秋葉街道は、遠州街道ともいわれる道で、三州街道の追分である飯田八幡宿(飯田市)を起点とし、
遠山郷を経て、秋葉神社に通じる道である。
当初は遠州の相良から諏訪地方に塩を運ぶ道として始まったが、江戸時代中期以降、秋葉信仰が盛んになるにつれて、
秋葉詣での信仰の道になり、あきばみちと呼ばれるようになり、明治に入ると秋葉街道となった。
現在の秋葉街道は国道152号であるが、峠に向かう途中で、車道がなくなるという、珍しい国道でもある。
秋葉神社へ行くには、茅野方面からは杖突街道で地蔵峠を越えて、
上村に出るか、三州(伊奈)街道の飯田八幡宿から、
あきばみち(明治以降秋葉街道と呼ばれた)で小川峠を越えて、上村に出た。
どちらの道も難路だったといわれるが、江戸時代の後期にこの道を歩いた記録が残る。
天保十一年(1840)、北九州の商家の内儀、小田宅子さんが千三百キロの旅の記録を記したのが東路日記で、 この記録を基に書かれたのが田辺聖子先生の 「 姥ざかり花の旅笠 」 である。
彼女等は江戸見物を終え戻る途中、幕府の関所改めを避けるため、
厚木から諏訪に周回し、岡谷から三州街道の宮田へ出ている。
宮田宿では竹屋という宿に泊まり、朝まだき宿を出て、片桐を経て湯沢村に宿泊。
翌日の小川峠へ控え、早めに宿泊しているが、その様子は以下のように記している。
「 その前日は湯沢村につき、日が高いけども泊めてくれるところに泊まった。 明日の難所にそなえてのことであろう。 この家の庭のわたりに五木湯といふ物を作りて旅人にほどこすなり。 所がらにては、いたう嬉しうなん。 」
田辺聖子先生は、 「 この五木湯は風呂のことであろう。
本来、五木といえば、梅、桃、柳、桑、杉をさす(梅と杉の代わりにえんじゅ、梶を入れることもある)。
その葉や木肌は体によいというので、湯に投じて薬湯とする。 」 と注記していて
『 杉の香りが漂い、いかにも山中らしいもてなしで、
「 所がらにては、いたう嬉しうなん 」
と宅子さんが書くのは尤もであろう。 」 と書いていて、
鄙びたところでの思わぬ湯に感激したことが書かれている。
宅子さん達が泊まった宿は残っていないと思っていたが、偶然、旅館小川乃湯のホームページで発見。
それによると、 「 今から八百年前の久寿元年(1154)に医泉寺温泉として開湯し、その後、湯澤家の初代が小川乃湯を始めた。
また、五木八草湯とは、室町時代から使われていた薬湯で、五木とは、浴用効果のある柳・えんじゅ・桃・桑などの樹木を組み合わせ、
八草は、菖蒲・ヨモギ・おおばこ・蓮の葉・オナモミ・スイカズラ・クマツヅラ・ハコベのことをいう。 」
とあり、宅子さん達が泊まったことも書かれていた。
これが事実だとすると、宅子さん達は飯田八幡町の手前の元善光寺あたりで三州街道と分かれ、
小川乃湯に泊り、翌日、小川路峠を越えたことになる。
旅館小川乃湯 | 湯泉大神碑など | 喬木村歌碑 |
宅子さんの日記には、湯沢村とあるが、現在は喬木(たかぎ)村である。
周囲の町村は今回の合併で、飯田市に編入になる道を選んだが、喬木村は小さくても存在感がある村でいたいと残ったようである。
村役場の近くには農協や歴史資料館があったが、旅館小川乃湯は村役場から千五百メートル程離れたところにある。
小川の湯は上記のように古くからの医泉寺温泉だが、冷泉である。
見た感じでは旅館小川乃湯(0265-33-2061)はあまり繁昌しているように思えなかったが、日帰り温泉も行っている。
ー 360円 12時〜21時(受付は20時30分まで)
旅館の前に湯泉大神と書かれた碑があった。
また、役場から小川湯に向かう途中に県道251号の脇に喬木村歌碑があり、
その中に小川湯の表示があった。
宅子さん達は、翌日、小川峠を越えて上村(かみむら)に宿泊。
宅子さんが 「 足つまずくな岩むらの道 」 と詠んだ険路は、これこそ有名な難所、小川峠であった。
東路日記によると、 「 小川路峠の朝は雨だったようで、 雨さえ降る中を宅子さんらはやっと久保という所に着く。
馬を借りようとしたが、折も折、時期が悪いとて貸してもらえない。 」 とあり、雨の中の峠越えだったようである。
宅子さんは越久保の様子について、 「 このあたりは築土をひきめぐらした立派な家が多く、鄙には稀なただずまいであるのに畳というのを敷かず、
わらむしろようの物のみをしけり 」 と驚いているが、
田辺聖子先生は、 「 北九州より信濃の文化レベルが低かったのであろう。 」 と評している。
この後、「 険路を五十丁ばかり登ると雨も晴れてきた。 かんばた峠というそうでであった。
八丁ほどいって、おそ田、ついで上村、ここの升屋という宿に泊った。 」 と東路日記に書いてある。
宅子さんが書いた久保は現在の越久保だろう。
国道256号は伊那八幡の交叉点から水神橋を渡り、下久堅知久平を経て、南南東の上久堅の越久保(こいくぼ)集会所に至る。
この道は小川峠(現在は小川路峠と呼ぶ)を越えて、上村に至る秋葉街道であるが、国道256号はここで途切れてしまっている。
平成十八年十二月七日、旅行社の歩くツアーで、小川峠を訪れた。
小川峠の入口は、現在の飯田市、旧上久野村越久保である。
集落の人口は千五百人位で高齢者の比率は飯田市の他の地区より高い。
街道筋には大きな古い家が点在するので、江戸時代には旅人用の旅籠があったように思えるが、
地元の人の話では 「 明治に入ると、養蚕が盛んになり、蚕を飼うため、二階建ての建物や離れが使われたので、大きな建物なのだ。 」 という
説明だったので、旅籠だったのかははっきりしなかった。
当日は越久保上の公民館をスタート、しばらく国道を歩くと、道の縁に石仏が並んで置かれていた。
右側の神社に上る道の左側にも、庚申塔や馬頭観音などの石碑群が建っていた。
国道から離れたところにも、小さな社や馬頭観音などが見えた。
やがて右側に水場があり、その先の石段を十歩ほど上ってところに一番観音の社(やしろ)があった。
中が薄暗いので見えなかったが、宝暦九年に上伊那高遠の石工により彫られた七十センチの観音像が祀られている。
この先に地元の小学生が作ったという木柱があり、左の山道が秋葉街道であると書かれていた。
大きな古い家 | 石仏群 | 一番観音の社 |
ここから小川路峠までは旅人の安全を祈って建てられたという三十三観音があり、前述の社の石仏がその一番である。
山道とはいえ大したこともないだろうと思ってタカをくくっていたが、予想に反した。
すでに葉を落とした山道はかなり厳しかった。
ここから六番観音までは「すん坂」と呼ばれる。
高低差は二百メートル、その間の距離ははっきりしないが、千五百メートルくらいと思うので、かなりの登りであった。
雑木林ばかりかと思っていたが、松林もあり秋にはマツタケが取れると、ガイドが説明してくれた。
道から少し高いところに観音像が二番からある程度の間隔で建っている。
これらは道標の役割をはたしていたのだろう。
五番観音は少し高いところにあったので登ると、中央アルプスが雪をかぶり、下には矢筈ダムと喬木ICが見えた。
六番観音まで上ると、右から国道が合流してきた。
六番観音の隣にある道標は円筒形をしている珍しいものだった。
秋葉街道はこの後、尾根道を歩き小川路峠を越えて上村に行くのであるが、今回のツアーはここまであった。
小生は秋葉街道を上村まで歩くと思っていたので残念だったが、ここから国道を引きかえす。
国道は車が1台だけ通れる舗装した道で、どんどん下って行くと、卯月山へ行く道と合流し、そこに大きな案内板があり、ここに車の進入禁止のガートがあった。
ここにあった馬頭観音は頭が三つある珍しいものである。
この後は国道を下り、越久保上の公民館に戻った。
すん坂 | 六番観音と円筒形道標 | 三体馬頭観音 |
小川路峠の盛衰
資料で調べてみた小川路峠を越えの盛衰は以下の通りである。
「 飯田八幡から上村までの小川峠を越える道がいつ開通したかははっきりしないが、最初は遠山郷の五千人の住民の生活物資を運ぶ道として造られたものである。
江戸中期に入ると、秋葉神社詣が盛んになり、多くの人に使われるようになり、
明治にかけては、飯田から上村までの五里の峠越えの道を一日百頭もの牛馬が通行したといわれる。 」
「 江戸時代、遠山郷は米作は出来ず、粟や稗しか採れない寒村であったので、全ての物資がこの峠を利用して運ばれた。
明治になっても都会に出るにはこの峠しかなく、初めて峠を越えた人が飯田盆地を見てこんな広い土地があったと驚いた、という話が伝えられている程、隔離された土地だったという。
遠山郷に赴任する教員や警察官が上り半日、下り半日かけての険しい峠越えで、職を辞す気持ちになったと言われることから、この峠には辞職峠という名が付いたとある。
小川峠越えの道の最盛期はこの時代で、その後、寂れていく。 」
昭和十二年の飯田線全通で、平岡から遠山川沿いに県道が出来、また、昭和四十三年、曽山の下にトンネルが開通、更に平成六年には三遠南信自動車道(現在無料)が開通した。
現在もこの道は国道256号(旧152号)として地図上には存在するが、越久保の一番観音を過ぎ、卯月山(1102m)登山道との分岐点で、
車の通行は禁止されている。
国道の現場にいくと、 「 この先、車両通行不能 」 という看板があり、ゲートで遮断されている。
地元の人の説明ではそれから先は林道の扱いで一般車両は通れない。
ゲートを持ち上げれば、その先まで行けるが、一車線の巾しかなく、しばらく行くと広い空き地に出て、そこから先は車ではいけない。
広い空き地は林業や工事関係者の自動車や作業者や資材をおくための場所のようである。
そうしたことから、車は三遠南信自動車道の矢筈トンネルを抜ける道を行くことになり、秋葉街道の小川峠越えの道は使われなくなったのである。
現在の国道256号が全通することは、北側で工事中の三遠南信自動車道を見ると考えられない。
秋葉街道(国道256号)は荒れるままに任せてきたが、十年くらい前から地元の努力で街道の復元が行われ、クマザサなど藪の除草、ガレ場に丸太などしっかりした木橋を架け、道標を完備され、
最近は秋葉街道の歩く道として売り出し中である。
小生が参加したツアーもその一環で行われたもののようである。
小川峠(現在名小川路峠ー標高1642m)までのルートは、越久保→すん坂→六番地蔵→大曲の頭→馬の背→大曲り→ササンタ→金比羅→汗馬沢→清水タレ→堂屋敷→火ぶり場→石休み→横峠→小川峠という行程で、
越久保から六番地蔵までのすん坂のような急坂はないが、峠までは更に数百メートルの高度差を上ることになる。
この間、標準で三時間半、早足の人なら二時間かかるという。
更に、小川峠から上村までは標準で2時間半である。
今回の歩きはやや消化不良であったので、機会があればもう一度訪れ、小川路峠まで歩いてみたいと思った。
旅をした日 平成18年(2006)12月7日