高根城は遠江最北端に位置する山城で、
標高420m、比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。
城址からは、水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。
高根城は、この一本の主要街道を押さえることと、信遠国境警備を目的として築かれた城である。
城の創築は、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。
その後、今川氏親等から安堵状を得ているため15世紀末頃から今川配下に組み入れられたと思われる。
平成二十三年(2011)八月二十八日十五時半、
前回の水窪宿での時間が少なく、秋葉街道は途中で終えたので、再度、訪問した。
水窪宿の入口は奥領家鳥居河原である。
秋葉街道は、国道と別れて左に入る。
小川を渡ったところで、左の細い道に入り、川につき当ると左折して国道に出た。
その角の駐車場に一角に 「みさくぼ商店街↑ 」 の看板と 「塩の道」 の説明札が立っていた。
説明札
「 奥遠州水くぼは、折口信夫(釈迢空)が民俗採訪のかたわら、
数々の短歌の秀作を残し、国指定無形民俗文化財である 「西浦(にしうれ) の田楽」 を世に紹介した町である。
翁川の清流に沿って 「塩の道」 を行くと、
田楽、足神、悉平太郎、鯖地蔵、木地屋の墓など、
多くの歴史と伝説が今なお息づいている道筋を経て、
標高1,082mの国境に位置する 「青崩峠」 に至る。 」
国道はその先で左にカーブし下っていくが、秋葉街道は直進する細いみちで、
美容院の所で左折し、その先に右折して、下っていく。
大きな車だとすれ違うのが難しい道幅である。
旅館中村館の看板を越えると右側の三叉路の角に、よく見ないと分らない「塩の道」 の道標があった。
狭い道に入ると、突き当たりに小畑会館があり、その脇の石段の上に附属寺がある。
そこから少し歩くと、右側のコンクリート構造物の上に 「伝御籏跡」 の表示があった。
その先の鉄柱には 「秋葉街道 塩の道」 の小さな道標があり、
この道が秋葉街道であることを示していた。
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川に突きあたる | 旅館中村館 | 伝御籏跡 |
少し歩くと「ゆとり」と書かれた建物角の三叉路で、先程別れた道に合流した。
ここからは前回訪れた商店街だったが、日曜日は指定休日で、営業しているお店はなく、
車の通行もほどんどない。
少し行くと、小さな川の橋の両脇に塩の道を象徴する石造物があったが、
前回訪れたのはここまでだった。
これから先は始めてだが、商店街は思ったより長く、その先にも続いていた。
ここから旧浜北市までは大規模なスパーマーケットはなく、
コンビニも国道沿いに僅かしかない。
また、水窪周辺の山上にある小さな集落は商店などはないので、自然に水窪に集まってくるのだ。
小さなスーパーで売られている商品は驚くことなかれ、ほぼ定価である。
コンビニの価額で売られているのには驚いた。
しかもこの街は床屋にしても病院にしても数が少ないが、ちゃんとあり、バランスよく、
非競争の状態で共存していた。
左にカーブするところの左側に細い格子で、屋根には吹き抜けがある家があった。
左側の第三分団詰所の辺りに「塩の道」と書かれた説明札があるが、
内容は集落名の由来の紹介であった。
説明札
「 神原から旧道を下って新道に交わる塩の道に沿うこの神原区大里という集落名の由来について、
内山真龍の遠江国風土記伝によると、「 奥山郷は往古大裏御料の園地なり。
大里由機良親王行宮所、大門、政所、朝臣、小畑御籏を挙げる所」 とあり、
大裏は大里、御籏は小畑として現在の水窪町中心部に今の地名は生きており
、昔の名残りを留めている。
大里由機良親王とは、後醍醐天皇の子、宗良(むねよし)親王の第二子尹良(ゆきよし)親王と思われる。
南朝の宗良親王は、吉野から井伊谷の豪族、井伊氏を頼ったが、
尹良親王は父の死後、南朝より征夷大将軍となり、各地を転戦、
信濃国浪合村で亡くなったとされる人物である。
水窪に伝わる話では、 「 応永の中頃(1410頃)、井伊家の一族、
奥山金吾正定則は南朝の皇子由機良親王を奉じ、
水窪町大里に来て、当地を京と擬して、仮御所や政所などを設け、
小畑に関所を置いて錦の御旗を掲げた。
また、親王守護のために久頭郷に高根城を築いた。 」 といわれる。
前述のコンクリート構造物の上の 「伝御籏跡」 の表示はこれ裏付けるものである。
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三叉路で合流 | 水窪商店街 | 吹き抜けがある家 |
そこから少し行くと、右に登る狭い道があるが、それが旧道の秋葉街道である。
坂を登っていくと、左側に 「塩の道」 と書かれた木柱があり、
中に入っていくと、 「塩の道案内」 という看板と公衆便所があり、休憩できるスペースがある。
ここは 「塩の道公園」 と呼ばれるところで、
公園から見下ろすと歩いてきた水窪の町並みが見えた。
更に上っていくと、水窪小学校の駐車場に出た。
少し上には水窪小学校があり、学校を囲う金網の中に 「神原遺跡」 の看板があった。
「 植栽で一部見ずらかったが、小学校の校舎建築並びに運動場の造成の際、石器時代の多数の石鏃や土器の片部が発見されたという。 」
塩の道の出発地、相良でも黒曜石の鏃が出るといい、 その石の産地は塩の道の終点になる上諏訪の上の和田峠なので、 古代から塩の道が存在し、水窪はその当時から存在したのだと思った。
駐車場から下に降りる道には街道を行き交った飛脚や草鞋、塩を運んだ荷車のレリーフがあった。
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秋葉街道旧道 | 塩の道公園 | 塩を運んだ荷車 |
坂道はけっこう急だったが、距離は短く、すぐに先程の道に合流した。
振り返るとそこには鈴木旅館があり、
こちらから秋葉街道に行く場合はこれを目印に行くとよいだろう。
帰宅後気付いたのだが、石段の左側に「塩の道」の標札があるようである。
坂道を下ると、左側に 「みさくぼ交流所」 という看板を掲げた家があり、 その前に木造のまねき熊が展示されていた。
道は下っていくが、水窪独特の家が残り、建物は古くないのかも知れないが、 これまで歩いた秋葉街道の中では一番の都会であり、 また、昭和の良き時代の商店街が今でも残っている数少ないところである。
水窪郵便局前を過ぎると、国道と交叉する水窪橋交叉点に出た。
直進する道は県道369号である。
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坂道はけっこう急 | みさくぼ交流所 | 水窪橋交叉点 |
水窪橋交叉点を渡ると右手に山住神社があったが、ここは山住神社の遙拝所である。
その先の水窪橋を渡ると、左側の石張のコンクリート基盤の上に、
大きな石碑二つと小さな石碑がいくつか、そして、祠がある。
大きな石碑は 「六十六部供養」 碑と 「秋葉大権現 金毘羅大権現」 である。
秋葉大権現は、火防、金毘羅大権現は水防の神様で、
秋葉街道沿いの集落には多く祀られている。
一坪足らずの祠には 「次郎兵衛霊神」 と 「道祖神」 の木標があった。
次郎兵衛霊神供養塔は高さ一メートルで、建立年は寛保二年(1740)十月と刻まれているが、
「 次郎兵衛は水窪へ商いに来ていた相良出身の松下と名乗る商人で、
水窪の市場を繁栄させたとして祀られた。 」 という言い伝えがあるという。
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山住神社の遙拝所 | 石碑と祠 |
その隣にあるのが 「向市場上村中天明三(1783) 若拘施主 」 と刻まれた双体道祖神である。
「基盤プレートの説明文」
「 絶世の美男美女であった二人の兄妹はあまりも美し過ぎて結婚相手を見付けることができず、
お互いに嫁探し、婿探しの旅に出て、相手を探し求めましたが結局見つからず、
お互いの相手は他にはいない気づき、兄妹で夫婦になりました。
宿命によって結ばられた男女の伝説が伝えられる道祖神です。 」
その先の道の右側に 「みさくぼ路の里」 の看板の家があり、
右折した下には水車があった。
そのまま直進すると、JR飯田線の向市場駅の踏切に出るが、
その手前の左側に「向市場遺跡」の説明板があった。
秋葉街道は踏切を渡り、水窪中学校の校庭のところで右折する細い道に入る。
道を下り、突き当たりの三叉路を左折して、河内川を渡る。
高根城址のある山に向って上っていくと、左側の小高いところに
「高根城址公園駐車場」 の案内が見えてくる。
秋葉街道はこの後、山裾の道を回り、北星林材センター協同組合の資材置き場に出る山道であるが、
戦国時代の山城である「高根城址」によることにした。
高根城址駐車場の案内に従い、狭い坂を登ると、高台に十台程停まれる駐車場があった。
道の反対には稲荷神社の鳥居と狐が祀られていた。
急な坂を登っていくと、一軒の家があり、その先の広場で車は行き止まりになる。
高根城へは細い遊歩道(山道?)がある。
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双体道祖神 | 向市場遺跡説明板 | 広場と一軒家 |
登りかけると、左側に「中城家」の墓碑があり、それには「高根之城守奥山能登守奥方」とか、
「中城任部之守定益」などが書かれていた。
中城家と奥山家の関係は墓碑の通りである。。
墓碑
「 奥山氏は、藤原北家井伊氏の一族で、
遠江国引佐郡奥山郷を中心に勢力を伸ばした。
南北朝の時代、奥山定則は南朝方で、延元三年、久頭郷城を築き、尹良親王を供泰した。
その孫の奥山能登守定之には四人いて、嫡男が民部少輔定益である。
定之は四人にそれぞれ城を与えたが、嫡男の定益は本城の高根城(久頭郷城)を継いた。
しかし、兄弟仲が悪く、二男の水巻城主、定茂は信州遠山氏と謀って、永禄十二年(1569)、
高根城を攻め、落城させ、城主の定益は討死した。 」
城跡までの道はけっこう急である。
蒸し暑いので登っていると汗が流れ出た。
登り切ると、正面に櫓と門があった。
左側に休憩できる展望台があり、 「高根城眺望説明板」 があった。
そこにはハイカースタイルのカップルがいたが、ご主人の方は昼寝のようで、
ご婦人は手持ち無沙汰のようだった。
小生もそこにはいり、景色を眺めながら、汗が引くのを待つことにした。
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急な坂道 | 高根城の門と櫓 | 高根城眺望説明板 |
その風景を写真に収めた。
眼下には水窪の市街と翁川が流れている。
右手の山には山腹に点在する上村集落の家々が見え、
正面には観音山や瀬戸野山などの山並が連なっていた。
「 奥山氏の時代は、平素は番人が上から水窪の町と秋葉街道を監視していたのだろう。
秋葉街道を北上すると、信玄が遠州侵攻で通った青崩峠に到る。
まさに、この地が南信と北遠を結ぶ街道を押さえる軍事的拠点だったのである。 」
小生はそうなことを思いながら、のんびり汗が引くのを待った。
展望台と思っていたところは、高根城の主郭直下の腰郭である。
「 平成六年〜十一年にかけて、本曲輪を中心に発掘調査が実施されたが、 その後に、現在の礎石建物、掘立柱建物(井楼櫓)、城門四基、柵列二条が復元された、という。 」
城門をくぐると主曲輪で、礎石建物と井楼櫓がある。
これらは復元されたものである。
「 高根城は主曲輪、二曲輪、三曲輪と北から南に並び、 各主曲輪は堀切で区切られていて、各曲輪は東裾を通る城内路で繋がっていたという。」
二曲輪の下には梯子があった。
説明板
「 主曲輪と二曲輪の間の堀切には城門と土橋が設けられ、
二曲輪に上がるには梯子があった。
二曲輪と三曲輪の間は木橋によって接続されたが、
三曲輪から続く城内道を規制する役目があった。
また、城門北側には武田の石積みが見られる。 」
三曲輪跡では柱穴があった。
三曲輪の先は、城域を区切る二重堀切があるが、薬研堀の様子がよく分った。
「 攻めあがる敵を中央の土塁の上を歩かせて横矢をかける仕組みである。 」
二重堀切の先の尾根を進むと、南の出城に到る。
そこには 「高根城(久頭郷城)の歴史と構造」 と書かれた大きな説明板(ご参考を参照)があり、
休憩できるようになっていた。
その先を進むと、西の谷を下って降りることができるようであるが、
小生は来た道を戻った。
尾根上の城址はかなりの高さにあり、室町時代から戦国時代初期の典型的な山城だと思った。
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復元された井楼櫓 | 東裾を通る城内路 | 二曲輪に上がる梯子 | 二重堀切 |
旅をした日 平成23年(2011)8月28日
「 高根城は遠江最北端に位置する山城で、標高420m、
比高150mの通称三角山の山頂部を中心に築かれている。
城址からは、水窪町中心部及び北遠江と南信濃を結ぶ主要街道を見下ろすことが出来る。
高根城は、この一本の主要街道を押さえることと、信遠国境警備を目的として築かれた城である。
城は山頂部に本曲輪、二の曲輪、三の曲輪を南北に配し、各曲輪間には堀切が設けられている。
南端部に城域を区切るために真中に土塁を挟んだ二重堀切が設けられ北側堀切は、
三の曲輪を取り巻くようにU字を呈している。
城の東西に位置する崖地形を生かし、巧みに堀切を取り入れたコンパクトな姿は、
戦国期の形態をよく残す。
城の創築は、出土遺物から15世紀前半、地元国人領主奥山氏が築いたと考えられる。
その後、今川氏親等から安堵状を得ているため、
15世紀末頃から今川配下に組み入れられたと思われる。
奥山支配は、今川家の没落と武田氏、徳川氏の台頭があった、
永禄年間後半頃に大きく変化することになる。
「 遠江国風土記伝 」によると、永禄年中(1558〜70)に、
信州の遠山土佐守に攻められ落城したと伝わる。
永禄十二年(1569)には、今川氏真、徳川家康双方から所領安堵状を、
元亀三年(1572)には武田信玄からも安堵状を得ている。
奥山氏内部で、今川、徳川、武田のどこに組するかで内部分裂が起こり、奥山惣領家が滅亡し、
最終的に傍系が武田配下に組み込まれた可能性が高い。
元亀三年八月には、武田軍が在番することが可能な城となっていたことが、
高遠城の保科筑前守に対した武田信玄の28カ条の軍役条目から判明する。
天正四年(1576)遠江から武田勢力が一掃される。
高根城も、この時点で廃城となったと推定される。
現在見られる高根城は、出土遺物やその構造から、元亀二年〜天正四年の間に、
武田氏の手によって、現在見られる姿に大きく改修されたのである。
江戸時代に、奥山氏を祭る稲荷神社が造られ、現在も山頂に稲荷が祭られている。
この稲荷神社に伴う改変を若干受けているが、武田氏の原型を良く留めていると評価されよう。
平成六年〜十一年にかけて、本曲輪を中心に発掘調査が実施された。
この調査によって、本曲輪から礎石建物1棟、掘立柱建物2棟(内1棟は、
2間x2間の井楼櫓と推定)、礎石城門1基、掘立柱城門2基、柵列1条が検出された。
また、本曲輪の南側下段から、掘立柱城門1基、柵列1条、木橋跡、梯子跡も確認されている。
最も注目されるのは、各曲輪間を結ぶ城内道が完全な形で検出されたことである。
幅約1間の道は、三の曲輪から土橋を利用し、二の曲輪東中段を真っ直ぐ通り、
梯子によって二の曲輪下段へと上がる。
ここからは、木橋を通り、直角に曲がり、城門をくぐり、さらに三度直角に折れ曲がり、
本曲輪搦手門へと至る構造であった。
全国的にみても、完全な形で城内道が検出された事例はなく、
戦国期の城内構造を知る貴重な遺構と評価される。
出土遺物は、@城郭創築以前の遺物A奥山時代(15世紀前半から16世紀中頃)
B武田時代(16世紀後半)
C廃城後(江戸時代以降)の遺物が出土しているが、約8割がAの奥山時代の遺物であった。
発掘調査に併せて実施された整備事業で、礎石建物1棟、掘立柱建物1棟(井楼櫓)、
城門4基、柵列2条が復元された。
復元考証は、三浦正幸広島大学教授と織豊期城郭研究会が行った。
なお、安全柵として、本曲輪を囲む土塀、二の曲輪・三の曲輪を囲む柵列が模擬復元された。
また、本曲輪には管理施設が置かれている。
城内道は、位置はそのままで復元されたが、梯子・木橋については、
安全上の観点から現代工法によった。
二重堀切を渡る木橋は、遺構を保護するためと、
南からの通路を確保するために設けられた新たな施設で、本来ここに位置していたものではない。 」