岸井良衛の新修五街道細見には、「 いぬい宿から秋葉山まで二里の間のぼり。 」 とある。
「 いぬい宿は現在の浜松市天竜区春野のことと思われる。
山間部で今は人数も少なく過疎地帯といってもよいところであるが、
江戸時代から明治までは、春野〜森町間には旅人が多く行き交って、
繁昌していたといわれる。
徳川家康が天野氏の犬居城攻めを行った時、大雨で春野からの撤退を余儀なくされたが、その際、もう少しで生命を落とす大敗を喫した古戦場でもあったという。 」
平成二十三年(2011)九月十九日(月)は敬老の日である。
名鉄知立駅から名鉄、JR東海道線で浜松駅に行き、
新浜松駅で遠州鉄道で西鹿島駅に行くつもりだった。
祝日なので、道路は空いていると思い、ゆとりを持たずに
家を出たら、出勤する車が多く、駐車場に着く時間は予定より十分以上遅く、
駐車なのに焦ったり、
改札でもたもたすると乗り遅れるという状態になってしまった。
いっそ、車で浜松にいくことにした。 電車に乗れなかったことが第一の誤算である。
国道1号線を走り、岡崎からは東名高速道に乗り、三ヶ日ICで降り、
天竜浜名湖線の天竜二俣駅に着いた。
到着したのは七時三十分で、駅の駐車場に入れた。
春野行きのバスは八時十二分なので、早く着いたなあと思いながら、
駅前のバス停に行くと、山東行きしか表示がない。
あわてて停まっていたタクシーに聞くと、
国道152号の道に出た城下バス停まで行かないと乗れないといわれた。
当初の予定では西鹿島駅から乗る予定だったが、
天竜二俣駅も当然通るだろうと思いこんでいたのである。
国道に出て、バス停に行ったが、時間があり過ぎたので、奥に入っていくと、
城下公園があった。
その奥は稲荷神社の参道になっていて、鳥居をくぐり、石段を上っていくと、
二俣城址にいけるようである。
「 二俣城は、天竜川と二俣川に挟まれた山城で、 武田信玄、勝頼親子と徳川家康がこの城を巡り、 激しい攻防を繰り広げたことで有名である。 」
時間的に二俣城に行くのは難しいので、引き返してバス停で春野行きを待つと、 定刻にバスがきた。
バスは旧秋葉街道の宿場町だったところを通り、山東バスターミナルに寄って、
春野に向った。
バスは年期の入った古いもので、キシキシ、ゴシゴシと音がして、
ディーゼルの音も異様で、良く走れると思った。
乗客は最初二人いたが、市内で降りてしまったので、小生だけで終点まで乗ってくる人となった。
前回山東交叉点から春野まで行った時間の二倍かかったが、途中、県道から外れて、周囲の集落を回っていくので、
時間がかかるのはしょうがない。
犬居郵便局前バス停で降り、右の脇道に入り、前回終えた犬居郵便局前に出た。
その先に農協があり、その先を歩いて行って上り道を探すが見付けられない。
城下公園 | 稲荷神社の参道 | 犬居郵便局前 |
近くの家に人がいたので、塩の道の入口を聞くと、奥さんに確認して、
家と家とに挟まれた狭い路地に入っていった。
そして、一軒の家の庭にいた御婆さんに「塩の道を案内するように!! 」 と言って、帰っていった。
案内してくれたご主人は塩の道の存在は知らなかったようである。
ここで第二の誤算が生じた。
小生が行こうとしたのは瑞雲坂である。
静岡新聞社発行の 「 塩の道ウォーキング 」 では、この家の上部に上っていくように描かれている。
御婆さんは荷物を持って、畑のあぜ道を上っていく。
畑の終わりで上を向いて、 「 ここを上ると、左に行く道があるので、その道を行くと、車道にでる。 」 と言われた。
そこは杉林で、人の歩いたような形跡があった。
「 道は確認できた? 」 といわれたので、大丈夫と思い、歩きだした。
後で考えると何メートル位か確認するとよかったのだが・・・
すぐに排水路のようなところに出たので、上に向うのかなと思ったが、
御婆さんの左へという指示が頭にあったので、そのまま林の中を進んだ。
歩きだして十三分すると、山は左側に巻くような地形に変わるところに出た。
瑞雲坂というのだから上らないと思うのだが、先程のお婆さんは 「 左にずーと行けば車道がある 」 と言っていたので、
その車道が瑞雲坂なのかなあと思い、上に向う足跡を探したが、はっきりしない。
左を見ると下に降りるが、その先に道が続いているようなので、そのまま進んでいった。
荷を持った御婆さん | 案内された林 | 左に続く道 |
下の方に車が走っていく音が聞こえるのが気になる。
更に進むと、足場が悪くなり、踏み痕も塩街道を歩く人のものではないのではと、
心配になってきた。
又、排水路があり、そこを越えて左に進むと、林は更に深くなり、
踏み痕かもはっきりしなくなってきた。
歩きだして二十二分この道は間違いということがはっきりしたと思い、戻ろうとするが、きた道の確認がむずかしい。
排水路まで戻ったところで、下に人家が見えたので、排水路に沿って下ることにしたが、この選択は間違い!!
これまでの雨で地盤が緩んでいたため、油断をすると二メートル以上滑落し、
手にあったものは下に落下。
ズボンは枝でかぎ裂きし、靴だけではなく、ズボンや上着まで泥が付いた。
三十メートル程降りると、下に川が見えた。
川が渡れないと困るなあと思ったが、幸い渡れそうなので、
川の端に降りようとすると、三メートルの高さがあり、支えていた木が折れて、
河原の上にたたきつけられた。
傷はないか、足はどうかと立ちあがると、無事なようで安心。
川の水はきれいだが、深さは三十センチくらいあった。
滑らないように注意し、対岸に渡り、そこで靴などについた泥を洗い、顔なども拭いた。
時計を見ると、十時十六分になっていて、入った時から一時間十分を経過していた。
これは一寸した遭難である。
それから五分後、川から道路に出る鉄梯子を上り、GSの所に出た。
この道は県道56号で、杉島バス停があった。
右に向うと右側に交番があったが、人の姿は見えない。
更に進むと、なにか分らないがお堂があった。
その先には秋葉バス「不動橋」のバス停があり、
橋の手前に 「 平野 静修 」 の標識があった。
本来ならば、もう一度、出発地まで戻るべきだったのだが、
交番は不在で確認もできなかったことや平野はこれから行く森町なので、
この道を上っていけば、
近いところで瑞雲坂からくる道に合流するような気がして、橋を渡っていった。
これは最大の間違いで、この後、静修分岐まで延々と歩くことになる。
落下した小さな川 | GS | 不動橋バス停付近 |
この道は天竜を代表する杉と欅が整然と整備された林の中をえんえんと上る道だった。
道幅は二車線あり、舗装されているので、車道であるが、車の通行はないので、
林道なのだろう。
春野から森町に行く車は山麓の県道を通るようで、車の音が下から聞こえてくる。
幼児を散歩させていた若いお母さんに聞くと、
「 瑞雲坂からくる道に合流するかはわからないが、森町にはいける。 」
といわれた。
「
それまでは、右側から道が合流するのでは、注意しながら歩いてきたのだが、
期待は完全に裏切られた。
平野バス停は春野町の巡回バスの停留場であるが、
このバスは木土曜日のみの運行で、日に三便だけである。 」
下の県道の平野集会所あたりには集落が見えるが、
平野バス停の辺りでは、人家は数軒しか見付けられなかった。
GSからここまで三十四分かかった。
林道は左右に曲がりながら、山に沿って更に上っていくが、
開けたところには茶畑があった。
林の中は涼しいが、太陽に当たると肌が熱くなる位、日差しが厳しい。
自動販売機で購入したアイスコーヒーは不動橋までに飲み終わり、
緑茶のペットボトルも残り少ないが、販売しているところはなののは心配。
えんえんと上る道 | 平野バス停付近 | 茶畑が広がる |
日差しの厳しい道端には赤いヒガンバナが咲いていた。
そういえば、彼岸は来週である。 この花は何故か、
自宅でも御彼岸になると咲くのである。
球根で時期が分るのだろうか??
そんなことを思いながら、黙々歩いて行くと、右手上に道のようなものが見えたが、
上る道が分らないので、そのまま進む。
左側に林材木店工場があった。
道の両脇には薄く切った檜の板が天日で乾かされていた。
すべて柾目が入っているかと思ったが、節があるのもあった。
そこを過ぎると、 「← 周智トンネル 代古根(YOKONE)→」
の標識があるところに出た。
右側の上り坂には 「県道389号 水窪森線」 その下に「←田能 」 の標識があった。
直進するとトンネルを経て、県道56号へでるが、右側の上り坂に入り、代古根に向うと、塩街道に出られると思い、この道に入った。 すると、きつい坂である。
その先に数台の車が停まっていて、電話線の工事をしていた。
歩いている人などないところから現れたからか、警備員から声をかけられ、
森町まで歩くといったら、驚かれた。
厳しい区間は少なく、坂を上りきると、三叉路に出た。
三叉路を右折し百メートル程行くと、静修公民館のある集落に出る。
「 集落入口の右の細い道が瑞雲坂からの塩の道で、静修公民館は小学校の跡地で、 その近くに紅葉寺といわれる意昌寺があることは帰宅後に知った。 」
三叉路を左折すると、立ち葵が咲いているところに出て、
きれいだなと思いながら進むと、三叉路に出た。
小屋のような建物の前には、 「左秋葉山方面 右舟場二千四百米 」 と
「左犬居秋葉山 右防山春埜山 道 」 という道標、
そして、「秋葉道・塩の道」を、方向を矢印で示す 小さな標識が建っていた。
ここは静修分岐で、不動橋から一時間三十分かかっていた。
ヒガンバナが咲く | 林材木店工場 | 静修分岐に建つ小屋 |
このまま、県道389号を歩くと、左側にユーパックの看板がある家があり、
少し開けられた戸からは冷蔵庫の上に載せられたジュース類が見えたので、
店舗なのだろうと思った。
自販機が置かれていなかったので、そのまま通りすぎたが、
この後、お店は一軒しかなかったので、
こうしてお店は地元にとっても塩街道を歩くものにも貴重な存在だろう。
振り返ると 「 ↑ 春野町秋葉山 ←(斜め上方向)春野町代古根 」
の道路標識があった。
その先の三叉路は、右は上り坂、左は下り坂だが、
そこには森町の標示板が建っていたので、旧春野町と森町の境界であることが分った。
三叉路の角には花が植えられ、その中に 「戦国夢街道 小沢の宿」 の石柱と その手前に、先程と同じタイプの小さな 「秋葉道・塩の道」 の矢印道標があった。
矢印の方向は右の道を示していたが、「小沢の宿」の表示が気になったので、
左側の道に入った。
その先の右側には、「田能小沢の宿」 と書かれた説明板があった。
「 田能(尾)は平安時代後期に開かれた山間の集落で、
蔵泉寺に残る阿弥陀如来などの仏像からも、
寺院を中心とした山間の集落であったことがわかります。
それは蓮華寺(一宮別当)や巌室寺(国府行場)を拠点とする霊山開発に伴うもので、以後、廻峯(修業道)の宿として、古くから栄えてきたことが想定されます。
小沢の宿は、江戸時代の秋葉山信仰が隆盛し、再び、
この地に多くの道者や民衆が休息や宿所として利用したことを物語っています。
この宿は森町と秋葉山の中間点にあり、
こうして立地条件が山間の宿を営む要因になったと考えられます。 」
その下には、通りに酒屋、髪結師、小間物屋などがあった様子が、
イラストで描かれていた。
江戸時代の秋葉街道はこのイラストで、盛況だったことは分ったが、
現在の集落は数軒のみで、江戸時代の家数には及ばず、その面影は残っていなかった。
先程のところに戻り、道標に従って、右の上り道を行く。
並木を百メートル行くと 「←八幡神社1.9km」 の道標があった。
旧春野町と森町の境界 | 石標と道標 | 八幡神社への道標 |
入っていくと、右手の壊れかけた家の前に 「秋葉街道と信濃屋」 の説明板があった。
説明板の内容の要約
「 この集落の人々は、現在でもこのあたりを街道と呼んでいるが、
それは秋葉街道や信州街道と呼ばれていた頃の名残である。
江戸時代の中期頃、信州出身の海産物を扱う商人が、
この街道筋に信濃屋という旅籠を開き、
宿泊のみでなく、五、六頭の馬を飼い、旅人の運搬を行った。
そのため、当時は大変繁昌したと言われる。
信濃屋は大正の初めまで続いたが、大正時代の交通近代化により、
街道を歩く人が減ってきて、信濃屋は廃業し、他に移っていったといわれる。 」
道に沿って歩いていくと、「←戦国夢街道」 と書かれた看板が現れたが、
これは何を意味するものか?
右側の家の先の車庫脇に、「秋葉街道の道標」 の説明板と
「 戦国夢街道」 の看板と道標があった。
道標には 「秋葉道七里」 と刻まれていた。
説明板「秋葉街道の道標」
「 この道標はこの地が東海道の掛川宿から七里の道のりであることを表したものです。
江戸時代の終わり頃、秋葉信仰の江戸講の人々によって建てられたもので、
現存する数少ない道標の一つです。・・・・・(以下省略) 」
その先には 「右大久保千六百米」 の石柱が建っていた。
家の脇を通過し、杉林を抜けるとパッと開けた。
一面が茶畑だが、道脇に 「板妻の里」 の説明板がある。
「 このあたりは昔から板妻の里と言われていた。 山村のこの村は杣(そま)や木こりを生業とする男たちが多く、 この人たちが伐り出した角材や板は各方面に売られていった。 起伏の激しい山道ではこれらの材は人力で運搬するしか方法はなかった。 いきおい、女性たちが木材加工の手伝いや運搬の担い手となり、 板を干したり運んだりした。 当時、大久保の若杉商店がこの材料を買い取り、商いをしたので、 なかなか盛況であった。 板を背負う妻たちの姿を見て誰言うもなく、板妻の里というようになったと、 言われている。 」
今は茶の生産が産業なのだろう。
信濃屋跡 | 道標の説明板と道標 | 板妻の里の説明板 |
先程のところに戻り、道標に従って、右の上り道を行く。
並木を百メートル行くと 「←八幡神社1.9km」 の道標があった。
茶畑を見ながら進むと坂を下り、左側の道に合流したが、
合流点の右側に 「←八幡神社800m小沢の宿1.2q→」 の道標の下に、
「←秋葉道塩の道→」 の小さな道標もあり、
近くに 「戦国夢街道」 の石柱が建っていた。
直進の上り坂を進むと、右側の茶畑のすみに、 「若杉家の屋敷跡」 の説明板が建っていた。
説明板
「 このあたりは室町時代の終わり頃、
秋葉街道と百古里(すがり)街道が交差していたため、人の行き来があり、
ここに山田家という店ができた。
山田家が商いを始める前、武田方の軍師山本勘助が一夜の宿を借りた折、
この家の主人に商をすることをすすめたと言う。
その後、土地の産物や米、塩などを一手に扱う店になった。
山田家では、三丸山の涌き水を利用して酒を造り、若杉と名付けて扱った。
この酒は有名になり、やがて、若杉は山田家の屋号になった。
幕末から明治にかけて繁昌したが、街道が役目を終えた明治30年頃、
最後の主人はこの里を離れていった。 」
説明から、若杉屋は、、街道と運命を共にしたことが分った。
その先には 「左乙丸千四百米」 「右田能千四百米右大久保八幡神社六百米 」
の標石と
例の「←秋葉道塩の道→ 」 の道標があったので、坂道を上っていった。
左下には茶畑と民家が点在するが、かなりの傾斜地である。
大小の道標と石柱 | 若杉家の屋敷跡 | 左下には茶畑と民家が点在 |
坂を上っていくと、右側に数軒の家があり、 一番奥の家の道の反対側には 「うぐいす餅(三倉)」 の説明板が建っていた。
説明板
「 三倉の名物うぐいす餅については次のような逸話が伝わっています。
戦国時代も末のある日、三倉の里の軒の茶屋(のきのちゃや)で腰をおろした、
いでたちも凛々しい一人の武士がありました。
茶屋の婆さんはまずお茶を進ぜ、
続けて京菜と大豆をつぶしてまぶした餅を差し出しました。
この餅はこのあたりでは寶客の来訪があった時には、必ず食膳に供したものだという。
武士は一口頬ばると、その美味を賞し餅の名を尋ねましたが、別に名前はないという。
そこで、武士は 「 形といい、色といい、鶯にそっくりじゃ。
うぐいす餅と名付けたらよかろう。 」 と言い、
秋葉を指して立ち去っていったという。
この武士こそ、戦国の名将とうたわれた山中鹿之助でした。
それから後、うぐいす餅は三倉の名物となり、
鹿之助が立ち去った茶屋はうぐいす屋と呼ばれ、大正時代まで続いたということです。
近くにはうぐいす沢と呼ばれる流れが三倉に注いでいます。 」
山中鹿之助は尼子月山城が落城した際、再起のため、京に上がったといわれる。
京都に上った彼は尼子再興のために様々な国の軍法などを学ぼうと考え、
武田・上杉・北条・朝倉などの各地の戦国大名などを三年間かけて調べて周り、
再び京都に戻ったという説もあるようなので、それに従えば、
当地を訪れたのも嘘とはいえないが・・・・
ここにはベンチが置かれていて、自動販売機もあるので、一服できるのはよい。
道は蛇行しながら上りゆくが、
「 左大久保八幡神社百米 右田能千九百米右 」 の標石があった。
それから百米歩くと、右側に 「戦国夢街道(三倉)」 の説明板があった。
説明板の概略
「 天正二年(1574)徳川家康は、武田方天野氏の居城、犬居城(春野町)を攻撃したが、
大雨により進軍できず、兵糧も尽き、退却を余儀なくされた。
引き上げの途中、天野軍の進軍を受けたが、三倉山中は険しい道で、悪戦苦闘の末、
家康は命からから逃げのみ、天方城(森町向天方)にたどり着いた。
この戦いで、徳川軍は多くの武将を失い、
今も武将の霊を弔う幾つかの塚や戦いの言い伝えが残されている。
そうしたことから、この地区で開発されたハイキングコースの総称に、
戦国夢街道を使った。 」
その左奥に大久保八幡神社があった。
建物はそれほど古いものではなさようである。
説明板
「 信州街道(秋葉街道)添いの此の村(大久保)は室町中期から人が住むようになり、
江戸時代寛政十年(1798)の遠州風土記伝には、「
大久保地区内に五つの神社(金山社、土神社、荒神社、権現社、天神社)があった。 」 、と記されている。
金山社は、貞享元年(1684)の建立で、その後、八幡社になり、
元禄十三年に他の四社を合祀して、八幡神社となった。 」
これによると遠州風土記伝が書かれたころには一社になっていたことになるのだが・・・・
それが一寸気になった。
うぐいす餅(三倉)の説明板 | 戦国夢街道(三倉)説明板 | 大久保八幡神社 |
八幡神社を出て、そのまま歩いて行くと、「大慶寺」の標板があった。
ここには下に降りていく道もあったが、そのまま進むと、右側に大慶寺があった。
建物は普通の民家のようにう思えたが、境内には石仏群がある。
樹木はこの時期に一部紅葉していたので、早朝に温度が下がるのだろうと思った。
権現の森に向おうと上っていくと、墓地の脇に出て、更に上り続ける道である。
少しおかしいなと思い、墓地にいた人に聞いたが、地元ではなく詳しいことは分らない。
都会に出て、先祖の墓に来たようだったが、そういう人が増えてきているようである。
権現の森のある所が分らず、二十五分程、付近をうろうろした。
ツアー用に使ったと思える色テープが結ばれているところがあったが、
草に覆われていたので、自信がないので断念。
四百メートル程歩いて、八幡神社まで戻り、十三時二十分に再出発した。
六分程下ると、三叉路に 「←大慶寺200m 八幡神社100m→ 」の道標があるのを発見。
その下に黄色で小さな 「←秋葉道・塩の道→」 の道標があった。
この小さな道標は小沢宿の追分以降見なかったが、途中にもあったのだろうか?
また、この道標は相良町から北に向う方向で設置されていて、
その方向からは見付けやすいが、反対からだと見落とす可能性大で、
この後、それで遭難騒ぎになっていくのである。
「←秋葉道・塩の道→」 の道標に従って進むと、 左にカーブするところに 「権現の森(大久保)と霧吹谷」 の説明板があった。
説明板「権現の森(大久保)と霧吹谷」
「 天正二年(1574)の徳川家康の犬居城攻めは大雨にたたられ、
気田川を目の前にして撤退を余儀なくされたのです。
この引き上げの途中、徳川軍は天野軍の厳しい追撃に遭うことになります。
徳川軍の殿(しんがり)は、重臣の大久保忠世隊がつとめました。
地の利を得た天野軍は、地元の加勢もあって、
田能村の街道坂や天神森などで激しく徳川軍に襲いかかりました。
徳川軍の必死の防戦にかかわらず、危険はついに総大将の家康の身辺まで及んだのです。
時は旧暦の四月、長雨のため、家康軍がこの大久保まで敗走して来た時、
幸治谷より濃い霧が立ちのぼり辺り一面をおおったのでした。
家康一行はこの霧に守られ、
樫(かし)や椎(しい)の大木の茂る谷間の森の中に逃れました。
森の中の樫の木の洞に潜み、天野軍の一時の追撃をかわしたのでした。
後にこの森を権現森と言い、幸治谷を霧吹谷と言うようになったと言われています。
樫の大木は昭和の伊勢湾台風で倒れてしまいましたが、
今でも谷や林の姿にそれとなく当時の姿を偲ぶことができます。 」
説明板には、
家康が窮地に立たされた時、奇跡が起きた様子が書かれていて、
これをもって地元では「戦国夢街道」を名付けたことが分った。
大慶寺 | 三叉路の道標を発見 | 左カーブにある説明板 |
対面の鬱蒼とした森が権現の森なのだろう。
先程道を探していたのはこの上あたりだったのだろうと思ったが・・・
両脇が茶畑の道を進むと、三叉路に突き当たった。
その角に 「八幡神社400m」 と 「 秋葉道・塩の道 」 の道標が建っていた。
道標に従い左折して、県道に入り、坂を下ると、右側に家がある。
火の見櫓の下には 「左大久保八幡神社五百米」 の石標があった。
左側に 「←八幡神社500m」 、その下に「←秋葉道・塩の道→」の道標があるところで、県道と別れて右の坂道を上っていく。
なお、塩の道は県道の左手に入り、一瀬を経由し、
大府川から三倉に出るルートもあったらしい。
坂道を中野に向って進むと、林の中に入り、抜けると下り坂になった。
道なりに進むと、下に県道が見えてきて合流した。
三叉路の道標 | 右の坂道を上る | 下に県道が見えてくる |
合流地点には 「←八幡神社1.3q 田口家屋敷跡1.3q 」 の道標があった。
少し歩くと右側に 「戦国夢街道」 の石標に 「右中野半明の里」 とあったが、
その下は草に埋もれて読めなかった。
県道を上っていくと、森の中に 「右中野半明の里八百米」 の石標があった。
坂を下ると、左に大きくカーブするが、右奥には民家があり、
その先の道の脇に 「 弥陀様とお堂跡」 の案内板があった。
その先の左側には 「田口家跡600m」 の標識があった。
上り坂は険しくなった。
右側の古そうな家で右にカーブすると、三叉路があり、
左側に 「田口家跡200m」 と 「←秋葉道・塩の道→」の道標、
隣に 「左大久保二千二百米 右一瀬千二百米」 の石標が建っていた。
左の道を下ると、旧塩の道の一瀬に出るようだが、
秋葉街道は直進して、坂を更に上った。
その先には「田口家の家紋二つ葵」 の説明板があった。
前述の権現の森のことと思うが、森の所有者が田口家だったのだろう。
この説明板のあたりに田口家があったのだろう。
説明板「田口家の家紋二つ葵」
「 中野のここ半明(昔は家康にちなみ半命)に、
昔から長く続いた田口家という旧家がありました。
この田口家の家紋は、徳川家の三つ葉葵ならぬ 「 二つ葵 」 という珍しい家紋です。
この二つ葵が田口家の家紋となった経緯は、
戦国の時代の徳川家康とのかかわりに端を発すると伝えられています。
田口家に伝わる話では、元亀三年(1572)の暮、三方原の戦いで家康は、
武田勢に惨敗したのです。
その時追われて、この半明まで逃げて来て、田口家の裏山の森の玉の木(和名・タブノキ)の空洞に身を隠し、武田方の探索を逃れたということです。
しかし、家康がこの地を敗走したのは、
むしろ天正二年(1574)の犬居城攻めではなかったと、
田口家の人々も、この点に疑問を抱いております。
むしろその方が信憑性があるように感じられます。
どちらにしても、その時助けられて立ち去る時に家康は、
「 余が天下に号令するようになった時は、遠慮なく申し出よ。
今日の事は生涯忘れぬ。
その証として家紋は二つ葵とするがよい。 」 と厚く礼を言ったということです。
その後、田口家では二つ葵の紋とし、今でも使われています。
また、裏山の森を権現森とよんでいます。 」
坂道を中野に向って進むと、林の中に入り、抜けると下り坂になった。
道なりに進むと、下に県道が見えてきて合流した。
その先の竹林の中に 「 権現の森と息つぎの井戸 」 の案内板があったが、井戸らしいものはなかった。
少し行くと左側に 「 戦国夢街道は終わり 」 の標示があったが、
その標示する意味は分らず通り過ぎた。
合流地点の道標 | 「田口家跡200m」の道標等 | 戦国夢街道は終わり |
県道の左側に 「←林道松久保線」 の標識があり、
その下に 「←秋葉道・塩の道→」の道標があった。
「←秋葉道・塩の道→」の道標には左折する表示があったので、
県道と別れて、迷いもなく林道に入ったが、
この後、消防車を呼びだすという事件になっていく。
今考えると地元では 「戦国夢街道」 の企画は、秋葉街道は頭になく、 徳川家康が戦いに敗れて逃げ惑ったとき、 田口家が救ったという逸話から村興しのハイキングコースを 企画したということだったように思えた。
林道は車が十分走れるだけの幅もあり、何の不安もないように思えたので、
ゆったりとした気分で歩いていった。
目標は左下に見えると思われる栄泉寺である。
途中に 「←秋葉道・塩の道→」 の道標がないのに一抹の不安があったが、
時間が充分あるので、気もしないでいた。
十五分歩いたところで、道の左側は崖になり、コンクリートの柵があるところに出た。
下の林には赤い布がぶら下がっていたので、ツアー客用の目印かなと思ったが、
下に降りるには草が生い茂っている。
また、「←秋葉道・塩の道→」 の道標はないようなので、そのまま通り過ぎてしまった。
整然としていた林道はそこを過ぎると、荒れ始めた。
路面は瓦礫と石というようになり、車の通行もほとんどないように思えた。
森の中に入ってしまい、左下に寺院がありそうになく、少し不安を感じ始めた。
すると、右側の高いところに 「林道松久保線」 の標識があり、
「 森 3 緊急119110 」 の標識を見付けた。
山火事があったとき、場所を特定するものだろうと思った。
更に歩くと、三叉路に突き当たった。
静岡新聞発行の 「塩の道ハイキング」 には道路の細かいことは表示がないが、 道を間違ったことだけは分った。
先程のコンクリート柵から三十五分経過し、十四時二十七分になっていたが、時間的はまだ大丈夫。
先程の 「 森 3 緊急119110 」 の標識まで戻り、
「←秋葉道・塩の道→」の道標はないか調べたが、見つからないので、三叉路まで戻る。
三叉路には 「←中野」 の道標はあったが、秋葉道を示すものとか林道の全体図などはなかった。
唯一あったのは 「 森 5 緊急119110 」 の標識と少し離れた高いところにお堂のようなものがあるだけであった。
誰かこないか待ったが、来る様子はない。
県道まで引き返して旅をあきらめるにしても時間がかかる。
ふと思ったのは 「 森 5 」 の標識。 消防に問い合わせれば、近くの県道にでられるのではないか?ということ。
「←林道松久保線」の標識 | コンクリートの柵があるところ | 三叉路 |
携帯で電話すると、司令が出たので、
「 県道から林道松久保線に入り、塩の道を歩いていたが、
三叉路につきあったので、県道に出るには右折か、左折か分らないので、教えて欲しい。 」 と伝えた。
司令からは 「 一人の旅か? けがなどはないか? 」 との問いだったが、
小生は消防署では森5というば場所がさっと分ると思っていたので、
遭難したとは思っていなかった。
司令はこの場所に待機し、電話を待つようにという連絡があったので、
座って待っていた。
十分程すると、別の人から電話があり、
近くに特徴のあるものはないかと問い合わせてきたが、この場所にはないので、
左折して少し下ると 「林道西ヶ峯線」 の標識があったので、それを連絡した。
しかし、電波が時々切れてしまうので、思うように伝わらない。
相手は動かずに元の位置にいてくれというので、また、三叉路に戻った。
そうしている内に、右上からバイクが降りてきたので聞くと、
「 右折して上っていくと、廃村になった西ヶ峯集落。
左折していけば県道に出られる。 」 という。
消防から電話があったので、「 左折して県道に向って歩きたい。 」 というと、
「 救出の準備をしているので、動かずにいて欲しい。 」 という。
それと平行して、地元警察から電話があり、 名前や住所の確認やどういう状態なのかと問い合わせてきたので、 小生の右折するか左折するかだけを聞きたいと思ったのはいつの間にか、 林道の中で遭難しているという騒動になっていることが分った。
電話をかけたのは十五時過ぎだが、それから一時間過ぎた。
業を煮やして、左に降りて行きだしたら、
下から赤く小さな四輪駆動車が上ってきて、声を掛けられて、車に乗せられた。
消防は司令に 「 無事救出 」 の無線を入れ、
「 怪我はないか? 水は大丈夫か? 」 と聞かれ、
「 大丈夫です。 」 と答えると、
「 住所、氏名、年齢を一枚の紙に書いて欲しい。 」 といわれた。
遭難報告書なのだろう。 警察には連絡した後、今後の予定を聞かれたので、
駅まで行きたいというと、送ってくれるという。
川沿いのがれたような道を下っていくが、途中脇道もあったので、
迎えに来ていただいたのは良かったと思った。
県道まで出ると、狭い空き地に大型消防車が待っていた。
小生のために二台の車が出動したのだということを知った。
偉そうな人が乗り込んできて、小生の報告書を見て、駅まで同行するという。
最初の計画では、県道に出て、場合によってはバスで駅に行くつもりだったのだが、
十六時半にもなっていたので、渡りに舟である。
大型消防車はここで別れ、偉い人と共に県道を走る。
途中、常夜燈が見えた。
車中で伺った話によると、 「 消防は広域消防で、本部は袋井市にあり、
119番は袋井に入った。
小生の電話の内容を森分署に伝えだが、
「 森 5 緊急119110 」 の標識のことは消防はタッチしていなかったので、
森分署は設置した森町役場の問い合わせたが、休日で担当者がいないということになり、
警察や交番に連絡して小生の居所を調べたという。
なお、袋井の本部は森分署に連絡したことで終わり。
小生が下に降りたいという連絡はある意味では厄介なことになるので、
待機するよう連絡してきたのだろう。
森分署は林道西ヶ峯線の連絡を受けて、このあたりと上ってきたところ、
小生が歩いてきたので声をかけたという次第である。 」
小生は森の消防署の人が電話に出たと思っていたし、
消防が緊急プレートを設置していると思いこんでいたので、
居所はすぐに分ると思っていたのである。
その間、小生はいらいらして待っていたので、消防や交番の人には申し訳ないと思った。
そうした会話をしながら、やがて静岡銀行のある交叉点まできた。
狭い町中を通り過ぎると、天竜浜名湖線の遠州森駅に到着した。
消防の人達は全員降りてきて、次の出発時間はどうだろうというので、
ダイヤを確認すると三十分近くある。
「 それまでここで待っている。 」 と答えると、「 気を付けて御帰り下さい。」 という。
丁寧に頭を下げて、 「 ありがとうございました。お世話をおかけしましてすいませんでした。 」
とお礼を言って、消防車を見送った。
心情として、記念写真を車と共に一枚と思ったが、
遭難者となっていてはそうはいかない。
そういう訳で、その事を示す証拠写真は一枚ないのである。
今日は一日、遭難らしいことが起きたのは、年のせいだろうか?
帰宅して妻に話たら、秋葉街道の一人歩きは危険なので、
やめてほしいと言われてしまった。
「 小生は道に迷い、結果として消防車に救出される結果となったが、
この道に建てられている「←秋葉道・塩の道→」の道標は
掛川から北に向うルートを対象に設置されている結果、
北から南に向うルートを歩く場合、たった一つの道標が見付けられなかったことから、
遭難劇が起きたのです。
そうした失敗談を含め、秋葉街道の春野〜三倉間を記したので、
参考になればと思います。 」
常夜燈 | 静岡銀行のある交叉点 | 遠州森駅 |
旅をした日 平成23年(2011)9月19日(月)