天保十一年(1840)、北九州の商家の内儀、小田宅子さんが千三百キロの旅をし、 記録に残したのが東路日記で、 この記録を基に書かれたのが田辺聖子先生の 「 姥ざかり花の旅笠 」 で、 その中に小川峠を越えて、秋葉街道の上村宿を訪れた記述がある。
宅子さん達は 「 八丁ほどいって、おそ田、ついで上村、ここの升屋という宿に泊った。 上村を出ると、いみじき坂道なればかろうじてここを越えて、辰のわたりという処で昼食をしたためようとしたが、 このあたりはまことに山家で、腰をかけられそうな家さえなく、ましてや食べものを出してくれそうな茶屋もない。 しかたがなく、持参した乾飯と塩で飢えをしのいでいる。 」
平成二十三年(2011)八月七日、小川峠越しを歩くのは到着後の交通手段がないようなので、
あきらめて、車で行くことにした。
小川の湯から県道251号を進むと楽珍館があり、ここで左折すると川に出たので、橋を渡り右折して、
川に沿って進むと右手に矢筈公園キャンプ場が見えた。
道の反対の山裾には 「 木地屋墓地 」 の看板があった。
「 木地屋とは近江国愛知郡小椋村が発祥の地で、 免許により全国各地の山中に入り込み、 木を伐り木地を作って移動しながら生活をしていた人たちのことである。 こうした墓は全国に残っているようである。 」
そのまま進むと、頭上にループ状の高架橋が見えてきた。 右側にある高架橋への入口を入って、ループを上っていくと、その先に矢筈トンネルの入口が見えてくる。
「
矢筈トンネルは三遠南信自動車道として造られたものであるが、現在は無料なのでこの道を行く。
なお、ここから上村本に向かう県道上飯田線は見通しの悪い山道で、冬期間は通行禁止になる。 」
矢筈公園キャンプ場 | ループ状の高架橋 | 矢筈トンネル |
矢筈トンネルを抜けると、旧上村の程野で、右から国道152号が合流してくる。
「 国道152号は、長野県上田市を起点とし、静岡県浜松市東区を終点とする一般国道で、 江戸時代の杖突街道と秋葉街道を踏襲しているが、 両街道を結ぶ地蔵峠部分は未開通区間になっている。 この間は林道があり、冬期間以外は通行できるので、大鹿村方面に行ける。 」
以前訪れたしらびそ公園と峠はこの林道で少し行き、そのまま上っていくとしらびそ峠、 更にいくとハイランドしらびそのあるしらびそ高原につく。
「 この時は近くの御池山(標高1905m)に上ったが、本格的な登山する人は南アルプスの大沢岳(2819m)を 目指すベースキャンプである。 」
それはともかく、この地は東に赤石山脈、西に伊那山地に挟まれ、道に沿って上村川が流れている。
少し先に弓矢を射る神のような像がある橋に出た。
脇に天神峡公園の看板と遠山郷の案内看板があった。
右手に見える岩肌が天神峡のようだが、先を急ぐ。
四キロ程行くと、右側に上村郵便局があり、その先左側にある上村川に架かる橋を渡ると、
石垣に 「 ← 是よりあきば道かみまち宿 」 と書かれた看板があり、
その上には旧上村役場(現上村自治振興センター)があった。
国道152号との合流地点 | 天神橋 | うえまち宿の看板 |
上村自治振興センターに立ち寄ると日曜日なのに職員が一人いたので、
周辺の観光パンフレットをいただいた。
下に降りて、江戸時代、秋葉街道の宿場だったところを歩いた。
三百メートル程の長さで、三筋の道があったが、一番右がメイン道路であろう。
「 上町は秋葉道の難所といわれた小川越えの入口にあたり、宿場があったところであるが、 今も町並にその面影をかいま見ることができる。 江戸時代の上町の建物は板葺きの上に石を載せた屋根で、勾配がゆるい。 また、幕末から明治にかけて使われた漆喰なども使用されていないので、木の割合が多い。 また、一階の庇部分に四半円形の持ち送りが付いているのも珍しい。 」
各家には江戸時代の屋号のようなものが掲げられていて、
漆喰壁にこまつやと思える看板の家もあった。
この家の造りから見ると旅館を営んでいたように思えるが、どうであろうか?
また、秋葉大神と琴平大神の祀られた碑の脇には琴平屋の表示があったが、
宅子さん達が泊った旅籠升屋の跡は確認できなかった。
うえまち宿の町並み | こまつや | 秋葉大神と琴平大神碑 |
道はその先で橋に突き当たり、橋を渡ると国道の先に上村小中学校があったが、
そのまま戻り、川に沿った道を歩くと、
正八幡宮と書かれた鳥居があり、左側にはまつり伝承館天伯があった。
鳥居の右側に庚申塔もあった。
高い杉に囲まれた石段を上ると正八幡宮の建物があった。
杉と石垣に 「 重要無形紋俗文化財 遠山の霜月祭 」 「 正八幡宮上村 祭日十二月十一日 」 の石柱があった。
下に降りると、伝承館の脇に上町の霜月祭 神社名上町正八幡宮の説明板があった。
説明板
「 応神天皇(誉田別命)を主祭神として八幡宮を祀り、木火土金水の五神が合祀されました。
さらに元和年間に遠山氏滅亡後その霊を慰めるため、八社の神としてかたとり加わったともいわれます。
いくつかの元の神も合祀され、生活に深くかかわる産土神として信仰されています。
祭式 両部神道(神仏混淆)による湯立神楽行事で旧暦霜月に神々に湯を献じ自らも浴びて新たな年の生命の誕生を願う湯立神楽により、
神も人も生まれかわるという信仰を伝え天下泰平、五穀豊穣を願う祭です。 」
まつり伝承館天伯ではその祭の様子を六十インチの大画面で再現している
(月・木曜日と年末年始は休み、200円)
正八幡宮の鳥居と庚申塔 | 上町正八幡宮 | まつり伝承館天伯 |
駐車場に戻り、旧秋葉街道が県道251号と合流する地点にいくかどうか、
迷っているところに散歩中の老人に出逢ったので、その様子を聞いた。
「 県道は林道だった道で狭いがそこまでならよいだろう。
その先の曽山トンネルから喬木村まで行くのはやめた方がよい。
秋葉街道は馬が通れる道で、県道沿いの谷を周回しながら上っていく道だったが、
洪水で流されてその道はない。
現在の秋葉街道は最近になって造られたもので、それよりも昔の道をベースに地元民の協力で復活したものである。
車で行くと通り過ぎてしまうようなところだが、右側に家があるので目印にするといい。 」
といわれた。
お礼を述べ、県道を上っていったが、道幅は狭く、先日の集中豪雨で至るところに崩れた岩くずが散乱している。
軽自動車が下ってきたので、通行できると安心していると、カーブしたところに直径二十センチ、長さ五メートルの木が道路をふさいているではないか?
木は腐っていて、引きずると動いたので、道路の脇に寄せた。
先程の車が通過後に折れて下に落ちたのだろうと思った。
曲がりくねった道を落石に注意しながら進むと、左側にちょっとした空き地があったので、なにげなく車を止めると
「 歴史の道秋葉街道 小川路入口 峠へ5.5km 」 の看板があった。
道の下を見ると民家があったが、老人が教えてくれた清水口の民家はこれだろうと思ったが、走っていると目に入らない位置だった。
秋葉街道の道は木立とササやぶになっているので、街道と呼ぶにはふさわしくないように思えた。
(注)未開通の国道256号は小川峠にある鳥居から下りに変わり、石仏が残る道を下っていくと、 県道251号が通るここ(上村清水)に出てくるのだが、 放っておくと、自然に帰る道なので、地元の人の協力がかかせないと思った。
この後、県道を引き返して、上村小学校の交叉点に出て、国道152号を二百五十メートル程南に向かうと、旧南信濃村に入った。
県道251号 | 秋葉街道小川峠入口 | 秋葉街道の標識 |
田辺聖子先生は 「 姥ざかり花の旅笠 」 で、 「 宅子さん達は上村を出ると、いみじき坂道なればかろうじてここを越えて、辰のわたりという処で昼飯をしたためようとしたが、 このあたりはまことの山家で、腰をかけられそうな家さえなく、ましてや食べものを出してくれそうな茶屋もない。 しかたなく、持参した乾飯と塩で飢えをしのいでいる。 」 と、書いておられる。
下伊那郡に属する上村(かみむら)と南信濃村は、現在は飯田市に所属しているが、平成の合併の前までは
独立した村ながら遠山郷と呼ばれていた。
遠山郷は、磁力が強いといわれる中央構造線に沿って秋葉街道が通じているものの、赤石山脈と伊那山地に挟まれ、中央に天竜川の支流・遠山川が流れる狭隘の地なため、外界から閉ざされた秘境のようなところだった。
国道はその先にある上島トンネルをくぐり抜けていくが、その手前左手にある日月神社を過ぎたところで右手の橋を渡ると八日市場集落がある。
三叉路には金毘羅、秋葉大権現の他、馬頭観音や庚申塔などの石神仏が鎮座するが、江戸時代にはここから山道を進んだといわれるところである。
「 八日市場には当時、四、五軒の兼業馬宿があり、この石造物群と横の御宅は茶屋の屋号で呼ばれ、馬宿と茶屋を営んでいた。 」
上村川に沿って進むと、右側に新道の完成で祀られた馬頭観音がある。
馬頭観音の手前にある道は新道である。
更に進むと上島集落に入り、左側に二体の馬頭観音が舗装された秋葉道から少し遠山川に沿って進んだ崖の途中に祀られている。
「 江戸時代の秋葉街道はここから急坂を登っていったので、弱って亡くなった馬を供養したものだろう。 」
集落の入口には十王堂があるが、この地を遠山土佐守が最後を迎えた場所とする伝承もあるようである。
この先で右にぐるーと回る道に出るが、上島トンネルが完成する前の国道であろう。
トンネルの先で国道と合流するが、その先の右側には梨元ていしゃばという変わった建物があったが、その先を右に入ると木沢集落がある。
道は車が一台通るのがやっとで、駐車するスペースもない。
正面に木造の建物が見えたので、入口の坂に車を停めて見にいった。
この建物は旧木沢小学校だった。
「 木沢小学校は明治五年に修身学校の名前で発足し、最初はは八幡神社境内の回り舞台で授業が行われていたが、昭和七年にこの校舎が建てられた。 最盛期の昭和三十四年には二百六十四名の生徒がいたが、その後は減少の一途をたどり、最後は二十六名となり、平成三年に廃校となった。 現在は自由に見学できる施設で、むかしながらの木造校舎に郷愁を感じる人が多いと聞いた。 」
校庭が駐車場になっているのだが、集中豪雨で地盤が緩み、閉鎖になっていたので、木沢集落を歩くのはあきらめた。
集落の中程の右側に 「 中世の城跡 木沢城 約1.5km 」 の標識があった。
なお、木沢集落には木沢八幡宮、文化年間に再建された木沢観音堂、木沢三社(浅間神社、御山塚神社、親城神社)、愛宕神の帳屋がある。
また、秋葉道を行き交う人を見守った文化年間に造られた常夜燈、村人や旅人の祈りが感じられる庚申や馬頭観音などの石仏群がある。
更に、金毘羅大権現と秋葉山大権現の名を刻んだ石造物の周りに、神名を刻んだいくつかの石碑と丸石が鎮座している。
沢に沿って集落が並ぶ北西に位置することから、集落を守る神々だろうと考えられているとあったが、昔は火事や病気が起きても周囲から駆け付けるということも困難だっただろうと思われるので、
神仏に祈るしか方法はなかったのである。
集落にある青龍寺は1605年に開山されたとされ、和田宿の龍淵寺の末寺である。
木沢を過ぎると、国道は対向車とすれ違うことができない区間が多い狭い道になる。
そういたことから 「 国道151号改良促進 」 の看板をあちこちに見た。
道は右に右にとカーブし、その先で左折すると川を渡る。
集落の家は国道の左側の山側や右側は道路より低いところにあり、道路に面して家はなかった。
遠山川に沿って対向車と道をゆずりあいながらくねくね進むと、和田中学校の前に出たが、南信濃村の中心の和田集落の入口である。
旧木沢小学校 | 中世の城跡 木沢城の標識 | 和田中学校 |
和田中学を過ぎると、すぐに上新町バス停があり、このあたりから先が和田宿跡である。
南信濃自治振興センターに車を停めて国道に沿った町並みを歩いたが、
出桁造りの建物が目立った。
国道の左側に石仏があったが、「 おさま婆さま 困っている多くの人々を助けたことで、今も慕われ祀られている 」 という看板があった。
ここは龍淵寺の入口で、石段を上ると龍淵寺と遠山郷土館があるが、ここは和田城址である。
「 和田城は、戦国時代に遠山景広が築き、景直、景重との三代の居城になった。 和田城は盛平山麓の台地とその下の平坦部に築かれた平山城で、当時は遠山川が真下を流れていて、天然の要害になっていた。 初代の遠山遠江守景広は、遠山六ケ村、鹿塩、上伊那などを支配したが、永禄十一年(1569)、武田氏の伊那谷侵攻により、武田側に降る。 その後、武田の下で働いたが、天正十年(1582)、織田と武田で争われた高遠城の戦いで、戦死した。 その子、景直は、織田の天下では不遇だったが、信長の死後、徳川家康、豊臣秀吉に仕え、江儀遠山家を再興した。 江戸時代に入り、徳川家康から加増を受け、四千石の旗本になったが、病弱で子供はなく、元和三年(1617)に病死。 養子の景重が後を継げは問題はなかったのだが、弟の景盛との間で家督相続争いが起こり、 幕府から景重が八百石、景盛が五百石とする沙汰が下されたが、騒動が収まらない。 そのため、遠山家は改易され、遠山郷は幕府の天領になってしまった。 」
龍淵寺は、遠山氏没落後、尾の島にあった遠山氏の菩提寺を城跡に移したもので、龍淵寺が建つ場所が本丸跡で、その北西の観音堂は出丸跡である。
旧和田宿の町並 | おさま婆さま | 龍淵寺 |
龍淵寺を出ると、左側に平成の名水百選・観音霊水があった。 寺の境内から湧き出している天然水で、水に含まれているミネラル分のうち、カルシウムとマグネシウムの含有量が非常に高いという。 その先には和田城を模したという和田郷土館が建っていたが、なんとなく入る気がしなかった。
「 和田城址は開墾されたり、和田郷土館などが建てられているため、城の痕跡は残っていない。 また、城を守っていた遠山川も享保三年(1718)七月の大地震で盛平山の一角が崩れたため、流れが大きく変わっている。 」
ここからの和田の展望はよい。
先程訪れた上村と違い、江戸時代の初期までは遠山氏の城下町だったので、町並は大きかった。
また、明治以降、飯田線の平岡駅が開設された後、遠山地方の玄関口として賑わった痕跡が残っている。
なお、盛平山山頂には「オハチ」と呼ばれる平地があり、遠山氏の物見台があったと伝えられるところがある。
観音霊水 | 和田郷土館 | 城跡からの展望 |
下に降りて、国道を進むと天然温泉神代の湯、旅館大島屋の先で三叉路になり、直進する道は上り坂、右折する道の間には
「猿田彦大神」と「金山大神」と刻まれた石碑があった。
このあたりは上町だが、江戸時代の宿場はこのあたりと思い、駐車したところに戻り、
国道を越えて、西に向かい川に架かる橋を渡ると、道の駅とかぐらの湯がある。
かぐらの湯の建物の前には天狗の面をかぶった銅像があり、湯立神事の姿をしていた。
「
かぐらの湯は、これまで数度訪れたことがあるが、その名の由来になっているのは国の重要無形民俗文化財に指定されている湯立かぐらである。
毎年十二月に入ると、遠山郷の各集落の神社では霜月祭が行われるが、その際奉納されるのが湯立神楽である。
この祭は前述した上村でも行われているが、遠山一族の霊を慰める祭りともいわれている。 」
当日は道の駅の特別イベントが行われていて、その関係から入湯料は五百円の割引料金だった。
この先、青崩峠を越えて、秋葉神社まで行かなければならないので、あまりのんびりできない。
天然療養泉とある硫黄を含んだナトリウム・カルシウム塩化物泉に入り、お食事処味ゆ〜楽で、九百円のソースかつ丼を注文し、わずかの間の休憩になった。
食事を終了したのが正午前である。
時間が早かったので、温泉施設は空いていたが、食事を終える頃には駐車場は満杯になっていた。
駐車場を出て南に向かいと、先程の三叉路を右に向かった国道に合流した。
この道はその先の三叉路で、直進する国道418号と左折する国道152号に分かれる。
国道418号を進むと、JR飯田線の平岡駅があり、その先で左折すると以前訪れたおきよめの湯の前を通り、新野東で遠州街道の国道151号に合流する。
この三叉路の左側に諏訪神社があったが、国道152号を進むとすれ違いが難しい一車線半の道路である。
この道を利用する車は少なく、大部分はバイクである。 バイクを走らせるには左右にカーブし、高低差もあるのでスリルもあり、楽しいことだろう。
龍淵寺から二キロ南、右手に八重河内川を見ながら南下すると、右側にそば処福福亭があり、その先の三叉路を左折すると、
右側に梶谷川が流れているが、左側に水車があった。
その奥にあるのは旧八重河内小学校の跡地に建つ、いろりの宿・島畑で、その先には遠山焼の陶芸館があった。
このあたりは八重河内集落で、急な坂の上には段々畑が展開していた。
国道に戻ると右側に番所の表示があるので、車がなんとか渡れる橋を渡り、三叉路を左折した先の空地に車を置いて、その先は歩いていった。
道が狭いのでUターンできないと困ると思ったからである。
川に沿って少し歩くとところどころに標識があり、
突き当たりの右側に梁ノ木島番所があった。
「 簗の木島番所は、戦国時代の末、領主遠山土佐守が家康の命により大阪の落人を取り締まったことがはじまりで、 遠山氏滅亡後もその末裔が番所を守り、江戸時代には天領から出る榑木材木の番所だったといい、人の取締りより許可のない材木の搬出の監視が目的だったようである。 かつては青崩峠のふもとにあったが、天明七年(1787)の山崩れにより倒壊したため、現在の小嵐川岸に移築された。 明治三年に払い下げられ、遠山氏ゆかりの宮下家の居宅となっているという。 」
番所は明治時代まで続いたとあるが、宅子さんの東路日記には記述がない。
東路日記に、「 辰のわたりという処で昼食をしたためようとしたが、このあたりはまことに山家で、腰をかけられそうな家さえなく、仕方なく、 持参した乾飯と塩で飢えをしのいだ。 」 とあるのはこのあたりだろうか?
乾飯は戦国時代の兵士は常備食として持参したものであり、第二次大戦の時には一般家庭でも作成された。
いろりの宿・島畑 | 遠山焼陶芸館 | 簗の木島番所跡 |
旅をした日 平成23年(2011)8月7日