『 秋葉街道を歩く D 秋葉神社表参道〜秋葉大社奥宮 』


岸井良衛氏の 「 新修五街道細見 」 には、東海道の掛川宿のふたせ橋追分からの東海道の脇往還として、「秋葉山、豊川道」が記載されている。 

「 その道は、ふたせ橋追分から森町宿、三倉宿、いぬい宿を経由し、秋葉山に至る  十一里(44km)の道程。 
その先、秋葉山から西川、石打、くま、大平、す山、大の、かとや新城宿を経由し、豊川に出て、 豊川いなりを参拝して、御油の追分で東海道に出るルートである。 」




秋葉神社表参道

平成二十三年(2011)八月二十八日は八月の最終日曜日。 
早朝に家を出て、再度、秋葉街道に向った。 
前回は霧と夕闇が迫り、秋葉神社下社と秋葉寺に参拝できなかったので、 まずは秋葉神社表参道を往復し、 その後、時間の許す範囲で、秋葉街道の痕跡を探そうと思う。 

秋葉神社下社は国道152号の山東交叉点から国道362号に入り進むと、 右側に道の駅「いっぷく処横川」がある。
そのまま通り過ぎ、左右にカーブする道を北に向かうと、 左側に秋葉神社前キャンプ場の看板があった。 
その手前に天狗と高下駄の像があり、 「 昔、京が火事になった時、 大天狗になって現れた遠州の秋葉権現が火事を消したという話があり、 天狗が飛来するための踏み台として残された高下駄を再現したもの 」  という説明碑があった。 

その先の秋葉橋を渡り、三叉路を左に進むと門前屋旅館がある。
その先の左側に駐車場、右側には「秋葉神社下社」の標柱があった。
その先は森のようになり薄暗い。 
また、湿気が多く、石段は濡れていたが、上っていくと社殿があった。
手前の左側に社務所があるが、上社に比べると貧相な感じがした。 

天狗と高下駄の像
     秋葉神社下社標柱      社殿
天狗と高下駄の像 秋葉神社下社標柱 秋葉神社下社社殿


社殿に着くと、朝の勤めの最中で祝詞をあげる声が聞こえた。
神社の右手に行ってみると、木の鳥居の先に赤い屋根の社殿があったが、 これは地元の氏神、六所神社のようだった。 
社務所により、交通安全のステッカーを購入した後、車に戻り、 その先の秋葉神社表参道駐車場に車を入れて、表参道に向ってあるく。 

歩いていくと、三叉路に出た。
左は県道286号で気田川に沿って進むと国道152号の横山町交叉点に出る。 
車で秋葉神社上社に行く時はこの道を利用するが、道幅は狭く、 対向車がくると避けるのに苦労する。 

右側を直進すると一寸した集落にはいるが、 江戸時代、秋葉詣での門前町になっていたところである。 
小さな川に九里橋が架かっていた。

朝の勤めの最中
     三叉路      九里橋
朝の勤めの最中 三叉路 九里橋


「 至神社従是三十○ 」 の道標があったが、○以下は地面に隠れて読めなかった。 
その先から上りになるが、左側には谷川が流れ、右側には卵油製造販売の店が見えた。
坂道を上ると、左手には白い蔵があり、石碑が建っていた。 
その先には橋が見えて、その先には四阿のようなものが見えた。

上ると左側に秋葉社の休憩所のようなものがあったが、 谷川に架かった橋は閉鎖されていた。 
その先は三叉路になり、正面に四阿があったが、 これは東海自然歩道の休憩所と思われる。 
人家があるのはここまでで、 左側には 「 この先車両通行できません 」 という看板と  「秋葉山3.9km 115分 」 の道標があり、その先は石畳の道だった。

卵油製造販売の店
     橋と四阿      道標と石畳の道
卵油製造販売の店 橋と四阿 道標と石畳の道


ここが秋葉神社表参道の出発点である。
秋葉山表参道は山裾に沿って少し行くとと直登に変わり、あとはひたすら上っていくだけである。 
ここを登る人の服装を見ると、リックに山行くの服装で、神社を詣でる雰囲気はなかった。 
ここは東海自然歩道に指定されているので、この道を歩き、 秋葉神社上社から九十九折れを下り、雲名橋(うんなはし)に降りるのだろう。 

秋葉神社上社の駐車場から雲名橋までは林道を横切る山道であるが、 秋葉神社の表参道は道幅も広く、丸太で土留めされていて歩き易い道である。

「海抜318米」 の標識や休憩ベンチがあった。 
そこを過ぎるとかなり急な小豆坂。 
東海自然歩道の道標 「秋葉山頂2.8q」 を過ぎると、 常夜燈の脇に 「十八丁茶屋跡」 の表示板がある。 
出発して一時間半、 「海抜500米」 の標識があるが、 その先には子安地蔵尊の小さな祠がる。
石仏が祀られていたが、その前には穴をあけられた柄杓が奉納されていた。 
柄杓は安産すると奉納する言い伝えがあるようである。 

このあたりでかなりへたったが、「信玄岩」の標札を過ぎると、 「山頂1.2km」 の道標があり、もう少しで秋葉寺だと頑張った。 
右側に 「海抜704米」 の標柱、左に「⇔秋葉道・塩の道」の道標があり、 その奥に門のようなものが見えてきた。
参道の左側に、小さな説明板があった。

「 秋葉寺 当寺は秋葉山頂に伽藍が連ねていた江戸時代の中ごろ、 御山の守護神である秋葉三尺坊大権現の火防の霊験を中心とした秋葉信仰が、 全国規模で爆発的な高まりを見せ、 四通八道した秋葉道をたどって数多の参詣者が御山に訪れるようになった。 」

その先には秋葉山の山門があった。
参道の入口からここまでは三キロ以上あり、けっこうな傾斜なので、ニ時間近くかかった。 

土留めされた道
     「秋葉道・塩の道」の道標      秋葉山の山門
土留めされた道 「秋葉道・塩の道」の道標 秋葉山の山門




秋葉寺から秋葉神社上社

山門をくぐると、赤い屋根の秋葉寺のお堂が見えてきた。

「 秋葉寺は秋葉山秋葉寺(あきはさんしゅうようじ)のことで、 三尺坊とも呼ばれる。
もとは、養老二年(718)に行基が開いたといわれる大登山霊雲院寺という寺で、 行基作と伝えられる聖観音像が本尊だった。 
弘仁年間(810〜823)、嵯峨天皇の勅願により伽藍が建立され、秋葉山秋葉寺と改称された。 
  平安時代末から鎌倉時代になり、公家時代が終わり武士の時代に入ると、秋葉寺は衰退。  それを再建したのが信州戸隠で修業したといわれる三尺坊である。 
戦国時代から江戸初期頃には再び衰退したが、徳川家康により、 秋葉寺別当に任ぜられた茂林光幡が秋葉寺を曹洞宗へ変えて再興した。 
しかし、依然として修験系の色合いが強い神仏混淆の寺として残った。 
なお、三尺坊は修験道を極めた不動三昧の秘法を修して、迦楼羅の姿に変身した、 という話などは後の世の作り話である。 」 

当時の秋葉寺は現在の秋葉神社上社の一角にあったが、 やがて火伏せの神として、美濃から関東にかけて有名になり、 その参詣道が「秋葉街道」と呼ばれるようになった。

「 明治維新による神仏分離令と修験宗の廃止令により、 修験派と僧派が対立する騒動があり、また、住職が病没したりしたため、 静岡県令より廃寺を強いられ、三尺坊のご神体は袋井市の可睡齋に移されてしまった。 
秋葉社は、明治五年に元の山頂に、神道系の火伏の神である 「火之火具土神」を祀る  「秋葉神社」 の名で再建された。 
一方、秋葉寺は地元の人々の強い願いにより、明治十三年(1880)に、 本尊を観世音菩薩とする寺として再建された。
山頂にはすでに秋葉神社があったため、山腹のこの地にお堂が建立された。 」

お堂には 「秋葉大権現」 の額が架かり、堂内には三尺坊が祀られていた。
ご神体は明治時代に可睡齋に移されているはずだが、どうなのだろうか? 
その右側には観音像のような像と鉈で削ったような木像があったが、これらはどういうものだろうか?

秋葉寺は麓に「千光寺」という寺院があり、そこで祈祷を受け付けるとあったが、 秋葉寺には住職は常駐せず、堂守がいて管理しているという。 
日向ぼっこをしているような人が堂守だったのだろうか、寺を守っているようには思えなかったが・・・ 

秋葉寺
     三尺坊が祀られている      鉈で削ったような木像
秋葉寺本堂 三尺坊が祀られている 鉈で削ったような木像


田辺聖子さんが書かれた 「 姥ざかり花の旅笠 」 の中で、以下のような秋葉寺の記述がある。

宅子さんの詣ったころは秋葉寺が立派だった。 
「 比寺の広き事かぎりなし 」 三尺坊大権現さまを祀る。 
宅子さんが詣でたとき、台所の一間には大きな釜をあまた据え、 かたわらに火箸というて柱のように大きなものがあった。 
珍しいのでお坊さんに聞くと、この社の祭のときに用いるものという。 
秋葉の火祭として有名な十一月十日から十六日まで(現在は十二月十五日、 十六日)のお祭ということであった。 」 

とあり、観音寺(秋葉寺)の上に秋葉社(秋葉神社)があったように描かれている。
大きな火箸ではないが、奉納された大きな灰掬いのようなものは、麓の秋葉神社下社で見た。 

秋葉寺を出て、参道に戻るると、「東海自然歩道」の大きな案内板と  「←秋葉山山頂 坂下九里橋→」 の道標が建っていた。
秋葉寺まではかなり整備された道だったが、 秋葉寺を過ぎるとすこし荒れた道になった。 

道は左右にカーブし、歩幅も少し広いみちだが、 「秋葉道 塩の道」 の小さな道標と 「 火防 秋葉坊大権現秋葉山総本山秋葉寺 コレヨリ200m下ル→」 の大きな看板があった。
この看板は秋葉神社上社を訪れた人を意識したもので、秋葉神社までは残り二百メートルとなった。 

参道の道標と案内板
     荒れた道      秋葉寺への大きな看板
参道の道標と案内板 荒れた道 秋葉寺への大きな看板


その先には 「 五の鳥居跡 寛政十年(1798)に甲州の人々が寄進した銅鳥居で、 秋葉寺三十八世住職任梁和尚の筆になる 護国嶺 の額が掲げられていた。  いまは基礎部分と横たわる二本の朽ちた柱を残るだけである。 」 という木札があるが、 石の基盤のみで、朽ちた柱はなかった。

二百メートル位いくと、右側に石垣が続き、正面に神門が見えてきた。

門の脇の説明板「神門」
「 秋葉神社神門は昭和十八年の大火に類焼を免がれ、 秋葉山として栄えた江戸時代の俤を偲ばせる唯一の随神門である。 
入母屋造で、間口十米(五間四方)奥行約六米(三間二尺)の宏荘な建物で、 鮮麗な朱泥を塗り、屋根下周囲に精巧な彫刻が施してある。 
文化九年(1812)諏訪三郎の作にて、建物は天保二年(1831)六月二十八日、 信州上諏訪の住人立川内匠富昌、和蔵久子、 立川次右衛門富保、喜三良父子の手に依って再建された棟札が保存されている。 
信州諏訪神社の春宮や秋宮は立川流によるものであるし、神社建築では有名な棟梁によるものである。 」

神門を見ると、諏訪三郎の彫刻は素晴らしい。
神門は浜松市の指定文化財であるが、門の下には水が流れ、湿気も多いので、 しっかり保存して欲しいと思った。 
また、神門の前後には常夜燈が建っていた。

五の鳥居跡
     神門      神門の彫刻
五の鳥居跡 神門 神門の彫刻


神門をくぐった先の右側にあった石柱には 「永代常夜燈 文政十三庚寅年 ・・・・ 」 と刻まれていたので、石柱でも常夜燈の役割を果たすのかもと思った。
江戸時代の(秋葉社」の絵図を見ると、神門の右側に石垣が上に向って続いている。 
神門の脇に、古びた城壁のような石垣があるので、当時のままだろう。

坂道を登るところは太い杉が多くあり、また、太い切株もあった。 
江戸時代の(秋葉社」の絵図を見ると、 その先は一段土地が高くなり、参道が直登から左に向い、そこが神社の正面である。 
坂を登りきると、手洗い場のところに出た。 
南に面したところには天狗の皿投げを行うところで、それを売る(?)ところもあった。
当時と敷地が変わらなければ、現在の手洗い場と皿を投げている場所に該当する。 

その先は石段で、鳥居が見える。

「永代常夜燈」石柱
     秋葉寺への大きな看板
「永代常夜燈」石柱 天狗の皿投げ所


石段を上った先の写真は下記である。
左側に社務所と境内社、階段の上に秋葉社本殿、右側に神楽殿が建っている。




江戸時代の(秋葉社」の絵図では、 「 左側の社務所と境内社のあたりに、秋葉寺(観音堂)があり、 右側の神楽殿のあるところに多宝塔が、その上の一段高いところに秋葉社があった。 」  ように、 描かれている。 

それを裏付けるのが、田辺聖子さんが書かれた 「 姥ざかり花の旅笠 」 の中の 主人公の宅子さんが、秋葉社を訪れた様子についての記述である。 

「 五十丁ばかり登ると観音寺があり、この石段の上が秋葉の社である。 
ご祭神は火之迦具土神、火伏せの神さまとして篤い信仰を寄せられている (関西ではもっぱら京の愛宕さんが火伏せの神さまで、関東の秋葉さまは影が薄いが)。 」 

明治維新以前は神仏混淆の時代で、 秋葉寺と秋葉神社がひとつにもののように思われていた。 
観音寺(秋葉寺)の上に秋葉社(秋葉神社)があり、 参拝する人は両方にお参りをしていた訳である。 
田辺聖子さんは秋葉社は火之迦具土神、観音寺は三尺坊大権現と区別してはいるが・・・ 



秋葉山瑞雲院

「東海自然歩道」のコースでは秋葉神社駐車場に降りて、 その後はスーパー林道を横断しながら、九十九折れを下り、 戸倉谷を経て、戸倉の秋葉ダムにでるコースである。 
ダムの左側に吊り橋があり、ダムの上は車道になっている。

「 宅子さんらは秋葉社から戸倉村に下りた。 」、とあるので、 東海自然歩道は江戸時代の秋葉道の戸倉道を踏襲しているのかもしれない。 

車を置いたところに戻るため、表参道を下り、駐車場へ。 
その後、秋葉橋を越えて進むと、「 ようこそ春野町へ 」「 秋葉街道 」 の看板がある  「 春野ふれあい公園 」 に出た。
その奥に見えるのは戦国時代に天野氏の犬居城があったところである。

秋葉ダム
     春野ふれあい公園
秋葉ダム 春野ふれあい公園


ここも東海自然歩道のルートで、城址には四十分程かかる。
本丸跡が展望台になっていて見晴らしは良いようである。
そこは時間がないので、パスして秋葉山瑞雲院に行った。

門前にある説明板
「 秋葉山瑞雲院の草創は養老二年(718)に遡り、 寺に残る由緒書によれば 「 行基、此地行化の辰、此像(聖観世音菩薩)を自彫して茅舎に安置し、 随雲寺と自称しき云々 」 とある。 
延徳四年(1492)、飯田山崇信寺(現森町飯田)弟四世賢窓常俊大和尚を開山とし、 地頭天野安芸守入道景顕が堂宇を建立して開基となり、寺号を瑞雲院と改め、 曹洞宗の法幡を高く掲げた。  以来幾度かの火難に遭遇しているが、寺檀共に協力して堂宇の再建に努め、 名実ともに北遠山家三ヶ寺の名刹として、その法灯は今も輝いている。 」 

山門の手前両側には石仏群があり、 山門には 「 瑞雲院山門は寛延三年(1750)十一月十五日、 瑞雲院第十五世泰山任超和尚により造立されたものである。  入母屋造、二層建、弁柄塗、一間一戸の楼門で、高さは九.六b、間口は四.二五b、 奥行三.六b、上層に一室をもつ。  扉は間口三.〇b、高さは二.四bで、左右に袖塀が付属されている。  北遠地方の曹洞宗寺院では楼門形式の山門は極めて珍しく、貴重な建造物である。 」  とあった。

「 当寺は最初は金下山の中腹にあったが、 徳川家康による犬居城の攻撃の際、兵火により焼失。  その後、現在地に再建された。  また、犬居城主天野氏初代経顕を始め天野一党の墓碑が当寺の墓地にある、という。 」

山門を入ると左手に 「駒形稲荷大明神」 の額が入った赤い鳥居があるが、 豊川稲荷同様の寺院系のお稲荷さまである。 

秋葉街道は道を横断し、細い道を入り、春野郵便局南の山道に入っていく。 
この道は相良まで続く塩の道で、掛川宿で東海道と交叉していた。 

秋葉山瑞雲院
     赤い鳥居
秋葉山瑞雲院山門 赤い鳥居


旅をした日     平成23年(2011)8月28日




( ご参考) 東海道と秋葉街道 

「 江戸時代、東海道と秋葉神社を結ぶ道としては、春野から森町を経由し、掛川宿に出る、 一般的に「塩の道」といわれる秋葉道を利用していた。 
また、京都方面への旅人は、戸倉から神沢、大平を経由し、 大野で別所街道に合流する鳳来寺道を利用し、新城から御油に出て、東海道に出たようである。 

鳳来寺道は、戸倉から白倉川沿いに進み、大嶺、市之瀬、はしご坂から石打に出て、 熊から神沢に出る。  神沢からは川宇連、大平を経て三河に入り、巣山、細川を経て、大野に出る道である。 」

田辺聖子さんの 「 姥ざかり花の旅笠 」 の主人公、宅子さん達もこの道を利用している。 

「 宅子さんらはそこ(注:秋葉社)から戸倉村に下り、石打、神沢(そこで一泊)、 三十日、大平を経て青山峠に到った。  この間二里、これが遠江の国と三河の国の境である。  やがて大野の宿に到れば、はや三河の国で、ここから有名な鳳来寺は一里半という。 」  と書かれている。

江戸時代、尾張藩士で俳人の横井世有もこの道を通ったようで、 その歌碑は市之瀬か大嶺あたりにあるようである。 

「 浜松市引佐町渋川の人達は、昔は浜松方面への交通が不便だったので、 浜松に出ることはなく、新城方面に出ていた、といい、 鳳来寺道を通じて三遠南信の東西のつながりが大きかったようであるが、 今は利用する人はほとんどいない状況である。 
渋川集落の川宇連、大平あたりは狭い山道が残されているというのが現状のようで、 宅子さんの通った青山峠を地図で確認することもできなかった。 
なお、大野は別所街道(国道151号)との追分で、JR飯田線三河大野駅があるが、 古い雰囲気も残っているといわれるので、機会があれば訪れたいと思った。 」




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かうんたぁ。