『 東海道を歩く ー 宮宿(続き)   』




宮(みや) 宿

浮世絵宮宿安藤広重の東海道五十三次宮宿には、七里の渡しの風景が描かれている (右写真)
宮宿は、海道一の宿場といわれ、熱田社の門前町であることに加え、佐屋、美濃、木曽の諸街道への追分であったことから、江戸後半には、二千九百軒を越える家があり、人口も一万人を越えた。 宿内には、本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠は実に二百四十八軒もあった。 駿府宿は一万四千人だったが、家康の隠居城のあった城下町なので、宮宿が宿場としては
姥堂 一番といえよう。 宮宿の東側の入口は精進川であった。 裁断橋を渡ると、左側に姥堂があった。 姥堂は、延文三年(1358)、法明上人により創建されたといい、古い。 道の左側のコンクリート製の建物の前に、姥堂と刻まれた石柱が建っているが、現在の姥堂である (右写真)
本尊の姥像は、熱田神社に在ったものを移した、と伝えられるもので、 オンバコさん 、と呼ばれる高さが八尺の坐像で、奈良の大仏を婿にとる! と、江戸時代の俚謡に歌われ、
裁断橋橋桁 東海道筋にあったことから、お参りに寄る旅人が多かった、といわれる。 昭和二十年三月の名古屋大空襲で、建物も仏像も燃失した。 現在の仏像は平成に入り作成されたもので、四十センチ位と小さい。  左側には、旧裁断橋橋桁と表示された石柱があるが、川があった頃の橋桁の一部である (右写真)
裁断橋とは、変な名だが、熱田神宮の社人が罪を犯したときに、この場所で裁断された
復元した裁断橋 ことに由来する。 小田原合戦に出陣し、亡くなった息子の供養として、母が裁断橋を架け替え事業を行い、その際、橋の擬宝珠に刻んだかな文字の碑文で有名になった。 なお、擬宝珠は、市の博物館に保管されている、という。 川が無くなってしばらくして、姥堂前に、三分の一のスケールの橋が復元された (右写真)
打ち棄てられていた橋石の一部が、上記の橋桁である。 また、右奥には、都々逸(どどいつ)
徳川家康幽閉地 の発祥の地の碑があった。 その先の交差点を左折し、三つ目の交差点を右折すると、左側の白いブロック塀の上に、徳川家康幽閉地とある (右写真)
天文十六年(1547)、徳川家康が六歳の時、織田信秀(信長の父)に人質に出され、熱田の豪族、加藤順盛の屋敷に幽閉され、このあと、那古屋城内にも幽閉された、といわれ、天文十八年(1549)一月、竹千代八歳の時、岡崎城に戻されたが、再び、今川家の人質として、駿府に
伝馬町かいわい 送られた。 街道に戻ると、鈴之御前社という神社があった。 東海道の道筋を辿ると、大きな道が現れ、その先に、伝馬町商店街のアーケードが見えた。 横断歩道がないので、右手の伝馬町交差点まで歩き、そこを越えて、アーケードの中に入ると、左側に亀屋芳広という菓子屋があった (右写真ー反対から写す)
名古屋では、名が通った和菓子屋である。  なお、横断した道は、南西の内田橋を通る
道標 大きな道である。そのまま、歩いて行くと、三叉路に突き当たった。 東南隅の民家の片隅に、字が消えかかっている道標があるが、ここは東海道と美濃路(または佐屋道)の追分を示すもので、寛政弐年(1790)に建てられたものである (右写真)
道標の 北 と刻まれた下には、「 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁 道 」、  東 の下には、「 北 さやつしま 同みのち 道 」 、 西 には、「 東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」 、とあり、南側に 「 寛政2庚戌年 」 と建立された年号が刻まれていた。 
ほうろく地蔵 突き当たりある小さな社には、ほうろく地蔵が祀られている (右写真)
ほうろくを売りにきた商人が、天秤の重石の代わりしていた地蔵を捨てて行ったのを地元人が祀ったものである (詳細は巻末に記載)
七里の渡しを利用しない人は右折して、佐屋街道か美濃街道に向かった。 
(ご参考)佐屋街道については、 東海道脇往還 佐屋街道 をご覧下さい。 
     美濃路については、  美濃路をご覧下さい。 

東海道 東海道は左折し、少し歩くと国道247号に出る。 当時の道はここで、斜めに国道を横断する形になっていた。 歩道橋に上ると、その道が見えた (右写真)
国道を越え、向こう側に渡ると、古い建物の畳屋があった。 東海道は、その先の蓬莱陣屋の脇を斜めに通る細い道である。 このあたりに熱田奉行所(陣屋)があった。 宮宿には本陣が二つあり、赤本陣と白本陣と呼ばれたが、赤本陣は陣屋の北にあり、二百三十六坪の規模
蓬莱陣屋 だったが、空襲で消滅してしまい、駐車場になっているとあるので、どちらにしても蓬莱陣屋付近に陣屋と赤本陣があったことは間違いない。  蓬莱陣屋は、陣屋の名を借りたのだろうが、明治六年創業の老舗割烹である (右写真)
なお、白本陣は伝馬町に、脇本陣は渡しの前にあった、と記録にあるが、場所は確認できなかった。  陣屋の角を曲がり、細い道を歩くと、右側にモダンな寺がある。 
宝勝院 名古屋市は戦後、神社の墓地を東山の平和公園に集めるという政策を採ったので、大部分の寺に墓地がないのである。 建物も戦災にあったこともあり、マンションのような建物もあるが、この宝勝院も寺と思えぬ建物だった (右写真)
建物の前に、承応三年(1654)頃〜明治二十四年(1891)まで、七里の渡しの常夜燈の燈明は当寺が管理していた、と書かれた説明板があったが、これだけが過去を語っているように
宮の渡し公園 思えた。 程なく、掘川の岸にある宮の渡し公園に到着である。 江戸時代の七里の渡しの跡地を整備したという公園で、時の鐘を鳴らす鐘堂があった (右写真)
延宝四年(1676)、尾張藩二代目、徳川光友の命により、熱田蔵福寺に設置された鐘で、その正確な時刻は住民や七里の渡しを利用する旅人に重要な役割を果たした。  昭和二十年の空襲で、鐘楼は焼失したが、鐘は損傷もなく、蔵福寺に現在も保存されている。 
七里の渡しの石碑と常夜燈 昭和五十八年に、往時の宮宿を想い起こすよすがとして、この公園に建設された、とあった。 その先には、七里の渡しの石柱と常夜燈が建っていた (右写真)
常夜燈は、寛永二年(1625)、熱田須賀浦太子堂に建立されたが、その後、承応三年(1654)に現位置に移り、宝勝院に管理が委ねられた。 寛政三年(1791)付近の民家からの出火で焼失し、成瀬正典によって再建されたが、その後荒廃し、現在のものは、昭和三十年に復元されたものである。   桑名に渡る渡しは、慶長六年(1601)に、東海道の 宿駅制度が制定され、
桑名宿と宮宿間は、海路七里の渡船と定められたことにより 誕生した (詳細は巻末に記載)
潮の満ち引きや海流の変化により左右され、三時間から四時間かかったようである。 
船着場 七里の渡しは、往々にしてしけにあって欠航することがあり、また、船便を苦手にする人は陸路をとった。 それが佐屋道で、ここから北に道をとり、現在の新尾頭町から西へ向かい、幾つかの川を渡って、佐屋へ出て、そこから、木曾川を下って桑名へでるルートである。 船着場跡には、当時を再現して、船着場がある (右写真)
しかし、伊勢湾台風以降、港湾の整備が進み、すっかり景観が変ってしまい、渡し場という
旅籠 雰囲気は少しもなかった。 公園の前の道の反対に、熱田荘という建物とその右側に、江戸時代に脇本陣格だったという旅籠の建物が残っていた (右写真)
道路の変化や都市の近代化に加え、名古屋大空襲と伊勢湾台風が、宿場の破壊を強め、この二つの建物以外は、街道としての面影は皆無だった。 以上で、鳴海宿から宮宿の歩きは終了したので、ここから熱田神宮に向かうことにした。 
円福寺 その途中の伝馬町交差点の南西に、室町六代将軍、足利義教が、富士遊覧の帰りに滞在し、連歌会を催したという円福寺がある (右写真ー詳細は巻末参照)
交差点を越え、右折し、その先で左折し、進むと、右側の少し小高いところに、林桐葉旧宅という表示板があった。 林桐葉は、松尾芭蕉の弟子というか、スポンサーのような存在で、鳴海で酒作りをしていた下里千足を芭蕉に紹介したのも彼であり、貞享四年(1687)には、熱田三歌仙を編纂している。 松尾芭蕉が、貞享元年(1684)冬、野ざらし 紀行の際に 立ち寄り、句会が
実施されたが、その後もしばしば訪れている。
熱田神宮 日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造の娘、宮簀媛命と結婚し、草薙剣を妃の手許へ残した。 日本武尊が能褒野で亡くなった後、宮簀媛命は熱田に社地を定め、その剣を奉斉鎮守したのが熱田神宮の始まりと言われる (右写真)
宮宿の名は、ここから生じたが、今でも鬱蒼たる社叢や広大な神域を持ち、荘厳で風格が漂っている。  熱田神宮は、地元では熱田さんと呼ばれているが、初詣の人出はすごい。 
蓬莱軒 今日は平日で夕方でもあり、少なかった。 お参りを済ませると腹もすいたので、先程の林桐葉旧宅の隣にある、蓬莱軒神宮南門店という、うなぎやさんに行った。 今や名古屋名物になった、ひつまぶしを考案した、あつた蓬莱軒の出店で、もとは熱田社の中にあったが、ここに移転したものである(右写真)
ひつまぶしは、備長炭で焼き上げたうなぎに、独特のたれで味をつけ、短冊状に切り、
ひつまぶし おひつに盛ったもので、しゃもじで、おひつを四等分して、うなぎを御茶碗に盛り分け、一膳目はそのままに、さっぱり薬味で二膳、独特のだしをかけて茶漬けで三膳目を食べ、四膳目は好きなように食べるというもので、もともとは当店の賄い料理だったらしい。 量が少ないかと思ったが、食べてみると、適量だった (右写真)
夜の営業を始めたばかりの時間なのに混んでいた。 本店は、先程の蓬莱陣屋で、料亭という形になっているので、気楽に入るにはこの店がよい。  食事後、地下鉄伝馬町駅から自宅に帰った。 

(ご参考) 裁 断 橋

裁断橋は宮の宿の東はずれを流れる精進川に架かる橋である。  熱田神宮の社人が罪を犯したときに、この場所で裁断されたことが名前の由来とある。 
豊臣秀吉の小田原征伐に出陣した尾張国丹羽郡(現在の大口町)の十八歳の青年、堀尾金助が陣中で病にかかり、命を落とした。 金助の死を伝え聞いた母親は,出陣を見送った裁断橋が老朽化していたので、菩提を亡うため、修築を思い立ち、天正十八年(1590)に橋を架け替えた。 
その際、橋の欄干の柱頭に付ける擬宝珠に、以下のような、かな文字の銘文が刻まれた。 
天正十八年二月十八日に
 小田原への御陣
 堀尾金助と申す
 十八になりたる子をたたせてよ
 又二目とも見ざる
 悲しみのあまりに
 いまこの橋を架けるなり
 母の身には落涙ともなり
 即身成仏し給え
 逸岩世俊(堀尾金助の戒名)と後の世のまた後まで
 この書き付けを見る人は
 念仏申し給えや
 三十三年の供養なり
その後、三十三回忌に当り、再度、橋を架け替えようと志したが、亡くなったので、養子が元和元年(1622)に完成させた。 
擬宝珠の銘文は、母の子を思う心が伝わるものとして、有名になった。 現在、裁断橋は廃橋となったが、橋桁の一部は姥堂の境内に展示され、実物の擬宝珠は、名古屋市博物館に現在は保管されている。 
(案内板より)

(ご参考) ほうろく地蔵

お堂の前に掲げられていた由来によると、
『 ほうろく地蔵は三河の国の重原村(現在の知立市)にあったが、野原の中に倒れ、捨て石のようになっていた。 三河より焙烙を売りに尾張に出てきた商人が、この石仏を荷物の片方の重しにして運んできたが、焙烙が売り切れた後、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまった。  地元の人が、捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしたが動かない。 その下の土中から、台座が出てきたのである。 そこで、この地蔵を台座に乗せ、ここに祀ることにした。 』

(ご参考) 亀井山円福寺

この寺は、最澄が熱田神宮参詣の折、守護神の四天王の一つである毘沙門天像を安置したことから始まったとされる寺院で、当初は天台宗の寺だった。  南北朝動乱期(十四世紀前半)に足利氏の一族とされる厳阿上人(ごんなしょうにん)が時宗に深く帰依したため,時宗の寺となった。  寺の山号の亀井山の由来についてはいろいろな説があるが、その一つに、 「 厳阿上人が井戸を掘らせた際に大きな亀の甲羅に似た岩に突きあたった。 古来より、熱田には蓬莱島伝説というのがあり、蓬莱島は不老不死の島で亀の背の上にあると考えられていた。 そこで、上人は、亀井山 と名付けた。 」 と、いうのがある。  また、尾張で歌舞伎が公演されたところ、とある。 江戸時代初期の歌舞伎は、女歌舞伎が中心であった。  当時、火事で焼失したばかりの寺は、再建費用を捻出するため、江戸の右近源左衛門と組んで、本格的な歌舞伎を催し、成功した。  その後、幕府が女歌舞伎の禁止など、芸能の統制に入るが、この寺には明暦三年(1657)に、芝居の興行権を与えられている。 やがて、芝居小屋は、ここから城下町のある名古屋へと移っていく。  また、室町六代将軍足利義教(よしのり)が、富士遊覧の帰りに、三日間滞在し、連歌会を催した寺でもあり、義教自筆の連歌懐紙を所有する。  かつては、広大な所領を有した寺のようだが、その俤はない。 
(寺の前の名古屋市が立てた案内板より)

(ご参考) 七里の渡し

慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、宮宿と桑名宿の間は、海上七里を船で渡る渡船と定められた。 これを七里の渡しと言った。
しかし、天候によっては船が出ない時もあり、また、海路を船で行くことを恐れる人達もいた。 
そうした場合は陸路を利用し、熱田から佐屋街道で佐屋宿まで行き、そこから桑名宿への川路三里の渡船に乗ったのである。 佐屋街道は女性や子供の旅人が多く利用したことからひめ街道とも呼ばれていた、とある。 
陸路を行く道としては、美濃路を利用して垂井に出て、そこから中山道に入り京に行くルートが利用された。
名古屋には尾張徳川家の名古屋城があるが、その城下町と宮宿とは別の存在になっていたのである。 大多数の大名行列は七里の渡しを利用したので、名古屋城を見ることはなかった。 現在の宮宿(名古屋市熱田)は、海から遠くなってしまったが、名古屋駅の近くにも水主町(かこまち)とか泥江町(ひじえちょう)という地名が今でも残っていて、江戸時代には、内陸部まで伊勢湾の遠浅の浜であったことを予感させる。 また、名古屋城の近くまで海水が入り込んでいたと聞くし、その先も弥富などは干潟が続いていたのであろう。 そういう意味では船便を利用するのは理にかなっていた訳であり、幕府としても防衛上からこの方がよかったのである。
七里の渡しの所要時間は三時間〜四時間。 宮宿には、船番所が設けられ、行き交う船の管理を行っていた。 天保年間に熱田〜桑名間に使用された渡し船は七十五隻、小渡し船四十二隻で、四十〜五十人乗りの大きな船から三〜五人乗りの小さな船まであったようである。 


平成十七年(2005) 3 月


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かうんたぁ。