寛文二年(1662)、郡代名取半左衛門によって、陣屋が笠町に移された。
これにより、笠松は地域行政の中心、地方物資の集散地として、
港のある港町として栄えていった。
明治時代になると、伊勢方面との交流が盛んで、
桑名への定期小蒸気船が日に二往復し、
また、五十石船という大船が荷物を運んで、
港の周囲には、問屋や倉庫、舟宿、料亭などが多くあった、という。
こうした状況は昭和初期まで続いたが、
鉄道と自動車の普及により、この川港の繁栄は終わりを告げた。 」
渡しは残っていないので、県道14号木曽川橋西交叉点に出て、
県道の木曽川橋の自転車、歩行者専用橋を渡る。
車と分離されているので安心だが、自転車が来るので注意は必要である。
「 笠松問屋まで運ばれた鮎鮨は、 笠松渡船場から宝江の渡しで、 木曽川を渡り、対岸の宝江の渡船場から一宮問屋へ中継された。 」
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木曽川はさすがに広い。
木曽川橋を渡り始めると、左側に煉瓦造りの橋台が川の中に点々とある。
これは旧国道(現県道14号線)に架かっていた古い橋のものだろうと思った。
岐阜県と愛知県の境は、橋の中央かと思いながら歩いていったが、
標識が橋上にはなく、橋を渡り終えた先に、「愛知県」の標示があった。
(注) 地図で確認すると、予想通り、県境は橋の中央に区画線があった。
長い橋を渡り終えると、愛知県と一宮市の標識が現われた。
ここは、一宮市北方町宝江で、この地名から、
尾張側の渡し場は宝江の渡しといわれた。
渡り終えたところで県道と別れ、左側の細い道を進み、
行き止まりの交差点で左折し、堤防の道を行く。
突き当たったところに、「高橋源左衛門の旧宅跡」 の説明板が建っている。
説明板
「 北方の人・高橋源左衛門は、広瀬喜右衛門と共に、
慶長5年(1600)8月 関ヶ原の合戦の前、
池田輝政が率いる1万8千の軍勢の木曽川越えを助け、
さらに加納への近道も案内し、岐阜城攻めに比類無い軍功をあげた。
この功績により、黄金10両、刀1振、船頭給28石5斗が与えられた。
以後、苗字帯刀が許され、宝江の御渡船守として、明治初期まで続いた。
宝江ゲートボール場付近に屋敷があった。 」
この場所から左に下ったところがそれに該当する。
説明板で右折すると、交差点があり、左右の道は車が頻繁に行きかう。
交差点の手前右側に「宝江渡し跡」の石柱があった。
下の写真は交叉点を過ぎ、振り返って写したものである。
その対面には、鉄の輪で覆われた大きな 「善光寺出張所」 の石柱があった。
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その奥に古い道標、
小さな「岐阜街道」の新しい石碑と「宝江渡し跡」 の説明板が建っていた。
古い道標には、文政十二年(1829)の年号があり、
「 左 なこや道 右 津しま起道 」 と、書かれている。
「 津しま起とは、津島市と起(おこし)のことである。
起は美濃路の愛知県最後の宿場だったところで、
津島は津島牛頭天王社と呼ばれた津島神社があるところである。
津しま起道は、右側の堤防道路のような道を行くのであるが、
江戸時代には、伊勢をお詣りしたら、津島神社を御詣りしないと片詣りとも、
いわれたので、かなり賑わう街道だったことだろう。
新しく建てられた岐阜街道の石碑には、 その誕生のことが書かれていた。
「 岐阜街道は、中島郡井之口村四ッ家で、 美濃路から分かれ、一宮、黒田を経て、宝江の渡しより、笠松。 中山道加納宿から岐阜に至る道である。 関ヶ原の合戦後、美濃の一部が尾張藩領となり、 岐阜の町も支配下に入るに及び藩政上重要な街道となった。 」
説明板「宝江渡し跡」は、街道に向って立っている。
説明板「宝江渡し跡」
「 慶長五年(1600)八月、関ヶ原の合戦の前、岐阜城攻めの際、
東軍の先鋒、池田輝政は一万八千の軍勢を率いて、この地に到着。
木曽川の川越え遅々として進まず、
北方の人、高橋源左衛門・広瀬嘉右衛門の機転により、滞留なく渡河し、
両名は その功労により御船渡守として船頭給、二十八石五斗の恩賞を受ける。
次いて、同十二年、徳川義直尾張藩主のとき、
岐阜街道を改修し、この地から対岸への渡船を官道とした。
代々の高橋、広瀬の両家が渡しを守った。
明治十一年(1878)十月二十五日、明治天皇御巡幸の際、
両名私費をなげうって船橋を架したが、翌年流失し、
鉄橋架設に至るまで渡船を継続した。 」
御鮨街道はこの左側の下り坂を下りて行く。
道は右に曲がりながら、旧国道の県道14号に沿って進む。
北方中島交差点の右先の角に、「南無阿弥陀仏」の石碑が建っていた。
岡村自動車を越したところの中起バス停で、県道と合流する。
県道を歩くと、中起交差点の右手にスーパー平和堂がある。
交差点を越えると県道190号で、木曽川幹部交番前を過ぎると、稲葉石材の看板があるところで、県道と分れて、クレストホール木曽川がある左側の道に入る。
右手にイオンモール木曽川が見えるこの道は二車線であるが、
歩道がなく脇にわずかなスペースに線が引いてあるだけである。
どこに向かうのか分からないが、車が多い道である。
ゆるやかに左にカーブを切りながら、道は東に進路をとる。
右側に名鉄黒田駅がある踏切を渡る。
「
ここは、旧木曽川町黒田で、ここからJR木曽川駅の先までが旧木曽川町の中心地である。
黒田には戦国時代から安土桃山時代にかけて、黒田城があり、
山内一豊はこの城で生まれた、といわれる。
黒田小学校の一角に、「黒田城跡」の石碑があるようだが、寄らないで進む。 」
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続いて、JR東海道本線の岐阜街道踏切を渡る。
その先の二又は右に進み、焼肉の山力の先の信号交差点を右折する。
このあたりは往還東で、御鮨街道は県道と別れ、南に向きを戻した。
その先の三叉路を右側に入ったところに、JR木曽川駅がある。
その南は往還西南ノ切である。
その先、左側の二つ目の三叉路を左に三百五十メートル程行くと、 籠守勝手神社(こもりかってじんじゃ)がある。
「
神社の創建は不詳だが、延喜式にある尾張国葉栗郡黒田神社のことで、
社名の籠守勝手神社は黒田神社の古くからの通称で、
明治時代初期に現在名になった。
社伝によると、「 履中天皇の崩御の後、大泊瀬幼武王(雄略天皇)は皇位を争って市辺押盤皇子を殺した。
その子の億計王(仁賢天皇)と弘計王(顕宗天皇)の兄弟が、
雄略天皇からの難を逃れて真清田へ向かう途中、
当地に駕籠を止め泊まられたので、村人がこれを饗応した、と伝えている。
これを後世に伝えるために行なわれているのが、
御駕籠祭(おこもりまつり)である。
厄払い、豊年を祈願する祭で、千五百年以上の歴史がある。
神社に勝手に籠もり、心より願をかけると、必ず成就するといわれていたので、以前は勝手に籠もって祈願することができたが、現在は行なわれていない。 」
街道に戻ると、右に左に緩やかに曲がる道の両脇に、
小さな商店が続いていた。
野府川(のぶがわ)という小さな川に架かる旭橋の手前を右に入ると、
日蓮宗の法蓮寺がある。
山門の左手の植栽の中に、
「山内一豊公出生之地」 と刻まれた石碑が建っている。
「 天文年間(1532〜1555)、岩倉城主・織田信康の重臣として、
黒田城主になった山内盛豊の三男として黒田城で生まれたのが、
山内一豊である。
弘冶三年(1557)、織田信長の夜討ちにあって兄の嫡男・十郎が戦死、
更に永禄二年(1559)の岩倉合戦で父も戦死してしまう。
一豊は城を出て、各地に流浪したが、豊臣秀吉に引き立てられて、
掛川城の城主になり、徳川家康により、土佐の国主となった。
父と十郎の墓(宝篋印塔)は当寺の北側に現存している。
土佐山内家は、明治に至るまで、年々の代参と香花料の寄進を怠らなかった
。 」
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野府川に架かる橋を渡ると、左側にツタハン酒造があった。
少し歩くと、大通りに出たが、ここではクランク状に斜め左の狭い道に入り、
直進する。
右側の屋敷門のある家の前を通り過ぎると、立派な山門と常夜燈がある善龍寺がある。
常夜燈の右奥に 「明治天皇御駐輦之処」 の石柱が建っていた。
説明板
「 弘仁三年三月、伝教大師羽栗郡和栗郷に本寺を創建、若栗山専修坊と号す。
嘉禎元年正月 二十二世祐道親鸞上人に帰依真宗に改宗、河野九門徒の随一なり。
天正年間 現在地に移築、慶長八年五月 若栗山河野善龍寺と改称。
安政三年三月寺別御坊分御取立黒田御坊と別称、明治十一年十月、
明治天皇東海北陸御巡幸のにぎりに、御小休所となる。
一條殿祈願所尾張徳川家帰依の下に寺運隆盛す。 法寶物多数収蔵 」
善龍寺は、諸堂の甍が連なる大きな寺だった。
本堂の前には、明治天皇黒田御小休所の石碑が建っていた。
道の反対には、石仏を多く祀った大きな祠があり、
左側に 「 奉安御分身 善光寺如来 葉栗郡出張所 」の石柱が立っている。
奥に入って行くと、西蓮寺のお堂があった。
そのまま南下すると交差点に出て、左側から来たやや太い道と合流し、その道を行く。
左側の石垣の上に、愛宕神社がある。
その下には、天明八年建立の馬頭観音(?)が祀られていた。
その先の交差点の角にも、二体の石仏が祀られていた。
交差点の右側には、大きな地蔵堂があった。
街道の脇に、神社や石仏が多くあり、黒田は信心深い集落であると思った。
道は左にカーブすると、東海北陸自動車道のガードが遠く見えた。
ダイハツの販売店を過ぎると、家の間に稲田が見えた。
この先で黒田集落は終わりである。
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旅をした日 平成20年(2008)12月3日