笠松問屋まで運ばれた鮎鮨は、笠松渡船場から宝江の渡しで、
木曽川を渡り、対岸の宝江の渡船場から一宮問屋へ中継された。
一宮問屋からは四ッ家追分で美濃路に出て、宮宿問屋へバトン渡しされ、
将軍へ献上した鮎鮨は5日5晩の早駆けで江戸城についた、という。
東海北陸自動車道のガードのところにくると、家はなくなる。
ガードを潜り、東海道線に沿って歩く。
右手を名鉄の赤い電車とJRの薄茶色の電車が頻繁に行き交う。
濃飛倉庫運輸の手前あたりでS字のカーブ。
ここまでが一宮市木曽川町黒田である。
のこぎり型の屋根の家の前にきたら、
毛織物を織る小気味良い機械の音が聞こえてきた。
その先の左にカーブするところでは道路工事をしていた。
このあたりは、道の左側が一宮市木曽川町門間で、
右側は一宮市今伊勢町馬寄である。
道なりに進むと、左側に 「石刀(いわと)神社」 の石柱が建っていた。
石刀神社はここから東(左手)に、六百五十メートル位行ったところにある神社で、
神社の歴史は古く、延喜式内社である。
社殿は古墳の上に建てられているらしい。
社伝によると、
「 当地、馬寄(うまよせ)は、往古、今寄の庄といい、
伊勢神宮に神戸として貢献された処で、伊勢両宮を祀っていたが、
その後、戦火などで社殿はなんどか烏有に帰したが、
関ヶ原の戦い後、徳川家康の命により、奉行吉田伊豆守が修復造営にあたり、
尾張徳川家の保護を受けてきた。 」 、とある。
石刀神社へは、寄らないで進む。
その先で、鮨街道は県道190号に合流、
その先の馬寄交差点で右折すると名鉄石戸駅がある。
馬寄バス停を過ぎると、交差点を越えた右側に地蔵堂がある。
「
お堂に祀られているのは、古い昔、黒田村剣光寺の本尊として祀られていて、
源頼朝が上洛した時参拝をした仏だが、南北朝の戦火で、寺は焼失し、廃寺になった。
永禄三年(1560)、お堂を建てて再建した、と伝わる、尾張国六地蔵第一の
彼岸縄手地蔵である。 」
道の両脇にはラーメン丸源や中の浜、餃子の王将などの飲食店や、
カントリーロード店が続く。 それを横目に見ながら歩く。
横断歩道橋の左側に今伊勢小学校があり、
その隣の雑木林の中に、野宮神明社があった。
「 尾張名所図会には、伊勢斎宮の野宮をこの地に祀った。 」、と紹介されている神社である。
樹木が紅葉しているので美しかった。 」
桜の朱とイチョウの黄のコントラストや地面の枯葉が秋の終わりを告げていた。
それを眺めながら、しばしの休憩をとった。
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新神戸交差点を越えて進むと、酒見神社前交差点にでた。
この交差点の右側に、「 酒造祖神 酒見神社(さかみじんじゃ) 」 の石柱と鳥居と左側に 「 皇大神宮御聖蹟 」 の看板があるので、渡ろうとしたが、
車の通行が多く、信号時間が短い。
あわてて渡り、鳥居をくぐると、酒見神社の説明板がある。
説明板「 酒見神社 (倭姫命十五番目御聖跡) 由緒 」
「 祭神、天照皇大御神、倭姫命、酒弥豆男神、酒弥豆女神。
第十一代垂仁天皇の王女倭姫命が伊勢の地を求めて旅される途中、
垂仁天皇の十四年(紀元六四六年)6月一日 当村に渡来された際、
村民の奉仕により、社が建築せられたのが、酒見神社の始まりで、
出来上がった社は、総丸柱で草屋根にて高く、後世に吹抜きの宮と呼ばれた、
と言います。 現在に伝えるのが本殿裏に祀る倭姫神社であります。
第五十五代文徳天皇斎衛三年(紀元一五一四年) 当村は上質の米が取れることから
遣唐使でもあったといわれる、大邑刀自、小邑刀自二人の酒造師が皇太神宮より
大酒甕二個を携帯され、当宮山に遣わされ、
伊勢の翌年の祭に供える酒を造らしめ給うた、と文徳録にあります。
当時、どぶ酒等は各地で醸造されていましたが、清酒の醸造は酒見が最初とあり、
酒見神社は清酒醸造の元祖の神社という事になります。
第七十一代後三条天皇延久元年(紀元一七二九年) 伊勢内宮より、式典等に明るき
神宮神主の伊勢守吉明に神宮神主と兼任の体にて二百石を与え、
従来の本神戸、新神戸、新加神戸に、馬寄を合わせて、今伊勢の庄の名を賜り、
以来九百年間、平安時代より明治時代を通じて、代々世襲をもって、
尾張今伊勢の庄本神戸神主たりと定められたのです。 」
参道を歩き、奥に進むと、一面にもやがかかっていた。
よく見ると、蕃塀の脇で落葉を燃やしている煙であった。
その影響で写真がよくない。
酒見神社は、元伊勢の一つとされる延喜式内社で、 倭姫命が滞在した中嶋宮の跡とされる。
「 倭姫命は、勅命を受けて、天照皇大御神をお祀する地を求めて、
旅の途中、尾張の神戸の地に立ち寄り、
現在の無量寺にあったといわれる神戸屋敷に泊り、
御神体を宮山の此の地に祀られた。
その時、村民の奉仕により、社殿が建てられたのが、酒見神社の始めである。 」
社殿の左手には、伊勢神宮への遥拝所があり、奥には小さな社が祀られていた。
その隣には、「冷水 栄水ノ意」 と書かれた標石があり、
丸柱の上に屋根を乗せた社が建ち、霊水 栄水の井からの水がしたたっていたので、
柄杓で汲んで口に含んだ。
「
酒見神社が、我が国の清酒醸造の最初といわれる。
その時使用された 「磐船」 といわれる酒槽石が、本殿の右手に保存されていた。
この神社は珍しく北面しており、鳥居から一直線上に目久井古墳があって、
古墳は酒見神社の祭神を葬ったところとの語り伝えがあるようである。 」
酒見神社を過ぎると、三叉路があるので、鮨街道は県道と別れて、
左側の一方通行出口のある一車線の狭い道に入る。
中町、下町を過ぎると、和田東、同西で、日光川に出る。
日光川架かる和田橋を渡ると、旧一宮市の市内である。
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一宮は、大和政権が各国に国府と国分寺、国分尼寺を造りた時、
真清田神社を尾張国一宮とした。
平安の頃から、この地は一宮と称するようになり、
真清田神社の門前町として発展した。
鎌倉時代に書かれた、阿仏尼の十六夜日記に、「 一の宮といふ社を過ぐる 」
とあるのは当社のことで、鎌倉街道が通っていたことになる。
江戸時代の御鮨街道も真清田神社の前を通っていた。
但し、調べたが、この間の御鮨街道のルートがはっきりしない。
小生が歩いた道を下記する。
信号交差点を越えると大宮3丁目で、街灯だけが立派な商店街に思えた。
最初の交差点を左折すると、「 日蓮宗 心證寺 」の石柱と、
髭文字の「南妙法蓮華経」の石塔が建っている。
交叉点を横断すると宮西通りで左折し、次の交叉点を右折。
その先で左折すると、右側に九品寺幼稚園があり、その先で県道18号(大正通り)に出る。
角に本行寺があり、道の左側が九品地運動公園である。
k街路に植えられている樹木が紅葉し、きれいだった。
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文京交叉点で右折し、松降通りを南下すると、山子社が祀られていた。
信号交叉点の先の三叉路を左折すると、弓道場や相撲の土俵がある大宮公園に着いた。
赤い幟に「三八稲荷大明神」と書かれていて、鳥居の傍に説明板がある。
「 当社は、尾張国一宮真清田神社の境内末社として、
往古は西北の社深き所にお祀りされておりましたが、
昭和二十六年に御社殿の御造営が行われて、この地に遷座されました。
御祭神は衣食住の祖神である倉稲魂命(うがのみみたまのみこと)であり、
遠い昔に京都の伏見稲荷神社の御分霊を奉斎したと伝えます。
御遷座の日を記念して、毎月十八日に月次祭が、又久初午大祭には七福神宝恵篭行列
も繰り広げられて、多くの参拝者で賑わいます。 」
その先に大きな樹木が建物を覆い囲うような感じをするが、 そこのあるのは尾張一之宮の真清田神社(ますみだじんじゃ)の楼門がある。
「
真清田神社は、延喜式神名帳に、眞墨田神社として記載され、
名神大社に列している神社で、古くより尾張国一宮とされ、
地名の一宮は当社に由来する。
祭神については古くから諸説あるようであるが、
最近は天火明命(あめのほあかりのみこと)とされているようである。
神社の境内にある説明板にも、
「 当社は尾張国一宮にして、祭神天火明命は天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし、
国土開拓、産業守護の神として御神徳弥高く、
この尾張国はもとより中部日本今日の隆昌を招来遊ばされた貴い神様であります。
」 と、ある。
天火明命は、神武天皇三十三年、
この地を尾張と名づけて開拓をしたという天香山命の父神で、
その子孫が尾張氏とされる。
奈良の葛城から尾張氏の祖先の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、
祖神の天火明命を祀ったのがこの神社の起源と考えられる。
尾張氏はこの地から領土を拡大し、尾張国の国造となり、
日本武尊の妃として、宮簀媛命(みやずひめのみこと)を出すなど、
繁栄することとなった。 」
一宮市は戦災に遭い、市街地がほとんど焼け、真清田神社も例外でなかったのだろう。
楼門をくぐると、正面に拝殿と正殿があり、正殿の右手に末社の神明社が祀られている。
「 拝殿と御本殿は、昭和32年の竣工で、
名古屋営林局よりの払い下げの檜で造られた。
本殿内中陣の扉や柱桁などは、伊勢神宮から下賜された古材を使用している。
楼門は昭和32年11月の竣工で、楼上両側に掲げる扁額は、伝聖武天皇ご真筆の旧跡を
模して作成されたものである。
神社の境内は、戦前は深い森につつまれていたが、
戦災を受けて、現在のような姿になっている。 」
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拝殿・御本殿の右側には、「 萬幡豐秋津師比賣命 」 を祀る服織(はたおり)神社がある。
「
萬幡豐秋津師比賣命(よろずはた とよ あきつし ひめのみこと)は、
天火明命の母である。
一宮七夕まつりにミス七夕・ミス織物が参列し、御衣奉献祭が施行される。 」
神社の楼門を出ると、左右に国道155号が通る真清田神社前交差点がある。
対面は本町商店街である。
「 一宮は真清田神社の門前町として発展した町である。
享保十二年(1727)に、はじまる一宮の三八市は、
この神社前の本町通りに露店を出した農民市で、日常品や綿の取引が行われた。
明治四年の伐採でテント張りの店があらわれ、
明治十六年には、楼門左右に高塀が築かれ、はねあげ店がひらかれていった。
逞しい商魂をつちかい、親しみ深かったこの市も第二次世界大戦で消え、
わずかに門前両側に数軒の店が残るだけである。 」
立派なアーケードを備えた商店街を貫く本町通りが御鮨街道である。
江戸時代の一宮宿はここから伝馬町にかけてあったようである。
通りに入ると右側にオリナス一宮があり、
その先の交叉点を右折するとぎんざ通りで、
ロータリーの先にJRと名鉄の一宮駅がある。
交叉点を越えると右側に大和証券一宮支店があり、
店前に 「 市神堂旧地碑 」 がある。
これは、三八市の市神を祀ったお堂跡を示す碑である。
「
一宮は綿栽培が盛んだった尾西地方の綿の集散地だったことから、
綿に関する店を中心に三八市が開かれた。
この周辺の商店街は戦後から昭和五十年頃までは、繊維問屋が集まり、
全国のアパレル産業の先進地となり、全国から織姫が集まる街であった。
その頃は休みになると若い娘でこの街内にあふれ、賑わった。
七夕祭はそうした織姫の象徴であった。
その後、日本の繊維は斜陽産業になり、一宮の繊維産業も衰退した。
商店街の店の幾つかがシャッターを締めていたのは気になった。 」
真清田神社二の鳥居跡の碑もあったので、このあたりに二の鳥居が建っていたのだろう。
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アーケードを出ると、信号交差点に出た。
左右の大きな道は、伝馬通りで、県道457号である。
交叉点を左折すると本町南バス停の左側に、三菱UFJ銀行があり、
その前に「一宮城跡」の石碑がある。
真清田神社の神主も務めた関氏の居城跡で、近くの常念寺は菩提寺である。
現在、伝馬町を付けた地名は残っていない。
この通りのどこかに、一宮問屋場があった筈だが、確認は出来なかった。
この問屋は鮎鮨を美濃路清洲宿へ送る重要な任務があった。
交差点を越えて歩いて行くと、左側にイチガシの老木が聳える地蔵寺がある。
「 地蔵寺は、行基の創建と伝えられる寺で、 本堂、地蔵堂、八脚門、鐘楼、薬医門などの建物がある。
その先の豊島図書館南の交差点の左右の道は北園通りであるが、
交差点を横断し、直進の狭い道に入る。
そのまま進むと、JRのガードへ行くが、
左側のしきしまパンの店、ジョイスもりしま駐車場脇を斜めに入って行く。
その先には、地蔵堂再建とある小さなお堂が祀られていた。
少し歩くと、左側の文七鮨の先に交差点があり、そこを右折するのが御鮨街道である。
左側対面の常夜燈の脇に、 「 岐阜街道 一宮一里塚跡 」 の石碑が建っていた。
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そのまま入って行くと、左手に公民館があり、
その右側に 「 富士 諏訪 稲生 三社 神社 」 の石柱と鳥居がある。
奥に進むと真清田神社御旅所の石柱があり、囲いがある。
左側には神輿台の石柱が建っていた。
その奥の社殿には、富士 諏訪 稲荷の神様が祀られている。
街道に戻り、文七鮨を右折すると殿町温泉という銭湯がある。
銭湯と角の建物との間に、「真清田神社一の鳥居跡」の石碑があるので、
昔はここに真清田神社の一之鳥居が建っていたのだろう。
御鮨街道は、その先で、県道190号(旧国道22号)へ合流する。
少しの間、県道を歩く。
牛野通交差点の越えた右側に、狭い道がある。
この狭い道が御鮨街道で、右側に郷社大神神社がある。
この道は県道と並行するが、静かな道で、アパートや畑、
そして小さな工場などが建て並んでいる。
千間堂、浅間堂という地名があり、途中に浅間社が祀られていた。
この道はそのまま進むと、大江用水にぶつかり、川の間際から廃道になっている。
。
江戸時代には、大江川に筋違橋が架かっていたが、橋はない。
そのため、手前の県道513号で左折し、多加木北交差点に出る。
「 妙興寺 従是六丁 」の道標(石標)が建っていたので、立ち寄る。
妙興寺は、多加木北交差点を右折し、県道513号を進む、鉄道を越えた右手の一宮博物館より、奥(北)にある。
「 妙興寺は、長嶋山と号し、臨済宗妙心寺派に属し、
如意輪観世音菩薩・釈迦牟尼如来を本尊とする。
貞和四年(1368)、滅宗宗興(めつしゅうそうきょう)が創建した寺で、
江南市の曼陀羅寺が南朝系なのに対し、北朝の勅願道場とされ、
足利義教も富士遊覧の折、立ち寄った寺で、四町四方に及ぶ広大な寺領を誇った。
戦国時代の戦乱により、多くの寺領を失い、衰退する。
寺の荒廃を憂いた豊臣秀次により朱印地が与えられ、その尾張藩により、
200石が代々安堵された。
明治二十三年(1890)の火災で主要堂宇を失ったが、方丈が明治二十六年(1893)、
庫裏が明治三十年に再建された。 」
寺領には鬱蒼たる樹木が茂り、今なお広い。
勅使門は、創建当初來の遺構を伝えるもので、国の重要文化財に指定されている。
「
勅使門は、室町時代の創建で、後光厳天皇より賜った勅額がかかっている。
四脚門、切妻造、桟瓦葺の大型の門で、木柄も太く、
大禅院にふさわしい本格的な禅宗様式の門である。
総門は犬山城主・成瀬正太の寄進である。
鐘楼は江戸時代の建造で、愛知県指定有形文化財である。 」
境内を一通り歩いた後、街道に戻った。
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御鮨街道は県道190号の多加木北交差点を南下し、大江川に架かる多加木橋を渡ると、すぐ右側の大江川沿いの細い道に入る。
川沿いを歩いて行くと、川の反対に大和変電所が見えてくる。
川と別れ直進し、名神高速道路をくぐり、反対側に出ると、
多加木集落のはずれである。
昭和六十一年建立とある、小さな津島神社の社が祀られていた。
道はこの先で左にカーブするが、このあたりが稲沢市との境である。
道を進むと、県道166号の信号交叉点に出た。
県道190号がここで県道166号に名称を変えている。
対面には愛松稲沢Uとあるマンションがある。
御鮨街道は県道を斜めに越える。
稲沢市赤池西出町で、 右脇に尾西トラック輸送センターがある。
御鮨街道は、県道166号(旧国道22号)と一宮ICへの連絡道路を渡る。
小生は間違えて、連絡道路を一宮ICへ歩いてしまった。
近くの人に「赤池村一里塚跡は?」 と聞くと、
「 公会堂あたりになにか碑があった。 」、といい、
案内されたのは赤池北公会堂である。 左側には八剣神社があった。
公会堂と離れた草むらに、「 御巡幸之跡 」 と書かれた石碑が建っていた。
ここは稲沢市赤池町松山で、昭和天皇は昭和21年10月23日に、
このような草深いところを訪れていたのには驚いたが、探していた碑ではなかった。
先程の連絡道路を戻り、道を見るとガードレールで渡ることはできないが、
その向こうに道が続いている。 御鮨街道は、その道だったのである。
見渡したところ近くに横断道路はないので、
ガードレールを乗り越えて反対側の道に入った。
両側に広がる田畑の中の道であるが、車の通行もけっこう多い。
しばらくすると家も増えてきた.。 道が左に大きくカーブする。
道の右側は陸田一里町、左は赤池中町。
少し行くと、道は右にカーブするが、ここは三叉路で、左側にJAの支店がある。
左側は赤池南町で、交差点の左手前に二つの碑が建っている。
「
右側の碑は何が書いてあるのか分からなかったが、
これがどうやら、「 赤池村一里塚碑 」 のようである。
美濃路から分かれて最初の一里塚である。
左側の碑は昭和天皇御巡幸之跡の碑である。 」
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その先の交叉点を直進する。
その先の三叉路は左側の狭い道を直進すると、下津光明寺町で、
三叉路を直進して南下を続ける。
下津片町に入ると左側に地蔵堂、その先に頓乗寺がある。
左手の野村家の前が高札場跡で、その先にも地蔵堂がある。
その先の県道161号の信号交差点の手前から信号交叉点を越えたところは下津新町(おりづしんまち)である。
左手に山神社がある。
山神社の先の交差点を左折し、JAがある県道155号の信号交差点を渡る。
次のふくらんだ地形の三差路で右折して南進する。
「 下津集落は鎌倉街道の宿駅として開けたところで、
この辺りの鉤型に道が曲がるのは条里制の遺構であるといわれる。
この道の左手に入ると、円光寺、円通寺や阿弥陀寺がある。
下津下町交差点を越え、妙長寺の前を通り、井之口交差点に出る。
交叉点で、県道62号を渡ると、道は県道155号になる。
道は左右にくねくねしているが、道を進むと、道の右側を少し入ったところに、
日吉神社がある。
JRの線路沿いに進むと、三叉路で出る。 ここは北側は稲沢市井之口町、
南は六角堂東町である。
左右の道は県道136号で、江戸時代の美濃路である。
道の角の石碑には、「 下津、一宮、黒田を経て岐阜へ向かう鎌倉街道。
後の岐阜街道と稲葉、萩原、起を過ぎて、垂井へ向かう美濃街道との分岐点である 」 と刻まれていた。
ここは美濃路と御鮨街道(岐阜街道)の四ッ家の追分である。
「
江戸時代、美濃路と御鮨街道の分岐点だったことから、「四ッ家の追分」 といわれ、
ここには茶屋が数軒あり、うどんが名物であった、といわれる。
御鮨街道の終点は、名古屋市熱田にあった宮宿までという説もあるが、
岐阜街道はここで美濃路に合流し、この後は美濃路を歩くこと
になるので、御鮨街道(岐阜道)の追分であることは間違いない、と思う。 」
岐阜で作られた御鮨は、この後、清須宿問屋で中継されて、宮宿に運ばれる。
宮宿からは東海道の問屋の運び手が、昼夜を走り続け、
五日目の夜には江戸城に到着する。
このようにして届られた鮎鮨を将軍様は年に何回食されたのだろうか?
大部分の御鮨は、将軍家からと重臣などに御裾分けされたと思うのは下司の勘ぐりだろうか。
御鮨街道を二回に分けて歩いたが、小生のようにゆっくりかつ寄り道しなければ、
一日で可能に思えた。
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旅をした日 平成20年(2008)12月3日