『 上街道を歩く @久屋大通駅から春日井駅   』

上街道は、尾張藩が参勤交代の際、領地の美濃と木曽を横断する中山道を通って江戸を往復する際、 中山道へ出るためにつくった街道で、 名古屋城の東大手門から中山道伏見宿に至る十里八町(約40km)の道であった。 
尾張藩道ながら、五街道並みの規格で作られたこの道は中山道の脇往還でもあり、 木曽街道とも呼ばれた。 
中山道から名古屋宿に入る方法には、尾張や木曽の商人、 伊勢や善光寺参拝行く旅人に利用された大井宿からの道もあったので、 尾張藩が作った伏見宿からの道を上街道(うわかいどう)、 商人などが利用した旅人に大井宿からの道を下街道と呼んで、 区別した。




地下鉄久屋大通駅から黒川橋

前回、下街道を歩いたので、上街道も歩こうという気になった。
平成二十三年三月二十三日の早朝、地下鉄久屋大通駅から出発。 

桜通泉1丁目交叉点に出ると、ここを左折して名古屋城東大手門へ向かった。

「 この角のビルに勤めていた時代には、この周囲数百メートルのエリアは昼飯を食べにいった場所だったが、 今は飲食店はほとんどなくなり、マンションばかりが目立つ街に変わっていた。  」

市政資料館南交叉点まで来ると、 有料道路の高架の下の右手に名古屋城の石垣と空掘が見えてきた。

「  このあたりは名古屋城の外側なので、江戸時代には武家の住む町だったが、堀の先は三の丸で、明治から終戦になるまでは軍隊の駐屯地になっていたが、 今は官庁街である。 」

市政資料館南交叉点を越えて進むと、名古屋市市政資料館が右に見えてくる。 (右中写真)

「 名古屋市市政資料館は、 大正十一年に建てられた旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎で、 かなり前になるが、家内とゆっくり見学したことがあるが、 市政や司法に関する資料が展示されていた。 」

朝早いのに門の一部が開いていて、 通勤の人達が構内をショートカットして通過していくのを見た。 
その人達に混じって中に入ると早咲きの桜が満開で、きれいだった。 

桜通泉1丁目交叉点
x 有料道路の高架 x 市政資料館
桜通泉1丁目交叉点
有料道路の高架橋
市政資料館


そこを出ると清水橋東交叉点があり、 左手に名古屋城外堀にかかる清水橋があった。
昭和五十一年までは外掘の中を名鉄瀬戸線が走っていたのである。

橋を渡った左側には市役所などが建っている。
ここは名古屋城の三の丸跡である。 

名古屋城の東大手門があったところの表示は見わたらなかったが、 このあたりだろうと見当を付けて、上街道を出発した。 

清水橋東交叉点の右奥にあるのは明和高校である。

「  ここは尾張藩附家老成瀬隼人正中屋敷跡である。 
明治に入ると尾張藩はつぶされ、城は廃城は免れたが、 陸軍用地になった。 
この地には明治四十三年に県立第一中学校が設立されたが、 昭和十三年に移転。 県立第一中学校は現在の旭丘高校である。 」

正門前に「明和高校前街園」という名の小公園があるが、 これは明和高校とは関係はない。 
その一角に「愛知県立第一中学校跡」の石碑がある。

交叉点から東に向かって歩いていくと、 左の三叉路に 「学問の神様 七尾天神社」 の看板がある。
入って行くと左に明和高校のグラントがあり、 右側に「七尾天神社」の表示があるので、入ると左側にあった。
門を入った左側に七尾の亀があり、水をかけるとよいと書かれていたが、社殿右側には筆塚があった。 

市教育委員会が建てた「説明板」
「 七尾神社 亀尾天満宮、七尾天満、七尾天神とも呼ばれ、 菅原道真を祭神とする。 
文亀年間(1501〜1504)七尾の亀が道真の木像をここへ運んだという伝えがあり、社名の由来となっている。 
永正年中(1509〜1521)社殿が造営された。  明治四十二年七月の火災で、木像その他宝物が焼失した。 」

清水橋
x 第一中学校跡碑 x 七尾天神社
清水橋
第一中学校跡碑
七尾天神社鳥居


先程の道に戻り、直進すると 清水口交叉点に出た。 
正面にはテレビコマーシャルで有名な美宝堂があった(その後、倒産)

上街道はその手前の左側の狭い道に入る。 
杉薬局のところを過ぎると下り坂になり、 少し行くと突き当たるので右折し、 国道41号を越えるとその先に道が続いている。

「 その道が上街道で、 江戸時代には「木曽街道」とも呼ばれていた道である。 

道に入るとすぐ左側に秋葉宮があった。
なお、国道41号のもうすこし北側の民家には馬頭観音などの石仏を祀った祠があった。 
この通りは国道41号と平行して続いているのに、昔のままのような落ち着いた雰囲気が残る。 

三百メートル歩くと名鉄瀬戸線の清水駅がある。
上街道はこの脇を直進するが、ここで尼坂地蔵堂へ寄り道をする。 

右折して、線路の高架に沿って四百メートル歩くと、 右側に坂があるが、その上には金城中や金城高校がある。

かって名大生(名古屋大学)は  「 ちんちろ ちんちろ 坂道行けば 金城の女の子が横目でにらむ 」 と歌っていたが、この坂だろうか? 
なお、金城は高度成長時代に短大から大学になって郊外に移転してここにはない。  」

百メートル先の尼ヶ坂駅の手前右側に「尼坂延命地蔵菩薩」と書かれた赤い幟がひらめていた。

「  尼坂地蔵堂は本尊は延命地蔵尊、周囲にはいろいろな仏が祀られていたが、このお堂は昭和三十年代に建てられたものらしい。 
地元の人々に守られているようで、花が生けられ、線香の煙が漂っていた。 」

この近くには延命閣地蔵院というのもあるようだが、 尼坂地蔵堂と同じと思っていたので、寄らなかった。 
片山神社も下街道の片山八幡神社と同じと錯角していたので、 これまた、寄らなかった。 

清水口交叉点
x 秋葉宮 x 延命地蔵
清水口交叉点
秋葉宮
延命地蔵


清水駅まで戻り、先を進むと、「白瀧」という看板が書かれた建物があった。
嘉永年間(1848〜54)創業の白瀧酒造で、 「白竜」というブランドの銘酒を売っていたが、 事務所の前の張り紙によると、「 平成二十年三月をもって閉店します。・・・ 」 とあったので、森閑としていた。

少し行くと、左側の白と茶のツートーンの建物の植栽の中に、 「稲置街道」と「御成道」の説明板があった。

「説明板」
「 弘化四年(1847)の村絵図によれば、 ここは江戸時代、稲置街道と御成道が交叉する四つ辻があったと思われる。 
稲置街道は、元和元年(1615) 尾張藩は幕府から木曽山を拝領し、 名古屋と木曽とを結ぶ街道の整備がはじまりである。  その後、尾張藩付家老成瀬正成が犬山城主となり、 名古屋との行き来のため、中山道(伏見宿)への抜ける道となった。 
御成道は、尾張藩主が名古屋城から、 尾張藩二代藩主光友の別邸として運営させた大曾根下屋敷へ往復した道である。 」

その先の交叉点の左に、八王子神社と春日神社の石柱が並列し、 鳥居がある神社があった。

中にあった改築記念碑の碑文
「 八王子神社は、もと、那古野庄市場(現丸の内一丁目)に鎮座し、 若宮八幡宮と同じ境内にあり、第四十二代文武天皇の御代の奉斉と言う。 
慶長十五年(1610)名古屋城築城の際に神慮により、 名古屋東北の護りとしてこの地に遷宮された。 
昭和二十年の戦災で焼け、その後、社殿を建てたが痛みが激しいので、 平成十七年に改築造営した。 
春日神社は昭和四十六年から社殿を境内に移して、両社を合併し、 八王子神社春日神社に社名を変えたが、今回の社殿改築の際に合祀した。 」

白瀧酒造
x 説明板 x 八王子・春日神社
元白瀧酒造
植栽の中に説明板
八王子・春日神社


鳥居の左手、公園の手前には「明治天皇小休所」碑が建っている。 
なお、道の反対には開聞寺がある。 

交叉点に戻り、直進すると右にカーブし、左からくる道と合流する。
右側の三角形の土地は、「清水街園」という小公園である。
道の脇にに、この街道唯一の稲置(いなぎ)街道の道標が建っている。

道標には 左面に「至犬山 」、中央に 「稲置街道 」 、右面に 「至志水 」 と刻まれていたが、いつ建てられたものがは分らない。 
説明板には、  「 稲置街道は、名古屋城と尾張藩付家老・成瀬氏の居城があった犬山(旧稲置村)を結んでいた街道で、楽田追分までは上街道(木曽道)と同じルートだった。 」   というようなことが書かれていた。 

上街道はここを直進し、北に向かっていく。 
その先の清水五交叉点まで来て、 解脱寺に寄るのを忘れていたのに気が付いて、 八王子神社まで引き返した。

寺のありかが分からないので、二人の方にお聞きして、 十五分もかけてやっとたどりついた。

「 解脱寺は八王子神社の裏の道ではなく、 もう一つ奥の道を左折していくと、国道の手前右側にある。 
すんなり行けば五分程だったが、無駄な時間を使ったが、 しょうがない。 
中山道や東海道は多くの方が歩いているので、情報が豊富で、また、正確であるが、脇往還では情報が乏しく、なかなか正確な情報がえられない。 」

小休所碑
x 稲置街道道標 x 解脱寺
小休所碑
稲置街道道標
解脱寺


解脱寺には芭蕉が貞享五年(1688)に当地を訪れ、句会を開いた際、 詠まれた句碑が建っている。

お堂前の右側に三つの句碑があり、 左から二つ目が芭蕉の句碑である。 句碑は文政五年(1822)に土地の俳人らにより建立されたもので、 当地では「粟稗塚」と呼ばれている。
芭蕉が詠んだのは 「 粟稗に 貧しくあらず 草の庵  」 という句である。

清水五交叉点に戻り、北に向かって歩くと、 石挽そばの看板のある手前の交叉点の左側に赤い鳥居がある。
鳥居の先に最上位経王菩薩が祀られていた。 

「  最上位経王大菩薩は、稲荷大明神本体の名前で、法華経の守護神であるという。 
最上位とは正一位とか従三位などという位のことで、 最上位とは最も高い正一位を意味し、この社はお稲荷さんだった訳である。 」

たばこのショーケースの上に「アナログのレコードのアルプ」という看板の店があり、その先にはカラオケ喫茶もあった。 

「  このあたりの建物には戦後だが、古そうな家もあり、畳製造の看板も見かけ、 都会のなかで個人商店がなくなる中では貴重な存在である。 」

清水5北交叉点を越えると、掘川に架かる黒川橋を渡る。
その先は車道で、直進する道はなくなっていた。

上街道はその先に残るのだが、 県道102号とその先の環状線で切断されているのである。 

芭蕉句碑等
x 稲置街道道標 x 黒川橋
芭蕉句碑等
最上位経王菩薩
黒川橋





黒川橋から伊勢山橋

しかたがないので、右折して志賀橋交叉点に出る。 
交叉点を渡って県道を越えると、左折して先程の道の対面の道に入る。 
短い道なのですぐに環状線に出たが、対面には渡れないので、 右折してまた志賀橋交叉点に出た。 

交叉点を横断して環状線を渡り、左折すると、歩道に 「←解脱寺 」  「八幡宮 安栄寺→ 」 の標識と、
その下に史跡散策路の地図があるポールが立っていた。

ここで右手に入る狭い道を百五十メートル程行くと、左側に森が見える。 
近づくと「八幡神社」の標柱と常夜燈、鳥居があり、奥に本殿などがあった。

「 児子宮(ちごのみや)、児子八幡宮、 児子八幡社とも呼ばれるようである。
元は志賀公園近くにあったが、明治七年(1874)当地に遷宮された。 
末社の児子社は古来より虫封じの神として信仰が厚く、尾張藩主も代々、 幼少の時に虫封じを授かったといわれている。 」

その隣には元治二年建立の「不動明王」と書かれた常夜燈と 「安栄寺」の標柱があり、山門をくぐると奥に本堂があった。 

「 安栄寺は曹洞宗の寺院で、名古屋万松寺の末寺で、 慶長十九年(1614)に創建された。
名古屋城の鬼門除けとして、名古屋城から大聖不動明王が奉遷されたといわれる。 」

お堂の手前左側には格子窓の付いた小さなお堂があり、 隣には「安栄寺六地蔵石仏」の説明板があった。 
なお、六地蔵は六道において衆生の苦患を救うとされる仏様である。

説明板「安栄寺六地蔵石仏」
「 この石像はもと志賀公園北東の共同墓地にあったもので、 上下二段に三体ずつの地蔵菩薩が浮き彫りにしてあり、 像の右に尾州山田庄志賀郷、左に大永七年(1527)十月日と刻まれている。 
これは室町時代末期のもので、名古屋市指定文化財 (以下省略)  」 

中を覗くと、高さ四十三センチ、幅二十六センチの硬質砂岩があり、 その上に上下三体の地蔵像が二段に浮彫されているものだった。 

標識と地図
x 八幡神社 x 六地蔵石仏
標識と地図
八幡神社
六地蔵石仏


安栄寺を出て、少し行くとスクランブル交叉点になっている五又路の志賀町2交叉点に出る。 
交叉点は直進で、更に二百五十メートル歩くと志賀町5交叉点である。 
交叉点を渡ると、左側に東志賀小学校がある。

江戸時代の上街道は、小学校右側から安井3交叉点に向かって右斜めに道があったが、今はない。
ここでは、交叉点から入ってすぐの三叉路を右折し、 次の三叉路を左折して、狭い一方通行の道に入る。 

その先大きな交叉点を二つ位横断して、七百メートル強程歩くと、 左側に城北病院が見えてくる。

上街道は城北病院交叉点を右折するが、ここで寄り道をする。 
城北病院交叉点を直進し、少しいくと左側にお福市場がある。
その先に 「山神社 お福神社 白龍大神」 の標柱と赤い鳥居などがあるところに出た。

名古屋市教育委員会の説明板「山神社」
「  祭神は大山祇神。  社伝によれば、天正年間(1573〜1592)に安井将監・浅野長勝(ねねの養父)が、 安井城を築く際、鬼門の守護神として勧請したという。  この神社の西南に位置した安井城は東西約百五十メートル、 南北百五十メートル規模で、当時としては相当な館であったと伝えられる。  この辺りは矢田川の推積地で、昭和初期に耕地整理がされるまでは、 松・榎・椿・竹などが鬱そうと繁っていたという。 
現在、境内にはお福稲荷社(稲荷大明神)と白龍社(竜神)の祀られている。  例祭は十一月七日 」 

左側から入ると白龍神社があり、丘を上ると山神社、 その先を下るとお福稲荷が祀られていた。 
山神社の先に丘は続くかと思ったが、民家になっていて、 安井城にちなむものはこの境内だけのようであった。 
なお、安井城そのものも、浅野長勝がその後、 尾張中島郡大里村に移った時に廃城になっている。 

見学が終えると城北病院交叉点まで戻り、東へ向かって歩く。
名古屋金田郵便局の道を越えたら、その先の左に入る道をいく。 
この道は一方通行で、三百メートル歩くと庄内用水に架かる新安井橋がある。

城北病院
x 山神社 お福神社 x 新安井橋
城北病院
山神社 お福神社
新安井橋


新安井橋を渡ると、道は突き当たりなので、 右折して安井3交叉点に出た。 

交叉点を左折して北に向かうと、左側に公園があり、 その奥に六所社があった。

「六所社由緒」
「 昭和六年の矢田川切替工事のため、六所社は現在地に遷座されたが、 昭和二十年五月の大空襲により、全ての建物が焼失してしまう。  周囲の協力により、昭和四十年に社殿を再建した。 」 

六所社を過ぎると、車道は左にカーブするが、 正面の民家の間には細い道をあり、 石段を上っていくと矢田川の堤防に出た。

「 上街道は東海道などの五街道と同様、 大きな川には橋を架けなかったので、徒歩渡しだった。 
味鋺の渡しは米ヶ瀬の西側にあったようだが、渡し場の跡の表示はないようなので、場所の確認はあきらめた。 」

先程の道に戻り、左にカーブした道を行くと、 左側にモダンなデザインの成願寺があった。

「 成願寺の前身は、 天平十七年(745)に行基により創建された常観寺といわれ、 土豪山田・安良一族の菩提寺だった。  以前は成願寺の南側に矢田川が流れていたが、 昭和八年に矢田川が改修され、その時、矢田川の南側に移転した。 
現在の成願寺は天台宗聖徳寺の末寺で、本尊は行基の作と伝えられる十一面観音菩薩像である。 」

渡しの代わりに、 米ヶ瀬より西、成願寺より東に架けられている歩行者専用橋のふれあい橋を渡る。

今日の天候は晴れだが、風が強く、途中で帽子が飛んでしまい、 追いかけるのに苦労したが、この橋の上はすざましい。 
帽子はポケットにしまい、飛ばされないようにしたが、風で橋のてすりがうなり声をあげていたのには驚いた。 

六所社
x 成願寺 x ふれあい橋
六所社
成願寺
ふれあい橋


最初に河川敷が多い矢田川を渡り、左手を見ると木曽連山が遠く見えた。 

続いて、水量が多い庄内川を渡った。 

川巾をあるので、渡り終えるのにどの位の時間がかかったと時計を見ると、六分かかっていた。 
橋を渡りきると、川に沿って車道があるが、そこを歩くには勇気がいりそうなので、道を横切り石段を使って下に降りた。 

正面にあじま荘案内図があったが、左右に堤に沿って道があったので、 右折していくと西八竜社があった。

鳥居の先には堤防上の車道に出る道もあったが、 下にも細い道があったので、その道を行くことにした。 
左側を見ながら六百メートル歩くと、 奥の方に繁みが見えるところにきたので、 ここだろうと見当をつけて左折していくと、 「式内郷社 味鋺神社」 の標柱と鳥居のある前にでた。

「 味鋺(あじま)神社の創建された時期は不詳だが、 延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社がこの神社としており、 祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされ、 江戸時代には六所明神とも呼ばれた。 」

矢田川からの風景
x 西八竜社 x ふれあい橋
矢田川からの風景
西八竜社
味鋺神社鳥居


鳥居をくぐると、右手に石橋と 清正橋の説明板があった。

「 この橋は、 味鋺神社より南西百メートルの溝に架けてあった石橋を、 土地改良事業のために昭和五十三年(1978)に移築されたものである。  名古屋城築城の折りに加藤清正の命により架けられたと伝えられているので、清正橋と呼ばれているが、地元の人々は石橋と呼んでいた。 
往時、稲置街道は、この橋を渡り、庄内川の堤防に出て、 味鋺の渡しを経て、成願寺村ー名古屋へと通じていた。 
稲置街道とは、東大手門−清水の坂−杉村−東志賀−安井−矢田川の渡し−成願寺−味鋺の渡し−味鋺清正橋を渡り護国院の西北を通り−小牧−犬山−中山道へ、稲置と名古屋を結ぶ重要な街道。  尾張藩が開いた藩道で、参勤交代の際利用し、中山道を経て、 江戸に至った 」 

社殿の前に流鏑馬の銅像がある。
 「 寛治七年(1093)に流鏑馬の神事が催されたと伝えられ、 例祭では流鏑馬神事が行われてきたが、昭和十三年を最後に絶えた。 」 とある。 

隣に「味鋺山天永寺護国院」の石柱がある立派な門構えをした寺院があった。

「説明板」
「 護国院は真言宗智山派の寺院で、 天平年間(729〜749)に僧行基が創建したといわれ、薬師寺といった。 天暦二年(948)に大洪水により衰微したが、 天永二年(1111)西弥上人がに再興し、今の寺号に改めた。  本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられる。 」 

江戸時代の上街道は、護国院の西側から右斜めに道が続いていたのだが、その道は残っていなかった。 

味美神社の入口まで戻り、左折すると三叉路に出るので、 車道を左折する。
その先の三叉路で、車道を別れて、右側の道に入る。

清正橋
x 護国院 x 三叉路
清正橋
護国院
三叉路


道なりに進んでいくが、道は右回りにおだやかに大きく回るように進む。 
途中の交叉点の右側には「味鋺天神通り」のアーケードがあったが、 そのまま直進した。

このあたりに双葉酒造があると思い、 通りかかったゴルフクラブをもっていた紳士に聞くと、  「 この先にあるが、酒は造っていない。 」 といわれた。 

少しいくと木製の忍び返しが塀から屋根にまで付けられている屋敷に着いた。

形のよい松の木の下に入口があり、 窓ガラスに「清酒 曲水宴醸造元」 と金箔で書かれていて、 ここが双葉酒造であることが確認できたが、 工場は閉まり、かなりの面積が貸し駐車場になっていた。 

「 下街道でも造り酒屋の廃業を見たが、 酒の小売販売の自由化で、町の小さな酒販売店がなくなった。 
そのため、小ロットで地場のみで販売していた造り酒屋が販路を失い、 廃業に追い込まれているような気がする。 
これからも造り酒屋の廃業は続くだろう。 」

その先の交叉点の左手に屋根付きのお堂が二つ建っていた。
右の大きな方のお堂の脇には「首切り地蔵」の説明板があった。
お堂の中を見ると、 二分されていた胴が接着された首切り地蔵が祀られていた。

「 この地蔵菩薩像には、文政(1818〜1830)の銘がある、 一メートルほどの石像である。
摩耗がひどく、 胴体がやや斜めに二つに分かれている。 
昔、一ノ曽五左衛門が同家に仕えていた女中に過失があったので、 手打にしようとしたところ、この地蔵が身代わりとなったと伝えられている。 」 

この交叉点を直進し、新地蔵川に架かる伊勢山橋を渡ると、 春日井市になる。 

アーケード
x 双葉酒造 x 首切り地蔵
アーケード
元双葉酒造
首切り地蔵





伊勢山橋から名鉄春日井駅

四百メートル程行くと五又路に出た。
江戸時代の上街道はここから右斜めに進むのだが、 道は残っていないので、交叉点を右折して中新町交叉点に出て、 交叉点を左折して、旧国道41号、現在の県道102号に入るコースをとる。 

交叉点の右手を見ると森のようなものが見えるので、 味美古墳群と思い、寄り道をする。 
中新町交叉点を右折して、二百五十メートル程行くと、  「国史跡 二子山古墳」 という看板が建っていて、 その先には緑に覆われた土地が広がっていた。 
これが味美二子山古墳で、全景は写真には収まりそうにないので、 あきらめた。

「 二子山古墳は六世紀初頭の築造で、 全長九十四メートル、後円部の径が四十五メートル半、 前方部の巾は六十メートル、高さは七メートルの前方後円墳で、 墳丘の周囲には濠が掘られている。 」

濠に沿って歩いていくと、左側に二子山公園ハニワの館があった。 
その先の左側には丸い小山のようなものがあるが、 これは「御旅所古墳」と呼ばれる直径六十メートルの円墳である。 
右手には白山神社の鳥居があり、その先の小山に石段がある。 
上っていくと白山神社の社殿があるが、 白山神社は白山神社古墳の上に鎮座している。 

「 白山神社古墳は、全長八十六メートル、 後円部径が四十八メートル、前方部巾は四十八メートル、 高さは六メートル半の前方後円墳である。 」

先程訪れた味鋺神社の説明板に、

「 物部氏の勢力が美濃、尾張、三河に拡張し、 特に尾張地方の勢力が大きく、一族の遺跡と称されるものは少なくない。
二子山古墳は、古来、この山上に物部大神があり、可美真手命を祀っていた。 
今は山上に白山神社が物部大神を合祀して建てられている。 
白山神社は楠味鋺五丁目にあった天神藪古墳より遷座されたと伝えられる。 
この一帯は百塚といわれる程多くの古墳があった。 
現在は二子山古墳、白山神社古墳と御旅所古墳、そして、 春日山古墳だけである。   」 

とあった。
昔はこの他に前方後円墳や円墳があったが、 土地開発が進むに比例して消滅していったようである。

味美二子山古墳
x ハニワの館 x 白山神社古墳
味美二子山古墳
ハニワの館
白山神社古墳


石段を上ると、白山神社の社殿があった。

「 白山神社は、万治二年(1659)、旧春日井郡味鋺村白山藪 より、この地に遷座し、また双子山古墳にあったといわれる物部神社を 合祀して建立された。
この神社は白山神社古墳の上に祀られていることから、 本殿が西向きの珍しい神社になっている。
なお、お旅所古墳(円墳)の上にある御旅所は寛延年間(1750頃)までは西方、 稲置街道を越えた春日山古墳の上にあった春日神社でしたが、 街道を横断し通行の妨げになるとして、今の場所に変更されました。
その後、大正七年(1918)春日神社も白山神社に合祀され、今日に至っている。 」

白山神社の参道に戻ると、右側に「御嶽大神」の石碑があり、 道を隔てた先には天台宗日輪寺がある。 

参道を進むと県道にでたが、 右側に手打ちうどんのさがみがあったので、中に入り昼食をとった。 
昼時なので混んでいたが、三十分程で終了したので、県道に戻った。 

県道の左手には春日山古墳があるので、県道を横断して、 その先に進むと小山があった。

「 春日山古墳は全長七十四メートルで、 築造時期は六世紀後半と推定されているが、史跡の指定を受けなかったためか、 墳丘部に藤棚が設置されていたり、 古墳の斜面を利用した滑り台が設置されている。 
春日山古墳の一角には立石の道標(これより十八丁常安寺)があるが、 根釈迦で有名な豊場常安寺への道標である。 」

県道に戻り、先に進むと東海交通事業の城北線と 名古屋第環状線の高架がある。
その下をくぐり、国道302号を越える。 
県道102号はいつの間にか、県道27号に名前を変えていた。 

味美白山町1交叉点、味美ふれあいセンター交叉点、 西本町1交叉点を通過する。
右側の白山バス停のところに延命地蔵尊のお堂があった。

白山神社社殿
x 春日山古墳 x 延命地蔵尊
白山神社社殿
春日山古墳
延命地蔵尊


味美駅西交叉点の手前三十メートルの左側の民家の塀に、 「旧稲置街道 味鋺原新田一里塚跡」 の石碑があった。 

「 味美駅西交叉点の左側には、 御小休み所、丹羽家があったといわれる。 
御小休み所とは、尾張藩主が犬山城などに出掛ける際、 小休憩をするのに利用した本陣のこと。 
名古屋城から小牧までは距離が長いので、 途中に休憩所が幾つか設置されていて、丹羽家もその一つだった。 
丹羽家は、明治時代、熱田の宮宿の尾張藩御浜御殿門(尾張徳川家が築いた御茶屋御殿の門)を買い取った。 
なお、宮宿の御茶屋御殿は三代将軍徳川家光も宿泊したことがある。 」

現在、交叉点の左側は子供用の滑り台もある小公園で、 丹羽家とか御小休み所跡などの表示はなかった。
また、御浜御殿門は数キロ離れた春日井市中央公民館に移設されて残っているようだが、遠すぎるので行くのはやめた。 

味美上ノ町交叉点あたりから左手の空はにぎやかになった。 
小型飛行機やヘリコプターなどが降りてくるが、 ここには県営名古屋空港があるからである。 

味美上ノ交叉点を過ぎると、右側の旭産業の手前に右に折れる三叉路があるが、この角に椎樫地蔵が祀られている。 

「 この石仏は、宝暦八年(1758) 春日井原新田の旧家・小川庄佐衛門が我が子の冥福を祈って建立したもので、 「右 志ミ州道 左 かち川道」 と刻まれている。 」

ここは上街道と勝川道の追分で、右に入る道は勝川街道で、 歩いていくと先日歩き終えた下街道に出る。 
このあたりから緩やかな登り坂に変わるが、「穂麦坂」と呼ばれる坂である。 

右側の家の前に 「今上天皇御駐蹕處」 の碑が建っていた。 
今上天皇とは昭和天皇と思ったが、大正天皇のようである。

少し行くと左側に正念寺があるが、道に接して「史蹟芭蕉句碑」 の大きな標柱があった。
その隣に 「 いざともに 穂麦喰わん 草枕 芭蕉 」 という句碑が建っていた。

「傍らの説明板」
「 芭蕉が貞亨二年(1685)に詠んだ野ざらし紀行の中にある句で、 正念寺の近くの農家に一宿した折の吟であると伝えられている。 
時は旧暦の四月、田舎のこととて差し上げるものもなく、 婆やが思いつくまま、新麦の穂をとってきて、 青ざしをこしらえ差しだしたところ、芭蕉は喜んで、 この句を詠んだという。 
すぐ東の坂を穂麦坂、またの名をへそ坂ともいう。 
南の味鋺原、北の小牧原、東の下原に対し、ここは原(腹)の中心、 すなわち、へそにあたるというのだろう。 
これも芭蕉の即興と伝えられている。 」 

庄内川からここまで民家が続いているが、 江戸時代の末期までは、 上街道の松並木以外は民家もないところだったようで、 芭蕉はそうした中で見付けた農家に泊った訳で、 婆やの季節を感じさせる食べものを提供したことに心が打たれたのだろう。 

このような余韻に浸っていたら、カメラの電気がなくなったことを気付いた。 
それなら、電池を換えればよいと、予備の電池に換えたが、 これも一枚撮ると電池切れになってしまった。 
前夜、カメラに入れた電池は充電したが、予備の電池は前回出かけた時、 使用しなかったので、満杯になっていると思いこんでいたのである。 
そういう訳で、本日の旅は十四時三十分で終了となった。 

春日井町交叉点に戻り、左折すると名鉄小牧線春日井駅があるので、 これで帰ることにした。 
電車に乗り、上飯田駅まで来ると上飯田線といっているのに、気が付いた。 
小牧線の終点は上飯田駅で、地下鉄平安通駅ができてからはその間を歩いていた。 
それを解消する狙いで、上飯田駅から地下鉄平安通駅まで線路ができたが、小生は名鉄の延伸区間と思っていた。 
ところが違っていて、名古屋地下鉄の路線で、この1駅間のみの路線が、 上飯田線なのである。 

なぜそうしたややこしいことになっているかというと、 市電があった時代、上飯田から先は市電が走っていたからで、 名古屋市に路線権が残っていたということだろう。
そういうことを知らずに平安通駅で降りてみようかとしたら、駅から一駅なのに200円多くかかるといわれた。 

運転は名鉄にこの区間委託しているのだから、 名鉄に路線権を譲渡した方がよいと思われるが、 官の既得権に関する意識からするとその気配はない。 

小公園 x 椎樫地蔵 x 今上天皇御駐蹕處碑 x 芭蕉句碑
小公園
椎樫地蔵
今上天皇御駐蹕處碑
芭蕉句碑



旅をした日 平成23年(2011)3月23日


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かうんたぁ。