慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、宮宿と桑名宿の間は、海上七里を船で渡る渡船と定められた。 これを七里の渡しと言った。
明治維新による街道の廃止で、七里の渡しもなくなり、東海道を歩くには、宮宿〜桑名宿は鉄道の厄介にならざるを得ない。 小生もそのようにして旅を続けたが、
平成20年2月6日、待望の七里の渡しが実現できたのである。
以下、その時の体験を記したい。
慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、宮宿と桑名宿の間は、海上七里を船で渡る渡船と定められた。 これを七里の渡しと言った。
尾張名所図会には、宮宿の七里の渡し場の様子が描かれていて、道沿いに並ぶ旅籠などの家や岸につながれた船、道を行く交う人の多さから、当時の賑わいが分る。 尾張藩は、東西は浜御殿の他、浜鳥居の西に船番所、船会所を設け、船の出入りと旅人の氏名を記録していた、とある (右写真)
しかし、天候によっては船が出ない時もあり、また、海路を船で行くことを恐れる
人達もいた。
そうした場合は陸路を利用し、熱田から佐屋街道で佐屋宿まで行き、そこから桑名宿への川路三里の渡船に乗ったのである。 佐屋街道は女性や子供の旅人が多く利用したことからひめ街道とも呼ばれていた。 陸路を行く道としては、美濃路を利用して垂井に出て、そこから中山道に入り、京に行くルートが利用された。 七里の渡しと佐屋街道、美濃路に分かれるのは、伝馬町の三叉路に残る道標のところである (右写真)
宮宿には、七里の渡しの船番所が設けられ、行き交う船の管理を行っていた。
渡し船は七十五隻、小渡し船四十二隻程だったようである。
明治に入り、東海道制度は廃止となり、東海道宮の宿から桑名へ渡る七里の渡しもなくなった。 また、伊勢湾台風の到来で、このあたりの様相はすっかり変った。
七里の渡しは、堀川と新堀川の合流点にあり、船着場の遺構の一部が残るだけである (右写真)
名古屋市は、時の鐘の鍾楼と常夜燈を復元し、公園になっている。
従って、東海道を歩く人は、ここから桑名宿から鉄道の利用となり、小生も、平成19年1月19日
にその
ルートをとった。 ところが、平成20年2月6日、待望の七里の渡しが実現したのである。
以下、その時の体験を記したい。
昨年の12月、某旅行社の東海道の旅の案内を貰い、その中に、桑名宿〜宮宿間を船便でとあった。 これまで、東海道や中山道のこの種のツアーには参加しようと思ったことはないが、七里の渡しを体験する少ないチャンスと思い、早速申し込んだ。 コースは、JR朝日駅から桑名宿まで歩き、桑名で船に乗り、宮宿に渡るというものである。2回のうち、1月実施は満員で、2月に回った。 2月は寒い上、風も強いと思い、少し心配だったが・・・
平成20年2月6日10時、JR朝日駅集合し、桑名宿を経て、桑名宿の船着場まで歩いた。 この区間は、一年前の平成19年1月19日に、桑名宿から四日市宿まで歩き済みであるので、ここでは書かない。
ツアーの参加者は約二十名で、東京から呼んだ講師が率いる。 手渡されたのは
一枚のメモのようなもので、今日の予定コースと説明箇所が簡単に書いてあった。 説明箇所での説明はあるが、その他は先生の後についてひたすら歩くだけであった。 いつもはもっとゆっくりということだが、船の時間があるので、結構なスピードであった。 桑名宿への入口は鉤型になっているので複雑だが、先生の誘導で通り抜けていくので、自宅に帰って、今日のコースを辿ろうとしても、思えだせないだろう (右上写真)
歩くだけが目的な人やくわしく知ろうとしないでも満足という人には良いが、小生には物足りぬ気がした。
それはさておき、揖斐川と接する住吉神社の船着場に、船が待っていたので、トイレを済ませて、全員が乗り込んだ (右写真)
船の船室には、二十数名しか座れないが、船室の上のデッキに、十名以上、船尾に五名程度はのれる。 但し、冬の吹きさらしでは堪える。 船の添乗員が、船の速さは七〜八ノット、
自転車のスピードと同じ時速13キロ〜15キロである、と説明をした。 出航すると、船着場の先に、住吉神社の鳥居と社が見えた (右写真)
干潮のため、大回りに走行しなければならないので、二時間半かかる予定だ、という。
江戸時代の七里の渡しの所要時間は、三〜四時間で、潮の干満によりコースは違い、時間も一定ではなかった、とあるが、この船は当時の船と同じスピード??
船の添乗員によると、江戸時代は帆掛け舟だった、というが、今の遊覧船位のスピードが出た訳である。
少し経つと、左側に、桑名宿の船着場があった、伊勢神宮の一の鳥居が、護岸壁の間から見えたが、あっという間に通り過ぎてしまった (右写真)
七里の渡しの伊勢国側の入口にあたり、本来ならば、今日の船もここから出られれば良いのだが、そういう訳にはいかない。 一の鳥居は、天明年間(1781〜1789)に初めて建てられ、
以来伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられる、とあるので、東海道開通時にはなかったのである。 船から見ると、
かなり大きくみえるので、熱田から乗った旅人は遠くから鳥居を確認し、船旅が無事終えたと、ほっと安心しただろう。 そ
の先には、桑名城の蟠龍櫓が見えてきた (右写真)
これは、外観を復元したものだが、白い壁が水に映え、江戸時代に桑名城が水城として有名だったことが頷けた。
船は揖斐川に沿って下っている、という説明があったが、隣に流れる長良川と見た目には区別がつかなかった。
その先に見えるのは、揖斐長良大橋である (右写真)
橋を越えると、はるかに見えるのは、長島スパーランドの遊戯施設と伊勢湾岸道路の橋である。 しかし、船は遅々として進まない。 近そうに見えたが、その間、三千五百メー
トル
あり、見ていてもしょうがないので、船室に戻り、持参した昼飯を食べた。 船会社から、
はまぐりのあさ蒸しが出させたが、暖かで良かった。 桑名の料亭、船津屋のはまぐり料理は一万円もするが、船会社の心づくしの料理は心を打った。 桑名の天然はまぐりはほとんど取れなくなり、一部養殖しているが、大部分は韓国からの輸入で、今日の料理も韓国産である。 船津屋で出されるものは、地元産で、実の大きさは二倍から三倍あると、いう。 望遠側で見ると、長島スパーランドは目の前に見えた (右写真)
川は一つのように見えるが、川の中央に目には見えない仕切りがあり、川がそれぞれ分かれて流れているのだそうである。
食事も終り、身体も温まったので、また、外に出て、船室の上に上った。
右側に長い煙突があり、白い煙が昇っているのは、川越火力発電所である (右写真)
右側に防潮堤のようなものが、川に沿って続く。 防潮堤の上には、かもめや水鳥が羽根を
休めていた。 飛ぶ鳥が増え、目の前を横切っていった (右写真)
船の添乗員は、発電所の煙が上に昇っているので、無風状態といい、この時期としては大変珍しいと、いわれた。 ツアーの講師は、一月のツアーは風が強くて、朝日から桑名の渡し場で中止となった、という。 先生も三度目でやっと船に乗れたということなので、無風とは大変ラッキーである。 小生は船に弱いので、船酔いの薬を飲んでいたが、どうやら厄介には
ならないで済みそうである。 右側の防潮堤がかなりはっきり見えるが、上にいるのはかなり大きな黒い鳥で、鵜のように思われた。 伊勢自動車道の鉄橋を過ぎると、白い灯台のようなものが現れ、防潮堤は終わった (右写真)
突然、船が少し揺れた。 船の案内では、川から海に入った、という。 時計を見ると、船に乗って四十分経過していた。
突然大きなうねりが起きた。 船の案内では、大きな船が通行する
と、その船が起こす波が伝わってくるが、船に横揺れ防止が付いているので、安全という。 はるか彼方に、自動車専用船が見えた (右写真)
遠くを航行する動きが大きな波になって伝わってくる。 更に沖に出ると、何隻かの船が停泊して、港入りを待っていた。 そのあたりから、船は向きを変えて、長島スパーランドを左に見ながら進むと、竹竿が沢山立っているのが見える。
海苔の養殖場である。 十一月から三月にかけてが、収穫期といい、小さな舟が何隻か、その近くで作業をしていた (右写真)
その先が木曽岬で、ここまでが三重県、その先の飛び出したバース(港湾施設)は富浜、弥富市となり、愛知県に入る。 この奥にあるのが、自然観察が出来る弥富野鳥園である。 数人の人はデッキに出て、風景を楽しんでいるが、残りの人は船室で仲間とおしゃべりするか、
昼寝を決め込んでいる。 船は遅々としてか進まないので、風景の変化に乏しいし、港湾に興味がなければ、すぐに飽きてしまうだろう (右写真ー船の様子)
江戸時代の旅人も同じ心境だったのだろうが、船中で歩いた疲労を癒すには大いに役立ったことだろう。 出発して一時間三十分経過し、名古屋港の心臓部に入る。 小生は、海外物流の仕事に就いたことがあり、その間、港にはしばしば出かけた。
チップ(材木を細かくしたもの)を降ろす船、そして、その反対側には、ガントリクレーンという巨大なクレーンが二百フィートコンテナを揚げ降ろしている (右写真)
今から二十年位前から、貨物のコンテナー化が進み、このクレーンが導入され、その御披露目式に招待されたことを思い出した。 物流の合理化に効果があったので、一隻に大量積めるようにコンテナー船が大型化した結果、名古屋港の水深を掘り下げないと、船が来てくれない
という、課題がでていると、後輩から聞いたことがある。 正面に東海市が見えてきた。 左手には、金城と飛島との間に架かる橋が見えた (右写真)
船は、左手の金城埠頭にある航路監視塔(ビル)を通り過ぎると、向きを変え、中央埠頭に向って進む。 出発して、一時間四十分が経過していた。 金城埠頭には、入港した時、船を岸壁まで誘導するタックボートの基地があった。
その先には、金城埠頭と中央埠頭、そして、中央埠頭と東海市を結ぶ橋があり、先程の橋を含めると、三つになるので、名港トリトンと呼ばれ、赤、白、青の三色に色分けされている。
トリトンの白い橋の近くにくると、左側の船の横腹を前後二隻のタックボートが、頭突きしている形で船を押していた (右写真)
船を岸壁に着岸させるため、行なっているのだが、海側から見たのは始めてである。
白い中央橋の下をくぐったのは、十五時三分。出発して、一時間五十三分後である。 橋の長さは千百七十メートル、海上から橋までの高さは四十七メートル。 大型船が通り抜けられるだけの高さだが、見上げると大変高かった。 名古屋港は、明治四十年の開港で、先日開港百年を迎えたが、江戸時代の熱田の沖は遠浅の泥海だったようで、船を運航させるため、浚渫と埋め立てを繰り返し、今日の姿になった、という。
東海道線が建設された時には、名古屋に港がないため、武豊港が利用され、建築資材を運ぶため、敷設されたのが現在の武豊線である。 船に乗った時、気温は四度だったので、寒いと思ったが、海上に出ると、デッキにいても、さほど寒いという感じがしなかったが、陸地に近づくにつれて、寒さを感じるようになった (右写真)
寒く
なかったのは、無風だったのと、海水が高いことが影響しているのではないか?
中央埠頭のあたりは、果物倉庫が多い。 Doleの船はフルーツ専用運搬船であるが、スマートで格好が良い。 十五時二十一分、出発して二時間十分が経過し、名古屋港ガーデン埠頭のポートビルと大観覧車が大きく見えてきた (右写真)
南極観測船ふじは、陰影に入り、あまりよく見えなかった。 過去の話になるが、昭和三十六年に始めて、名古屋港を訪れた時は、ガーデン埠頭のところに、沖に向って、桟橋が長く伸びて
いて、その手前に船客用の施設があった。 当時に海外に輸出される自動車はトラックが大部分だったが、この桟橋の端まで自走し、車にもっこ(ハンモックのようなもの)を被せ、船のクレーンで吊り下げたものである。 左手にイタリア村が見えた (右写真)
いよいよ堀川に入っていく。 堀川の護岸工事では、奥田助七の功績が大きいと、
ある。
川の中央が四つに仕切られ、右側の二つが上航、左側が下航と表示され、上航の右側は赤、左側は青のランプが付いていた (右写真)
船は青の信号のゲートをくぐると、すぐに、国道23号の港新橋があり、橋の上を走るトラックの一部が見えた。 そこから五百メートル程先にあるきらく橋は、歩行者専用と思える橋。 橋の手前の左側にへこんだような形のところがあるのが、堀川口船溜りである。
右側は住宅地のようで、少しごちゃごちゃしていたが、左側は、住友軽金属の工場が続いていた。 川巾が狭いので、船は注意しながら、進んでいく。 船の関門から十分経過すると、いよいよ旅は大詰めとなる。 左右が階段状に傾斜する橋は歩道部分で、その先に車道がある橋が現れた。 東海通りの紀伊左衛門橋である (右写真)
橋から先、右側は南区、左側と上部は熱田区になる。 その先には、新幹線の鉄橋がある。
東京の帰り、堀川を見ると、降り支度をするところである。 鉄橋を越えると、その先で、堀川は二つに分れるが、その分れるところに、七里の渡し公園がある。 その姿が、目で捉えられるようになった時、下船の準備のアナウンスがあった (右写真)
七里の渡し公園に到着したのは、十五時四十三分で、予告通りの二時間三十分余だった。
上記の絵は、小生が到着した七里の渡しの江戸時代の様子である。
江戸時代の名古屋港の金城や飛島、鍋田あたりは、この絵のように遠浅の海になっていたと思うので、今回の運航よりかなり短い距離だっただろう。 また、海岸線がどうなっていたか分らないが、小島に松が生える程度で、さして見るべきものはなく、退屈だっただろう、と思えた。 今回の二時間三十分の旅でも、大多数の人が船の中に閉じ籠ったままで、その風景に関心を持ったのは五〜六名だったことを考えると、江戸時代の旅人も、船の中は休憩時間と割り切っていた人が多かったのではないか? 当時の旅の乗り物が、馬か、駕篭であることを考えると、船は一番楽な乗り物だった筈である。
以上で、小生の七里の旅のレポートは終える。
平成20年(2008) 2 月