『 秋葉街道を歩く C 青崩峠〜三佐久保(水窪)宿 』


田辺聖子先生の「 姥ざかり花の旅笠 」 の中で登場する、宅子さんの東路日記には、

「 是より三里ばかり行かざれば宿るべき家なきよしなり。 
みな人、いたうつかれにたればものもいはずなりぬ。 
なほ河を越え、山路をたどりゆくに、こしかた行末、人も見えず。 
  日は暮れはててものがなしさ類ない。 
道さへおぼつかなき闇の夜なればしかたない。 
また、三里をゆき、やっと、三佐久保(浜松市天竜区水窪町)に着いた。 
ここは尋常な家居の宿場で、みな人よろこぶ事限りない。 蘇生の思いをして休む。 」 

と、青崩峠から水窪への行程について記している。 
宅子さんの東路日記は今日の道と違うので、距離も違うだろうと思うが、 宿るべき家があるところに三里。  また、三里をゆき、やっと三佐久保(浜松市天竜区水窪町)に着いたとあるので、 合せると六里になるが、 青崩峠から水窪町までの地図を直線で計ると十キロ程しかない。 
これはどうみたらよいのだろうか? 




青崩峠から山住神社

平成二十三年(2011)八月七日、 国道を走ると翁川が左手に流れているが、それを見ながら下っていくと、 道の右側に 「小畑の塩の道案内板の田楽入口 600m ↑ 」 の標識があった。 
左側の道を下り、扇川を渡ると集落の中心があり、 その先から前述の池島集落から塩の道でつながっているようである。 
集落には元馬宿の西口家があるようだが場所が分らないので、パスをした。 

右側の標識を登っていくと、「西浦田楽」を伝える所能観音堂がある。 
西浦の田楽(にしうれのでんがく)は、国の重要無形民俗文化財で、最初に指定を受けた民俗芸能である。 

「 養老三年(719)に行基上人が当地を訪れ、 観音像と仮面を奉納したことが西浦の所能観音堂の創始で、 その年に吉朗別当が祭礼を始めたと伝えられている。 」 

道なりに進むと旧西浦小学校があり、その先で国道に合流する。 
国道から入ってところに集落はあるが、二十軒足らずの小さなものである。 
この後は、家並も途絶えてしまう。 

国道を進むと、みさくぼオートキャンプ場マロニエの里に出て、 その先の小さな橋を渡ると、右手に長尾集落がある。 
ここは比較的まとまって家が建っていた。 
少し行くと、江戸時代、三佐久保宿、町村合併前は水窪町、現在は浜松市天竜区水窪町である。 
国道と別れて、右側の道に入ったが、車がすれ違うこともできない程道は狭い。 
この道が秋葉街道なのだろうか? 

右側の旅館中村館を過ぎると、左側に「塩の道」の説明板があった。 

説明板
「 ここ小畑の地名の由来は、内山真龍の遠江国風土記伝によると、 「 南北朝動乱期に後醍醐天皇の孫、由機良親王がこの奥山郷(水窪)に入られ、 御籏挙げの所を小畑という。 」 とある。 
また、此処には小畑観音堂も祀られおり、西浦の田楽と共に、 かって京都風文化の片々を漂わせていた時代があり、 そのみやびかさと土のにおいが併存しているところである。 」 

商店街を進んでいくと、右手の山から流れ下る小さな川があり、 塩の道を象徴する石造物があった。 

時計を見ると、十五時三十分。 
秋葉神社への到着が気になったので、三佐久保宿跡の探索はここで終えて、車を置いたところまで戻り、出発した。 

宅子さん達は三佐久保宿に着いて、「 みな人よろこぶ事限りない。  蘇生の思いをして休む。 」 とあったが、 飯田市からここまでは警察や病院や県の施設などはなく、いざという時には不安な土地だったので、 小さいながら町なので、宅子さん達の喜びは分るような気がした。 

西浦集落入口
     小畑の塩の道案内板      水窪の町並
西浦集落入口 小畑の塩の道案内板 水窪の町並





水窪から山住神社

秋葉道といわれた秋葉神社への道はいくつかある。 
表参道は春野町の秋葉神社下社から直登でのぼる道。 
裏街道は大井橋の南あたりから山道を上り、大滝から下平山を経るルートである。 
雲名(うんな)から上る道や春野町の気田川沿いから上るコースなどがあったようである。 

青崩峠からきた参拝者は裏参道がメインだったと思われるが、 江戸時代、秋葉神社を訪れる人が寄ったと言われるのは山住神社で、 この道も塩運搬にも使われたという。 
山住神社に興味をもったので、立ち寄ることにした。 
向市場から国道と別れて、左側の県道389号に入ると、道は左右に、 また、アップダウンを繰り返す大変狭い道だった。 
幸い、対向車が数台だったのと、その際、タイミング良く、 すれ違いが出来る地点だったので、助かった。 
少し走ると、右側に布滝温泉の看板がある家があったので、 手前の駐車場に停めると、右手に白い布のような滝があった。 
落差は四十メートルで、水量が少ないこともあり、 流れ落ちる水が布のように舞う滝である。 
滝が落ちる河内川には「切通狭」と呼ばれる峡谷があり、切り立った岩肌が連続している。 

この先は人家が途絶えて行きすぎてしまったのではと思った時、前方に見えてきた。 
慎重に走ったこともあり、五キロ程なのに三十分近くかかった。 
鳥居の先に山門があり、その先には樹齢千二百年以上の杉の大木がご神木として立っていた。 

「 和銅二年(709)、伊予国の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請して、 山住大権現と称したことに始まり、 当初は、勝坂、門桁、あるいは宮川に創建された後、現在地に遷座したという。 徳川家康が武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し、 ウォーウォーという山犬の大音声がおこり、武田勢を退散させたことから、 徳川家康の崇敬を受けたといわれる。  そうしたことから、神紋は徳川家の葵の紋で、神札には、山犬が描かれている。 」

布滝
     山住神社      鳥居と山門
布滝山住神社が見えてきた山住神社の鳥居と山門


神社は標高千百メートルの山住山の山頂に鎮座していて、周囲には江戸時代、 山住大膳亮が三十六万本の木を植林したということもあって、 神社の境内はまだ十六時十五分なのに暗かった。 
紫宸殿(拝殿)は神木の奥、右側に横向きに建っていて、本殿はその後方の斜面にあった。 
紫宸殿の前には「鵺(ぬえ)退治の彫りもの」の説明板がある。

「  平安末期、高倉天皇は京都御所に現れた、頭が猿、胴が虎、 尾が蛇の姿をした鵺の仕業により、毎夜の高熱に悩まされていた。  弓の名手、源三位頼政が朝廷に退治を命ぜられ、家臣の右玄太とともに御所紫宸殿で鵺を退治しました。 この物語を掛塚の大工・彫り物師だった曽布川藤次郎が彫り上げた彫刻が本殿上部に飾られています。 」  

雷の音は聞こえなくなったが、霧が出てきて、周囲の風景をつつみこみ始めた。 
駐車場に戻ると、一人のライダーが雨具を装備していた。 
その右側には鹿の像に 「水と緑と伝承の郷」 の看板がついていた。 

紫宸殿(拝殿)
     拝殿と本殿      鹿の像
鳥居の先にある紫宸殿(拝殿)拝殿の右は本殿鹿の像





山住神社から秋葉大社奥宮

最初は向市場に戻り、国道152号で秋葉さんへ向うつもりだったが、県道がきつく、 時間もかかったので、スパー林道天竜線で行くことに変更した。 

「  スパー林道天竜線はこの北方にある水窪ダムから南方の東雲名までの林道である。 
山住峠から秋葉奥宮の入口まで約四十キロ、そこから奥宮までは数キロである。 」

この道に乗り入れると、霧が深くなり、かろう峠まではかなりの上りであるが、 上るに比例して見通しが悪くなった。 
対向車がなかったのでよかったが、十メートル先も見えない具合なので、のろのろ進まざるをえない。 
かろう峠を過ぎると、下りになるが、霧は場所により濃くなったり、薄くなったりする。 
ガードレールが設置されていないので、路面にある白いラインが命綱である。 
右手は井戸口山(1334m)と思うが、全然見えない。 
フォッグライトをつけても時速二十キロ以下でしか走れなかった。 
その先に展望地があるのだが、霧で駄目。 

そこから上りに変わったが、斜面から転げ落ちた落石が道路に散らばっている。 
小さなものが多いが、ソフトボール位のもあるので、それは避けたいが、 視界が狭いのでなかなか難しかった。 
出発して九キロ位のところに標識があり、右に降りる林道は国道へ、 直進は秋葉山とあったので進むと天龍の森北駐車場に着いた。 

「  天龍の森公園は竜頭山を中心とした約九十五ヘクタールの森林公園で、 竜頭山展望台からは南アルプス、富士山が見られるという。 」

時間は一六時五〇分、霧とこの時間では当然のことながら、車も人影もなし。 
広い駐車場の奥を見ると鹿が警戒しながら、こちらを見ていた。 
この様子から見ると、このあたりには鹿が多くいるのだろう。 
人がいないのは不安なもので、すぐに車に乗り進むと中央駐車場の先にはWCのある避難小屋があり、 竜頭山(1351m)への登山口である。 

濃霧の林道
     天龍の森駐車場      鹿の群
濃霧の林道天龍の森駐車場鹿の群れ


その先からは小さなカーブの連続で、道幅も少し狭いが、霧は少なくなってきた。 
出発から十六キロ地点は急なカーブで、その先の展望地を過ぎると左斜面は崩落していたので、 右に寄り通過。 
その先路面が多少荒れていたが、たいしたこともない。 
昔、旅人がのどをうるおしたとされる一杯水も通過すると森林帯に入ったいった。 

ここから秋葉山までは小さなカーブが連続する下り道を進む。 
湿気が室内に流入しているので、窓を開けて走ったが、あとで分ったのだが、虫に刺されていた。 
国道362号の分岐点二ヶ所、国道152号の分岐点を過ぎ、電波塔を大きく回ると、 秋葉第二、三駐車場の案内を無視して進むと、 「秋葉山奥宮への入口」に出たので、林道と別れて入っていった。 

数キロ先に大きな駐車場と大きな鳥居があった。 
こうしてなんとか、秋葉大社奥宮まで到着できたが、時刻は十七時二十四分、 所要時間は五十八分だった。 
参道の入口には大きな説明板があった。 

説明板
「 秋葉山本宮秋葉神社は、赤石山脈の南端にある、 秋葉山(標高866m)の山頂付近にある上社と山麓の気田川の畔にある下社を合わせた総称で、 全国の秋葉神社の総社である。 
秋葉神社略縁起によると、  「 秋葉山は、赤石山脈の遠州平野に突出した最南端で天竜川の上流に位置し、 山頂に秋葉山本宮秋葉神社を祀る。  上古より神様の鎮ります御神体山として崇敬され、 初めて御社殿が建ったのは和銅二年(西暦七〇九年)元明天皇の御製によるものとつたえられる。  御社号は、上古は 岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ:岐陛は秋葉の古語)と申し上げたが、 中世両部神道の影響を受けて、秋葉大権現と称し、明治初年教部省の達で権現の号を改め、 秋葉神社となったが、昭和二十七年、全国の秋葉神社の総本宮であるところから、 秋葉山本宮秋葉神社と改称した。 」 

現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)だが、 江戸以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀る秋葉社と、 観世音菩薩を本尊とする秋葉寺とが同じ境内にある神仏混淆で、 人々はこれらを一つの神として「秋葉大権現」や「秋葉山」などと呼んだのである。 

駐車場から新しい参道を歩くと左側に樹齢二千年以上の杉の切り株があり、その先に山門があった。 

駐車場前の鳥居
     上社の案内板      随神門
駐車場前の鳥居上社の案内板随神門


石段や常夜燈は新しい。 そうした石段が上に上に上っていく。 
途中の参道脇には巨大な樹木が茂り、周囲の樹木、花、鳥の案内看板もあった。 
境内に入ると、金の鳥居があり、鳥居越しの一段高いところに社殿が見えた。 
ここには社務所と境内社などがあったが、社殿は更に石段を上った。 

「 秋葉信仰が盛んになったのは江戸中期以降である。 
徳川綱吉の治世頃から、神道、仏教そして修験道が一体になった火防(ひぶせ)の神として、 全国的な信仰を集めるようになり、秋葉大権現という名前が定着。 
幕末近くになると、伊勢神宮、善光寺ととも秋葉詣でがさかんになった。 
  特に、江戸では数多くの秋葉講が結成されたが、度重なる大火があったことが要因にあげられる。 
そうしたことから、山頂には本社と観音堂の他、本坊、多宝塔など多くの堂宇が建ち並んでいたという。 
また、美濃以東の集落には秋葉常夜燈や社が建てられていった (注:近江から西は愛宕大神碑や愛宕常夜燈になる。 
このように隆盛を極めた秋葉信仰だったが、明治元年の神仏分離令、 そして、明治五年(1872)の修験宗廃止令により 三尺坊大権現は静岡県袋井市の可睡斎に遷座され、秋葉寺は寺領や宝物を没収されて、廃寺になった。 
秋葉社も廃社にされたが、地元民の強い誓願により、 明治六年(1873)に祭神を火之迦具土大神とすることで、再建された。 
しかし、昭和十八年(1943)山頂から火災を出し、山門を除き、すべての建物を焼失させ、 神社の機能を無くした。 」

現在ある拝殿と社殿は昭和六十一年(1986)nに再建されたもので、建物類が新しいのはそうした理由による。 
火除けの新しい神様は霊験がなかったということかな!? 

ここからの展望はよい。 
霧は消えたが、眼下には雲が覆っていた。 
駐車場まで降りてから、秋葉寺に寄るのを忘れていたことに気が付いたが、 その参道は金の鳥居付近にあるので、あきらめた。 
時計を見ると十七時五十分。 場所によっては夕立がありそうなので、 車で帰宅することにしたが、浜松ICから乗った東名高速は夏休みの渋滞に巻き込まれ、 自宅に着いたのは二十一時過ぎだった。 

金の鳥居
     拝殿と本殿      上社からの展望
金の鳥居拝殿と本殿上社からの展望


旅をした日     平成23年(2011)8月7日




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かうんたぁ。