田辺聖子先生は、「 姥ざかり花の旅笠 」 の中で、
「 この街道の難は、ここなど(注:辰の口のこと)まだ序の口であった。
なおを巳午(南南東)さしてゆくと、これも難所として有名な青崩峠。 その名さえ、禍々しい。 」
とあり、宅子さん達の青崩峠越しは容易ではなかった様子がうかがえる。
宅子さんが書いた東路日記には、 「 いとさかしき坂路にて、崩れたるみねの傍を行間、いとあやふし。
この峠は五十丁の三里、是なん、信濃の国と遠江の国の境界である。
ついに信濃は脱したが行路はまだ楽観を許さない。
南行して川に至った。 これは天竜川に流れるみなもとという。
舟で渡り、少しゆけば水も涸れて六、七間ほどは丸太を打ち渡してあった。 橋の代わりであろう。
この川上をあなたこなたと打ちわたりながら、このたびは青峠というところを越えた。
遠江の国である。 越えればまた川、日も暮れたが宿るべき家がない。 」
とあり、なんとか峠を越えたものの、そこには宿もなく、
宅子さん達の意気しょう沈した様子を描かれている。
平成二十三年(2011)八月七日、和田宿から梁ノ木島番所を経て、国道152号を南下し、青崩峠へ向う。
道は山の中に入り、曲がりくねった道は一車線半の狭い道だが、通行する車が少ないのは助かる。
三キロ程走ると、左と右に分かれる三叉路にでたが、正面に秋葉街道に関連する標識があった。
「 ← 兵越峠 国盗綱引公園 至浜松市水窪町 (中央)ゆっくり走ろう 遠山郷 青崩峠 秋葉街道遊歩道 島畑 ー X → 」 という標識である。
左側には、「 R152号全面通行止 青崩峠、熊伏山へは水窪口へ回り下さい 」 と書かれた看板があり、工事中の看板も立っていた。
右側の国道に足を踏み入れると、「国道152号 飯田市小風」 という道路標識があり、
その先には 「 この先6km通行通行不能 」 の看板と
「 この先土砂崩れの為、車両、歩行者共に全面通行止 」
の看板があった。
国道152号は青崩峠の手前一キロあたりで自動車は通行不能になることは知っていたので、
そこから歩いて青崩峠に行こうと予定していたのだが、通行止めではしょうがない。
左のカーブの兵越林道で、道を登って行くと上るに比例して、展望がよくなり、
遠山郷の山々が見えた。
更に上って行くと右側に「国盗り公園」と書かれた広場があった。
国道と林道との分岐点 | 遠山郷の山々 | 国盗り公園 |
少しいくと 「 兵越峠 標高1168米 静岡県水窪町 」 の看板があり、
兵越峠に到着したことを知った。
その脇には 「 告!! この標識国盗綱引合戦に於いて定めた国境である 行政の境に非ず 」
と書かれた標識が建っていた。
「 毎年南信濃町商工会と水窪商工会の青年部が綱引きを行い、
勝った側の国の境を一メートル程移動するという。
ここから静岡県に入り、五キロ程下ると林道は終わり、国道474号になる。 」
その手前に「山の駅」と書かれた大きな木柱が建っていて、
道路の右上には鳥居と小さな祠があり、「伊豆大権現」と書かれていた。
また、傍らには石仏群も祀られていた。
「遠木沢」の表示もあったが、ここには無人の山の家しかなく、周りには民家はない。
国道からは二車線になり、少し行くと右に入る道もあるが、草木トンネルに入り、
反対側に抜けた。
草木トンネルは三遠南信自動車道用に建設されたものだが、現在は無料で使用できる。
トンネルを越えると左側に 「青崩峠 足神神社」 のUターンのような交通標識がある。
左折してその先の三叉路を左折する。
なお、右折した先は家数は少ないが、池島集落がある。
左側に翁川が流れ、その先にくぐってきた草木トンネルが見える。
トンネルの出口のところで、道は国道をくぐり反対側に出た。
翁川は一気に川幅を狭め、山が迫って道はか細い上り坂となる。
路面はアスファルトからコンクリートへと変わっていった。
道は小さな橋を渡るが、その手前にさば地蔵と書かれた金属製の碑があったが、
近くには地蔵のようなものは見当らなかった。
帰宅後、調べたところ、川の対岸に小さな社があることが分かったが、不親切である。
道を進むと左側に足神神社がある。
足の神は全国でも珍しいと思うが、祀られているのが、難路の青崩峠というのもよいだろう。
江戸時代に秋葉街道を歩いた旅人は立ち寄って、旅の無事を祈っただろうと思った。
「神社の由来書」
「 昔、諸国行脚の途時この秋葉街道で不幸にして脚を痛め辛じて池島に辿り着いた。
鎌倉の北条時頼の脚を数日にわたり治療し全快せしめた池島庄屋地の(現在大屋)五代目守屋辰次郎を
彼亡き後、時頼の命により村民が霊神として祠を建てて祀ったのがこの足神の社である。
これは遠く1250年代のことである。 」
手前の駐車場と思われるところには 「みさくぼの名水 足神の水」 の看板があり、
その下には岩から流れ出る水があった。
和田の観音水では飲んだだけで終わったが、車からポリタンクを出して、名古屋に持ち帰ることにした。
兵越峠 | 草木トンネル | 足神神社 |
その先にあるのは小さな社で、その脇に「瑟平太郎の墓」と表示された木柱が建っていた。
その脇の木製の立札には 「勇犬早太郎」 とあり、左側に「勇犬早太郎」の由来が書かれていた。
以前訪れた駒ケ根市の寺は早太郎ゆかりの寺だったことを思い出した。
「勇犬早太郎の由来」
「 昔、怪神に娘をイケニエにする慣わしがあった。
そこで怪神が苦手とする信州信濃の早太郎という犬を連れてきて、怪神を退治させた。
その時早太郎も深手を負い、光善寺へお礼参りに連れて行く途中、この地で亡くなった。 」
更に上っていくと、右側に 「辰の戸集落跡」 の看板と説明板がある。
前述の宅子さん達が昼飯に難儀した辰の渡りも、東南東に渡るところだったのだろうと思った。
説明板「辰の戸集落跡」
「 辰とは十二支の方角では東南東を指します。
戸は渡ることを言います。
このことから此処の地名は北に渡る場所として辰の戸と呼ばれたのでしょうか。
遠州と信濃の国境水窪最深部に位置する集落として昭和時代まで数軒の集落が存在していました。
江戸時代には秋葉神社参拝者の安全と国境の安全を守るために、
代官所から十手を託された村人もいたようすです。 」
五分程行くと 「木地屋の墓」 とある小さな祠がある。
「 木地屋とは山の木を切って、轆轤(ろくろ)を使い、 椀、杓子、しゃもじ、壷、盆、曲げ物、あるいはそばやうどん粉を練る木鉢をつくる人のことで、 この辺りでそういう人たちが生活していたのだろうと言われている。 」
その先の右側には車が十台ほど停まれる駐車帯があり、
正面の林の中に 「塩の道」 と書かれた大きな石碑と「青崩峠」の案内板があった。
「 青崩峠へ徒歩二十分 」 と書かれた木柱があり、その脇には整備された石段があり、
登山者の登山届のボックスが置かれていた。
ここは熊伏山登山の入口であるとともに青崩峠への遊歩道である。
林道の舗装は途切れているが、道自体はその先まで続いているのだが、
「土砂崩れで通行禁止」の看板はあり、その先には行けない。
瑟平太郎の墓 | 辰の戸集落跡 | 青崩峠遊歩道入口 |
車が一台停まっていたので、その近くに置いて、遊歩道を登っていった。
杉林を歩く道であるが、遊歩道というより登山道である。
途中数か所は道は小川のように水が流れていた。
このあたりは降水量は多いようで、湿気が多く、気温も高く蒸し暑い。
足場を気にしながら歩いて行くと、二人連れが降りてきた。
服装などから推測すると熊伏山の登山者だろうと思った。
森の中を登っていくと、「武田信玄の腰掛け岩」の説明板があり、小さな岩があった。
説明板
「 元亀元年(1572)十月、京を目指して甲府を発った武田信玄は二万七千の兵を卒い、
天下の難所青崩峠を越えて、徳川家康との決戦になった三方ヶ原に向かった。
その時、信玄公が休息のため座った岩といわれている。 」
苔蒸した石畳の道を進むと、右側のなにもないところには 「建次屋敷跡」 の説明板があった。
説明板
「 秋葉街道往来が盛んだった当時、ここには茶屋があった。
ある夏の夜、毎日一生けんめい働く夫婦の日銭の入るのを見込んで、
四名の盗賊が押し入りました。
盗賊は亭主を大黒柱に縛りつけ、女房に乱暴をはたらき、最後には酒樽を亭主に投げつけ、
お金を奪って逃亡したという悲しい言い伝えが残っています。 」
少し行くと、右側に 「 ↑ 青崩峠5分 徒歩2時間 兵越峠 → 」
の看板、その下には 小さな道標があり、
塩の道は右折するように示されていた。
武田信玄の腰掛け岩 | 建次屋敷跡 | 青崩峠と兵越峠との分岐点 |
十四時三十分青崩峠に到着。
遠くで鳴っていた雷の音が近づいてきているので、
雨が降る前に車に戻らなければならぬと思った。
峠の上には 「 青崩峠 海抜一〇八二米 」 の木の標柱、
「 新・浜松の自然100選 青崩峠 」 の標柱があり、 「 ⇔ 秋葉道塩の道 」
の小さな道標があった。
また、 「 青崩峠の鳥居 すべての道は秋葉に通ず。
江戸時代秋葉信仰は中部、関東を始めとして全国的に広がり、
秋葉講はお伊勢講に次ぐ大規模な講組しきになりました。
各地に秋葉大権現の石碑も建立され、街道筋の峠には遙拝鳥居が建てられ、
信州から秋葉神社への街道筋、分杭峠、地蔵峠、小川峠、谷京峠などにも鳥居がありました。
この青崩峠に昔の様に鳥居が蘇るのはいつの日か。 秋葉街道信遠ネットみさくぼの会 」
という看板があり、その脇に小さな祠と左側に三体の石仏が永遠の時を刻んで佇んでいた。
反対の小高いところに、 「 静岡県指定史跡 青崩峠 」 の石碑と反対側には 「 熊伏山登山口 」 の看板があったので、先程の二人はここから降りてきたのだと思った。
信濃側への降りる道は、コンクリート製の杭に囲まれているが、かなり急であるように思えた。
峠を下りたところで通行止めとなっているようすであるが、雷が近づいているので、
降りていって確かめるのはやめた。
「 峠付近の地質構造は、中央構造線による破砕帯になっていて、
山腹に広がるむき出しになった青い岩盤から峠の名が付けられたというが、
その様子は確認できなかった。
第二新幹線はこのあたりをトンネルで通り抜けると思われるので、
最近の技術なら青崩峠の下をトンネルでくぐることはできるだろう。 」
国土交通省飯田工事事務所によると、「 青崩峠道路のルートは検討中だが、
峠の西側、翁川に沿って進み、トンネルで抜け、
小嵐で国道152号に通じるルートになりそうである。
このルートが岩盤が堅く、自然破壊も少なく、工費も安くすむ。 」 という。
青崩峠 | 三体の石仏 | 熊伏山登山口 |
峠にいたのは十分足らず、雷でも落ちたら大変と、この後はひたすら下るだけ。
上るときはさほど気にならなかったが、日があたらなく、
苔が生えたヌルヌルした石畳の道は気になった。
転ばないように気をつけて慎重に下りる。
また、道が川になっている部分も数か所あり、靴がぬれないように気をつかった。
十分程で下に降りたので、林道が通行止めになっているところを確認した後、車に戻ったら、
先程の二人連れがまだいた。
声をかけたら、 「 山ヒルは大丈夫ですか? 」 といわれたので、
「 どうされたのですか? 」 と聞くと、
「 降りて服を調べたら、ヒルが二匹見つかった。 」 との回答。
南アルプスには山蛭がいることは知っていたが、ここにもいるとは思わなかったので、びっくり。
服を脱ぐ訳にもいかないので、目で見えるところだけ確認したが、大丈夫だろうと、先に出発した。
信濃なのに、蒸し暑い気候で湿気が多い。
山ヒルは樹木の上にもいるので、要注意である。
これで念願の青崩峠訪問は終りである。
旅をした日 平成23年(2011)8月7日