上街道は、尾張藩が設置した街道で、名古屋城東大手門から中山道の伏見宿とを結んでいた。
この道は別名木曽街道とも呼ばれ、小牧宿、善師野宿、土田宿が置かれた。
善師野宿は、土田宿と共に中山道開設当時は中山道の宿場だったが、
中山道が太田の渡し経由になった以降、上街道だけの宿場になってしまった。
平成二十三年四月六日(水) 七時五十四分、名鉄小牧線楽田駅に到着し、
前回終了した楽田追分までいく。
ここは江戸時代の稲置街道の追分で、
三叉路の角の犬山チャペルには道標があったと思い探すが、
チャペルの垣根にはなく、
左側の家の境界のところに押し込まれたように置かれていた。
ここには、「左 三光神社 右 善光寺」と刻まれているのや、
「右 きそみち 左 犬山みち」と刻まれているものなど、三つの道標があった。 。
左に進むのは稲置街道で、三光神社のある旧稲置村、尾張徳川家附家老だった成瀬氏の居城、犬山城に至る。
上街道は右側の道(県道188号)である。
少し行くと右側に祠があり、それを取り囲むように西国巡礼碑や石仏群があった。
祠の左端の石仏には 「 文政十二年 村中 ・・・ 」、隣の石仏には 「 追分講中 」 と書かれていた。
江戸時代の楽田追分には立場茶屋がたち、 今とは違って、かなりの賑わいだったようである。 また、明治後期には名古屋と犬山間に乗合馬車が走り、その乗場になっていたという。
小牧線の踏切を越えると、左側には民家が続くが、右手は畑である。
畑がとぎれるあたりの左側の白い壁の家の手前の垣根前に
「明和弐○ 諸神諸菩薩」 と書かれた石碑と
「明和八卯年ニ月吉日 西国一番那智山」 の銘がある石仏が祀られていた。
○の部分は文字鮮明でなく、読めなかった。
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左側に屋敷門の家があり、その家の反対側には大きな樹木が茂り、
その下に瓦屋根の祠があった。
祠の中に一体の大きな石仏、外にも一体の石仏があったが、地蔵菩薩なのだろう。
交叉点を過ぎた民家の前の樹木の傍に 「五里塚舊跡」 という石柱が建っていた。
気をつけていないと通り過ぎるところで、
小生もしばらく歩いてから引き返して見付けたが、
ここは清水御門から五里の一里塚があったところである。
楽田原集荷場から二百メートル先の左側に 「村社 神明社」
の標柱と鳥居がある。
その奥の桜は満開、永代常夜燈には 「嘉永五年壬子正月吉日」 「願主 追分 丹羽吉左衛門 鈴木久左衛門」 とあった。
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そこから三百メートルいった三叉路の右側に常夜燈と桜の木があり、
奥に小さな祠がある。
この祠は津島神社で、祠の中には津島神社の御札が祀られている。
そこから三百メートル程のところに、県営羽黒住宅がある。
この交叉点を左折して二百メートルの大きな通りを横断して、 更に二百メートル行くと小牧線の踏切に出るが、 その手前の路地交叉点に 「野呂助左衛門之碑」 と 「野呂塚と八幡林古戦場」 の説明板がある。
「 この地一帯は、八幡林古戦場といわれている。
天正12年(1584)3月17日、ここでの戦いは、続いて起る小牧、長久手合戦の緒戦ともいうべき合戦であった。
豊臣秀吉方美濃兼山城主、森武蔵守長可(森蘭丸の兄)は3000の兵を率い、
家康のいる清洲をうかがおうと羽黒八幡林に陣を構えた。
家康方の酒井忠次、榊原康政ら5000と未明からの激戦となったが、
森勢の惨々たる敗北となった。
鬼武蔵の異名をもつ長可が身をもってようやく逃れることができたのは、
長可の忠臣、野呂助左エ門、助三父子の勇戦奮闘の末の戦死があったからである。
ここは小牧長久手の戦いの前哨戦が行われたところで、森長可の家臣、野呂助衛門が討死した地で、野呂塚と呼ばれている。 」
北側には五条川が流れていて、桜が見事に咲いていたので、桜を見ながら先程の県営住宅に向かって戻る。
少し寄り道をしたが県営住宅前に戻り、
五条川に架かる橋を渡って北に向かう。
少しいくと左側に石仏群があり、金網越しに桜が見えたので、
そちらに向かうと、駐車場の一角に一本の大きな桜があった。
ここは北東にある観音寺の敷地と思われるところで、一部は墓地になっているが、広大な土地の中の桜の木は大きく、花は満開で美しかった。
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観音寺は天平十九年(747)に美濃芥見に建立の後に、 現在地に移ったといわれる寺で、明治元年の入鹿池決壊で流されたが、 明治十六年に再建された。
朝日交叉点で、県道188号は終わるが、上街道は交叉点を越える。
なお、右に八十メートル入ったところに 「入鹿池決壊明治元年五月朔日朝日被害甚大 」 と書かれた入鹿池洪水溺死者霊群塚がある。
「 明治元年(慶応四年)、長雨が続いた旧暦五月十四日、 入鹿池の堤防が決壊し、その濁流は丹羽郡(現在の犬山市、江南市、扶桑町、 大口町、旧川島町)の六十二村を飲みこむ大惨事となり、 死者九百四十一人を数えた。 その時、この地でも多くの溺死者が出たため、後年になって慰霊碑を建立したものである。 」
朝日交叉点から両側に田畑が続く道を七百メートル程行くと、
交叉点の先に羽黒変電所がある。
羽黒変電所の前の右にカーブする道を道なりに進むと、新郷瀬川に架かる合戦橋にでる。
合戦橋の由来は分らないが、秀吉と家康の小牧・長久手の戦いがあったので、その戦場になったのだろうか?
川の両岸には桜が植えられていたが、満開の桜は青空に映えて美しかった。
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合戦橋を渡り、少し行くと三叉路に出たが、三叉路の角にある馬頭観音は、
「ひだりさとみち みぎやまみち」 と台座にあるので、
道標を兼ねたものである。
この三叉路を右折した先には白山神社がある。
上街道は三叉路の左側を直進する道である。
上街道に入るとすぐの右側に民家のような安戸公民館があり、
建物と道路の狭い空間には「天明四辰十一月」と刻まれた地蔵菩薩が祀られて、その脇には石仏群があった。
「 小生は知らなかったが、お地蔵さんは道祖神と同じ役割で、
集落に入る災いを防いでくれるという信仰があったようである。 」
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安戸集落を抜けると田畑で、道は右にカーブしながら進むが、左側に新郷瀬川が流れて、桜が咲いていた。
荒神川に架かる小さな橋を渡ると前原集落に入ると、前原交叉点の手前右側には木でできた常夜燈と小さな祠、そして、山神碑が祀られていた。
上街道は前原交叉点を直進する。
前原交叉点を右折して県道191号を少し行くと左に入る狭い三叉路があるが、
直進すると、
正面に 「式内虫鹿神社」 の標柱と鳥居が現れる。
境内には、宇治土公碑や山神碑も祀られていた。
「
虫鹿神社は、延喜式神明帳に「丹羽郡虫鹿神社」と
記されている古社である。
このあたりは前原台の森で、その中に虫鹿神社があるのだが
、大同メタルの工場などで、敷地はかなり小さくなった、といわれる。 」
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上街道に戻り、北に向かうと右側の樹木が茂る森に、 「天道宮神明杜」の標柱と鳥居があった。
「 天道宮神明杜は、安閑天皇の勅願により、
奥入鹿村の天道山に建立された天道宮が前身である。
入鹿村の歴史は古く、縄文時代後期とされる入鹿沼遺跡があり、
また、安閑天皇二年(535)には入鹿屯倉(みやけ)が設置されたが、大化二年(646)に廃止されている。
小牧原から楽田、この前原あたりは高地で水がないため、江戸時代になるまでは原野というか荒野だったのだが、今は広々とした田畑に変わっている。
現在のように変わったのは、
寛永九年頃から始まった尾張藩による入鹿池の造成によるが、
一方ではそのために住みなれた地を離れなければならない人達もいた。
前原の人々の祖先には入鹿池の湖底沈んだ奥入鹿村から移転してきた二十四戸の村人たちがいる。
天道宮神明杜は、奥入鹿村が入鹿池の造成で廃村になったため、
住民と一緒にここに移転してきたという神社で、
当時は天道宮と白雲寺で構成されていた。
明治三年(1870)に神仏習合の神宮寺である白雲寺は廃寺となり、
天道宮は神明社と合体して、現在の名前となった。 」
鳥居をくぐり参道を歩くと, 愛知県の有形文化財に指定されている楼門がある。
犬山教育委員会の説明板
「 楼門の構造は入母屋造、桟瓦葺き、三間一戸楼門、高さ8.1メートル、
桁行約5.2メートル、梁間約3.0メートル、
桃山時代の遺風を残すが、創建年代は不明である。
平成10年 県道にかかり、楼門は遺風に近い銅板葺きに替え、
現在地に修理移転した。 」
すなわち、最近までは上街道の近くに楼門が建っていた訳である。
上街道から神社の本殿までは二百メートル以上もあり、参道には広葉樹におおわれていて、厳かな空気がただよっていた。
本殿の近くに白雲寺の古井戸が防護ネットに囲まれて昔の面影をとどめているのが、廃寺となった唯一の遺跡である。
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上街道に戻ると、道路の左手奥に福昌禅寺の標柱があった。
福昌禅寺は臨済宗妙心寺派の寺院である。
「 入鹿池に開創されたが、入鹿池築造により、 寛永十一年に村民と共に移転した。 」 と伝えられる寺だが、その建物や庭は最近造られたように新しかった。 また、寺と県道の間に、 御嶽神社の石祠や御嶽大神や照房大神などと書かれた石碑群が祀られていたが、 「 県道拡張ニヨリ移転 」 と石柱にあった。
福昌寺を出て三分程歩いたところに常夜燈が建っていた。
道は右に左にカーブし、信号交叉点に出た。
楽田から歩いてきた上街道は県道188号線、通称善師野西北野線である。
交叉点の左右の道は県道49号線である。
両方とも県道だが道幅が狭いので、路地の道を渡る感覚で交叉点を渡ったが、
その先カーブすると広い道に出た。
県道188号線は先程の交叉点の右手にバイパス工事が予定され、
この広い道が将来的には楽田方面に延びていく。
前方に国道41号の高架橋があり、道の右手には新池中島池の堤防がある。
高架橋の奥に善師野の山が見えてきた。
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国道の下をくぐると左側にレストランがあったので、 中に入り牛すじカレー(980円)を注文し、昼食兼休憩をとった。
「 二十分程で店をでたが、時計を見るとまだ十二時だった。
しかし、この後土田まではコンビニも飲食店もなかったので、
ここで食事をとったのは正解と思った。 」
城東橋西交叉点の左右の道は県道64号線である。
城東橋西交叉点の左に二、三百メートル程行くと熊野神社がある。
ここでは虫送りの行事、塔野地獅子舞が七月十二日に行われる。
上街道は交叉点を直進するが、右側に城東小学校があり、
学校との間に郷瀬川が流れている。
道側の桜の色と川向こうの学校の桃色の花とがコントラストをなしていた。
「 丁度入学式が終えたところで、 父兄に手をひかれた新一年生があどけない表情をしていた。 」
小学校を過ぎたところの川の向こうに大きなヤマザクラがあり、
丁度満開を迎えて、絢爛に咲いていた。
今日は桜のあたり日で、朝から桜の美しさを堪能しながら歩いている。
県道はその先の三叉路で右折し、岩田橋を渡る。
右側にため池のような池があり、そこには 「四十八池 ↓小野洞池 中島池新池↑」 の道標が建っていた。
特に特徴もない池なのに道標があるのはなぜだろうか?
そのあたりから道は上り坂となったが、すぐに下り坂に変わった。
右側の白いモクレンが大きく美しい。
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道は右にカーブするが、左手には名鉄広見線の赤い電車が見えた。
溝のような小さな用水を渡ると、右の三叉路の角に 「護應山清水禅寺」 の標柱が建っていた。
「 清水寺(せいすいじ)はここから五百メートル上流の清水洞にある寺院である。
最初は法相宗だったが、現在は臨済宗妙心寺派である。
延暦二十四年 坂上田村麻呂の創建で、
中興開山は悟渓和尚、その後、寛永二十年僧空屋の再建されたと伝えられる古刹である。
」
県道はこの後左に曲がっていく。
その先の三叉路を左折すると、清水公民館がある。
その先で、左側からの県道186号、通称御嵩犬山線に合流した。
「 この県道は犬山を起点とし、国道21号岐阜県可児市上恵土を終点とする道で、 岐阜県に入ると県道122号に名前を変えるが、 別名は上街道(木曽街道)といわれている。 」
県道には歩道が設けられていないので、白い線の中を歩く。
左右に県道461号があるが、そこを横断すると
左手に善師野駅が見えたので、その道に入っていった。
善師野駅の前の狭い道を左に進み、
広見線の線路を越えて反対側に出る。
三叉路の左側に小さな祠が祀られていた。
このあたりが江戸時代の善師野宿(ぜんじのしゅく)の入口だろうか?
「 善師野宿は、土田宿と共に中山道の宿場だったが、
中山道が太田の渡し経由になり、上街道だけの宿場になってしまった。
開設された当時は、善師野宿から犬山まで行って、
そこから木曽川を渡っていた。
尾張藩の領地内を歩くことを幕府が恐れたのか、太田の渡しで対岸に渡るように変わった。
その結果、善師野宿は、濃州徇行記に、「 駅停ナレトモ旅舎モナク貧村 」と記されているような小さな寂しい宿場町になっていた。
善師野宿は小さな寂しい宿場町だったが、
中山道の大田渡しが満水の時は迂回路として利用された様子である。 」
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上街道は右側の狭い道で、少し先右側の空地の隅には、 「佐助地蔵」と呼ばれる小さな祠があった。
その先の右側に伏屋公民館があり、その壁に 「木曽街道(旧中山道)禅寺野宿場(伏屋地区) 概要図」 と書かれた地図があった。
「
概要図には、善師野宿ではなく、禅寺野宿になっていた。
この地図を見ると、佐助地蔵の道の反対には番人が宿場町に出入りする人を見張っていた御番屋があった、とある。
伏屋公民館の隣に御用井戸があり、
その反対側(左側)に問屋の沢木家があったとされるが、当時の建物もなく、
表示もないので確認できなかった。 」
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その先の右の三叉路の先に当時の常夜燈が残っていた。
三叉路を右折すると、左の小高い山の入口に神明神社の鳥居があった。
「 江戸時代には道の反対の右側に郷屋敷があったという。
左側の鳥居は文明五年(1473)創建の神明神社のもので、その奥には天正七年(1579)創建と伝えられる愛宕神社がある。 」
上街道に戻ると、その先の左側に 「福寿山禅徳寺」 の標柱があり、 その傍に 「 山門不幸 」 の立て札が立っていたので、 住職か誰かに不幸があったのだろう。
「 禅徳寺の山門に至る参道の右側には石仏などが祀られていたが、その中の一体を見ると、「善師野村」とあったので、 「善師野宿」の標記で間違いないと思った。 」
先程の概要図には、禅徳寺の先の左側に日比野家本陣があったように標記されているが、そこには普通の民家が建っていた。
「 善師野宿跡には前述の概要図以外には、 案内板などは一切設置されていないので、それが正しいのか確認のしようはなかった。 」
善師野宿は小さな宿場町なので、入口から出口まであっという間に通り過ぎてしまった。
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旅をした日 平成23年(2011)4月6日(水)
上街道(木曽街道) 目次 続 き C 善師野宿〜土田宿〜伏見宿