飛鳥時代に誕生した山陰道は、 飛鳥と山陰道諸国の国府を結ぶ官道であり、
七道の中で、 小路 とされた。
江戸時代になって誕生した山陰街道 (丹波街道) は、 古代の山陰道と異り、
京都から丹波を通過し、 周防国に至る道になった。
現在の国道9号は、 ほぼ古代の山陰道を継承しているが、 異なる点が幾つかある。
国道9号は、益田から先は 萩を経由するルートではなく、
山口線に沿って、津和野 ・ 山口を経由するルートとなっている。
これは江戸時代の街道に由来する。
米子から安来に向うと、背後に、 伯耆大山(標高1729m)の姿が大きくある。
その姿がちいさくなると、安来市和田である。
国道9号の東小路交叉点を左に入ると、安来宿である。
安来の地名は、 出雲国風土記に、 「 須佐之男命(すさのおのみこと)が
この地に来て 「 吾が御心は安来けくなりぬ 」 と言った・ 」という、神話に由来する。
地名が文献上登場したのは、 天平六年(733)の出雲国風土記で、
「出雲国意宇郡安來郷」 と記載されている。
この当時より、 安来の山中や船通山周辺を源とするオロチ河川群の周辺では、
たたら吹き、 たたら製鉄 と呼ばれる古代製鉄法が盛んだったため
スサノオノミコトのヤマタノオロチ伝説が生まれたとされる。 」
左に曲がり、右に曲がる枡形になっている。
その先に安来中郵便局がある。
その先には古い町並みが残っている。
安来宿の中心は、 JR安来駅近くの旧道にある大市場商店街である。
やすぎ回顧館一風亭は、 豪商として知られた鎌田本店の住居と店舗を兼ねた建物である。
百年前に建てられたもので、十一の部屋と三つの蔵、茶室、中庭がある。
「 安来は古代から続く踏鞴(たたら)の産地で、
江戸時代には、 日本全国の八割以上生産量を誇ったという。
それの積み出し港になったのが、中海に面した安来港である。
戦国時代には、尼子氏の物資輸送、 海戦拠点ともなり、
中国地方の戦国両雄である尼子氏対毛利氏の激烈な戦いが繰り広げられた。
江戸時代に入ると、日本の商品経済が発展し、北前船による交易が盛んになり、
安来湊が重要港となり、
山陰地区の和鉄・和鋼を一手に取り扱う一大商都と成長した。
木戸川の木戸橋を渡る。
江戸時代はここが宿場の出入口で、それを守る木戸があった。
その先には安来一里塚の標柱があり、平地に松が植えられている。
往時は大きな松があったが、昭和五十六年に松くい虫にやられ、新たに植えたものという。
街道の右側に、「南無経法蓮華経」 と刻まれた髭題目がある。
伯太川(はくたがわ)に架かる安来大橋の欄干に、 どじょうすくい踊り の像がある。
安来節は、 大正時代に渡部お糸により、全国に広められた。
安来大橋の南西に、戦国時代にはこの地を治めた尼子氏の月山富田城(がっさんとだじょう)があった。
安来大橋を渡ると、飯島町に入り、その先に、出雲郷宿がある。
月山富田城へ訪れる。
「
月山富田城は、月山の一帯にあり、その規模と難攻不落の城として、
歴代の出雲国守護職の居城であった。
戦国時代(1396年から1566年)に入ると、 大名尼子氏の本城になり、
以後、 尼子氏とともに、山陰の要衝の地となった。 」
登城口は、北麓の菅谷口 (すがたにぐち) と、御子守口 (おこもりぐち) と、
塩谷口 (しおだにぐち) からの三つで、 これらの道は、山腹の山中御殿口で合流する。
山中御殿からは、七曲り と呼ばれる、急峻な一本道で、左から右に郭が連なり、
山頂部の本丸まで続いていた。
「 敵は三つの道方向からしか攻められず、城の下段が落ちても、 中段の山中御殿で防ぎ、 そこが落ちても主山の月山に登って防ぎ、 頂上には空掘を築き、守りを固め、一度も落城しなかったという。 」
広瀬地区の飯梨川のほとりに赤い楼門があり、 右側に 「富田城跡」 の石碑が建っている。
巌倉寺の赤門を左に少し行ったところに、 安来市歴史資料館と、 道の駅広瀬富田城がある。
駐車場から山に向うと下ったところに、 尼子興久の墓がある。
湿った挟間から山道を上っていくと、 千畳平(せんじょうなり) にでる。
「
北端には尼子神社と櫓跡があり、 周囲に石垣が残る。
ここは御子守口の正面に位置し、 太鼓壇に続く北側の郭で、
城兵集合の場として使われたといわれる。 」
千畳平の先にあるのが、太鼓壇 (たいこだん) で、 時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝えられ、 太鼓壇の跡地には、 山中幸盛の祈月像が建っている。
像の前の説明板の文面
「 山中鹿介幸盛は、尼子氏の一門である山中氏の出身で、
病弱な兄に代わって家督を継承した。
毛利氏による富田城攻めの際に、益田氏配下の武将である品川大膳との一騎打ちで名を馳せ、
尼子氏滅亡後は、尼子勝久を奉じての尼子再興戦で、中心的な働きを行ない、
一時は富田城を包囲した。
しかし、布部、山佐の戦いにおいて、毛利軍に敗北した後は徐々に劣勢になり、
元亀二年(1571)頃に、出雲国から撤退した。
その後は、因幡方面で転戦した後、
織田信長の配下である羽柴秀吉の軍勢に加わり、
播磨国の上月城守備を命じられていたが、毛利軍の猛攻により落城。
主君・勝久らは自害し、鹿介も捕えられた。
鹿介は備中松山城にいる毛利輝元下に護送されたが、
その途上、松山城に程近い阿井の渡しにおいて、暗殺された。 」
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| 巌倉寺の赤門と富田城跡碑 | 尼子興久の墓 | 山中鹿介の祈月像 |
太鼓壇の北側を真直ぐ進むと、戦没者慰霊碑が建っている。
ここは、奥書院平 (おくしょいんなり) で、 奥書院があったと、伝えられるところである。
平らなところを更に進むと、その先は両側が狭まったところにでたが、
建物が二棟建っていた。
ここは花ノ壇、 別名は 宗松寺平 (そうじょうじなり) である。
「 大手道と搦手道の間、 山中御殿平の正面、 一段下に位置する場所で、 かつては多くの花が植えられていたことから、この名がついたといわれる。 」
尼子氏の最後についてふれると、
「 尼子氏は、石見大森銀山の支配をめぐり、大内氏、その後、毛利氏と対立する。
毛利元就は、弘治二年(1556年)以降、攻撃するも難攻不落の城にてこずり、
永禄六年(1563)、ついに月山富田城を包囲して、兵糧攻めに持ち込むことに成功する。
元就は、大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、
無理な攻城はせず、兵糧攻めと尼子軍の内部崩壊を誘う離間策を巡らせた。
永禄九年(1566)十一月、尼子軍は長期にわたる籠城に武器食糧は欠乏し、戦意も喪失して、
尼子義久は、元就からの和睦の申し入れを受け降伏、富田城は落城し、尼子氏は滅亡した。
富田城は、毛利氏の支城になったが、慶長五年(1600)、の 関ヶ原の戦いで、西軍は敗北し、
代って 堀尾氏が城主となる。
しかし、慶長十六年(1611)、堀尾忠晴が松江城に移ったため、廃城となった。 」
先に向って進むと、 山中御殿平に出た。
説明板「山中御殿平(さんちゅうごてんなり)」
「 富田城御殿があったと伝えられる場所で、通称 山中御殿と呼ばれている。
月山の中腹に位置する山中御殿は、
菅谷口・塩谷口・大手口という、主要通路の最終地点ともなっており、
最後の砦になる三の丸・二の丸・本丸に通じる要の曲輪として、造られた。
周囲は高さ5m程の石垣や門・櫓・堀などで、厳重に巡らせることによって、
敵の侵入を防いでいた。 」
左手の石垣には、「多聞櫓跡」 の表示がある。
正面左の石垣前には 「櫓跡」と、「菅谷口門跡」の表示板があった。
「 大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口には、 高さ五メートル、幅十五メートルの大手門があり、 押し寄せる敵を押し返したと伝わるが、崩落して現存しない。 」
本丸にたどりつくには、七曲がりの登城道を六百十メートル上らなければならず、
急斜面である。
従って、平時は上部の本丸は使用されず、山中御殿までで済ましていたようである。
山頂は平地になっていて、本丸、その下に二の丸、三の丸と連なっているが、
今は郭跡と石垣が残るだけである。
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| 花ノ壇 | 山中御殿平 | 大手門跡と七曲道 |
安来市で全国的に有名になったのは、 月山富田城のある飯梨川の反対側にある足立美術館である。
「
足立全康氏は、大阪で起こした事業で財をなし、横山大観等の日本画を収蔵し、故郷に帰り、
ここで美術館を開館したという人物である。
借景になる山を買い取ったり、人工的に滝を造ったりして、日本庭園を作庭した。 」
館内に入ると、白砂青松庭が目に入ってきた。 見事の一言である。
「
庭園は 「枯山水庭」 「白砂青松庭」 「苔庭」 「池庭」など六つに分かれていて、
面積は五万坪に及ぶという。
足立全康氏自らが 全国を歩いて、庭石や松の木などを捜してきたといい、
窓を額縁に御立てた部屋もあり、見てもあきない庭になっている。 」
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「 庭園もまた一幅の絵画である。 」 という、 全康の言葉通り、 絵画のように美しい庭園には、 言葉を失った。
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| 窓を額縁に御立てた部屋 | 一枚ガラスからの庭園 | 白砂青松 |
横山大観、竹内栖鳳、橋本関雪、川合玉堂、上村松園ら、
近代日本画壇の巨匠たちの絵が展示されている。
北大路魯山人と河井寛次郎の陶芸の展示室、林義雄、鈴木寿雄らの童画、
平櫛田中の木彫などもあった。
旅した日 平成二十八年(2016)十月二十五日