『 秋葉街道を歩く H 栄泉寺〜三倉宿〜森町宿 』


森町宿は、江戸時代、秋葉街道の宿場町として、 また、遠州灘で採れた塩を信州に運ぶ中継地として栄えた。 
大きな商店が町の中心部に立ち並び、大変繁盛していたという。 
秋葉街道は一方通行の車道として残り、 商店街を形成しているが、御多分にもれず、この商店街にも空き店舗が目立った。 




林道松久保線から栄泉寺

平成二十三年(2011)九月二十五日、再度、静岡県森町へ来訪し、再チャレンジした。 

「 前回、三倉の栄泉寺を探して迷子になった顛末を話したが、 あの日は遠州森駅から車を置いた天竜二俣駅まで鉄道を利用し、 その後、車で自宅に帰ったが、 その二日後、台風がこの地方を横切り、大被害をもたらしていたのである。 
  そのことを考えると、あの時林道でさまよって野宿でもしていたら、 大変なことになったと思う。 」

それはともかく、再訪の二十五日は栄泉寺探しから始まった。 
栄泉寺は三倉バス停から北の大府川に架かる橋の対岸が入口であるが 橋の周囲が県道のバイパス工事で分りづらくなっていた。
七時十分、入口に到着。 
車が通れる道を上っていくと、太平山栄泉禅寺と書かれた石標と山門が見えてきた。

山門をくぐったところに本堂があったが、 これは元禄九年(1696)に建立されたもので、 森町では一番古い建物のようである。

太平山栄泉禅寺は森町に多い曹洞宗の寺であるが、森町の資料によると、
「 曹洞宗では本堂の背面に開山堂や位牌堂を接続することが多く、 本堂の中央奥に須弥壇を設けた内陣、その前を大間とし、 内陣と大間の間に円柱を二本立てて、内陣両側を室中、 その前を東序(とうじょ)、 西序(さいじょ)とする六間取とする形式が一般的という。  しかし、栄泉寺の本堂は広く、八間取りとなっている。 」 

栄泉寺入口
     石標と 山門      栄泉寺本堂
栄泉寺入口 石標と 山門 栄泉寺本堂


本堂前をうろついた後、山門をくぐり、 外に出ると左手に昔の手で汲あげるポンプがあり、 墓参りの際、水を汲めるようになっていた。 
その先に 「秋葉街道」 の石柱と 「←秋葉道・塩の道→」  のこれまでよく見た道標が建っていた。

道標に従って進むと、石段が現れて、 その上に 「←秋葉道・塩の道→」の道標が建っているのが見えた。
石段を上り、右折すると墓地に出るが、秋葉道は左折の表示があった。
その指示に従い、杉が檜か分らないがぎっしり植わっている森のけもの道のような道に入る。 
赤い布があるので、間違いないと思ったが、それがないと心配になる程荒れた道だった。

石標と道標
     石段を上る      赤い布がある道
秋葉街道の石標と道標 石段を上る 赤い布がある道


道はせいぜい七十センチ位か、狭い道である。
数日前の台風のためかどうかは分らないが、枯れた枝が道に無数に落ちていた。 
更に、その先には途中から折れた幹が道を塞いて、 そこを跨いであるくという場所もあった。 
樹木に付けられた赤い布の御蔭で、勇気をもって進むことができた。 

少し歩くと木製の柵がある明るいところに出たが、 その先の道には草が生い茂っていて、少し躊躇した。 

「  最近名古屋のツアー会社で、塩の道のツアーの案内を見たが、 ツアー会社で参加した場合は、この様な状態でも案内人のリードで躊躇なく、 ここを通り過ぎるのだろうと思った。  小生のように書籍やホームページなどから事前の知識を得て旅をする者には 今回の旅は情報が余にも少なかった。 」

思い切って繁った草の中を進むと、木柵がその先に見える道に出た。

これで藪くぐりは済んだかと思ったが、前方には雑草が行く手を阻いた。 
それでも柵に沿って進むと、前回歩いた林道松久保線の三叉路手前に出た。
前回、「治山事業施行地」 と書いてある看板を秋葉街道関連と思いながら、 直進してしまった場所だった。 

石標と道標
     狭い道      林道松久保線
狭い道 木柵の間の道 林道松久保線


林道との合流地点の木柵には 「花咲くしずおか」 というプレートがあり、 その下の草むらの中に林道に背を向けて、 「←秋葉道・塩の道→」の道標が建っていた。
栄泉寺から上ってくると、正面にあり、どうにか見付けることができた。

「  今回は気を付けて探したから見付けたのだが、 林道からは絶対みつけられない場所である。 
小生のように林道を歩いてきて、栄泉寺に行く場合、 「←秋葉道・塩の道→」 の道標は、 林道に背を向けて建っているため、見付けることは困難であり、 小生のような迷子がでることは間違いない。 
秋葉街道の関係者には林道からでも分る新たな道標の設置をお願いしたいと思った。 」

栄泉寺から県道入口まで三十分かけて上ってきたが、 これで秋葉神社上社からここまでの秋葉道は踏破したことになる。 

この後、先程と同じ道を下り、栄泉寺まで戻ったが、帰りは二十五分ですんだ。 
栄泉寺からは先程の車道を下り、橋の入口に戻った。 
時計を見ると、八時二十分だった。 
現在、三倉大橋は新しい橋を工事中で、 寺と国道を結ぶ橋を渡ると、県道58号袋井春野線に出る。

「←秋葉道・塩の道→」の道標
     狭い道      寺と国道を結ぶ橋
道標 県道側からの道標 寺と国道を結ぶ橋





栄泉寺から三倉宿

大府川に架かる橋を渡ると、川に沿ったガードレールに 「秋葉道・塩の道」 の道標があった。
県道に入る所には 「太平山栄泉寺」 の石標もあったので、 森町から来た場合はこれが目印なのだと思った。 

県道に合流した三叉路には 「↑川根、→袋井」 との道路標識があった。 
道の左側に 「右春埜山道」 と 「従是大日山」 の道標が建っていたのを見付けた。

「 春埜山は大光寺、大日山は金剛院で、 秋葉山と共に信仰のあった霊地のようである。
森町の観光案内を見ると、「 二つの霊場を結んだ信仰の道は、 東海自然歩道と重なりつつ、変化にとんだハイキングコースになっている。 」 とある。 」

左側の青い幟がひらめく階段を上るとお堂があった。
堂内には中央に岩切観世音、左右に南無広博如来、南無甘露王如来の石像が祀られていた。 

三叉路ガードレールに道標
     三叉路の道標      お堂
ガードレールに道標 三叉路の道標 お堂


三叉路を右折し、三倉川に架かる三要橋(さんようばし)を渡る。 
三倉バス停を過ぎると、その先に三叉路があり、県道は右に大きくカーブするが、 秋葉道は直進する。
この集落が江戸時代の三倉宿だった三倉集落で、 昭和三十一年に森町に編入される前の三倉村の中心だったところである。 
岸井良衛による 「 新修五街道細見 」 によると、
「 三倉宿は江戸へ六十二里十四丁、宿場の長さは十丁余、家数は二百五十軒余・・ 」 とある。 

「  三倉宿の前身の三倉村は幕府領だったが、宿場になってからは地元の管理となり、 三倉村という村名もなくなっていたようである。  明治八年に誕生した三倉村は、三倉宿と幕府領だった周辺の大河内村、中野村、 乙丸村、田能村、 大久保村、船場村、中村村、西ヶ嶺村、曲尾村、黒田村、大府川村、上野平村、 木根棚指村の十三村が合併し、誕生した村である。 
旧三倉村の領域は広いが現人口は千人程度という過疎地である。  」

この通りが江戸時代、三倉宿の中心だったと思うが、そうした表示や案内板の類は一切なく、家の一部は古いが、宿場の雰囲気はなかった。 

「  朝、森町の旅籠を出ると三倉あたりが、昼の弁当を使う休泊所だったようで、 芸者のいる料理屋もあったという。 
現在の森町三倉の中野地区や田能地区などは市街から離れた山村であるが、 当時の三倉村は秋葉街道に行き来する旅人により、 江戸や京阪の情報はいち早く入ったのである。 」

歩いていくと、道の右側に赤い屋根の火の見櫓、 左側には 「守明稲荷大明神」 の小さな社があった。 
隣に新しい鳥居が建っていて、 「内式郷社許禰神社」 の石標があった。
境内に入ると、大きな樹木の下に、神社の由来を書いた説明板があった。 

説明板
「 許禰(きね)神社の創建の年代は明らかではないが、延喜式に記されている古社である。  昔、木根棚指村の氏神だったが、大正四年、現在地に遷座した。  明治六年、三倉郷、熊切郷の郷社になる。  大正十一年、黒田八幡神社、西ヶ峯金山神社、大府川神明神社、中村西宮神社を合祀した。 」

地元の人の話では 「 もと木根棚指村(現在の木根)の一丈岩に祀られていたが、 享和元年(1801)の山崩によつて埋没したのを氏子木根松次郎が自宅に遷座して祀っていた。  その後、延喜式に記されている古社であることが分り、三倉郷、熊切郷の郷社となったが、 次第に三倉の住民しか信仰しなくなり、大正四年に三倉の現在地に遷座した。 」  というものである。 
大正十一年に他集落の神社がこの神社に合祀されたのは、 明治政府による一村一神社の令によるものだろう。 

森林組合前バス停を過ぎると、道は左、右にカーブする。

三叉路
     三叉路の道標      道は左、右にカーブする
三叉路(三倉宿跡) 許禰神社鳥居 道は左にカーブする


安形モーター前にある三才橋バス停を過ぎると、 県道に合流してしまった。
三倉宿だったと思えるこの区間は七百メートル程だった。 

県道を歩いていくと、三倉川に架かる上島橋が見えてきた。 
その手前の右側には、明治二十六年(1893)の建立の黒田常夜燈と  「秋葉道」 の石塔が建っていた。
「秋葉道」 と書かれたこの石塔(黒田常夜燈)は、江戸講中が建立したもので、 掛川追分から五里の標識を兼ねている。

「 秋葉山が火防の神として有名になったのは、 江戸時代に入ってからである。  最初は武士の間で信仰されたが、江戸後期には東日本を中心に一般庶民まで広がった。  一般庶民は秋葉山へ行くのは難しいので、お金を出し合い、 その代表が秋葉山に代参し、家内(講中)の安全と火除を祈願し、 火除けの御礼をもらって帰郷し、講中で秋葉講日待を行うという秋葉講を作った。 」

橋の先には黒田上のバス停があり、右側に一寸した空き地があった。 

「  前回、消防に救出され降りてきた林道西ヶ峯線の国道入口は、この付近のような気がしたが、この先注意していても分らないままだった。 」

その先は、黒田バス停もあったが、 バス停があっても時刻表には一日数本しか表示されていなかった。 
これでは秋葉街道歩きに使用するは難しい。 

道の右側にいずれも新しい数軒の家があったが、 その先はふたたび自然が広がる風景である。 
  道脇に「西俣」 の表示が現れたあたりは、家が数軒点在しているだけである。 

「 江戸時代は、ここから大鳥居あたりまでの領域は掛川藩の領地だった。 」

道が左にカーブするところの右側に木製の常夜燈が現れた。
これは「西俣の龍燈」と呼ばれるもので、 建物の中に常夜燈が入っている形式である。

「 江戸からの秋葉山参拝者(秋葉道者)は、 東海道の掛川から秋葉道表参道に入ったので、 森町宿から三倉宿は参拝者で大いににぎわい、 人波が途切れることもないほどだった時期があったといわれる。  それらの人々を照らすため、建てられたのが、秋葉山常夜燈で、 特に森町から三倉間には多くの常夜燈が建てられた。  その一つが現在も原形のまま残るこの常夜燈である。 」

三才橋バス停
     黒田常夜燈      西俣の龍燈
三才橋バス停 黒田常夜燈 西俣の龍燈


江戸時代の秋葉街道は、県道の開通や改良工事で残っていないが、 川に沿ってあった道は、雨が降ると橋はしばしば流されて、 川中を歩いてゆくことがしばしばあり、四十八瀬越えと呼ばれたという。 

岸井良衛による 「新修五街道細見」 に、
「 三倉宿〜森町宿の間に、”市のせ”の地名があり、森町から一里半とある。 」
市のせの地名は残らないが、このあたりだろうか?

細い道もあるが、県道をそのまま進むと、 黒石バス停付近の左側に泉陽中学校の校庭があり、 校舎にはスローガンのようなものが書かれていた。

このあたりの地名は間詰黒石。
右手の少し小高くなったところに、黒石の龍燈と 「秋葉道四里」 の道標があった。

「  この常夜燈は、天保年間(1830〜44)に村の人々によって建てられた、と伝えられるもので、森町の指定文化財になっている。  
また、秋葉道標は掛川追分から四里を示している。 」

三倉川を渡ると、その先の三叉路で県道と別れて右側の細い道を行く。
三叉路に出ると左側に元開橋交叉点があった。

「  右折すると県道399号線で、かわせみ湖方面。  左折する道は三倉、春野方面で、先程別れた県道である。 」

左折して県道に入り、森町方面に歩くと元開橋があった。
元開橋は三倉川に架かっているが、三倉川はその先で太田川に合流していた。 
 

左側に泉陽中学校
     黒石の龍燈      元開橋交叉点
左側に泉陽中学校 黒石の龍燈 元開橋交叉点


元開橋を渡ると、二つ目の左側の一方通行出口の細い道に入っていく。
両側に家があって、三倉から始めての町らしいところになった。  ここは城下地区である。
城下地区は太田川の対岸にあった天方城の城下町だった。 

「  天方城は、鎌倉時代の応永年間(1394〜1427)に、山内道美が築いたとされる城だが、 元開橋の北方の大鳥居にあった。 
山内氏は通秀の時代に天方氏を名乗る。  戦国時代に入り、城を強固にする必要になり、 天方通興は二百五十米の高さの城山に、新城を築いて移転した。  永禄十二年(1569)、徳川家康軍の榊原康政等により攻められ、降伏した。  その後、武田方と徳川方との攻防戦に天方城は巻き込まれたが、 通興没後まもなく、廃城となった。 」

道幅は狭いので、一方通行になっているのだろうが、これが秋葉街道である。 
右にカーブするところの左側に城下上バス停があり、 その隣に 「秋葉常夜灯」 の標柱があり、城下常夜燈が建っていた。
森町の指定文化財である。

森町教育委員会の建てた説明板
「 この常夜灯は、天保四年(1833)十一月、藤江喜十郎が名主の時に、 福川五良左衛門、戸塚政右衛門らが世話人となり、 森町の鋳物師岡野五良左衛門が燭台を作り、建立された。 
覆屋桁四・三尺、梁間三・八尺、切妻造、桟瓦葺、袴腰付き。
三方金網張り、背面片引板戸、正面は波風に蕪懸魚を吊る。
妻面は若葉渦紋を彫刻した虹梁上に笈形付棟束を立てて、 斗○(木へんに共という字)と肘木にて棟木を受ける。 」 

道の反対のお堂の中には石仏が祀られていたが、 お地蔵さんなのかその他なのかは分らなかった。 

城下地区は、街道に沿って、斜めに家々が建っているのが特色である。 
同じ配置の家並は、中山道の坂本宿以来である。 
今は軒先の三角形のスペースがそれぞれの家の駐車場に使われていた。

城下地区
     城下常夜燈      斜めに家々が建っている
城下地区 城下常夜燈 斜めに家々が建っている


火の見櫓が見えるところに城下バス停があり、道は左、右にカーブする。
突き当たりを右折すると、同じように家の配置がギザギザになっていたが、 その先の城下交叉点で県道58号に合流した。 

県道に入るとすぐ、右に入る細い道があるのでその道に入る。
道の両側には家が立ち並んでいた。 

「 江戸時代、ここは天宮村で、 右手の山の上の天宮神社の門前町のようになっていたのだろう? 」

右側の天宮神社山車蔵の先に、「県社天宮神社」 の石標と鳥居があり、 石段の両脇に常夜燈が建っていた。

「 天宮神社は、 同国の一宮である小国神社と同じ位、 古い歴史を持つ。 
由緒書によると、「 人皇二十九代欽明天皇の御世に、 筑紫国(現在の福岡県)の宗像三神(田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命を勧請し、 文武天皇慶雲二年(705)に社殿を造営したと伝えられる。 」 

石段を上ると右側に社務所、更に上ると正面に拝殿、その奥は本殿という配置である。 

「 社殿(本殿、拝殿)の造営は、天正十七年(1589)に、 徳川家康が寺田右京亮を奉行とし、 幕下棟梁 福島新左衛門、一宮大工 高木五郎左衛門父子により、完成された。  元禄十年(1697)、将軍綱吉は、横須賀城主 西尾忠成を奉行に定め、 幕府棟梁 甲良豊前守宗賀によって、修造された。 
なお、甲良豊前守宗賀は、徳川家光霊堂を始め信濃善光寺などを手掛けた名匠である。 」 

ということで、興味と畏敬をもって石段を上っていったが、驚いた。 
拝殿の上に、倒れてきた杉の大木がのり、今にも壊れるように思えたからである。

これは数日前に東海地方を襲った台風十五号によるもので、 境内のあちらこちらで、大木が倒れ被害が甚大だった。 
全壊しなかったのが神の加護かなあと思ったが、良く見ると立ち入り禁止になっている ので、御参りはあきらめた。
境内の奥に進むと、造園業者がフォークリフトを使用して、 倒れた大木の集め、小さくして丸太状にして、外に搬出していた。 

火の見櫓
     天宮神社の鳥居      天宮神社の拝殿
火の見櫓 天宮神社の鳥居 大木が倒れた拝殿


境内には佐々木信綱の歌碑があり、
「 天の宮神のみ前をかしこみと 千とせさもらふなぎの大樹は 」 
と刻まれていた。 

「 なぎ(竹柏)は、神社のご神木で、千五百年の樹齢ともいわれ、 信綱が訪れて際、それを題材に詠んだといわれるが、 なぎが台風の被害があったかは確認できなかった。 」

駐車場の近くに 「神宮寺」 の表示があった。
神宮寺は天台宗蓮華寺の末寺だったが、 明治の神仏分離令で廃寺になり、今は舞楽の練習場になっているという。 
被害が甚大なので、神社の修復費用は大変なのだろう。
一日も早い復興を祈りながら神社をあとにした。 

先程の所に戻り、歩き始めると割烹旅館新屋があった。

佐々木信綱の歌碑
     神宮寺跡      割烹旅館新屋
佐々木信綱の歌碑 神宮寺跡 割烹旅館新屋


森町宿

「 秋葉街道は秋葉三尺坊への参詣路で、 「 すべての道は秋葉に通ず 」 といわれるように、 信濃、三河、遠江の各地からさまざまな道があった。 
その一つが東海道の掛川宿から入り、秋葉山に登って、三尺坊を参詣したあと、 三河に入り、東照宮のある鳳来寺に参詣した後、 豊川稲荷を経て御油宿で東海道に合流するルートで、東海道の脇街道でもあった。 
その途中に位置する森町には当時七十五軒の旅籠があり、大変繁昌していたといわれる。 
東海道の沿線の村々の秋葉信仰は根強く、 幕末に起きた 「 ええじゃないか 」 運動では、 その契機となる降った御札は、 伊勢神宮より秋葉三尺坊の御札の方が多かったといわれる。 」

左右が車道の交叉点の先は一方通行の出口の標識が建っていた。
秋葉街道はこの一方通行の道で、この後、森町宿の森川橋交叉点まで続いている。 
松風屋商店とある白漆喰壁の家があったが、商売はしていないように思えた。
ここまでが天宮村で、天森橋を渡ると江戸時代の森町村である。

森町役場の資料によると、森町の歴史は、

「 慶長八年(1603)頃、太田川流域の大改修があり、森町村が誕生。 
寛永二年(1644)に山口備前守の配下に置かれ、上新町、下新町ができる。  正保四年(1647)天宮新町ができる。 
万治四年(1661)森町村で大火があり、本町、河原町、横町などが燃失し、 三嶋大明神、梅林院、西光寺まで延焼する。 
寛文元年(1672)三嶋大明神は再建され、蓮華寺が遷宮を行う。  延宝七年(1679)、旗本の土屋達直(主税)の知行地となり、 この村他七ヶ村三千石を管理するため、 草ヶ谷村に陣屋がつくられた。 」 とある。 

以上から、慶長八年の太田川の改修により、森町村が誕生し、 そこに、秋葉街道の森町宿が開設されたということになる。
なお、元禄十四年の吉良邸への大石内蔵助等の討ち入りの際、 吉良邸の隣家だった旗本の土屋主税は提灯を掲げて、 吉良上野介の屋敷を照らしたと元禄実記にある。 

この通りは商店街になっていたが、営業をしていたが、 今はやめてしまったと思える店を多く見た。 
右側の北島糀店の建物は古そうだが、営業していた。

白漆喰壁の家
     天宮村と森町村の境      北島糀店
白漆喰壁の家 天宮村と森町村の境 北島糀店


秋葉街道は三叉路に突き当たると、右折する。
突き当たりは 「おさしみ魚白羽屋」 とあるが、 手前左に麹屋があり、 「 味噌を作ります。・・・ 」 の看板を出していた。 

「 前に訪れた水窪宿にも麹屋が何軒かあって不思議に思えたが、 この地方は市販の味噌は買わず、自分あるいは麹屋に委託して味噌を作るのだろうか? 」

右折すると、その先の泉嘉書店のところで左折して、一方通行の出口を入っていく。 
左側に仲町歯科があり、右手奥の石段上には寺院が見えた。 
街道は右側の浅羽洋服、雄助堂の先の三叉路で、右折する。

袋井森町地域シルバー人材センターのところに 「秋葉道・塩の道」 の道標があった。 
この通りが江戸時代の本町で、その面影を残す家並とも感じられた。

「 文政十三年(1830)の森町村の家数は三百五十八軒、旅籠が二十四軒、 商人百四十九軒と商人の多い町だった。 
秋葉山の表街道の宿場町としてだけでなく、 遠州灘でとれた塩を信州へ運ぶ塩の道の中継地としても重要な町だったからである。  江戸時代には月六回の市が立ち、市日以外は山方へ出入りして、商売を行ったといい、 明治に入ると古着の町として全国にその名をとどろかせた。  その中心が本町であった。 」

おさしみ魚白羽屋
     その先は三叉路      本町通り
おさしみ魚白羽屋 その先は三叉路 本町通り


途中の電柱に 「 桜御前旧跡碑 森小正門左に在り 」 の案内が貼られていた。
左側に 「茶冷蔵倉庫」 と書かれた建物があり、 お茶はこうして保管されていることを知った。
江戸時代の後期から三倉周辺でお茶の栽培が盛んになり、 森町にそれを扱う問屋ができたようである。 

本町の西光寺門前に、庄屋鈴木五兵衛門の屋敷があったという。
本町の通りは一部カーブしていたが、正面が山長鈴木長十郎商店の三叉路で終わる。
その角には 「秋葉道・塩の道」 の道標が建っていた。 

茶冷蔵倉庫
     西光寺門前      鈴木長十郎商店
茶冷蔵倉庫 西光寺門前 鈴木長十郎商店


秋葉街道はこの三叉路を左折する。
入った通りが江戸時代の横町だろうか? 
確認できなかったので、自信はないが・・・

「 森町の当時の唄に、 「 森の横町なぜ日が照らぬ   秋葉街道の笠のかげ 」 があるが、 これは秋葉参りの旅人が多く行き交うため、その人達が被る笠で、 街道に日が差さない位繁昌していたという意味である。 」

その先には本町交叉点があり、その先に下宿公民館があった。
このあたりは区画整理中で、空地の中に 「元祖梅衣」 の のれんを掲げた栄正堂の建物があった。 

「 下宿公会堂あたりの道が工事していたが、 江戸時代には森町宿の入口で、桝形になっていた。 
道筋に残る宿場町の遺構をこうしてなくなっていくと思うと寂しいですね!! 」

そのまま進むと、太田川沿いの道に出る。
江戸時代は、ここあたりから川越えをして、対岸に渡っていた。 

川沿いの県道を左に進むと、河原町交叉点で、 今はここに架かる橋で対岸に渡る。

今朝、栄泉寺で始まり、三倉宿を経由した旅はここ森町宿の出口で終了した。 

下宿公民館      河原町交叉点
下宿公民館 河原町交叉点


旅をした日     平成23年(2011)9月25日



(御参考) 森町について

小生がこれまで森町について知っていた知識は森の石松の故郷であることだけであった。 

森町の人口は減少の傾向にあるが、袋井市との合併を拒否して、町政を維持した。 
新東名高速道路のICの開通により、秋葉道にライトがあたるのだろうか? 
また、森町に観光客が訪れ、活気はとり戻せるか?  
これらが今後の課題であろう。

森町役場の資料から

「 文政十三年(1830)の森町村は家数三百五十八軒。  内訳は百姓百四十一軒、商人百四十九軒、旅籠屋二十四軒、諸職人四十軒、 医師二軒、座頭二軒という内訳だった。 
また、月六回市が立ち、市日以外は山方へ出入りし、 古着類をはじめ各種の品を売りさばく、農閑期を利用して商売を行う者もいた。 
近世の森町は 「古着の町」 とも呼ばれた。 
当時、大石屋、山中屋をはじめとする大小数十軒の古着を扱う商家があり、 全国の古着相場を左右していたともいわれる。
伊勢、松坂や名古屋、岡崎などから仕入れ、府中、沼津、三島、御殿場、甲府をはじめ、 江戸や三陸地方にも販路を持っていたという。 
森町の山間部では、茶や椎茸の栽培が盛んだったようである。 
茶は、近世前期には栽培されていたようで、 江戸では 「 遠州の安倍茶 」 として販売されたという。 
幕末の横浜開港後は主要な輸出品となり、大量の茶が横浜に送られた。 」 




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かうんたぁ。