上街道は、尾張藩が設置した街道で、
名古屋城東大手門から中山道の伏見宿とを結んでいた。
この道は別名木曽街道とも呼ばれ、小牧宿、善師野宿、土田宿が置かれた。
小牧宿は、永禄六年(1563)に、織田信長が開いた城下町に起源を持ち、
当初は小牧山の南側にあった。
元和九年(1623)に尾張藩が、上街道を新設した時、現在地へ移転した。
平成二十三年三月二十八日、名鉄小牧線春日井駅より出発する。
「 ここ春日井原新田一帯は江戸初期までは荒野だった。
その理由は灌漑用水がないことにあり、
これを解決したのは入鹿池の完成である。
荒野のこの地に入って開拓した中心人物は、
椎樫地蔵を建立した小川家と御小休みの安藤家である。
初代、安藤五兵衛は、寛永元年(1624)、
如意村(現名古屋市北区)から当地に移り住み、この一帯を開拓し、
豪農となり、幕府より庄屋に任命された。
尾張家第十四代藩主の徳川慶勝は、参勤交代や犬山城に御成りの際など、
安藤家に数回訪れたといわれる。 」
安藤家は、春日井駅から春日井交叉点を左折し、 三菱電機エンジニアリングの脇に入り、 突き当った線路のところを左折したところにある。
門前に春日井市が建てた「説明板」
「 市内を通る本街道と下街道は東海道と中山道を結ぶ街道として古くから利用されてきました。
本街道は上街道または木曽街道とも呼ばれ、
江戸時代初期には尾張藩の公道として利用され、
中山道の伏見につながり、小牧と善知野に宿場がありました。
当安藤家は尾張藩主のお休み所として、
控えの間の付いたお成りの間と茶室があります。
その母屋のただすまいには風格が感じられ、往時の面影をよく残し、
街道筋の歴史をしのぶことができます。
なお、個人宅ですので、ご迷惑のかからないようにご配慮ください。 」
門をくぐると、右側に建物があり、
その先は門で閉じられた中に建物が続いていたが、
建物の説明はない。
朝早いので静かに眺めて御暇した。
春日井町交叉点に戻り、穂麦坂を上り、
前回訪れた芭蕉句碑の脇を通り過ぎ、春日井上ノ町交叉点を越えると、
左側に神明社の標柱の鳥居があった。
境内には社殿と公民館があったが、公民館のポスターに小牧署とあったので、小牧市に入ったことを知った。
春日寺交叉点を過ぎると、左側一帯は航空自衛隊小牧基地である。
自衛隊南官舎を越えると正門があり、検問をしていて、許可なく中に入れない。
壁の隙間から見学者用という戦闘機やヘリコプターが見えた。
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自衛隊前の交叉点を横断して、道の右側に出て、橋を渡って歩いていく。
事前に手に入れた資料に、
「 春日寺(かすがんじ)には、
鎌倉時代に西行法師が立ち寄ったという伝承があり、
西行堂跡の石碑がある。
その場所は郵便局を越えた先 ・・・ 川の南。 」
とあったので、郵便局を探して歩いた。
自衛隊や航空局の官舎のビルがいくつも建っているところを過ぎると、
南外山歩道橋まで来た。
地名が変わっているので、行き過ぎたと思い引きかえすが、郵便局はない。
あとで分ったのだが、郵便局は小牧春日寺局で、
自衛隊入口よりずっと手前にあったのである。
次に目標にしたのは川の南。
春日寺は川の南にあったから、牛山駅あたりか?と見当をつけて向かうと、牛山駅近くには大山川が流れていた。
大山川で出逢った散歩中の人に春日寺と郵便局のことを聞くと、
その人は南外山の人だったようで、春日寺の存在は知らなかった。
橋を渡って中に入っていくと、墓地があり、
その先には金網に入った常夜燈と屋根付きの祠に入った石仏群があった。
三十分弱、うろうろしたあげく、春日寺にはいけなかったのである。
「 後日確認すると、川は大山川と、航空自衛隊交叉点を過ぎたところにある西行堂川と、二つの川があり、西行堂川の方だったのである。 」
地元の残る話は 「 西行法師は、春日寺の僧の伯父を訪ねたが、
すでに亡くなっていたので、寺に留まり、その霊を弔った。
その後、西行が彫ったと伝えられる自画像を安置した小堂が建てられ、
西行堂と呼ばれしたが、大水により流失した。 」 という。
春日寺は自衛隊前の川の手前を右に入ればあるようだが、この橋に架かる西行堂川にその名が残るだけである。
この後、県道と名鉄小牧線の間にある道で北に向かい、
南外山交叉点の右側に出た。
左側に南外山天神社があり、正面に「妙蔵寺」の標板があったので、入っていくと妙蔵寺があった。
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このあたりは建築ラッシュで、道もそのため、増えているので、
上街道がどれかはっきりしない。
妙蔵寺の脇に入り、三叉路を右折すると、
左側に「八幡社」の標柱と鳥居があり、その奥に赤い鳥居が建っていた。
赤い鳥居は両部鳥居形式で、この種の鳥居は珍しい。
八幡社の境内は広く、中に入っていると緑も繁っていて、
社殿の左側は公園になっていた。
隣の妙楽寺は日蓮宗の寺院で、建物は新しかった。
八幡社と隣の妙楽寺は南外山城の跡といわれる。
「 築城された時期は定かではないが、
堀尾孫助の居城(館)とされるもので、
正中年間(1324〜1326)に廃城となったが、
二百六十年後の小牧、長久手の戦いの時、
織田信雄、家康連合軍の砦として利用された。
周囲を一回りしたが、城を示すものは見渡らなかった。 」
八幡社を左に進み、その先の道を右折して、 カーブを進むと県道脇の外山神社に出た。
「 外山神社には由緒などがなくはっきりしないが、
延喜式神名帳にある尾張国 春日部郡鎮座の外山神社がこれだろう。
外山神社の祭神は天照大神、天児屋根命 誉田別命 が合祀されている。
大正四年には近くの畑から県下最古の銅鐸が出土した。
珍しい袈裟襷(けさだすき)文の銅鐸の発掘地である。 」
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ここから県道を歩き、北外山交叉点を過ると、 道の左側にお堂があり、覗くと馬頭観音が祀らrていた。
若草交叉点で左の狭い道に入ると、共同墓地があった。
墓地のはずれに「力士記念碑」といわれる大きな石碑が建っていた。
桜井本町交叉点を横断して、対面の道に入ると、
江戸時代の小牧宿に入る。
旧宿場町である下町あたりは市街地から少し離れているので、
昔の雰囲気が感じられるところである。
右側に鳥居があるが、これはその奥にある香神神社(三十番神社)のものである。
香神神社の先には桜井会館があり、その前に「桜井の里」の説明板があったが、
毛筆で書かれたため、字がにじんで一部読めなくなっていた。
それによる、古は桜樹林になっていて、桜の名所であった。
今は地名にそれが残るだけである。
その隣に西行の歌碑が建っていた。
「 小せりつむ 沢の氷のひまたえて 春めきそむる 桜井の里 」
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街道に戻ると、その先の交叉点の右側に、「日蓮宗妙見山啓運寺」と 「開運北辰妙見大菩薩」 の大きな標柱と日蓮宗独特の髭文字の石柱が建っている寺院があった。
その右側に「木戸高札場旧蹟」の碑があった。
ここは小牧宿の南端にあたるので、大木戸と高札場が設けられていたようである。
碑文
「 小牧市の発祥は元和九年(1623) この善師野街道が新設され、
ここに小牧山麓の元小牧宿が移転せしめたるによる。
宿駅としての本陣、問屋が整備し、小牧御殿も藩主により建造され、
尾北の開発は急速に進展した。
藩府は町の繁栄と安全、並に秩序の確立の為の木戸及び禁制を掲示する
高札場を此の所に設けた。
小牧本陣 江崎家後裔 江崎庸三 選文
昭和五十五年四月二十九日 」
三和通商店街を歩いていくと、 小牧四丁目南交叉点の手前の左側に脇本陣や庄屋を務めた岸田家があった。
小牧市教育委員会 説明板「小牧市指定有形民俗文化財 岸田家」
「 岸田家は、名古屋と中山道を結ぶ木曽街道(上街道)の旧小牧宿の下之町にあり、
江戸時代には名字帯刀を許された旧家で、脇本陣の役割を果たし、幕末には庄屋を勤めた。
このあたりは文化の大火にも焼け残っており、近世中期の建物の推定される。
この家に伝わる弘化三年(1846)と安政三年に改造時の配置図と、
現状を比較してみれば、附属舎は失われているが、
母屋の平面には大差ないことが知れる。
荒目の平格子、親子付き出格子、堂々とした屋根神の祠を残した外観も
貴重な資料である。 」
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建物の北側の広場の一角に石造の福禄寿を祀った祠があった。
説明板
「 この福禄寿石像と建物は、本来は、小牧御殿・小牧代官所にあったと
いわれ、故大野四郎氏が入手し、小牧市堀の内三丁目地内の自宅で保存していたものです。
平成十四年に遺族のご好意により小牧市に寄贈いただいたものを
、石像や建物に縁の深い小牧御殿の跡地に近いこの地に移築し保存したもの
である。
平成十五年九月 小牧市教育委員会 」
岸田家の外側の塀に、「小牧宿」と「小牧御殿・小牧代官所跡」の説明板が掲示されていた。
説明板「小牧宿」
「 小牧宿は、永禄六年(1563)に、織田信長が開いた城下町に起源を持ち、
当初は小牧山の南側にありました。 元和九年(1623)に尾張藩が、名古屋と
中山道を結ぶ上街道(木曽街道)を新設するのに際して、
宿駅として整備するため、現在地へ移転したものです。
寛文十一年(1671)には、家数二五五、人口一四八八であったと、
「寛文村々覚書」に記録されています。
宝暦年間(1751〜64)のものと推定される「小牧宿絵図」から、
下町・中町・横町・上之町に区割りされていたことがわかります。
また、この街道の東側には東馬場町、西側には西馬場町も形成されていました。
町の南端には木戸があり、木戸の南西に高札場がありました。
この地の南に接する岸田家は、
御殿の入口の辻から南へ二軒目・三軒目の敷地にあたり、
この絵図が書かれた当時は、まだ建てられていないことがわかります。
岸田家住宅は一八〇〇年頃に建てられた町屋で、
幕末に小牧村の庄屋を務めるなどした時期に大幅に改修されています。
平成十四年に半解体修理が完了し、幕末ごろの姿に復元しました。
内部は岸田家住宅に関する展示もあり、予約制で一般公開されています。
この地から西に入ったところには尾張徳川家の別荘・小牧御殿がありました。 天明二年(1782)に、この御殿の一角に小牧代官所が設けられました。
小牧宿の本陣を代々勤めた江崎善左衛門の屋敷は、ここから北に行った下町
と中町の境界付近にあり、間口六間半の大きさでした。
中町・本町は商人の家屋が多く、まっすぐ北上すると、戒蔵院に突き当たり、戒蔵院から東が横町で、街道は横町から北へ今のラピオ南西角交叉点(小牧三丁目西交叉点)で、
鍵状に北に曲がると、そこが上之町です。 」
説明板「小牧御殿・小牧代官所跡」
「 小牧御殿・小牧代官所はこの地のすぐ西にありましたが、
現在は民家や道路となって、その面影を偲ぶものは残っていません。
尾張藩の御殿は、江戸時代の初期、佐屋・津島・熱田など十四か所に設けられました。 小牧御殿は、寛永二年(1625)にこの地の西側にあった
江崎善左衛門の蟹清水屋敷に、初代尾張藩主・徳川義直が鷹狩りの折に訪れ、北西に小牧山を望む景観と蟹清水の庭園が気に入り、
御殿にしたといいます。 以降、義直の別荘として、通行や鷹狩りの際に
宿泊や休憩所として使われ、普段は、江崎氏が御殿守として管理していました。 御殿の敷地は四十六間X五十二間で、十畳以上の部屋が十もありました。
天明二年(1782)に小牧御殿の一角に小牧代官所(陣屋)は設けられました。
これは、尾張藩の財政窮迫に伴う改革策として、農政に力を入れるため、
地方に十二ヶ所の代官所を設けたうちの一つです。
代官所は藩の御触れの伝達や各村の庄屋・組頭などの監督、
年貢や賦役の徴収を行うほか、治安、警察の仕事や様々な0訴訟を扱ったり、
その職務は多岐に渡っていました。
小牧代官所は尾張国丹羽郡百二十七村、尾張国春日井郡百二十五村、
美濃国可児郡五村という広範囲を管理していました。
代官所には、代官の下に手代、並手代、足軽(同心)、小使など、
その年によって違いがありますが、十四名ほどの者が配置されていました。
右側の福禄寿の石像は義直が製作させ、小牧御殿に設置されたと伝えられる石像で、江戸時代前期のものと見られます。
石像を安置する祠は、小牧代官所(御殿)の建物の一部を転用したものと
伝承されています。
平成二十二年十二月 小牧市教育委員会」
小牧御殿と小牧代官所はこの西側にあったというので、
保健センターの方に歩いていくと、右側の民家の前に 「開運妙見大菩薩」 の石碑が祠に祀られていた。
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その先右に入る小路の先には背の高い樹木が二本あり、その下にはお稲荷さんの社があった。
道に戻り、保健センターに向かって行くと、
民家の前に 「奉納御殿龍神」 の白い幟があり、奥に祠があった。
その近くに「小牧御殿龍神祠之碑」と書かれた石碑がある。
「碑文」
「 昔を今にするよしもないが、
寛永二年に尾張藩祖徳川義直公(家康の第九子源敬公という)が、小牧山を望む風光明美なこの地に別荘を営み、小牧御殿として度々来遊されたが、
明治維新後は荒廃し、手植えの槇のみが名残りを留めていた。
その名木も昭和二十五年九月台風で倒れ、
これを嘆かれた徳川義親候は翌年二世の槇を植えられたが、
源敬公の遺業を慕う下町御殿町内の総意で、同三十三年ここに神祠を建立
往時を偲ぶこととした。 」
小牧御殿は、自然の地形を利用した土地に、素朴な造の建物で、
庭には蟹清水と呼ばれる小池があり、清水か湧き出ていた。
このあたり小牧御殿のあった一帯であるが、、
先程の背の高い木以外は民家などが立ち並び、
御殿の風情は残っていなかった。
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小牧四丁目南交叉点の先は江戸時代の中町で、通りを歩いていくと左側の櫓の上に屋根神様が祀られていた。
続いて、小牧四丁目中交叉点を渡ると、山正旅館がある。
道の左側は江戸時代は本町、右側は馬場町となる。
小牧四丁目北交叉点で左手を見ると、小牧山の上には小牧山城が見えた。
「 織田信長は小牧山の上に小牧城を築き、
永禄六年(1563)、居城を清須から小牧山へ移し、武士だけでなく、
商工業者を清須から移住させ、小牧山の南麓を城下町として整備した。
しかし、信長は四年後、岐阜へ城を造り移転すると、
小牧の城下町は衰微した。
なお、当時の街道は清須から小牧山の西を通り、犬山を経て、
中山道の鵜沼宿へ続いていた。
江戸時代に入り、尾張藩が誕生すると、
名古屋から中山道に結ぶ上街道(木曽街道)の整備に着手したが、
その際、小牧山の東を通すことになり、
小牧村の庄屋・江崎善左衛門に命じて、
小牧山の南にあった小牧の町を移転させ、
寛永五年(1628)に街道沿いの小牧宿が完成したといわれる。 」
交叉点先は「上街道発展会」の看板がある通りで、
少し歩くと、正面に 「南無薬師如来 十一面観世音菩薩 高白山戒蔵院 」 の標柱と山門がある三叉路にでた。
戒蔵院(かいぞういん)は、真言宗智山派の寺院で、
小牧山の南側にあったが、江戸時代の上街道の設置の際、
城下町とともに東のこの地に移転させられたのである。
小牧市の説明板「木造十一面観音立像」
「 戒蔵院の本尊であるこの観音像は像高162.5cmで、
持物の水瓶の水によって火難を防ぐという火伏観音として、
古くから名高い。
寺伝では鎌倉時代の作と伝えられているが、室町時代の製作と考えられる。 」
戒蔵院山門の前に 「南 名古屋 」 「西 一の宮つしま清須 」 「東 木曽海道 」 「寛政一戌午年十一月吉日 」 と刻まれた道標が建っている。
ここは清須道の追分にあたり、三叉路を左折して西に向かうと、
美濃路の清須宿に至る。
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このあたりは寺町で、戒蔵院の左手には西源寺があり、 道の西側には宝林寺、道の南には西林寺があるが、どれも大きな寺院だった。
西林寺の南には小牧豊川稲荷がある。
説明板「西町の稲荷堂」
「 天明七年(1787)に、尾張徳川家の菩提寺、建中寺の中に霊廟が、
歴代藩主またはそれに準ずる御位牌を安置する霊屋として四棟造られたが、明治初期に一つの霊屋に合祀された際、
その一棟が明治八年(1875)現在地に本殿を除く拝殿と幣殿が移築された。
その後、明治三十四年(1901)小牧宿の人々が集まり、
商売繁盛を願って豊川稲荷の分霊を安置し、
奉賛会をつくって例大祭を行ってきた。
一部が改造されているものの、内部の装飾等は当初の華麗な雰囲気を残し、珍しい権現造の建物で、全て欅材で作られ、
内部は柱等麻布張りの上に漆を何重にも重ね塗りし、
格天井の絵は徳川家お抱えの絵師による鳳凰が描かれ、
建具の細工も微に至っている。 」
明治政府の誕生で、後ろ盾を無くした建中寺は、
山門や霊廟などをこの時期に処分しているが、
近く間々観音には山門が移設されている。
当時は西林寺の建物として移設させたと思うが、
明治政府の徳川憎しを恐れた寺と地元の人々の工夫で、
豊川から稲荷を勧請して徳川家ゆかりのこの建物を残したのではないだろうか?
小牧豊川稲荷の道を隔てた西側には玉林寺があり、 その先には小牧神明社があった。
「 小牧神明社は、永禄六年(1563)、織田信長が清須から居城を小牧山へ移転した際し、災厄除けのために清須にあった御園神明社を守り神として分祀したのが創建である。 」
戒蔵院清須追分道標まで戻り、上街道の旅を続ける。
ここは木曽路から小牧宿に入る入口にあたるが、敵が勢いよく侵入してくるのを防止するための桝形になっていた。
「 江戸時代にはこのあたりは横町といい、 その先の三叉路で左に斜めに入っていくルートになっていた。 」
入ったところは上之町である。
ここは江戸時代には鍵形になっていた、と説明板にあったところである。
入った小路の先には小牧小があり、そこを右折し、
その先を斜めに左に行き、右折して通りに出たが、
そのままラピオのある小牧三丁目西交叉点まで行って、ここを左折するルートもあるが、どちらが正しいのだろうか?
なお、そのまま直進すると名鉄小牧駅にでる。
この先、昼食がとれるところはないかもしれないと思って、
店に入って昼食兼休憩をとった。
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三十分程休憩時間をとり、出発する。
村瀬薬局のある県道102号に入り、
その先の交叉点を国道155号を横断して進むと、
このあたりには古い家が残っていた。
小牧原新田陸橋が見えてくると、県道102号に合流したが、 このあたりは車線の拡張工事中だった。
東名高速道路の下をくぐると、
左側に瓦屋根のお堂の中に馬頭観音などの石仏が祀られていた。
右から馬頭観音、弘法大師像、地蔵尊、大日本百八拾八箇所供養塔である。
三叉路の右手には小牧原駅がある。
その先には、「名古屋高速 小牧北入口2、3km」 の標識がある、
小牧原交叉点が見える。
左の家前に 「楠公甲子大黒天」 と書かれた石柱が立っていた。
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その先には黒塀に囲まれた秦野家があった。
交叉点の手前右側には神明社があった。
小牧原交叉点を過ぎ、味岡口交叉点より百メートル先の左側の空地に、
「上街道と藤塚の一里塚」 と書かれた説明板があった。
説明板「上街道と藤塚の一里塚」
「 上街道(木曽街道)は、元和元年(1623)、尾張藩初代藩主徳川義直の命により、開設されたとされる藩営野街道で、東海道、
中山道といった「五街道」に準ずる機能を備え、
政治的にも経済的にも重要な繁華な街道であった。
名古屋城東御門を出た道は、清水から味鋺の渡しで庄内川を越え、
味美、春日井原、小牧宿、楽田、善師野宿、土田宿を経て、
伏見宿で中山道に合流する。
途中、楽田追分で犬山に向う稲置街道と分岐する。
街道の道幅は三間二尺(約6m)で、両側には松の柳が並木として植えられ、
一里毎に一里塚が設けられた。
街道沿いにまんじゅう型の土盛りした塚が築かれ、
塚の上に榎(えのき)が目印として植えられていたとされる。
名古屋城から安井の一里塚、味美の一里塚等を経て、四番目の一里塚が
この辺の上街道に築かれ、
近年まで旧道端に灌木の生えた小さな塚が道の西側に残っていたが、
土地の区画整理事業に伴う県道名古屋犬山線道路改良工事によって、
取りこわされた。
平成二十年十二月 小牧市教育委員会 」
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JA尾張中央味岡支店の構内には 「左岩崎山御野立所跡 」 「右犬山 」 の道標があった。
その先には味岡駅の標識があり、新木津(しんこっつ)用水に架かる橋がある。
「 小牧原は木津用水の完成で開墾は可能になったが、
標高の高い春日井原は無理であった。
それを解決するため、木津用水から大口町中小口で取水し、
南南東へ流し、八田川へ水を落とす水路が計画され、寛文四年(1664)に完成した。
これがここを流れる新木津用水で、この完成により、
春日井原の開墾が可能になった。 」
用水の中には橋の向こうから続いている清流亭の藤棚があった。
「 清流亭は、ふじのある料亭として有名だが、
上街道の茶屋として始まったといわれる。
毎年五月に新聞で開花が紹介される藤は、樹齢四百年といわれる三尺ふじで、
県の天然記念物に指定されている。 」
清流亭の脇の狭い道に入ると、県道179号の通る三叉路に出る。
味岡市民センターの脇を北上し、三叉路で右折すると久保本町交叉点で、再び県道に出た。
次の交叉点の右側、倉知モータースの手前には、
新四国八十八所の石碑と馬頭観音などの石仏が祀られていた。
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上街道はこのまま県道を進めばよいのだが、 ここで熊野神社と久保寺に立ち寄ることにした。
石碑は久保寺への案内とかってに判断し、この交叉点を右折し、
川と小牧線を越えると左折して進む。
道は上りとなり、右正面が山になっていた。
場所に不安があるので、通りかかりの女性に 「 熊野神社はこの山ですか? 」 と聞くと、 「 はっきりしませんが、神社はあります!! 」
との返事なので、右折して急な坂を上っていった。
左側に鳥居があり、熊野神社があった。
小牧市には熊野神社は多くあるが、その一つで十四世紀の創建といわれる。
その先には曹洞宗の寺院で、 愛知新四国第六十三番目の札所でもある久保寺(きゅうほじ)があった。
「 天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いの際、
熊野神社と久保寺のある久保山には、丹羽長秀が東西二十三間、
南北十六間の砦を築き、陣とした。
長久手合戦後、羽柴秀吉がこの久保山砦で全軍の指揮をとったので、
久保山は「太閤山」とも呼ばれる。 」
県道に戻ると、左側に田縣神社(たがたじんじゃ)がある。
「 小牧長久手の合戦で太閤秀吉が指揮をとったといわれる久保山の麓に続く縣の森に弥生時代からあったと伝わる古社である。
神社の祭神は、五穀豊穣と万物育成の神である御歳神(みとしのかみ)と
子宝、安産の神である玉姫命(たまひめのみこと)である。
玉姫命は、大荒田命の娘で、尾張の建稲種命に嫁ぐが、
建稲種命が東征の帰途、駿河の海で事故死したので、この地に戻ったとされる。 」
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田縣神社の社殿には、大男茎形が祀られている。
「 田縣神社は、古代神道の影響を色濃く残していて、
古代より男茎形を伝える風習が残っている。
社殿にある大男茎形は毎年三月十五日に行われる奇祭として知られる豊年祭で使用されたもので、厄男逹が二メートル五十センチの大男茎形を
御輿に担き、旅所より御神前にお伝えする神事である。
なお、次の楽田駅から東二キロには大縣神社があり、摂社の姫の宮には玉姫命が祀られていて、古くから安産、子授など女性の守護神として崇敬されてきた。
田縣神社の男根に対し、こちらには女陰をかたどった石などが奉納される。
大縣神社の起源も紀元前といわれる古い神社である。 」
田縣神社の先の左側に小さな祠がいくつかあった。
ここを右に入っていくと、名鉄小牧線田縣神社前駅がある。
上街道は祠の脇の細い道を進む。
小牧市はその先の久保一色東で終わる。
上街道は細い道を歩いていくと、三叉路に突き当たり、 右折すると県道27号の楽田本町交叉点で、その手前から犬山市になる。
交叉点の先の左側に「鳥杜天神社」の石柱があり、
中に小さな祠が祀られていた。
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上街道はその先の細い道に入っていく。
このあたりは最近建てられた住宅が多い。
楽田城のあったところに寄るため、県道を直進し、
二百五十メートル行くと楽田陸橋がある。
ここを右折して、小牧線の踏切を越えて進んでいく。
左手に小学校が見えてくるので、左折して進む。
小学校入口手前の右側に、 「史蹟城山」 の大きな石柱があり、
奥に 「楽田城址」 の碑が建っていた。
犬山市教育委員会の説明板「楽田城跡」
「 楽田城は、織田久長により永正年間(1504〜1521)に築城されたと伝えられます。
戦国時代末の儒学者小瀬甫庵の書いた「遺老物語」には、
楽田城が奇襲を受けた永禄元年(1558)の様子が書かれています。
この時、城中に高さ二間余の垣を築き、その上に五間七間の矢倉を作り、
中央に矢を立て並べた八畳敷きの二階座敷を設けたとあります。
天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、
楽田城がその起源といわれています。
天正十二年(1584)の小牧長久手合戦時には、
小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、
合戦終結の講和条約により、取り壊しとなりました。
楽田小学校の敷地は楽田城のあったところです。
昭和五十四年に学校の敷地が拡張されるまでは、土壇や堀の痕跡がありましたが、現在は当時の面影を残すものはありません。 」
陸橋に戻り、その奥にある上街道の道を歩く。
この道は右側の県道と平行しているが、
五百メートル歩くと県道177号と交叉する交叉点に出る。
右手に若宮交叉点があり、その先には小牧線の楽田駅がある。
上街道(県道188号)は、この交叉点を越えて進むと、右手奥、
県道に面して若宮神社があった。
そのまままっすぐいくと、県道77号に出て、上街道は斜め斜交いに入っていく。
県道を渡る横断歩道橋が手前にあるので、そこまで行かずに手前を曲がると、左側の石段の上に小さな祠がいくつかあった。
地図に「須賀神社」とあるのがこれだろうか?
横断歩道橋で県道を越えて、その先の交叉点を左折する。
その先の五又路で左下から合流してくるのが上街道で、この後、
北に向かっていく。
なお、交叉点を右折し線路を越えると、少し先の右側に、
天文元年(1532)に泰秀宗韓和尚が開山したが、天正年間に焼失、
その後再建されたという永泉禅寺がある。
立ち寄ってみたが、建物など全て新しいので、寄るほどのところではなかった。
上街道を北に向かうと、その先の三叉路にクリーム色の教会が見えてきた。
ここは江戸時代、上街道と尾張徳川家附家老だった成瀬氏の居城、犬山城に至る稲置街道の追分だったところである。
時計を見ると、丁度十五時。
この後、太田の渡しまではかなりあるので、次回、楽田駅から太田の渡しまで歩くことにして、
上街道の二日目ははやいが、これで終了である。
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旅をした日 平成23年(2011)3月28日