田辺聖子さんが書かれた 「 姥ざかり花の旅笠 」 の宅子さん旅日記には、 「水窪宿から秋葉神社まで」について、下記のように記されている。
「 水窪宿に泊った翌日、昨日の難路に足を痛めたので、女人一行は駕籠に乗った。
横根越、きいなまへ、などいう所を通り、延命坂、この間、一里、高山の腰とおぼしき所を廻るのだが、このあたり山蛭の多いのもやりきれなかった。
茶屋に腰掛けて休んでいると、山ふもとに天竜川が見え、木立、石のたたずまい、眺望絶佳で、えもいえずおもろしろしという風色(このあたりは現代は天竜奥三河国定公園になっている)。
しばし道中の辛労も忘れる思い。 」
高根城址の山裾の細い道を行くと、北星材木センターの資材置き場に出る。
水窪川の橋を渡り、坂を上ると国道152号に出たが、ここは天竜区佐久間町芋堀である
。
「芋堀観音堂」があるはずと思って歩く。
道の左に幼稚園があり、その境内を通っていくと「光福寺」の標柱があった。
稲荷神社や石仏群はあったが、観音堂はなかった。
近くの人に聞いてもしらないというので、国道を歩くと、
右側に県道290号があったので、そこに入ってみたがなかった。
国道を進むと橋があり、橋の向うには左に入る道があった。
これが秋葉道のようなので、その道に入ると突き当たりに廃業した木工所があった。
佐久間町芋堀 | 光福寺の標柱 | 廃業した木工所 |
木工所の中をくぐりぬけ、川に沿って進むと、右への三叉路があったので、 右折して進むと清水屋のところに出た。
国道の小さな橋を渡ると、再び、左折して川の方に向い、家があるところで右折して、家と家との間の細い道を歩く。
畑に出て上り坂を上ると、再び、国道に出た。
観音堂は? と国道を引き返すと、相月小学校に上る途中に、
お堂と石仏群が見えたので、上っていった。
大きな石碑には 「秋葉三尺坊 伊勢皇太神 金毘羅大神」 と刻まれていた。
石段を上り、お堂を覗くと、観音ではなく、「薬師如来」とあり、
目の病の治癒を祈願したものが納められていた。
ここは中芋堀なので、観音堂は光福寺付近なのだと思ったが、分らず仕舞だった。
先程の場所まで戻ると、道の右側に数軒家がある。
その先の山裾に 小さな祠があり、石仏が祀られていた。
その先右に入る細い道に 「塩の道 秋葉街道」 の道標が建っていた。
この細い道が秋葉街道である。
畑の上り道 | お堂と石仏群 | 小さな祠 |
林の中に入っていくと数軒の松島集落がある。
更に、山道を山肌に沿って進むと、神社のところで、
切開(きいなま)集落がある車道に出た。
左上の高台にあるのが切開集落である。
車道を左右にカーブしながら下ってくると、再び国道に出た。
国道は相月口バス停の先でトンネルに入るが、
その手前の右側に入る道が旧国道で、そこに入ると島集落がある。
三熊野神社の道を上り、間庄の方に行くのが秋葉街道である。
ところが、入口に集中豪雨で山崩れがあり、通行禁止となっていた。
また、時計を見ると十八時になっていたので、今日はこれで終了。
少し戻るとJR飯田線城西駅があり、その先左側に自然石に掘られた
「秋葉大権現 金毘羅大権現」 の石碑が黄昏の中に建っていた。
天竜川と水窪川が合流するところに三叉路の大井橋信号交叉点があった。
国道 | 秋葉・金毘羅石碑 | 大井橋信号交叉点 |
宅子さん旅日記には、下記のように記されている。
「 水窪宿に泊った翌日、昨日の難路に足を痛めたので、女人一行は駕籠に乗った。 横根越、きいなまへ、などいう所を通り、延命坂、この間、一里、高山の腰とおぼしき所を廻るのだが、このあたり山蛭の多いのもやりきれなかった。 茶屋に腰掛けて休んでいると、山ふもとに天竜川が見え、木立、石のたたずまい、眺望絶佳で、えもいえずおもろしろしという風色(このあたりは現代は天竜奥三河国定公園になっている)。 しばし道中の辛労も忘れる思い。 」
「きいなまへ」は前述した切開のことであるが、横根越はその前にあるので、
高根城から芋堀までのことだろうか?
延命坂も分らないが、静岡新聞発行の「 塩の道ウォーキング 」 を見ると、
切開集落で車道を下ると途中に遠山家があり、
そこから山裾を島集落へ行く道が記されている。
現在は通行困難とあるが、その道か? 、島から横吹に上っていく道か? 、
現在の地図にはないので、確認できなかった。
右側の歩道専用橋を渡ると、遠鉄西渡駅バス停があり、その建物の壁面には
「 この地内は古くから天竜川の港町として塩を始め、
味噌、醤油等の生活物資が荷揚げされ、
水運と陸運との結節点として重要な位置にあり、宿場町として栄えました。
ここで荷揚げされた塩その他の物資は、
背負子(しょいこ)に荷棒(にんぼう)を杖代わりにした浜背負いにより、
過酷な塩の道 「八丁坂」 を明光寺峠荷継場に運搬していた。 」 とある。
その左側に 「 水あふるる 山をとめの うつくしさ 山頭火 」 の句碑があった。
句碑の左には石仏群が祀られていたが、
この付近の道路工事で邪魔になった石碑などがここに集められたのだろうと思った。
右に入る道があり、
右側には「郵便局」の道標と相良から始まった塩の道のしっかりした道標がある。
その脇に佐久間町に多く建てられている民話の紹介板があり、「そば団子と山姥退治」 の話が書かれていた。
車道はカーブしながら上っていくが、秋葉街道の八丁坂は直登で登り、
明光寺に出るみちだが、今でも残っている。
その先が明光寺峠で、その先、瀬戸から間庄を経て、前述した島集落で、
国道に合流する。
宅子さんたちはこの道を通り、明光寺峠に出たことは間違いないだろう。
高山の腰というのはこの道の一部だろうか?
茶屋があったところは天竜川が見えるとあるので、明光寺のあたりだろうか?
と思った。
今回は時間がなかったので歩けなかったが、機会を見て歩きたいと思った。
「
秋葉街道は大井橋交叉点を越えたところで、左側の細い車道を上っていくと、
大滝集落、半血沢。
このあたりは秋葉街道は一部しか残っていないようである。 」
その先も塩の道踏破査研究会が建てた(正確か?)
小さな道標を探しながらの旅になるようである。
大井橋交叉点から右手の山には天空の道のようなものがみえた。
緑が多いのは茶畑のようだが、そこから名古尾、大萩、舟代、ハンケレ沢、日入沢、
千代までの道も 「 塩の道ウォーキング 」 を見る限り、車道はなく、
厳しい道のりである。
集落を結ぶ町道は一部あるが、その道もバイクならよいが、
「軽の道」といいてもよい道のようである。
山頭火句碑 | 民話の紹介板 | 天空の道 |
「姥ざかり花の旅笠 」 の宅子さんの日記に 「 やがて三里行って平山、このへんも木立茂る山中で侘しかった。 明日はもう秋葉さまへ詣れるというので、早めに宿を取る。 」 とあるので、 宅子さん達は、大井橋から対岸にでて、山道を大滝集落に向って上る この秋葉道を通ったように思った。
ただ分らないのが、宿泊した場所である。
同行の久子さんの日記には
「 いとあやしき家に宿を乞ひたるに、米もなければとて否む。
しひていささかの米を買ひえてここに宿る。 」
彼女たちが訪れたのは旧暦の四月二十八日のことで、
麦刈りの頃で農家は繁忙だったようである。
泊った家では豆ご飯をたいてくれたり、それはそれで、
いとねんごろにもてなす善意ある宿であったが、深山のかたわらとて、
総体に食文化は貧しいとみえた。
「 それでも髪を梳り、湯浴みすることが出来、
連日の疲労に葉や根することにした。
明け方には山霧が谷底から迫り上ってきて、
山が高いので深い谷から湧きおころ霧が山潮のように家々を埋める。 」
宅子さん達は、明るくなって出立したが、まあこのへんの辺鄙なこと、
深い山中をゆくに人影もみえない。
宅子さんは、 「 立のぼる雲か煙か杣人の
家有りとだに見えぬ山奥 」 と詠んでいる。
谷底から迫り上ってきる川霧ということや米もない家に泊るということを考えると、
下平山の千代集落が妥当におもえたが、翌日の秋葉神社詣でで、
「 五十丁ばかり登ると観音寺があり、
この石段の上が秋葉の社である。 」 とあるのを見るとどうだろうと、
自信を無くす。
というのは、秋葉神社の表参道から秋葉社が五十丁なのである。
ただ、千代から秋葉社への裏街道には丁石が今でも残っているので、
ここだろうと信じたい。
旅をした日 平成23年(2011)8月28日