上街道ができた当時は伏見宿はなく、
中山道の木曽川の渡しも土田の渡しだったので、
土田宿は大変賑わっていたという。
しかし、木曽川の流れの変化により、渡し場が上流の今渡に移転となり、
土田宿は中山道のルートから外された。
さらに、間の宿だった伏見が中山道の宿場に指定され、
土田宿は上街道のみの宿場に転落したので、宿場は衰退の一途をたどった。
旧善師野宿の家並が途絶えると正面の山に近づいていくが、 道はまだ舗装されていた。
上り坂は急になり、右にカーブする手前の傾斜地に馬頭観音と一里塚旧跡碑があった。
道標を兼ねた石碑には、左面に 「左 犬山及小牧宿へ三里 」 、中央に 「 木曽街道一里塚旧跡 」、
そして、右面には 「右 土田宿へ二里 」 と刻まれていた。
ここは名古屋から六里の一里塚があったところである。
ここから上街道で唯一の難所、石拾峠越えが始まる。
道標を過ぎると、薄暗い森に入るが、左側に竹と縄で結界を作った中に小さな祠が祀られている。
前述の概要図によると津島神社のようである。
その先で左に上る道もあるが、そのまま山裾を歩くと、
川に沿って延びてきた道と合流する。
その先の道は舗装が荒れたような道で、右側に川が流れている。
左右にカーブしながら、森の中を上っていくと、 右手にコンクリートの擁壁が現れ、更に上ると農業用貯水池の大洞池に出た。
「 大洞池はそれほど大きな池でないが、
空の青を水面に反映してなかなか美しかった。
池との間に防御柵はないが、四月に入ってから雨もなかったので、
滑り落ちる心配はなかった。 」
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池を過ぎた交叉点の手前には休憩用のベンチが用意されていた。
ここには東海自然歩道の道標があり、 「← 熊野神社0.6km10分 」 「 寂光院2.7km1:45分 → 」 とあった。
この道標の矢印は小生が歩く方向と反対側に付いていたので、
寂光院は左折、熊野神社は右折である。
「 寂光院はこの西方の犬山市継鹿尾の寺院で、 右折する熊野神社への道は車が通れる道で、 降りていくと先程川沿いの道と合流した地点の右側に出られる。 」
上街道は交叉点を直進し、両脇の木立の中を上っていく。
最初は土が主体の道で自動車でも上れそうだが、
途中に通行禁止の柵があった。
傾斜がきつくなると、石拾峠の名の通り、
ゴツゴツした石が道に転がっていて、少し歩きずらかった。
ここを過ぎると愛知県と岐阜県の県境でもある石拾峠に到着。
「 大洞池から直線にすれば七百メートル程の距離だったと思う。
頂上には休憩用ベンチがあり、一服できた。 」
そこには東海自然歩道の道標があり、 「←恵那コース 」 「 ↓犬山城3.9km2:00分 」
「 愛知県コース→」 とあった。
また、「 ←東濃コース可児 愛知県コース入鹿池→ 」 という道標もあった。
ここは東海自然歩道のハイキングコースに指定されていて、
コースの中心になるところのようで、
休憩ベンチも東海自然歩道用に設置されているのだろう。
「 残念ながら、上街道の表示はどこにもなかった。
そういえば、「石拾峠」の表示もなかったような気がする。 」
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峠を越えると、岐阜県可児市西帷子になる。
上街道は石が転がる歩きずらい道で、うっそうとした森の中を下っていく。
五百メートルも下ると視界が開けてきて、
左側に水場の表示があったが、 「 この水は飲用に適しません。 」 とあった。
昔はここで水を飲んで峠越えの疲れを癒したのだろうが、今は利用ができないのだ。 残念!!
その先で街道は左からきた車道に合流する。
そこには平成になって建てられた 「← 石原村をへて土田宿 」 「 石拾い峠をへて善師野宿 →」 と刻まれた旧木曽街道の道標が建っていた 。
また、東海自然歩道の 「←犬山 石原→」 「←水場 」 の道標もあった。
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車道を歩き始めたが、民家らしい家はなく、
右手は名古屋ヒルズゴルフコースである。
少し行くと、東海自然歩道の 「←犬山 石原→」 の道標があったが、
その先の頭上をゴルフカートが通っていった。
「 ここは左右のゴルフコースと接近しているので、 プレーしている人達の会話が聞こえる。 」
道沿いには民家はなく、田園風景が広がる道を七百メートル程歩くと、 石原集落に入った。
「 先程の道標に記されていた旧石原村である。
江戸時代、ここは善師野宿と土田宿の中間にあり、
峠越えを控えた場所にあったので、旅人の休憩場所として利用されたという。 」
道は右に左にカーブし、川の脇からの道に合流すると、 左側の山の傾斜に、建速神社の鳥居が建っていた。
「 参道を上って行くと、途中の左側に庚申碑が祀られていて、
上り切ったところには社殿があったが、新しいものだった。
建速神社の例祭は七月中旬に行われる山車形式の提灯祭で、
山車の中央に立てられる真柱には
平年は十二個、閏月の年には十三個の提灯を飾り、一年の月数を表す。
高欄の四方には三十個の提灯で月内の日数を、上部に傘鉾形の三百六十五個の提灯を飾り、1年の日数を表し、この山車を境内で引き廻す式典である。 」
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建速神社の先の右側に石原公民館があるが、 その角に東海自然歩道の道標があった。
道標には 「←1.6km20分大脇 犬山6.1km110分 →」、 「 名鉄西可児駅 →」 と書かれていたが、 西可児駅はここから千メートル以上の距離である。
集落が途絶えると左手に見える山は鳩吹山である。
田畑の中を道なりに五百メートル進むと、集落が現れた。
左側の空地に摩耗した石碑があるが、何かを祀っているのだろうが、
文字は読めなかった。
少しいくと右側に「←真禅寺・鳩吹苑会館」の看板板があったので、
寄り道をすることにした。
参道に入ると、右に 「普傳山」 左に 「真禅寺」 「新西国第七十二番札所」 の標柱があり、その先は桜並木になっていた。
「 真禅寺は、鎌倉時代の文永年間(1264〜1275)に建立された寺院である。 その後荒廃、永正八年(1511)に土田城主生駒道寿が再建するもまた荒廃した。
戦国時代に入り、金山城主の森長可から寺領を受け、菩提寺になったという寺である。 」
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三百メートル程坂道を上ると右側に真禅寺の山門がある。
「
山門と鐘楼の間にある桜の大木は、
推定樹齢百五十年〜二百年のヒガンザクラである。
幹廻りは二メートル六十センチだが、高さは案内になかったが、大きすぎて写真を写すのはむずかしい。 」
その奥には本堂が建っていた。
境内の一角に 「 森武蔵の死後、 「 武士はいや我が跡目くれぐれいやにて候 」 との遺言状がみつかった。(以下略) 』 と書かれた石碑があったが、
森武蔵とは、森武蔵守長可のことで、彼の十八代後の末裔が建てたものである。
「 森家は、八幡太郎義家の六男、源義隆を祖とし、
長可の父、可成は織田信長に仕えた武将だが、近江宇佐山城の戦いで、
浅井朝倉と延暦寺との連合軍に打ち取られた。
また、信長に寵愛された弟の森蘭丸と兄の可隆などを本能寺の変で失っている。
森長可は武勇のみではなく、行政にも長けていたようで、
美濃金山城主として川運を奨励し、城下町の発展を促したと伝えられている。
本能寺の変後は、秀吉の寵愛を受けたが、小牧長久手の戦いで戦死した。 享年27歳の若さだったという。
裏山に森長可の首塚といわれる宝しょう印塔、五輪塔が祀られている。 」
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街道に戻ると、左側に大きなこぶしの木があり、花をびっしりつけて咲いていた。
「 今日は桜も多く見るが、モクレンの花も多く見た。
そういえば、黄色いレンギョウの花も何箇所かで見た。 」
そこから七百メートル行くと、国道41号に出る。
手前の左側に「切り通しの馬頭観音」の石碑とその脇に馬頭観音が祀られていて、その奥に地蔵尊が祀られている。
「碑文」
「 この馬頭観音は、木曽街道の道しるべとして土田・石原村境の切り通しに文化十年(1813)土田村大脇の願主により往き交う人馬の安全と供養のため建立されました。
光背には 右ハかち(徒歩)道 左ハ馬道 川渡ハ東道 と刻まれています。
この木曽街道は、名古屋道・尾張道とも呼ばれています。
元和元年(1623) 徳川義直公の命により、名古屋城下から小牧宿→善師野宿→
土田宿を経て、中山道を結ぶ街道として整備されました。
善師野宿から土田宿へは二里、石原村は立場(休所)もあり、
土田宿から中山道伏見宿までは一里半の道程でした。
嘉永七年(1854)三月 尾張藩主徳川慶勝公は江戸参府(参勤交代)の際、
この街道を通って中山道を江戸に向かいました。
平成十五年二月建立 馬頭観音復元有志一同 可児市観光協会 」
突き当たりは山で、手前の国道41号は高架になっているが、
そこには入らず、左折して、側道の県道349号を歩く。
国道41号の下のトンネルをくぐる。
左側に「鳩吹山遊歩道」の看板があり、その下に降りると渓谷がある。
「 その道をたどると三百三十メートルの鳩吹山山頂に至る。
このコースは大脇コースで、途中二つの山を越え、頂上まで四十五分、
先程訪れた真禅寺脇から上がるコースは直登で四十分とあった。 」
この山は木曽川が見下ろせるのか、人気があるようで、
何人かのハイカーを見た。
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道が左にカーブすると、右側に 「三代の居城 土田城址」 の標柱があった。
また、左側に土田城の説明板と「土田城跡」の石碑が建っていて、
その背後の山が土田城跡と思えた。
土田城は土田政久が築城、土田本家が断絶した後、
養子に出ていた生駒親重の子が城主になったが、天正二年(1574)に退去し、
その後は金山城主の森長可の支城となった。
織田信長の生母、土田御前は土田政久の娘とされ、
彼女の出生地と伝えられている。
説明板
「 土田城址
城の築城紀元は、明応(1492年)〜文亀(150?)の間と推定され(今より約490年前)、城址は本丸、大手門、出丸、大曲輪で構成され、
中世時代の山城の様相をうかがい知る事が出来る。
城址から見る展望はすばらしく、城は小規模で、土田の一土豪に過ぎない身分
から戦国舞台に登場し、一躍十七万石に昇身した生駒氏の出世城である。
土田城の概要
鎌倉時代の功臣、近江の佐々木義詮の末裔、山内秀久が土田に移り、
大炊戸渡しの利権を握り近隣に勢力を伸ばし、土地名の土田氏を名乗る。
かねて親交のあった丹羽郡小析の土豪、生駒家広の娘を妻にした。
長子泰久出世後、家久と秀久は不和となり、妻を離別、家広宅で出生したのが
次子政久(後の土田城主)。
成人した政久は主君(岩倉城主織田伊勢守信友)に仕え、信安の密命を受け、
土田に帰り岩山に築城、以後生駒氏を名乗る。
この地は尾張道の入口の位置にある重要なる要衝の地で、伊勢守信友が尾張を
守る防衛線の出鼻城であり、これを守る義務が土田生駒氏(どだいこまし)の
土田城にある。 」
駐車場と簡易トイレが設置されていたが、鳩吹山登山用という感じで、 土田城址に上る案内図や道標のようなものは見当たらなかったので、 城址を歩くのはやめて、道なりに進む。
その先の三叉路には「左県道361号、右県道349号」の道路標識がある。
左に行くと国道41号の大脇交叉点にでるが、上街道は直進である。
少し行くと可児川に架かる橋があり、橋桁には刎橋(はねばし)とあった
。
江戸時代頃ここに架かっていた橋は本当の刎橋で、
必要時以外は網で橋を吊り上げて通れないようになっていた。
「 天正十二年(1584)の長久手の戦で、金山城主の森長可が長久手で井伊軍の鉄砲隊に狙撃され討たれた際、 森家の家臣田中某が敵の陣から長可の首を奪って、 金山城を目指して落ちていったが、 この橋の袂に森長可のことが嫌いな土田城主生駒氏の兵士がたむろして、 待ち構えていたので、 森家の家臣達は 「 あの橋が落とされたら終わりだ。 」と、 引き返して帷子に住みつき、長可の首を真禅寺に葬った。 」 という話が伝えられている。
刎橋の長さはそれ程ではないが、
川の水面からはとても高い位置にあるので、
江戸時代には 「 土田の刎橋、大田の渡し、碓氷峠がなけりやよい 」 と謳われた難所だったようである。
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橋を渡り、二百メートルも歩くと三叉路にでた。
三叉路を右折する県道361号を直進すると、
名鉄広見線の可児川駅に行ける。
上街道は三叉路を直進する県道349号で、
左手に日本ライン花木センターを遠望して進む。
その先の下町の
変則的な交叉点を右折すると、その先に 「如来報恩寺」 の標柱がある。
右側には木の常夜燈と祠が祀られていた。
このあたりは江戸時代の土田宿の入口である。
参道の先の左側に曹洞宗萬峯山報恩寺がある。
報恩寺の先の交叉点を左折すると、右側に中町公民館があり、
その先で、再び県道349号に合流した。
道の向うに土田小学校、道の右側の屋敷門の前には 「史跡土田宿本陣址」 の石碑が建っていた。
石碑の左面には 「東木曽路」 、右面には 「西尾張路」 と刻まれている。
説明板「土田宿本陣(止善殿)」
「 中山道の宿駅としていつ設置されたかは不明であるが、
幕府が中山道を整備する以前から存在したことは天正一〇(一五八二)年、
織田信長が武田氏攻略、慶長五(一六〇〇)年徳川秀忠が関ヶ原合戦の際、
ここに宿泊していることからもわかる。
東山道の名残りとして、土田→善師野→犬山という経路があったようだ。
また、初代尾張藩主徳川義直も土田宿本陣に宿泊し、この一館を「止善殿」と名付けた。
元禄七(一六九四)年、伏見宿の新設に伴い、
土田宿は中山道の宿としての使命を終えている。 以後の土田宿については、
「濃川殉行記」に次のように記されている。
「 本郷は宿町。 二組にして百戸ほどあり、近来漸々に衰耗せり、
宝暦年の頃までは邦君木曽路へ御通行の時、御家中宿札打べき家も数多ありて、御同勢の御問も合しが、今は頽れ家多出来、
宿内に屋敷跡又は古井戸など のこれり 」
昭和六十二年二月 可児市教育委員会 」
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土田宿は小さな宿場町で、 ここから二百メートル程のセブンイレブンのある土田中町交叉点あたりまでの短さだった。
「 中山道の木曽川の渡し場は、
この時代には土田に設置されていて、
対岸の太田宿と共に助郷村を結成していた。
木曽川の渡し場は、川の流れの変化に合わせ、徐々に上流に移され、
最後は今渡の渡しになった。
これが土田宿にとって大きな影響をもたらした。
更に追い打ちをかけたのが、
元禄七年(1694)の中山道の伏見宿の新設である。
これらにより、土田宿は中山道の経路からはずされ、
中山道の宿場としての使命を終えた。
その後は上街道(木曽街道)だけの宿場町に転落したのである。 」
土田中町交叉点の左側には「白髭神社」の標柱と常夜燈が建っている。
土田の渡し跡へ行きたかったので、白髭神社のお参りを兼ねて、参道で白髭神社へ向かうことにした。
一の鳥居を過ぎると白髭神社の御旅所があった。
その先はうっそうとした木立の中を歩いた。
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土田小学校に通じる車道を横切ると、
参道の両脇は普通の道として使われていた。
白髭神社への参道は四百メートルはあると思われる長いもので、
やっと 「金幣社白髭神社」 と書かれた石碑までたどり着いた。
白髭神社のパンフレットには、「 天慶三年(940) 二月十一日、 平貞盛により草創された。 この頃、平将門が乱を起こした。 天皇は節度使を差向けることになり、 参議藤原忠文を征夷大将軍として向かわせたが、 将門に父が殺された平貞盛は仇を討つため天皇に願い、 勅許されて節度使とは別に関東に向かった。 平定に向かう途中、近江国の白髭大明神にお参りしたところ、 夢枕に白翁が姿を現し、その勝利を約束し、 「 美濃国木曽川の辺り 大炊戸に能菅所ありて住わんと思う 」 と、 言い残して消えた。 貞盛は、大炊戸の地に立ち寄ると白猿が現れ、菅所に案内したので、 里人に命じて造営鎮座を申し渡し、関東に向かった。 これが白髭神社の起源である。 」 とある。
平貞盛が御参りした近江国の白髭大明神は、
琵琶湖の湖西の高島市にある白髭神社で、以前訪れたことがある。
謡曲の「 白髭 」は、近江の白髭神社の白髭明神が縁起を語って、
祝言を述べる曲である。
白髭神社の拝殿に到着した。
上街道の歩きはもうすぐ終わるので、
旅のお礼と家族の健康を祈願した。
拝殿の左には、原道真を祀る大炊戸天満宮があった。
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神社を出ると県道64号の土田下切下交叉点があった。
左折すると右手に中農大橋があるが、
県道64号をそのまま土田渡交叉点に向かって歩く。
土田渡交叉点までは七百五十メートル位だっただろうか?
交叉点を左折し、二百五十メートル歩くと三叉路に突き当ったので、
左折する。
右側に渡公民館があり、その前に 「中仙道一里塚跡」 と書かれた石碑が
建っていた。
「
古代の東山道から江戸初期の中山道までは、土田宿から犬山まで行き、
木曽川を渡っていた。
その時代、ここ渡町には中山道の一里塚があったのである。
しかし、大久保長安が慶長九年(1604)に中山道のルートを変更する。
大井宿から日吉高原を越え、御嵩宿に出るルートに変えると同時に、
犬山経由を廃止し、渡しを土田から太田に渡るルートに変えた。
更に、木曽川の渡し場は激流を避け、時代とともに木曽川の上流に移っていった。
江戸時代中期の天明年間には渡し場は太田橋の下流になり、
一里塚も対岸の太田宿手前に移設された。
更に、江戸末期の慶応年間から昭和の初期には、
太田橋下流百メートルのところになった。 」
渡公民館を西に少し行ったところに八幡神社があった。
「 小生は白髭神社から土田渡交叉点経由でここにきたが、
土田下切下交叉点で陸橋を渡り、北側に出てそこにある細い道に入り、
右折して進むと五又路があるので、左斜めの道を進むと、
ここ(八幡神社)にでる。
江戸時代の上街道は、この道をきたのではないか、と思った。 」
八幡神社の脇の道を北に向かうと木曽川に出た。
「
江戸時代初期の土田の渡しは、このあたりから対岸の祐泉寺の東に渡していたといわれる。
対岸には美濃加茂市の市役所などの建物が見えたが、祐泉寺は低いせいか、
目に入らなかった。
また、土田の渡し場跡も探したが、その位置は確認できなかった。 」
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八幡神社から五〇メートル戻ったところに弘法堂があった。
「 東濃を歩いて感じるのは、
弘法堂と霊場巡りの石碑が多いことである。
また、津島神社や秋葉山の常夜燈、そして、水神や山神など、
神仏への信仰が厚いことである。 」
弘法堂の脇の道を木曽川に向かって五十メートル下ると、 コンクリートに囲まれた桜井の泉がある。
「 中納言行平が 「 吹けば散り 吹かねば水に 影うきて おもしろき 桜井の池 」 と詠んだところである。
江戸時代、このあたりは桜があり、この泉が旅人の憩いの場になっていたというが、今はその風情はなかった。 」
街道に戻り、五十メートル行くと、一里塚のある公民館の前にもどったが、館には「渡クラブ」と表示されていた。
その前を通り、少し歩くと三叉路があり、その角には小さな祠がある。
右から車道が合流するが、左側にはカヤバ工業の社宅群があり、
その先にはKYB北町グランドと続く。
それらが終えると、津島神社があった。
津島神社を過ぎて少し行くと、左に 「別格今渡弘法大師旧跡」 の石柱があり、赤い幟があったので、その方向に入っていく。
神明会館の先に常夜燈と小さな祠が祀られている。
その先には赤い幟が続いていて、目指す弘法堂は、桜の木の下の階段を下りるとあった。
「 弘法堂は野市場弘法と呼ばれ、
文正年間(1466)船頭幸助が川の中に光り輝く地蔵を見付け、
息子と共に水にもぐり、それを持ち帰り庵を造って信仰したと伝わるもので、
眼疾や悪病の御利益があるといわれる。 」
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弘法堂の奥にある階段を下りると、石畳の道が続いているが、
ここが今渡の渡し場だった場所である。
下りたところの左手に、「市指定史蹟 今渡の渡し場跡」の説明板がある。
説明板
「 今渡の渡し場跡は、今渡地区に残る木曽川の渡し場跡である (この対岸の呼称は太田の渡し)
木曽川が出水すると船止めが行われたので、今渡地区には旅人のための宿屋や茶屋が立ち並び、湊町として繁栄したと伝えられる。
明治三十四年三月には岡田式渡船となり、渡し賃も無料になった。
昭和二年二月上流に太田橋が完成し、渡し場は廃止された。 」
鎌倉時代の承久の乱の記録によれば、
当時の官道の「東山道」は下流の土田地区から木曽川を渡り、
大井戸の渡しと呼ばれていた。
江戸時代、東山道が整備されて中山道になったが、
江戸中期までは土田から木曽川を渡っていた。
後期頃から中山道の渡しは今渡地区に移されたが、
土田の渡しは残され、
昭和五年頃には岡田式渡船が採用され運行を続けた。 昭和三十五年頃、
近くに橋が架けられ、渡しは廃止された。
弘法堂から北に百メートル歩くと、太田橋がある。
「
昭和二年の太田橋の完成により、木曽川の渡しは廃止されたという橋だが、歩道部分もない狭いものだったので、歩行者は使用できなかった。
歩道橋は最近完成したといい、それと同時に太田橋の色も塗り直して、
明るい橋になっていた。 」
橋の袂に橋の改修工事の完成を記念して作られた思われる小公園にあり、
そこには 「中山道 太田の渡し 今渡の渡し場跡」 の石碑が建っていた。
石碑には、
「 木曽のかけはし 太田の渡し 碓氷峠がなくばよい とうたわれた 中山道三大難所の一つ 」 と書かれていた。
この小公園には、渡しのイラストの石碑や道標が建てられていた。
「 中山道を京に向かう人は、この渡し場から船に乗って、
木曽川を渡って西に向かう。
江戸に向かう人や木曽地方に向かう人は、
中山道を歩いて東に向かった訳である。 」
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太田橋から少し戻った、旧中山道との三叉路に戻る。
尾張藩が設置した上街道はここからは中山道を共用していて、伏見宿までである。
三叉路を出ると左側に富士浅間神社があった。
「
江戸時代、今渡は、野市場弘法があった野市場村とここの金屋村で構成されていた。
金屋村は鐘楼や鰐口などを製造する職人の町だった。
ところが、木曽川の流れの変化で、今渡に渡し場が変更になったので、
このあたりには旅籠や茶屋などが出来て、賑わうようになった。 」
その先の今渡公民館南交差点を右折すると名鉄日本ライン今渡駅に行ける。
また、左折すると龍の伝説が残る龍洞寺があった。
「 江戸時代には、木曽川の大水が出るとしばしば川止めが行われたので、 今渡は「間の宿」として栄えたとあるが、 古い建物は残っていなかった。 」
交叉点を直進して進むと、左側に「今渡神社」の標柱がある。
今渡神社の社殿までは二百メートル以上あったが、
神社の生い立ちなどははっきりしない。
左側に教会のような建物があり、教会にしては少し変と思ったら、
ウェデングレストランルミエールとあった。
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左側の高いところに 「御料地松下 開墾記念碑」 と
「北辰開運大菩薩」 の碑があった。
そこを過ぎると道幅は広い住吉交叉点に出た。
「 交叉点の左側の道は国道21号で、 その先の新太田橋を渡ると美濃加茂市に入り、岐阜方面にいける。 」
しばらくいくと、JR太多線の中仙道踏切があり、 その先の左側には「辞世塚」と書かれた石碑群があった。
道はその先から右にカーブし、 可茂卸売小売市場のあるところをぐるーと廻り込むように歩いていくと、 国道21号の可茂公設市場交叉点にでる。
ここから伏見宿までは味気ない国道を歩くことになる。
道は上り坂になったが、川合口交叉点からは傾斜がゆるやかになる。
右側にヤマダ電機の建物が見えると中恵土交叉点があった。
交叉点の左側を歩くと、左のラッキープラザと国道の間に、
地下道の入口があり、
そこには 「京・今渡の渡し・太田宿」 「 中山道一里塚の跡 これより約30m東 」 「江戸・伏見宿」 と書かれた道標があった。
この道標はごく最近建てられたものである。
国道21号は岡の上を走っているので、左手を見ると遠くに名は知らないが、山並みが見えて、下には住宅や田畑、工場などが点在しているのが見えた。
そうした風景をのんびりみていくと、左に入る道がある三叉路がある。
国道とはここで別れて、小さな道を下っていくと、
岐阜トヨタの板金工場があった。
坂は上りになり、上り終えると、再び国道に合流した。
右側にアサヒフォージという工場があったが、ここからは御嵩町になる。
そこから少し行くと、左側に上恵土神社がある。
標柱には「上恵土神社」とあるが、
鳥居には 「諏訪 神明神社」 と書かれていた。
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右手の方角に「上恵土城址」があると思ったので、
斜め手前の「たつみ」という店の脇の三叉路に入る。
百メートル程歩いていくとお堂があった。
「 お堂の中央に、大きな石仏が三体、小さな石仏が二体、
両脇に多くの石仏が祀られていた。
上恵土城は平城で、城の主は長谷川五郎右衛門である。
本能寺の変が起きると、信長に可愛がられた森長可が城主の兼山城に攻めかかったが、逆に攻め滅ぼされたという。
城は手前の畑地周辺にあったようだが、その痕跡を探すのは難しかった。 」
街道に戻り、進むと左側に弘法堂が建っている。
入口に 「新四国第八十六番札所」 の石標があった。
少し歩くと、上恵土交叉点に出た。
右側のキグナスGSの角に大正天皇の即位を祝って建てられた道標があった。
それには 「左多治見及犬山ニ至ル約四里 」 、「右太田渡ヲ経てテ岐阜市ニ至ル約九里 」 と書かれていて、太田の渡しが書かれていた。
国道は少しカーブし上りになる。
b国道の脇には正岡子規の 「 すげ笠の 生国 名のれ ほとときす 」 という句碑が建っている。
「 正岡子規は、明治四年(1891)五月、伏見宿に泊まり、
その翌朝、新村湊から木曽川駅まで船旅をしたが、その時詠まれた歌である。
江戸時代の旅人は中山道を歩いたと思っていたが、
木曽川は川運が発達し、荷物の運搬はもとより人馬の輸送も行われていた。 この西方にある新村湊は繁昌していて、明治の初めに旅した正岡子規も利用した。 」
しかし、中央本線の開通と共に、川運業は廃業に追い込まれ、訪れてみると、その跡は竹林になっていた。
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坂道を上ると左側の三叉路に播隆上人の名号碑がある。
「 播隆上人は、江戸時代、山岳修行の場として槍ヶ岳を開山した僧で、 伏見宿だけではなく、此衣村、中村、古屋敷村などに足跡を残している。 」
道が平になると伏見交叉点がある。 伏見宿へ到着である。
「 伏見宿は五町十六間というから、
約五百七十メートルの長さで、家数八十二軒、宿内人口四百八十五名、
本陣、脇本陣、問屋が各一軒、旅籠が二十九軒があった。
中山道開設当時、伏見は間の宿であったが、
江戸中期に今渡に渡し場が移転すると、
太田宿と大井宿の中間の宿場として、新宿となった。 」
寛永十二年(1635)から大名の参勤交代が制度化したため、 五街道が賑わうようになり、街道の整備が進んだといわれる。
「 尾張藩初代藩主・徳川義直は、
慶安三年(1650)まで藩主を勤めていたので、
名古屋城から上街道を利用して江戸に向かっているが、
伏見宿が中山道の宿場になったのは中山道開道の九十年後のことなので、
伏見宿はまだ誕生していない。
また、尾張藩の本陣は土田にあったので、
殿さまはここで宿泊や休憩はなかった、と思われる。
尾張藩が多くの大名が利用する東海道でなく、
中山道を使ったのは美濃の名木のある領地視察を兼ねていたといわれる。 」
交叉点の右側手前にある「御休み処駱駝」は江戸時代の旅籠三吉屋跡である。
「 駱駝は、江戸時代、伏見に旅の興行師が来て、当時では珍しい駱駝を一週間程駐留させたという史実によるものだろう。 」
交叉点の左側には伏見宿一本松公園があり、休憩できる建物があり、「右 御嶽、左 兼山八百津 」 と刻んだ道標が建っている。
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伏見宿は、宿場の規模が小さく、宿場の魅力が少ないため、
川止め以外には素通りするようなところだったので、
宿場経営は難しかったようである。
そこで行ったのが、飯盛り女の稼業で、
旅人だけではなく、周囲の若者などを相手に稼いだようである。
飯盛り女にまつわるところが残る。
交叉点を右折して伏見小学校の前を通り進んでいくと、右側に洞興禅寺がある。
境内の子安観音の左手に、女郎塚がある。
沢山ある石仏の前には「女郎塚の由来」という石碑があった。
「碑文」
「 関ヶ原合戦(1600年)後、中仙道は整備され、京と江戸を結ぶ重要な裏街道となった。
元禄七年(1694年) 太田宿と御岳宿の中間、この伏見に宿場が新設されて以来、伏見は宿場街として栄えた。
里人達は、この繁栄は旅人達の御蔭だと感謝して力を合わせてここに塚を築きて観音様を祀り旅人の道中安全を祈願した。
里人達はいつとはなく女郎塚と愛称し信仰した。
又、一説には、この伏見宿に数多くの飯盛り女が働いていたが、
この女衆中には年寄の身よりのない人も随分いたので、
この塚に懇ろに葬ったので、女郎塚といわれるように成ったともいわれている。
この塚の上には数多くの石仏が祀られている。 」
隣に子安観音堂があった。
車道は「子安通り」と命名されていた。
道の左手に入っていくと、東寺山古墳があった。
「 東寺山古墳は東西に二つの古墳があるが、
四世紀末から五世紀初頭に造営されたといわれるものである。
ここにあるのは二号墳で、全長五十八メートルの前方後方墳である。
民家があるので、全体像が確認できなかった。 」
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伏見交叉点をに戻る途中で右の道に入ると浄覚寺があった。
その前には「尾張藩二代目藩主徳川光友公夫妻の御菩提所」の石碑が建っていた。
「 徳川光友は寺社築造が熱心で、
そのために尾張藩の財政が悪化したといわれる。
元禄六年(1693)に嫡男の綱誠に藩主を譲ったが、
元禄十二年に綱誠がなくなったので、再び、藩主になっている。
この寺が菩提寺なので、伏見宿誕生に影響を与えたかもしれない、と思った。 」
塀に「伏見と浄覚寺」の説明板があり、住職が書いたと思われる。
「 浄覚寺は、 元々は伏見山田庵ヶ洞(寺祠)に天台宗の寺として建立されたが、 慶長年間に現在地に移築、東本願寺の末寺となった。 伏見本陣と寺は隣接していて、緊急の場合は寺に逃込むことができるようになっていた。 また、東寺山古墳は当寺の敷地である。」
境内には、芭蕉の 「 古池や かわず飛び込む 水の音 」 の句碑が建っていた。
「 幕末の頃、美濃地方は、俳句に熱中する者が多く、 この句碑も地元の俳諧の人達が金を出し合って建てたものである。 」
伏見交叉点に戻り、少し進むと右側に公民館がある。
道路に面したところには「伏見本陣跡」の大きな石碑と領界碑
が建っている。
「 ここは、江戸時代、代々岡田家が勤めた、伏見宿本陣があった場所である。
本陣の建物は、門構えと玄関のある百二十坪の建物だったといわれるが、
それを示すものは皆無である。
領界碑には、「従是東 尾州藩」 と刻まれていて、尾張藩の境界を
示すものである。
この石碑は伏見小学校の校庭にあったが、
校庭拡張工事の際、ここに移転された。 」
この先で坂を下っていくと比衣地区に入り、伏見宿は終わる。
名古屋城から始まった上街道は伏見宿で終わりになるが、
尾張藩主はその先も木曽五木を視察しながら、
江戸に向かった。
最終日は天気がよく、桜の満開の日にあたり、それを愛でながらの楽しい旅であった。
桜満開の中で、犬山からここまで歩いたが、上街道の旅はこれで終わる。
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旅をした日 平成23年(2011)4月6日(水)