御鮨街道は、岐阜街道の別の名前である。 尾張藩が、毎年、長良川産の鮎鮨を江戸幕府に献上したが、その際に利用なれた道なので、そう呼ばれるようになった。
鮎鮨は、岐阜街道から美濃路に入り、東海道を経由して運ばれたが、
御鮨街道と呼ばれるのは笠松までで、笠松では鮎鮨街道と呼んでいた。
どちらも、岐阜街道だが、この道は古の鎌倉街道が原型のようである。
織田信長や羽柴秀吉の時代には、岐阜は城下町として栄えたが、 徳川家康の御世になると、近くの加納に親藩の加納城が築かれ、城下町も移され、寂しくなった。
「 岐阜は、戦国時代、斎藤道三や織田信長の居城があったが、
徳川家康は、慶長六年(1601)、岐阜の南の加納に城を築かせ、岐阜城を廃してしまう。
岐阜町は、尾張藩の支配下におかれたが、長良川を利用した川船交通により全国から物資
が集まり、富める商人の町に変わっていく。
古来、長良川では鵜飼による鮎漁が行われ、宮廷に献上されてきた。 」
尾張藩が立藩され、元和五年(1619)、岐阜町が尾張藩の領地になると、 尾張藩は、江戸将軍家へ、毎年五月から八月までの間、年十回程、 長良川で取った鮎を鮨に加工して、献上するようになる。
長良川に近い、城山の麓から再建された、コンクリート製の岐阜城が見える。
川湊のあったところに位置する川原町(湊町、玉井町、元浜町)には、今も商家が立ち並び、
重厚な佇まいが残っている。
といっても、飲食店や旅館や小物を扱う観光向けの店だけで、
江戸時代のような商売をしている家はなくなっているように思えた。
物流が変わってしまったので当然だろうが・・・
長良大橋の手前の左側に、「ポケットパーク鵜かがり」 があり、
鵜匠が鵜を扱う姿が銅像になっていた。
道の反対の左側を下りると、北原白秋の 「 鵜匠頭山下卆司翁 」 歌碑や、
「川端康成ゆかりの地」 碑や、芭蕉の句碑がある。
また、「稲葉山古城主齋藤道三公墳」の道標と、
「織田相公旧菩提所神護山崇福寺」の道標も建っている。
長良川の堤の道に上ると、長良川が見え、
鵜飼鵜飼見物に使われた観覧船が係留され、来シーズンの到来を待っていた。
鵜匠の家は、このあたりではなく、対岸の長良にあるようである。
道の下のトンネルをくぐり、反対側にでると、
鵜飼観覧船のりばの看板がある建物の脇に、
復元された大きな常夜燈が建っていた。
常夜燈の奥には、 歌碑 「 夕焼けの すでに紫 鵜飼待つ 誓子 」 と、
歌碑 「 鵜篝の 過ぎゆきし宵 芭蕉の宵 利彦 」 と、
音の百景の表示板が建っていた。
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江戸将軍家へ献上された鮎は、湊町付近であげられ、 川原町を通って運ばれたと考えるのが、無難だろう。
「
鮎鮨を作る御鮨所は益屋町にあった、といわれるので、
湊町から、玉井町を通り、元浜町で左折し、東材木町に入り、
上大久和町交差点に出るルートで運ばれたと思われる。
資料によると、鮨を作る御鮨所を任された河崎喜衛門家は御鮨元と称し、
尾張藩からいろいろな援助と特権を得ていたようである。
寛文八年(1668)には、河崎善太郎家も御鮨所に加わり、
両家で幕末まで務めた。 」
御鮨所は林稲荷神社の前あたりにあった、と聞いていたので、
上大久和町交差点を越え、左側の比較的太い道のもう一つ先の細い道に入る。
林稲荷神社は、左側にあったが、前の民家には御鮨所跡の表示はなかった。
神社の境内に入ると、右側に、岐阜が井之口といわれた頃に出ていたという、
美濃の神水が再現されていた。
鮎を水洗いするのにこの神水も寄与していたのかもしれない。
「 江戸時代の初期の鮨は、魚介類とめしなどを発酵させて、
自然にできる酢で食する、「なれ鮨」 といわれるもので、
大津の鮒ずしや秋田のはたはた鮨が有名である。
当時の鮎鮨は、鮎を水洗し、塩漬けされる。 それを一度塩出しする。
冷ました飯を魚の腹に飯をつめて、鮨桶に並べ、
そのすき間に水洗いした飯を詰める。 これをくり返し、重石で圧し、
よくなれさせる。 最後に、笹と編んだワラを置いて蓋をして、
桶全体を竹と藤で堅く縛った。 」 というものであった。
こうして出来た鮎鮨は、御鮨所をおおむね夕刻に出て、
江戸城まで昼夜を問わず、運ばれて、五日間で到着させた、という。
天候や気候を考慮して、塩加減を調節し、
到着したころ食べ頃になるようにしたというから、
両家の苦労は大きかったことだろう。
結局、御鮨所の場所は確認できなかった。
この道の奥に、正法寺というお寺がある。
「岐阜大仏」 という仏像が祀られているというので、
お金を払い入ったが、木造の仏像は大きかった。
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本町1丁目に、「御鮨街道」に関する市の説明板がある。
それによると、 「 ここから北に向かい、道に出ると左折し、次の細い道を南に向かい、大通り(国道256号)にでると、右折し、本町1丁目の交差点にでる。 」 、ように表示されている。 ,/p>
益屋町には黒板と白い漆喰壁の大きな建物と蔵がある家があったが、 何時建てられたものだろうか?
本町1丁目の交差点で、道の反対側に行き、次の狭い道に入ったあたりが、 靱屋町である。
「 その先の交差点を左折すると、左側に神社があり、 その先に川が流れているが、それを越えた先の新桜町と末広町のあたりに、 尾張藩岐阜奉行所があった、といわれるが、確認には行かなかった。 」
交差点を越えると、米屋町で、この辺りには古い建物が残り、 数年前に訪れた人は感嘆の声を上げたようだが、ほとんどが壊されて、 新しい建物に変わりつつあった。
黒塀に囲まれているのは、横浜の三渓園を造った原三渓が、 愛したという古い料亭の水琴亭で、元禄十三年(1700)の過去帳がある、という。
その先に格子の入った粋な建物があり、街柱の前に「桂翠館」とある。
その隣の建物は、料亭ひら井や吉照庵が入っている新しい建物である。
(注) 数年前までは、ここに日下部邸の古い建物があった。
伝承美濃そば 吉照庵には、皇族が訪れた、という。
道の反対にあるクラシックな建物は、明治時代の建設で、旧洋服会館である。 現在はレストランになっていた。
吉照庵の隣の三階建ての洋館には、石原美術が入っている。
この建物と隣にあった二階建ての建物は、
明治から昭和にかけて海運業で成功し、「海運王」と呼ばれた羽島市出身の
日下部久太郎氏が大正十三年に建築したものである。
「 この洋館は、木骨れんが造りで、
建設当初は隣の二階建ての和館と融和した建造物で、
建設に約六年かかったという。
当時の近代的デザインを具現化しており、和洋の建物が同一敷地内に、
連続的にある画期的なものだった。
日下部氏の先代が建設したもののため、
同様の建造物は函館と神戸に現存しているとのこと。
両建物の保存運動が市民から起きた。 数年続いた運動だったが、
洋館は賃借者の強い保存意向と歴史的経緯のため、解体は免れたが、和館は解体されることになったのである。
岐阜市の美観条例とはどういうものだろうか?、と疑問が残った。 」
そういうことで、隣は、周囲が囲まれ、工事中であった。
一年前、日下部氏が建てた木造二階建ての建物が逢った時には、
「岐阜町本陣跡」の説明板があったが、今はどうなっているだろうか?
説明板「岐阜町本陣跡」
「 江戸時代、尾張藩主が岐阜の鵜飼を見物する際、
本陣を勤めた賀島家があつたところである。
賀島家は、米屋町から中竹屋町までを敷地とし、
間口二十間、奥行三十間の屋敷があったが、
明治二十四年の濃尾大震災で焼失した。
徳川宗春は、享保十八年(1733)、岐阜を訪れ、鵜飼を見物したり、
お忍びで、伊奈波神社の門前の茶屋へ行ったりした、という。
日下部氏は、岐阜町本陣跡に、大正初期に二階建ての建物と洋館を建築した。 、」
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伊奈波通1交差点の左手奥には、伊奈波神社がある。
神社の由来
「 景行天皇十四年、武内宿禰が稲葉山北西に五十瓊敷入彦命を祀ったのが始まりで、壬申の乱の際には天武天皇が当社に戦勝を祈願。
天文八年(1539)、斎藤道三が稲葉山に城を築く際、現在地に遷座。
その時、物部十千根命を祀る物部神社を合祀し、稲葉山城の鎮守とした。 」
境内には、安永六年(1777)の建立の芭蕉の句碑がある。
「 山かけや 身をやしなはむ 瓜はたけ 」
貞享五年(1688)に、芭蕉翁が、岐阜町の俳人・安川落悟の案内で、 神社を訪れたとき詠まれたものである。
交差点を過ぎると、白木町で、白い漆喰壁とうだつのあがる家が残っている。
常磐町のさし源本店前に、岐阜市教育委員会の建てた「御鮨街道」の道標がある。
道標は道の角にあるのだが、結納の店の花嫁、花婿の看板で見えなくなっていた。
「 江戸時代、鮎鮨輸送の際、
通る宿場での優先的な扱いを保証するため、老中の奉書が発給された。
御鮨元では、鮎鮨の桶を錠付きの箱に入れ、
その鍵は、封をした老中証文本紙とその写、御鮨元の添え状、
各宿場への到着した時刻を記入する帳面が、
納めた白木の箱とともに送られた。 」
笹土居町、小熊町を過ぎると、小熊町2の交差点には大きな濃紺の道標が建っている。
左右の大きな道は県道152号であるが、
この道は左手の鶯谷トンネルができる迄はなかったようである。
ここで寄り道をする。 左折して県道152号を行くと、小さな寺・慈恩寺があり、
お堂の前に「木造延命地蔵尊」の木柱があり、説明板が建っている。
この寺の本尊は、延命地蔵菩薩である。
岐阜市の説明板
「 木造延命地蔵尊坐像
延命地蔵菩薩坐像は、景徳山慈恩寺の本尊である。
檜を用いた寄木造りで、彫眼の盛り上げ彩色像である。
右手に錫杖を執り、左手は掌を仰いて摩尼宝珠を捧げ、
頭は丸く剃った円頂で、身に袈裟をまとった僧侶の姿である。
木像は様式から藤原時代後期の作とされ、県内で最も古様を示す地蔵菩薩のひとつで
ある。
寺伝によると、この地蔵菩薩は、弘法大師が墨俣川の橋杭をもって刻み、
はじめ葉栗郡小熊村一乗寺に安置されていた。
その後、織田信長が永禄十一年(1568)十二月」、現地に地蔵堂を建立して移した。
本尊は、小熊故地に帰りたいとお告げがあったので、天正十二年(1574)三月、
この地を小熊と改めたと伝えられる。
木像芭蕉像
芭蕉像は、慈恩寺芭蕉庵に安置されていたものである。
杉材の寄木造り、作行はきわめてよい。
昭和三十九年一月、本像を調査したところ像内から一通の書状が発見された。
それによると、願主は桂花園乙々坊、世話人は桂花園連中の永尾季三並びに
惣連中、作者も同連中の久屋町の大仏師野田興三八であって、
安永六年(1777)十月十一日の作であることがわかった。
桂花園乙々坊は、獅子門道統第五世以哉坊の門下で、
桂花園連といわれて岐阜では俳諧の有力な一門であった。
芭蕉像が十月十一日の作であることは、
芭蕉が元禄七年(1694)に没してから八十二年目の命日にあたるので、
この日に芭蕉像を慈恩寺に安置したものと思われる。
平成三年8月一日 岐阜市教育委員会 」
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手前に真宗大谷派岐阜東別院の大伽藍がある。
「 本願寺十一代顕如上人が美濃国に巡教の折に信仰した、
美濃国の西野(現岐阜市西野町)の豪族・一柳直高の死後、
墳墓のそばに一寺が建立されたことが始まりである。
本願寺が二つに分かれた後、寛永元年(1624)に、現在地へ移転したが、
濃尾地震などで倒壊し、現在の建物は大正五年(1916)に建てられたものである。 」
東別院の敷地内に河野願正坊がある。
「 以前は小熊願正坊と称していた。
現在の茜部の地に、文明年間(1465〜1486)に創建された。
その後、金華山の麓(現在の御手洗)へ移り、材木町を経て、現在地へ移った。
親鸞上人の説法を聞いて帰依した9人の門徒の子孫が
岐阜地方の浄土真宗の中心となり、「美濃河野九門徒」に属し。
布教に貢献した寺院である。 」
道の対面には、「教如上人御旧跡 円龍寺」の石柱があり山門がある。
山門近くの大銀杏は、樹齢五〇〇年で、高さは三十メートル以上ある。
「 円龍寺は今から八百年前の応保二年(1181)の創建とあるが、
本堂などは新しかった。
明治二十四年の濃尾大地震の際、鍛冶町付近から出火した火事で、
一円が赤土化したが、寺の銀杏が水を出し、南進を食い止めたため、
火伏せのいちょうと伝えられる。 」
街道に戻り、小熊町、金屋町を過ぎ、美園町に入ると大きな道に出る。
左手には柏森神社がある。
更に進むと、国道248号と交差する金園町2交差点に出る。
これを越えて進むと元町である。
正面に黄色いビルがあり、
「五島花店」と書かれたところで、道は分岐する。
手前の三角地には、鋳造の像が建っているが、
ここを左へ行くのが御鮨街道である。
右側(直進)の道は大正以降に造られた道である。
そのまま、東金宝町2交叉点、元町4、元町5と進む。
左手に溝旗公園があり、右側に東横インがある。
長住町を越え、名鉄鵜沼線の踏切を渡るとすぐ右折し、駐車場になっているところの角で左折する。 この
あたりは幸ノ町であるが、枡形のようになっている。
その儘進むと、三叉路で、コメダ珈琲の前に出た。
このあたりが 曲手(鉤型)のようになっているのは、
岐阜町の入口になっていたからだろう。
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三叉路を右折し、JRの高架に沿って進み、大通りに出ると、
高砂町3交差点である。
鮨街道はここを左折して、JRのガードを潜り、直進する。
秋葉神社の社があり、道が狭くなると、加納北広江町、加納南広江町と、
加納が頭に付く地名に変わった。
ここからは旧加納町で、岐阜市と合併する時、旧町名の上に加納をつけたのだろう。
三叉路の角には、「美濃新四国第十九番光国寺」 の道標があり、
その先に名鉄名古屋本線の踏切が見えた。
かっては踏切の右手に名鉄広江駅があったが、廃駅になっている。
ここは加納南広江町で、踏切を越えると、交差点に出る。
交差点の角には、「広江の漢方」 の看板がある、太田薬局がある。
ここは中山道と岐阜街道(御鮨街道)との追分(分岐点)で、
店頭の左側に追分を示す石の道標と説明板が建っている。
説明板
「 江戸時代中頃(1750年) に、新町と南広江の交わる四ッ辻東南隅にたてられ、
中山道を往来する旅人の道案内の役目を果たしてきた。
最初は、「左中山道」「右ぎふ道」の道標でしたが、明治初年に、「左西京道」 「右東京道」が追加されました。 」
御鮨街道はここで右折であるが、寄り道をする。
直進する道は京都へ向かう中山道である。
この道を進むと、清水川が流れている。
清水川に架かる橋の手前を右に入ると、江戸時代に建立された石薬師寺
がある。
「
石薬師寺は、川で泳いでいた人が黄金の薬師像を拾ったのを、
藩主夫人の亀姫(徳川家康の娘)が聞いて、
川の中に水上殿を建てたのが始まりとある寺である。
清水川は、大正時代まではガマと呼ばれる地下湧水が存在していた。
加納清水町の名もこの川の清水からである。 」
清水川に架かる橋を渡ると、右側に、「高札場跡」の説明板がある。
説明板
「 江戸時代、加納宿の高札場があった場所で、
石組の上に高さ3.5m、幅6.5m、横2mという宿場一の大きなものだった。
」
この先に進むと、加納城の大手門があった広小路の大通りに出る。
江戸時代、直進すると加納城、中山道はここで右折で、
その先が加納宿の中心部であった。
「 加納は、
岐阜城に替わり、新たに築城された加納城の城下町だったが、
寛永十一年(1634)に中山道の宿場に加えられた。
宿場の長さは普通の宿の三倍の長さで、宿場の住民は三千人、家数は八百軒と、
美濃にある宿場の中で最大だった。 」
加納宿は、既に中山道で訪れているので、追分道標ある太田薬局の交差点に戻った。
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御鮨街道は、岐阜から来れば左折である。
京側の中山道から来ると右折で、御鮨街道は、ここから少しの間、
木曽方面に向う中山道と同じ道を行く。
加納新町に入ると、左側の民家の前に、「岐阜問屋跡」の説明板が貼られていた。
「
加納新町の熊田家は、土岐家、斉藤家の時代からこのあたりの有力者で、信長が岐阜にいたころには加納の問屋役を務めた。
江戸時代に入ると、
全国から岐阜へ出入りする商人や農民の荷物の運搬を引き受ける荷物問屋に力を注ぐようになり、岐阜問屋と呼ばれた。
岐阜問屋は、尾張藩が将軍家に献上する鮎鮨の継ぎ立てをしており、
御用提灯が許されていた。
献上鮎鮨は、岐阜町の御鮨所を出発し、岐阜問屋を経て、
当時御鮨街道と呼ばれた、現在の加納八幡町から名古屋に向かう道を通り、
笠松問屋まで届けられた。 」
江戸時代に、大繁盛した岐阜問屋だが、
問屋のあった場所には今では何の変哲もない民家が建っていた。
左側には、秋葉神社が地区の守り神として祀られていた。
中山道の木曽路では津島神社と諏訪神社が多かったが、
美濃路に入ると秋葉神社が多いのは何故だろう。
その先の右側に、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、 池田輝政制札状などの古文書が残されている専福寺がある。
「
伊勢の長島はもちろん、美濃にも石山本願寺に組みする寺が
多く、この寺も例外ではなかった。
元亀三年(1572)の石山合戦に際し、
織田信長が石山本願寺に加担することを禁じる内容の手紙を送ったが、
それが 織田信長朱印状である。 」
道の角に、「 中山道加納宿 加納柳町 」 の道標があり、
広い道(岐阜東通り)の先の右側には古い立派な家が残っている。
道を横断すると、この家の道の反対側に、
中山道を歩いた時にはなかった、「中山道加納宿」 の道標が建っていて、
その裏に宿場の地図が書いてあった。 この地図は役に立つ。
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細い道を直進すると、右側に善徳寺があり、道は左に曲がっていく。
加納は宿場町の他、城下町であったので、中山道は曲がりくねった道になっていた。
この辺りが中山道加納宿でもっとも曲がりくねっているところである。
突き当たりの道脇に、「 中山道加納宿 」 の道標と、 「 中山道加納宿東番所跡 」の石柱が建っている。
「
加納宿には、西と北にも番所があった。
今は表示のみで何も残って居ないが、旅人が宿に入るのを検問していた場所である 。
夜は木戸が閉められていたというから、鮎鮨の使者だけは通してくれたのだろう。
ここは加納宿の江戸側の入口ということになる。 」
そのまま進むと、ここにも秋葉山が祀られていた。
県道14号線を渡るとその先は左右が狭い道の三叉路に突き当たる。
正面に立花屋薬局があるが、道の反対側、即ち、手前の道の角に、
自然石の道標がある。
「
加納安良(あら)町の道標といわれるもので、
「左 西京」 「右 岐阜 谷汲」と彫られている。
南から見て、ここを左(西)へ行けば京都、
右(北)へ行けば岐阜から谷汲というわけである。
道標の「岐阜」とあるのは岐阜道で、別名、御鮨街道と呼ばれた道である。 」
ここは右折し、進むと、新荒田川に架かる加納大橋を渡る。
併行する名鉄名古屋本線とJRも同じように鉄橋を渡る。
前回訪れた時は多くの鴨が泳いでいて、川面を見ていると、袋を持ったおばさんが現れて、パン屑をまきだした。
今回はまだきていないようだった。
橋の欄干には、左右に四個づつプレートが取り付けられている。
そのプレートは、中山道だけあって大名行列である。
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加納大橋を渡ると、中山道は、四差路角のだんご屋のところで、
東(左折)へ進む。
この後、中山道はそのまま名鉄名古屋本線の踏切を渡って行くが、
御鮨街道(岐阜街道)は、曲がってすぐの右側にある茶所薬局で、右の細い道に入り、南進する。
なお、名鉄の踏切には茶所(ちゃじょ)駅がある。
中山道と別れた鮨街道(岐阜道)は、右側の建物の前に、道標と石碑があり、 「ぶたれ坊と茶所」 の説明板があった。
「 ぶたれ坊とは江戸時代の相撲力士鏡岩浜之介にちなんだもの。 2代目鏡岩は父の職業を継いで力士になったが、 土俵外での行いが悪かったことを改心して、妙寿寺(現在は廃寺)を建て、 ぶたれる為に等身大の自分の木像を置いて、罪ほろぼしをした。 また、茶屋を設けて、旅人に振る舞ったといわれる。 ぶたれ坊の像は加納伏見町の妙見寺に今もある。 」
鏡岩の顕彰碑には、花が手向けられていた。
隣の道標は、鏡岩浜之介が作らせたもので、かなり大きなもので、
「江戸木曽路」 「東海道いせ路」 と刻まれ、「伊勢道道標」
といわれるものである。
「
御鮨所をおおむね夕刻に出た鮎鮨は、昼夜兼行で運ばれた。
加納そして笠松と中継され、岡崎辺りで夜明けを迎えたというから、
かなりのスピードである。
現在の駅伝という感じで、問屋から問屋へと、次次に運ばれた訳である。 」
鮨街道(岐阜道)は、南進し、畷町、若杉町と進む。
左手には名鉄本線が並行して南下していく。
県道77号(旧国道21号)の大きな道を横切ると、
石切町、島原町、村里町で左側から境川が近づいてくる。
街道にはそれ程古い家はないが、蔵のような建物は街道っぽいし、
川沿いの木々が並木のように見える。
道の脇の小さな祠に、石仏が祀られているのは 「往還南地蔵堂」 といわれるものである。
中山道の細畑一里塚から四キロ歩いてくると、ここで岐阜道と合流する。
右手に道なりに進むと、右側に順勝寺がある。
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鮨街道は境川に沿って南下していく。
「 境川は昔の木曾川である。
木曽川は今と違い、昔は多くの分流に分かれていたようで、
本流はこの境川だったという。
この川は、美濃国と尾張国との境を流れるので、境川といわれた。
天正十四年(1586)の大洪水で、大きく流路を変えて、木曽川は南方に移動した。
かつての流路には、それまでの支流からの水が流れ込むだけとなり、
それが現在の境川になった。
大洪水の後に誕生した木曽川が、新たな尾張国と美濃国の境界になった。 」
川の近くに馬頭観音が祀られている祠があった。
川は左に離れていくが、御鮨街道は、境川の堤防と同じの高さ位の位置にある。
信号交叉点を越えると、道は右にカーブし、東川手集落で、
行く先に国道21号線のガードが見えてくる。
国道は境川を渡るため高くなっている。
御鮨街道は国道をくぐるため、三叉路を左折して、ガードの下をくぐり、
国道に沿って右に行き、
左側の境川の堤防と同じ位の高さの道に入り、歩いて行く。
鮨街道は、西川手8交差点で、左からくる県道14号線に合流する。
県道を歩き、茜部辰新1丁目北交差点を過ぎると、
境川に架かる橋を渡る。
「 御鮨街道はもう少し上流側で渡河していたようだが、
道が途切れている。
また、岐阜問屋で中継された御鮨が増水で渡れない時には、
ここより上流の地から徳田村の堤防の上を歩いたという。 」
茜部辰新1丁目南交差点手前にあるラーメン屋のところで、
左側の道に入り、右側にマンションのあるところを右折し、道なりに歩く。
ここは西川手10で、道は南下し、
松栄町を過ぎる小さな三ッ目川に架かる橋を渡る。
そこを過ぎると左側に商工会館がある。
ここから笠松町である。
春日町交差点を直進すると、右側の民家の脇に、
春日神社の石柱と鳥居が見えた。
近づくと、その奥に社殿があった。 小さなものだったが、
この神社が地名の由来なのだろう。
江戸時代、笠松問屋はこの先にあった。
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旅をした日 平成20年(2008)11月3日