熱田からの七里の渡しは、三時間〜四時間の船旅だったが、それを嫌う人は佐屋街道を利用した。
船が着くのは、伊勢の国の桑名で、桑名宿は、東海道と伊勢街道の
入口として賑わっていた。
また、桑名藩十一万石の城下町で、桑名城は水に囲まれた優美な城だったようである。
桑名宿の絵は、桑名城を背景に七里の渡しの帆掛け舟が描かれている(右写真)
桑名宿は、東海道で宮宿に次ぐ二番目に大きな宿場であった 元禄十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内の総家数二千五百四十四軒、宿内人口は、男子四千三百九十人、女子四千四百六十人、計八千八百五十人で、本陣が二軒、脇本陣が四軒、旅籠は百二十軒あった。 平成19年1月19日、桑名宿から四日市宿までの約十五キロを歩く予定だが、七里の渡しは
ないので、宮宿からの区間は電車を利用するのが一般的であろう。 名古屋駅から近鉄の急行に乗ると、三十分で桑名駅に着いた (右写真)
江戸時代の七里の渡しでは、熱田から桑名までは、三時間〜四時間かかっていたものが、名鉄、近鉄と乗り継けば一時間足らずで到着できる。 ここから、熱田宿からの到着地の七里の渡し跡に向かう。 駅前を東へ真っすぐ歩いていくと、北寺町で、左側に海蔵寺があり、その先
を右に入ると、桑名御坊と称せられる本統寺という寺がある。
東本願寺桑名別院で、徳川家康や明治天皇も宿泊した由緒ある寺院である (右写真)
慶長元年(1596)、本願寺第十二代世教上人により開創され、開基は同上人の長女(教証院)である。 延宝年間の火災で、堂宇が全て焼失したが、桑名の長者、山田彦左衛門の寄進で再建された。 また、松尾芭蕉が、野ざらし紀行の初旅の折、この寺に宿泊している。
当時の住職は琢恵(たっけい)で、古益という俳号を持ち、北村季吟門下の俳人でもあった。
境内には芭蕉句碑が建っていた (右写真)
「 冬牡丹 千鳥よ 雪のほととぎす 」
寺の前はアーケードになっていて別院商店街である。
外に出ると堀があり、橋の名はいなりばし。
目の前に、赤い幟のお稲荷さんがあった。 白蔵稲荷大明神といい、創建ははっきりしないが、江戸時代には町年寄三十六人衆を始め、多くの商人の信仰厚く、火伏せや販売
繁昌を祈った、とあった。
この南魚町のあたりは、江戸時代には市場になっていたようである。
先に進むと、桑名宗社ともいわれる、春日神社がある。 旧桑名神社(祭神三崎大明神)と中臣神社(祭神春日大明神)を合祀したもので、神社の入口に立つ青銅の大鳥居は、高さ七メートル六十センチの大きなものである (右写真)
寛文七年(1667)に、桑名城主、松平定重が造らせたもの。 鳥居の前の左側に大きな石柱
がある。 これは、しるべ石というもので、江戸時代の迷子の捜索板である。 左右に、たづぬるかた と おしへるかたと彫られていて、それぞれの石面に、尋ね人の名前と特徴と見つけた場所を書いて貼り付ける、というしくみだった (右写真)
境内には、文化三年の常夜灯や明治天皇に供した御膳水の井戸が残る。
「 山車総(す)べて 鎧(よろい)皇后 立ち給う 」 (山口誓子)
「 山車の燈に 夜は紅顔の 皇后よ 」 (二川のぼる)
という二つの句碑が建っていた。
二川のぼるとはどういう人か知らないが、三重県に関連のある人物なのだろう。
上記の句は、毎年八月第一土曜日の午前零時から日曜日深夜まで行われる春日神社の石取祭(いしとりまつり)を詠んだもので、皇后とは、神功皇后で、春日神社の祭神と関係がある (右写真ー石取祭の山車)
起源は、江戸時代初期に神社の祭場へ町屋川の石を奉納した神事といわれる。 町内毎に大太鼓一張と鉦を四〜六個持つ山車があり、それが三十数台寄り集まって、東海道などを
練り歩き、全車が桑名宗社へ渡祭(とさい)を行うまでの二日間、おはやしを打ち鳴らし練り歩く。
その音のうるさいことから、日本一やかましい祭といわれるが、一度どんな祭りか、体験してみたいものである (右写真ー石取会館にあった山車)
東海道より一つ奥に入った山門前の道に、古い看板の饅頭屋があり、その先にも飲み屋や飲食店が多い。 駅から離れているのにお客が来るのかと思うが、沢山あるところを見ると、やっていけるのだろう。 七里の渡しの船着き場へ向って歩く。
途中から東海道に入り、少し歩くと、右側に、史跡七里の渡しの石標があり、そこを右折すると、水門みたいなものがあり、手前の右側は舟溜まりになっていた (右写真)
その反対側に、下に降りるところがあり、それが、七里の渡しの跡である。
慶長六年(1601)、江戸と京都を結ぶ東海道の宿駅制度が制定され、宮宿と桑名宿の間は、海上七里を船で渡る渡船と、定められた。
これを七里の渡しといい、この区間を約四時間で運んだ。
京や大阪に向かう人の他、お伊勢さん詣の人の利用が多かったので、その賑わいはいかばかりだっただろう?
しかし、コンクリートの堤防が出来て、渡しの船着き場は囲まれ、外の風景は見渡せないので、昔の面影を偲ぶのは難しい (右写真)
明治に入り東海道が廃止になってからも、揖斐川上流の大垣との間に人荷の流通があり、船着き場は、客船や荷物船の発着場となっていたが、鉄道の開通とトラックの登場で、次第に
利用されることがなくなった。 更に、昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風以後の高潮対策工事のため、渡船場と道路の間に防波堤が築かれて、旧観は著しく変化し、港としての機能は全く失われたが、昭和六十三年から平成元年にかけての整備修景工事により現在の姿になっている。
七里の渡しの跡に立つ鳥居は、伊勢神宮の一の鳥居である (右写真)
伊勢国の東入口にあたるため、天明年間(1781〜1789)に建てられ、以来伊勢神宮の遷宮ごとに、伊勢神宮の一の鳥居を移して、建て替えられる。 その脇に常夜燈がある。
常夜燈(常燈明)は、江戸や桑名の人達の寄進によって建立され、以前は、鍛冶町の東海道筋にあったが、交通の邪魔になるので、ここへ移築されたもの、とある (右写真)
天保四年(1833)建立の常夜燈だったが、昭和三十七年の伊勢湾台風で倒壊したので、台石は元のままだが、上部は多度大社から移したもので、安政三年(1856)銘があると、市観光協会の説明にあった。 即ち、江戸時代にはここにはなかったのである。
江戸時代の旅人になった気分で、鳥居から伊勢神宮の方角を拝み、街道にで
た。 尾張国からはいよいよ伊勢国に入った。 道を右に曲がり、北側に少し行くと、料理旅館山月があるが、ここが駿河屋脇本陣だったところで、家の前に小さな石標が建っている。
隣の料亭船津屋は、江戸時代に大塚本陣があったところである (右写真)
現在の建物は、当時のものではないが、船津屋は、泉鏡花の名作「歌行燈」のモデルに
なったことで、有名である。
泉鏡花は、明治四十二年(1709)十一月、講演の為、桑名に来て船津屋に泊まった。 この
時の印象を基に、小説「歌行燈」を書いた。 船津屋は格式の高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸からかわうそがはい上ってきて悪さをするという噂話が登場する (右写真ー船津屋入口)
建物を囲む塀の一角に、久保田万太郎の句碑があった。
昭和十四年(1939)、久保田万太郎は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲、歌行燈を書き上げた。
船津屋主人の求めに応じて詠んだものといわれる句である (右写真)
「 かはをそに 火をぬすまれて あけやすき 万 」
船津屋では桑名名物のはまぐりを料理して出してもらえるが、昼の定食でも一万円では
一般
庶民は気楽に入れない。 そういう意味では相変わらず、高級料亭である。
桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として、十楽の津と
呼ばれ、米や木材などいろいろな物資が集散する商業都市として発達した。
住吉浦には、全国から多くの廻船業者が集まり、これらの人達によって、航海の安全を祈り、浪速の住吉神社から勧請して住吉神社を建立した。
住吉神社は、道を更に進み、船津屋の裏側に回った先にある (右写真)
神社前の二基の石塔は、材木商達が寄進したもので、天明八戌申年十二月吉日と、
刻まれている。
境内に山口誓子の句碑があった。
「 水神に 守られ冬も 大河なり 誓子 」
神社から見ると、揖斐川と長良川が流れ、その先で一つになって流れていく様は巨大で竜を感じさせる。 快晴の今日は臥竜のように穏やかな風景を演出していた (右写真)
風景を見ていると時間が刻々と過ぎるのでこれではいかんと思い、七里の渡しのところに
戻り、東海道の旅を始める。 船着場から春日神社あたりまでは、船宿や旅籠があった所である。 少し歩くと丹羽本陣跡。 丹羽本陣は後藤商店、うどん屋川市などがあるあたりにあったようである (右写真)
道を進むと、その先には、泉鏡花の歌行燈と書いたうどん屋があり、その先の交差点を横断して進むのが、東海道である。 折角なので、桑名城の跡に立ち寄ることにした。
交差点を左折したところに、柿安の店があり、そこを越えると、多聞橋である。 その橋を渡ると、その先には、舟入橋があり、それを渡ると、左に鹿の飾りの兜を被った本多忠勝の大きな銅像があった (右写真)
本多忠勝は、徳川四天王の一人で、慶長六年(1601)に、桑名十万石に封じられると、四層六重の天守をはじめ、多くの櫓や多聞が立ち並んだ近代城郭の桑名城を建て、また、葦が生えた湿地に城下町を整備したといわれる、桑名の基礎を築いた人物である。
ここは、桑名城の三の丸跡で、右折し、狭い道を進み、左折すると、鎮国守国神社がある。 本多氏は二代目に移封された後は、松平氏一族に変ったが、この神社は、寛政の改革の老中、松平定信の息子が城内に設けた神社で、桑名藩主になった先祖の松平定綱(鎮国公)と実父松平定信(守国公)を祀っている (右写真ー桑名藩は巻末参照)
そこを右折して進むと、本丸である。 桑名城の天守閣は、元禄十四年、(1701)の桑名の大火
で焼失し、以後再建なされなかった。 その先の小高いところは、辰巳櫓の跡である。 辰巳櫓は三重櫓で、天守の代わりをしていたが、大政奉還の後の慶応四年(1868)、明治政府軍により桑名城を焼き払われ、建物は灰燼に帰した (右写真)
桑名城の跡は全体で、九華公園になっているが、無数の堀の中に空地があるという感じで、ここに水城の桑名城があった姿は想像できなかった。
中橋を渡り、出たところは、先程の春日神社の前である。 左折し東海道を歩く。 少し歩くと、左側が掘割であるポケットパークがあり、歴史ふれあい公園と名付けられている。 この堀は、桑名城を囲む城壁の一部で、正面の堀川東岸の城壁は、川口樋門(揖斐川に出る)から南大戸橋に至る約五百メートルが残っている (右写真)
この小公園を過ぎると、道は突き当り。 左側にあるのは、南大手橋で、以前はもう少し
南にあったようだが、桑名城の出入口のなっていた。 東海道は右折する。 そのまま少し歩くと、右側に石取会館(入場無料)。 中に入ると、石取祭のビデオの上映や祭に参加する山車が置かれていた。 交差点の左側には、桑名市博物館(入場無料)がある。
二階に、歴史遺物を展示し、当日は三重の画人の絵を展示していた。
博物館の壁面に、右 京いせ道、左 江戸道と書かれた石の道標が置かれていた (右写真)
下の方は欠けているように思えたが、東海道に置かれていたものを移設した、とあった。
交差点を渡り、真直ぐ歩くと三叉路になり、右側に赤い建物の毘沙門堂がある。 その少し先に、京町公園という小公園があるが、そこが京町見附跡である (右写真)
見附とは、番所のようなもので、ここで、桑名城と宿場に入る人を監視していた。
東海道はここで左折し、更に左折し、そして右折するという、鉤型になっていたのである
が、残念ながら、その道はなくなっていた。
街道を戻り、赤い毘沙門堂のところを右に曲がり、よつや通りに入った (右写真ー毘沙門堂)
少しお腹がすいたので、大判焼きを二つ買って食べながら歩く。
吉津屋町には仏壇屋が多い。 この通りの先の東海道沿いには、寺院がずらーと並んで、建っている。
本多忠勝が、桑名城の備えとして、寺院を配置したといわれるが、人口に比し、寺や仏壇屋が多いのは、
川を隔てた長島本願寺の門徒が織田信長に抵抗し、焼き討ちと全員惨殺されたという歴史が、今なお、伊勢門徒として、脈々として続いているように思えた。
横断歩道の信号を押し、しばらく待たされて向こう側へ渡る。
少し先の右側の桑名市勤労青少年ホームが、江戸時代の吉津屋見附があったところ (右写真)
吉津屋門があり、桑名藩士が詰める番所が置かれていたので、吉津屋見附と呼ばれたが、
後に、鍛冶町として独立したので、鍛冶門に変わった、とある。 この先は、城下町や宿場町特有の鉤型になっている。
桑名市勤労青少年ホーム前を右折し、その先で左折すると、右側に、桑名名物の佃煮のしぐれを販売している店があった (右写真)
小生は、しぐれはまぐりは、新之助貝新しか知らなかったが、帰りに四日市近鉄百貨店に行くと、この店を含め、沢山あることを知った。
その先の四差路を左へ曲がると、民家の前に
説明板があり、鍛冶町常夜燈跡と、あった。 説明によると、常夜燈は七ッ橋近くにあり、
天保四年(1833)、江戸、名古屋、桑名二百四十一人の寄進で建てられた多度神社の常夜燈で、戦後道路拡張で七里の渡し跡に移した、とあった。 先程、七里の渡しで見た常夜燈は、ここにあったのである。 なお、七ッ橋は埋められて、今はない。 このあたりは、入江葭町で、三つ目の道(大通りに出る手前の道)まで歩き、右折し、道を横断すると、新町に入る。 少し歩くと、右側に教宗寺があるが、その先の泡洲崎八幡社に道標があった (右写真)
天保十三年(1842)に、新町北端に建立されたもので、右 きやういせみち、左 ふなばみち、
と書かれているが、真中で折れていたので、壊された後、ここに移設保管したのだろう。
円光大師遺跡の石碑がある光明寺には、七里の渡しの海難事故で亡くなった旅人の供養塔がある。 光徳寺には、万古焼創始者の沼山弄山やその後継者の加賀月華の墓がある。
十念寺前に、桑名藩義士森陣明翁墓所の大石柱が建っている (右写真)
彼は、桑名藩主松平定数の京都所司代在任中公用人として勤皇佐幕に心をくだき、
戊辰戦争には公に従い、函館に立て篭もった。 敗れてのち、朝廷より反逆の首謀者
を出せと、藩へ命じられたので、彼は自ら進んで、全藩に代わって出頭し、東京江川の藩邸で死んだ、という人物である。 寺の裏の道の反対にある墓地に彼の墓があり、市が建てた碑には、彼の辞世の句、 うれしさよ つくすまことの あらわれて 君にかわれる 死出の旅立 が、書かれていた (右写真)
大通りに出ると、右手に伝馬公園が見えるが、東海道は、道の反対側に、左斜めの道
として残っている。 寺の高い塀に沿って進むと、萓町交差点からきた道に合流。 道の反対にある、日進小学校、日進幼稚園は、七曲見附の跡で、江戸時代には、七曲門があり、番所があったのである。 なお、隣の顕本寺には、四日市代官、山田奉行などを務めた水谷九左衛門光勝の墓がある (右写真)
東海道は、このあたりで鉤型になっていたのだが、道はないので、右に歩き、日進小学校前
交差点に出たら、右折する。 東海道は、矢田の火の見櫓まで直線である。
少し先の右側にあるのは天武天皇社で、壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が一時を過ごしたとされる場所に、後年になって創建された神社である (右写真)
当初は、隣の旧本願寺村にあったが、天和年間(1681〜1684)に、この地に移されたもので、天武天皇、持統天皇と天武天皇の第一皇子の高市皇子が祀られている。
社殿は質素であるが、鬱蒼とした樹林に囲まれて深閑としていた (右写真)
壬申の乱とは、西暦672年、天智天皇の弟の大海人皇子が、近江朝を継いだ大友皇子に対し、反乱を起こした戦いである。
大海人皇子は、隠れていた吉野を出て、伊賀を通って、この地に陣を置き、伊勢や尾張の兵を集め、美濃に進出し、不破で全戰線の指揮をとったが、同行した妻の鵜野皇女(うののひめみこ)、後の持統天皇はこの地に留まり、伊勢の勢力を固めた
といわれる。 戦いに勝った大海人皇子は即位し、天武天皇となった。 少し行くと、左側の広場にボルト締めになった石碑が建っている (右写真)
善光寺一分如来、世話人万屋吉兵衛と刻まれたもので、寛政十二年(1800)に建てられた。
その奥に、石仏が納められた小さな社があったが、どういうものかは分からなかった。
ここまで多くのお寺があったが、慶長の町割りの時、城下の外郭を固めるためだった、とある。
その先の右側に、明治二十年に建立された道標があり、左 東海道渡船場道、右 西京伊勢道、
と刻まれている。 向かいに、一目連神社がある (右写真)
珍しい名前であるが、桑名から北方にある多度大社に同じ名前の神社がある。 多度の一目連神社は、多度大社の別宮で、祭神は天目一箇命(あめのまひとつのみこと)である。
本宮の祭神、天津彦根神(雨乞いの神、風神、海神)の子で、製鉄、鍛冶や金属加工の神、そして台風の神ともいわれる。 祭神の天目一箇命の目一箇は、片目という意味のようで、鍛冶が鉄の色
でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、と研究者は見て
いるようである。 このあたりは、鋳物に従事する人が多かったことから鍋屋町(現在は東鍋屋町)という名になったとあり、そうした人達が多度大社に勧請して、神社を建てたのであろう。
それなら、神と鍛冶とがつながりが、納得できる。
その先に、梵鐘を造る家があり、店のガラス越しに大小の鐘が置かれていた (右写真)
道を越えると、西鍋屋町。 このあたりにも寺が多い。 明円寺、教覚寺、矢田町交差点で、国道1号線を渡って、直進すると、善西寺がある。
その先の右側の鳥居は、立坂神社のもので、奥に見える神社は、桑名藩初代藩主、本多忠勝により創建された矢田八幡宮が前身である (右写真)
このあたりには、戦災を受けなかったので、古い連子格子の家も残っている。
その先の右側に、火の見櫓があった。 江戸時代の矢田町は東海道の立場だったようである。
久波奈名所図会には、「 比立場は食物自由のして、河海の魚鱗、山野の蔬菜四時無きなし 」 と、ある。 桑名は、物資が四方から集まる商業都市であったことがこの文からも分かる。 このあたりは、八曲といわれる鉤型になっていたようで、その一つがこの角のようである。 その前に、当時あった火の見櫓を再現していた (右写真)
ここは桑名宿の西の入口に当るので、西国の大名が通行する際には、桑名藩の役人が出迎え案内をした。 また、旅人を引き
止めるため、客引小屋があった、という。
以上で桑名宿は終わる。
(ご 参 考) 桑 名 藩
徳川家康は、慶長六年(1601)東海道の要路の桑名に、徳川四天王の一人、本多忠勝を配置し、桑名藩十万石とした。 忠勝
は、揖斐川沿いに近代城郭の建造を行なった (右写真)
城には船着場を設け、四層六重の天守をはじめ、五十一基の櫓、四十六基の多聞を造り、併せて城下町を整備した。 本多家
二代目、忠政は、元和三年(1617)に姫路藩に移封となり、家康の異父弟である松平(久松)定勝が入藩するが、次ぎの定行は、
伊予松山へ、代わって、松平(久松)定綱が入り、三代続くが、定重の時代の元禄十四年(1701)に、桑名の大火が起き、町の
大部分が焼失、天守も焼けおちたが、その後、再建されることはなかった。 松平定重は、宝永
七年(1710)、越後高田藩に移り、代わって、松平(奥平)忠雅が入藩し、七代続くも、文政六年
(1823)に忍藩に移封となり、松平(久松)定永が入藩する。 宝永七年に高田に移封となった
松平(久松)家の再入藩で、松平定永は養子で、実父は松平定信である。 当時の老中は松平
定信だったので、御手盛りの感もするが、この時、藩祖の松平定綱(鎮国公)と実父松平定信
(守国公)を祀る鎮国守国神社を
城内に建立した。 幕末には、松平容保の実弟、松平定敬が藩主となり、京都所司代として、兄と共に京都の治安の任務に
就いた。 慶応四年(1868)の戊辰戦争の際、藩主不在の桑名藩では、抗戦か恭順か激論となったが、結局は無血開城した。
しかし、明治政府軍は、桑名藩は抵抗したとして、桑名城を焼き払い、開城の証とした。 また、四日市港建設の
際にも、城石を運んで使ったとあり、明治政府の徳川家への恨みは強かったと思われる。
今は、桑名城址の石碑と城の石垣が一部残るだけである (右写真)
(ご 参 考) 多度大社
多度大社は、雄略天皇の御代に創建されたと伝えられる古い神社で、最初は、多度山を神体とした原始信仰だったが、その
後、当地の豪族、桑名首(くわなのおびと)の祖神である天津彦根命を祀るようになり、延喜式神名帳には
名神大社に列せられ、伊勢国の二宮である。 天平宝字七年(763)、神宮寺が創建され、伊勢国の准国分寺とされた (右写真
-多度神社)
平安時代には、伊勢平氏
の軍神として信仰され、鎌倉〜室町時代には国司北畠氏のもとで庇護されたが、元亀二年(1571)の長島一向一揆の際、信長軍
の兵火により焼失した。
慶長十年(1605)、桑名藩主の本多忠勝が再建した。 神橋を渡ると、左手にあるのが天津彦根命が祀られている多度神社で、
右側にあるのが、鍛冶の神様といわれる天目一箇命を祀る別宮・一目連神社で、これらの二つを併せて多度両社と称するよう
である(右写真−一目連神社)
天津彦根命は天照大神の第三子で、天目一箇命は、天津彦根命の子という関係で、伊勢神宮とは関係が深い。 一目連を祖に
もつ、小串家が代々宮司を務めている。 江戸時代後期
の伊勢参りブームにより、中山道の赤坂宿から桑名への川運による旅人の行き来が激しくなる
と、
天照大神の御子神を祀る多度大社は、「 お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り 」 と、詠われ、北伊勢
大神宮と呼ばれた。 境内には、芭蕉の句碑が建つ (右写真)
当社を参拝した折に、 「 宮人と 我名を散らせ 落葉川 」 と詠んだ句を芭蕉没後七十五年の正当忌に地元の俳人達が
落葉塚として、建立したものである。
鉄道と自動車の普及により、揖斐川や木曽川を利用した川運がなくなり、訪れる参拝者は少な
くなったが、11月23日に行われる上げ馬神事には多くの人が集まる。
平成19年(2007) 1 月