名所訪問

「 中山道 木曽路を歩く 」

( 妻籠宿・大妻籠集落・馬籠峠 )

かうんたぁ。


JR須南木曽駅からから妻籠宿(つまごしゅく)・大妻籠集落・男滝、女滝を見て、馬籠峠まで歩いた。
馬籠峠から馬籠宿までは一時間の距離であるが、すでに歩いているので、馬籠峠までの紹介文である。

◎ 妻籠宿

南木曽駅から南に向って進み、園原先生の碑を過ぎると左手の一段高い畑に枝垂れ 梅の老木が枝を垂れている。 
酒造家で庄屋だった遠山家の屋敷跡である。 
その先、道は右にカーブし杉林の中を行き、中央本線のトンネル入口の上を跨ぐと、 D51が展示されている公園に出る。 公園の前を左に行く。 
木曽川の流れに沿って南下してきた中山道は、三留野宿を過ぎてからは木曽川と分かれ、 山中の道をとるが、南木曽駅から妻籠宿までの路筋には道標が多くあるので、 道に迷うことはない。 

神戸の集落の辺りはのどかで豊かな感じがする山里である。 
公園を過ぎると神戸坂の急坂で林の中に入って行く。 
下り坂にかかるその左側に巴御前ゆかりの振袖松がある。 
右への階段を下りるとかぶと観音堂がある。 

説明板「かぶと観音」
「 かぶと観音は、平安末期の源氏の武将木曾義仲が、 以仁王や源頼政の平家打倒の呼びかけに応じ、治承四年(1180)に挙兵して、北陸道を京都に向かう際、 木曽谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたる神戸に祠を建て、 義仲の兜の八幡座の観音像を祀ったのがおこりと伝えられております。
境内には義仲が弓を引くのに邪魔になるので、  巴御膳が袖を振って倒した 「袖振りの松」 や、 義仲が腰掛けたという 「腰掛石」 が残されています。 
そうした伝承から、かぶと観音は古くから、木曾の武将たちに手厚く保護されてました。 
戦国末期の天正十五年(1587)には木曽義昌から三百文が寄進され、 同十七年(1589)には山村良候が大檀那となって堂舎が造立されました。 
江戸時代中期の宝暦七年(1757)に書かれた 「吉蘇志略」 には、
 「 俗に神戸観音と曰ふ、乃ち馬頭像也、村民香花を供ふ 」 と記されているように、  一般庶民からも尊崇を受け、 堂内には正保四年(1647) の絵馬をはじめ、俳句額など多数が奉納されています。
幕末の弘化四年(1847)の 「観音堂勧化帳」 によれば、  堂舎の改修に際して、その寄進の範囲は木曽谷中はいうに及ばす、 木曽家旧臣が領する東美濃の各村まで 及んでおり、その信仰がいかに広かったかが分かります。 
観音堂は間口二間半、奥行き四間、入母屋造りの建物で、西側面には二間四方の庵室が設けられ、
ほとんどの時期、三留野等覚寺と関わりが深い庵主がいました。 
堂舎の建築年代は、内陣・外陣境の虹梁や絵様蟇股の様式から、  貞享元禄期(1684〜1703)と推定され、 中の厨司も正徳五年(1715)頃のものと思われます。
また格天井の絵は上松町東野の阿弥陀堂と同じく、 山村代官お抱え絵師、池井裕川が描いたものと考えられます。 」 

江戸時代には街道を通る多くの人々が訪れたというが、 現在は地元の人たちの管理のようである。 
木曽義仲が守り本尊として兜の中に納めていた十一面観音を祀っているという内部は、 残念ながら見ることはできなかった。 
かぶと観音の下の口から出ると、六差路になっているが、道標に従って進む。 
急坂を下り、神戸沢の小さな戦沢橋を渡ると竹林の坂の石畳になる。 
石畳の入口には、 「せん澤 右妻籠宿 左なぎそ駅 下り国道へ」 とある道標が建っている。 
この石畳を登った所の民家に、皇女和宮が使用したという風呂が飾ってあった。 
石畳を上っていくと、右側に 「上久保の一里塚」 の説明板があり、 道幅が狭いので見づらいが、左右残っている。 

説明板 「上久保(うわくぼ)の一里塚」  
「 一里塚は、慶長九年(1604)から十七年(1612)にかけて、一里ごとに築造されたものである。 
一里塚の基準は五間四方(約九米)、高さ一丈(約三米)で、塚上に榎や桧を植えた。 
街道の両側に対に築造され、旅人に安息と利便を与えた。 
町内には十二兼・金知屋・上久保・下り谷の四ヵ所に、一里塚があったが、 現在原形をとどめているのはここだけである。 
江戸から数えて七十八里目の塚である。 」 

かぶと観音堂
   石畳    上久保一里塚跡
かぶと観音堂
石畳の坂
上久保一里塚跡

一里塚から下っていくと、左側の道脇の良寛の歌碑と、朽ちかかった解説板に
 「  この暮れの  もの悲しさにわかくさの  妻呼びたてて  小牡鹿鳴くも   」 
てまり上人といわれた越後の良寛が木曽路で詠んだ二首のうちのひとつである。 
良寛さんは三度木曽路を通ったが、いつつくられたものかは分からないらしい。 

急坂を上り切って右に少し行くと三叉路にななる。
右の土の道を行くと、右側に 「妻籠城跡」 の標柱と説明板があり、妻籠城跡道標がある。 

説明板 「妻籠城跡」  
「 妻籠城はいつ誰により築城されたか明らかではないが、室町中期には築城されていたと推定される。 
妻籠城は天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いの折、 ここも戦場となり、(豊臣方の)木曽義昌の家臣・山村甚兵衛良勝が籠って、 徳川家康配下の菅沼・保科らの徳川の軍勢を三百の兵で退けている。 
また、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの時も、軍勢がはいってここを固め、 中山道を進めた秀忠が遅れた一因になったといわれる。 
元和の一国一城令により、元和二年(1616)には城は破却されたが、 脇本陣が障子を拝領して、神殿の間に使った。 
現在でも、脇本陣南木曾博物館で見られる。 
妻籠城は木曽川と蘭(あららぎ)川の合流する断崖の上にある典型的な山城で、 空掘・曲輪、さらには南木曽岳に伸びる妻の神土塁という土塁も備えており、 規模の大きな備えであったことが知れる。 
主郭へは徒歩十分で、北は木曽川と遠く駒ケ岳を望み、 南は妻後宿から馬籠峠まで一望できる。  」  

妻籠城は主郭・二の郭・帯曲輪などを備えていた。 
小高い山は城山といわれ、標高420m、頂上には本丸跡があり、 土塁や空堀が残っているが、現在は公園になっている。 
元和年間は、大阪城が落城して天下が徳川家になった時期。 
元和の一国一城令は徳川家の天下を強固にするために、 反対派の城をできるだけ整理したということだろう。 
妻籠城の廃城と城を任されていた島崎氏。 
島崎家への妻籠庄屋任命はこれと因果関係があるのと思うのが確証はない。 

中山道はここまで、車が一台通れるほどの道幅で、民家もところどころに数軒あるだけである。 
石畳だったり、土がむき出しの道だったり、アスファルトの道だったりするが、 トレーキング道としては快適である。 

籠城跡の石碑で、道は三つに分かれる。 
大きな 「中山道妻籠宿」 の看板がある真ん中の道を下りていく。 
メッシュ入りのコンクリートの道でかなりの急坂である。 
途中に集落があり、逆S字の坂道を上って行くと妻籠宿の江戸方(東)入口の恋野に到着する。 
ここには 「これより妻籠宿」 の中部北陸自然歩道の道標がある。 

妻籠宿は室町時代末期にはすでに宿場ができていたと考えられ、 慶長七年(1602)に宿駅制度の中山道の六十二宿が制定され、妻籠もその一つになった。 

「 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、 妻籠宿の家数83軒、宿内人口418人、本陣一、脇本陣一、旅籠31軒である。 
妻籠宿は、入口の恋野から、下町・中町・上町・寺下・尾又と続く。 
妻籠宿は伊奈路と飛騨街道との追分を控え、大いに賑わった。 
しかし、明治末に開通した中央本線から外れたことや、 国道が賤母経由になったことで、急速に寂びれていった。 
これがため、古い家並が残り、昭和五十一年に国の重要伝統的構造物保存地区に指定された。 
宿内は少なくとも外観は完全に江戸時代後期の宿場の有様を保っている。 」  

良寛の歌案内板
   妻籠城跡    妻籠宿
良寛の歌案内板
妻籠城跡
妻籠宿

妻籠宿に入ると、御宿大吉や民宿ふじやなどの趣きのある建物が旅人を迎えてくれる。 
妻籠では毎年十一月二十三日に、 妻籠宿文化文政絵巻 というイベントがあり、 当時姿をした武士や僧・村娘・花嫁などの服装した参加者が宿内 を行列する。 

更に行くと、左側に大きな岩が現れる。 
中山道三名石の一つ、鯉ヶ岩である。 
鯉に似た岩であったらしいが、明治二十四年、濃尾大地震で顔の部分が落ち、形が変わっている。  

 説明板「鯉ヶ岩」  
「 昔、当地(妻籠)城山に木曽義仲の後裔・義昌が、砦を築いていた其頃、  武将が此岩の附近で、恋の物語をさヽやきなりを云ふ伝説あり、  其の後、 部落の地名も恋野となり、現在も其の儘残っている。 
中仙道道筋の旅人を驚かしたり喜ばしている。 
信濃道中記  
鯉ヶ岩は、名の如く大きな鯉の形をした大岩であったが、 明治廿四年美濃の大地震で移動したため形が変わった。 
附近の烏帽子岩(吾妻橋地区)、兜岩(神戸地区)と共に三大岩として有名である。 
   鯉ヶ岩津島社 八十一年祭に当り祠再建   
     昭和四十年八月四日  林常盤建之  雲外書  」  

このあたりから妻籠宿の賑わいが始まる。 
鯉ヶ岩前に、熊谷家住宅がある。 

「 熊谷家住宅は、十九世紀初頭に建てられた長屋の一部であるが、 左右の建物は取り壊され建て直されたことから、 長屋の間取りの右半分と左半分が残り、一軒の家として使用されたものである。 
昭和四十八年に町が買い上げ解体復元された。 」   

妻籠宿文化文政絵巻
   鯉ヶ岩    熊谷家住宅
妻籠宿文化文政絵巻
鯉ヶ岩
熊谷家住宅

更に、五十メートルも行くと、左側の草叢の中に、 「口留番所跡」 の木柱が建っている。 
妻籠宿が開設された時、住人がいないため、各所から集められた。 
口留番所(くちどめばんしょ)は集められた住民が逃げないよう、監視する役所で、 武田勝頼が設置し、山村氏が守っていたが、住民が定着したので、番所は木曾福島に統合された。 

説明板 「口留番所」 
「 江戸時代の初期、このあたりに口留番所があって、中山道を行く人々を監視して いた。 
従来、この口留番所は、江戸時代の早い時期に廃止されたという見方が強かった が、最近発見された正保三年(1646)と推定される史料に、 「妻子(籠)御関所」 と記されて いることから、少なくとも十七世紀中頃までは妻籠に口留番所があったことが確認された。
なお、妻籠には下り谷その後一石栃(いちこくとち)に、木材を取締ることを 目的とした白木改番所が近世を通じて設置されていた。 」 

木橋の地蔵橋を渡る。 
このあたりから先は東枡形跡である。 
急でカーブする坂の途中、右側の見上げるような場所に高札場、左下には水車小屋があり、 今も稼働している。 

「  高札場は古式通りに復元されたものだが、当時のものは脇本陣博物館に保存されているという。 
宿場は上町・中町、・下町が中心で、本陣、脇本陣、問屋がおかれていた。 
宿場の建物は、出梁により二階を張り出した切妻造、平入りが特徴で、 江戸時代末期から明治にかけて再建されたものが多く、大規模な建物も多い。 」

下町に入ると、右側に脇本陣奥谷(南木曾町博物館)がある。

説明板 「脇本陣奥谷」    
「 代々、脇本陣と問屋を勤めた林家は、屋号を奥谷(おくや)といい、造り酒屋を家業にしていた。 
広大な山林と豊かな財力を誇った家で、藤村の詩「初恋」にうたわれた大黒屋のおゆふさまの嫁ぎ先である。  「夜明け前」 では、 「扇谷得右衛門」 として登場する。 
現在の建物は明治十年に城郭を模して建てられた。 
江戸時代、商人などには制約があって、お金があり、美林に囲まれながらも、 自由に木が使えなかった町人が、明治時代の開放感から財力の限りをつくして作った建物であり、 細部にわたり趣向をこらしたぜいたくなものである。 
明治天皇のために用意した風呂や厠がある。 また、隠し部屋など見て面白いものがある。 
平成十三年、國の重要文化財に指定され、現在は南木曾町博物館となっている。 」  

口留番所跡
   高札場    脇本陣奥谷
口留番所跡
高札場と水車
脇本陣奥谷

内部の檜の壁や柱は囲炉裏の煤に燻され、女性達に長年磨きあげられてきたので黒光りしている。
薄暗いままの部屋の囲炉裏の煙に格子窓からの光が斜めにさし込み、幻想的な風景を醸し出していた。 
脇本陣奥谷の街道沿いに「明治天皇妻籠御小休所跡」の石碑が立っている。 
明治十三年(1880)の巡行の際に林家で休息された。 

左側に妻籠宿本陣がある。 
妻籠宿の本陣は代々島崎氏が務め庄屋を兼ねていた。  島村藤村の母ぬいの実家でもある。 

説明板 「妻籠宿本陣跡」
「 本陣職は慶長六年(1601)、中山道開通とともに、妻籠村代官・島崎監物重綱の次男に命じられ、 その後、代々受け継がれた(問屋と妻籠村の庄屋も兼務)。 
馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から 「ぬい」 が、 馬籠の正樹(「夜明け前」の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。 
七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。 
藤村の次兄・広助は妻籠宿本陣の養子となり、最後の当主となりました。 
幕末動乱期に務めた島崎与次右衛門重佶(しげたか)は、 小説「夜明け前」の半蔵の従兄弟、青山寿平治の名で登場する。 
本陣は明治三十二年、政府に買い上げられ、建物はなくなったが、 平成七年に江戸時代後期の見取図を基に忠実に復元されたのが現在の建物です。 」 

本陣の脇に人馬会所(問屋場)が復元されている。 
上町に入ると、右側に妻籠郵便局がある。 
当初本陣敷地に、明治六年(1873)妻籠郵便御用取扱所として開設された。 ここには郵便資料館がある。

囲炉裏の煙と光の競演
   本陣    妻籠郵便局
囲炉裏の煙と光の競演
本陣
妻籠郵便局

その先の三叉路に、 中北道標「←JR南木曽駅3.3q ↑光徳寺 寺下の町並→」 があり、忠魂碑が建っている。 
この手前の左側に観光案内所がある。  
三叉路を左に入り、左の高台にあるのが光徳寺である。 
直進した先には旧南木曽町立妻籠小学校がある。 

「 光徳寺は、臨済宗妙心寺派の寺で、明応九年(1500)の開山で、 桝形の上に城のように石垣を築き、白壁の塀をめぐらしている。 
本堂は、亨保十年(1725)に脇本陣林家が建立したもので、  林家の歴代の墓、藤村の初恋の人・おゆふさんの墓もある。 
庫裏には幕末から明治にかけての住職道応和尚が考案した人力車の元になったともいわれる車付の駕籠がある。 
山門前には四月中旬頃咲くしだれ桜は、樹齢二百五十年という。 」  

三叉路に戻ると右側に下り坂の石畳がある。 ここが西の枡形跡である。 
現在はまっすぐ通れるような道ができ、曲がった部分に椛ノ木(はなのき)が植えられている。 

「 江戸時代のはじめに制定された宿場は、 一種の城塞の役割も持たされて整備され、宿場の出入口には必ず枡形が設けられた。 
宿場の桝形とは、街道を二度に直角に曲げ、外敵が侵入しにくいようにしたものである。
 この妻籠宿の桝形は明治三十二年からの大平(おおだいら)街道の改修工事により、 その上部斜面を掘り割られているが、よく当時の姿を伝えている。 」  

枡形の上に延命地蔵尊が祀られている。 また、 枡形口には文化六年(1809)建立の秋葉常夜燈がある。 

中北道標と忠魂碑
   光徳寺山門    常夜燈
中北道標と忠魂碑
光徳寺山門
常夜燈

西枡形を下る。 右側から二軒目の屋根に石が乗っている家が、下嵯峨屋(しものさがや)である。 
下嵯峨屋ではその内部と蓑や籠といった当時の生活道具を見ることができる。 

説明板 「下嵯峨屋(しものさがや)」  
「 下嵯峨屋は建造当初長屋であったものの一戸分を昭和四十三年に解体復元したものである。
妻籠宿における庶民の住居を代表する 「片土間に並列二間取」 の形式をよくとどめている。  
     昭和四十九年十一月三日      南木曽町教育委員会        」  

下を歩いて行くと、右側に黒い暖簾と黒塀に塗られたおしゃれな旅館 ・ 旅籠 「 松代屋 」がある。 

「  バブル期には妻籠宿に、旅館三軒、民宿が二十二軒。 周囲の大妻籠などを入れると五十軒もあったが、 最近では、旅館二軒、民宿六軒、大妻籠をいれても、十五軒程度に激減してしまった。 
今でも旅館を営む 「 松代屋 」 はそういう意味で貴重な存在である。 」

旅籠・生駒屋は、百八十年前に建てられた建物で、 「 旅籠の構造と雰囲気を残した旅館 」 と明治の文豪に愛用されたが、旅館の営業をやめてしまい、昼の食事と喫茶のみの営業を続けている。

 
>西の枡形跡
   松代屋旅館    生駒屋
西の枡形跡と下嵯峨屋
松代屋旅館
生駒屋

寺下集落は光徳寺の門前町として生れた。 
三叉路を左に進むと生駒屋の前に上嵯峨屋がある。 

説明板 「上嵯峨屋(かみのさがや)」  
「 上嵯峨屋は二百五十年以上経っている建物で、昭和四十四年に解体復元されたもので、 庶民の木賃宿であったと推定され、建築当時の様式をよくどどめている。  」  

寺下には木工用品店のあぶらやや郷原酒店などがあり、 出桁造りの二階屋と竪繁格子、卯建のある家が続いている。 
現在の宿場は平坦だが、かっては馬籠宿に向って穏やかな上り勾配であったという。 
夜闇が迫る寺下の写真を写したが、絵になるなあと思った。 

「 妻籠宿には、出桁造に竪繁格子・卯建がある、間口の狭い 二階屋が続いて建っていて、電柱もペンキ塗りの看板も見あたらない。 
昭和五十一年九月、我が国初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたが、 復元された家そのままの形で、民宿やみやげもの屋を営んでいるからである。 」 

妻籠宿は直線にすると五百メートル程度の町並みなのでぶらぶら歩いても、 二時間半位で終わってしまう規模かもしれないが、資料館やお店を覗けば半日は過ごせる。 
また、妻籠の夜の情景はしみじみとして良いものである。 これを味わうには泊まるに限る。 

小生は、文化文政風俗絵巻之行列祭の前夜、民宿 「 まつや 」 に泊まった。 
ご主人の妻籠の歴史のお話や、女将さんの飾り気のない態度に、 民宿ならでの雰囲気を感じることができた。  
  妻籠宿を去る夜、松代屋旅館の格子が多い姿と夜の青を写した。 

上嵯峨屋    夕暮れの寺下    松代屋旅館
上嵯峨屋
夕暮れの寺下
松代屋旅館

寺下を出ると尾又地区に入る。 
かってここから飯田街道(伊奈街道)が分岐していたが、 宝暦年間(1760頃)にここから六百メートルの橋場に付け替えられた。 
右側の沢沿いにその跡が残るという。 竹藪を見ながら歩く。 
右側に関西電力妻籠発電所、その対面に地域神のおしゃごじ様を祀る祠がある。 

説明板「尾又(おまた)」  
「 木曽路(中山道)から伊奈(飯田)道が分岐(分去れ、追分)していた処である。 
右手の沢沿いの竹やぶの中に今もその道跡をたどることができる。 
宝暦年間(1760頃)に飯田道がつけ替えられ、ここから約六百米南の橋場に追分が移動した。 
おしゃごじさま   
御左口(ミサグチ)神を祀る。 古代からの土俗信仰の神様で、 土地精霊神「土地丈量神様「酒神」等の諸説がある謎の神様といわれている。 
   尾又区                          」  

街道は清洌な蘭(あららぎ)川に沿って進み、田島橋が架かっている国道256号を横断する。 
ここには妻籠宿の駐車場がある。 ここの左に、「右馬籠旧道左志ん道いいだ」 と 右側に、中北道標「←馬籠宿6.9km 妻籠宿0.8km→」 がある。 
ここから橋場集落になる。 
国道を横断し、第三駐車場と田圃の間の小道を蘭(あららぎ)川に沿って歩くと、 橋場バス停がある三叉路に出る。 

尾又    おしゃごじさま    蘭川
尾又を歩く
おしゃごじさま
蘭(あららぎ)川


◎ 間の宿 大妻籠

旧県道に出ると、「大妻橋」 手前の少し入った民家の庭先に、 高さ三メートルの 「飯田街道追分」 の石柱道標が建っている。 
当時の繁栄ぶりが窺える大きなもので、当時の繁栄がうかがえる石柱である。 
説明板は国道沿いに立っている。 

説明板 「飯田街道追分石標」 
「 明治二十五年に賤母(しずも)新道が開通するまで、 馬籠〜妻籠〜三留野を通る中山道は、古くから幹線道路として重要な役割を果たしてきた。 
ことに妻籠の橋場は 「追分」 とも呼ばれ、中山道と飯田街道の分岐点として栄えた所である。 
この道標は、飯田の皆川半四郎という人が発起人になって、 当初の松井興六、今井市兵衛、藤原彦作の世話人とともに、飯田、江州、地元の商人によって、 明治十四年(1881)六月に建てられたものである。 
「中仙道 西京江五十四里半、東京江七十八里半。飯田道 元善光寺旧蹟江八里半、長姫石橋中央江八里」 と刻まれている。 」

ここでは、 西京江 の道を選び、蘭川に架かる大妻籠橋を渡れば、馬籠まで二里の道程である。 
大妻橋を渡って右の山道に入る。 この分岐点には、 中山道大島邑自然道標 「右旧道/左志ん道」 と、 中北道標「←妻籠宿1.2km馬籠宿6.5km→ 」 がある。 
上り坂を進むと、左側に 「旧旅籠諸人御宿金剛屋」 の看板を掲げた建物がある。
建物前には、南無弘法大師之記念碑がある。 
旅籠の二階に弘法大師を祀ったところ、参詣客が大いに賑わったといわれる。 

追分石標    御宿金剛屋
記念碑    弘法大師記念碑
追分石標
御宿金剛屋
弘法大師記念碑

県道7号線に接する 「大妻籠」バス停に出ると、三叉路の左側に大妻籠のモニュメントがある。 
県道をそのまま 「庚申塚」バス停まで行くのが中山道で、 右折して橋を渡る道が初期の中山道である。 
分岐点には、 中山道道標「右 旧道 左 志ん道」と、 中北道標「←妻籠宿1.8q 馬籠宿5.9q→」 がある。
県道と分かれ、右側の大妻籠集落を通る道を行く。 
上り坂を進むと右手に石置き屋根の水車小屋があり、石垣に馬頭観世音文字塔が祀られている。 
先の右側に出梁造り、本卯建を上げた旧旅籠が軒を連ねている。 
民宿の近江屋、まるや、つたむら屋が順に並ぶ。 これらは皆かっての旅籠跡である。 

「 大妻籠は間の宿でした。 大妻籠は奥妻籠が訛ったものある。
妻籠宿はこじんまりとした家屋が整然と立ち並ぶ端正な美しさを示しているのに対し、 大妻籠の家屋は豪放で卯建の立派な家が多い。 
広い間口を持ち、二階には手摺の付いた出梁造りの家が多い。 
大妻籠の宿の内の三軒は馬宿だったという。 」  

その先を右折すると、県宝・藤原家住宅がある。 

「 木曽地方の古い農家形式を伝える貴重な建造物であり、 建築年代はおよそ十七世紀後期と推定され、今日まで藤原家の主屋として使用されてきました。
長野県でも最古の民家ではないかといわれ、県宝に指定されている。 」

大妻籠のモニュメント    民宿つたむら屋
記念碑    藤原家住宅
大妻籠のモニュメント
民宿つたむら屋
藤原家住宅

集落の終わりから坂を登り、小さな橋を渡る。
県道に合流するところに、庚申塚バス停があり、ここには 中北道標「←妻籠宿2.2km 馬籠宿5.5km→」 と、  「中山道庚申塚」 の石碑が建っていて、石碑には 「左旧道 右志ん道」 と彫られている。 
左側に見える小高い塚は一里塚である。  

「 この分岐点を左折すると、左側の民家裏に見える小高い丘は一里塚である。 
これは大妻籠一里塚の西塚で、江戸より八十一里目である。 
塚上に庚申塔が数基祀られているところから、一里塚は庚申塚とも呼ばれました。
庚申講は江戸末期に流行ったもので、道教の伝説に基づくものである。 
人間の頭と腹と足には、三尸(さんし)の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。 
三尸の虫は、庚申の日の夜の寝ている間に、天に登って天帝に日頃の行いを報告し、 罪状によっては寿命が縮められると言われてきた。 
三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、 その後、寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。
この集団が講であり、何回目かの記念に庚申塚を造った。 」 

庚申塚分岐点右側に、 旧旅籠こおしんづか(現民宿)があり、軒下に山駕籠を吊り下げられていた。 

中山道は、庚申塚バス停先左側の石畳道に入る。 

ここは 「とうがめ澤分岐」で、 中北道標「←馬籠宿5.4km 妻籠宿 2.3q→」 と、 中山道道標「下り谷を経て馬籠峠へ」 が ある。 
京方面からは突当りの県道を右折する。 

中山道庚申塚碑    民宿こおしんづか
記念碑    石畳道
中山道庚申塚碑
民宿こおしんづか
石畳道


◎ 馬籠峠

県道の左側に石畳が見えるので、それを上るが、予想以上に急坂である。 
急坂を上ると左側の斜面に牛頭観音像が祀られている。 

「 石の多い急な坂道を重い荷物を運ぶため黒牛が使用された。
中山道に祀られている唯一の黒牛の石仏(供養塔)である。 」 

葛籠折りの急坂を上りきると平坦な道になる。
三叉路で右に進み小さな木橋を渡る。 
分岐点には、 中山道道標「左 妻籠宿 右 馬籠宿」 と、 中北道標「←妻籠宿 2.7km 馬籠宿 5.0km→」 がある。 
その先は下り谷集落で、味わいのある旧家が残っている。 
集落を抜けると左側に 「倉科祖霊社」 の説明板があり、左段上に社(やしろ)がある。 

説明板 「倉科祖霊社」  
「 ここには松本城主小笠原貞慶の重臣・倉科七郎左衛門朝軌(とものり)の霊が祀られている。 
七郎左衛門は、主人(小笠原)貞慶の命を受けて、 大阪の豊臣秀吉のもとに使い(秀吉の関白就任祝いの品々を届け)に行き、 その帰りに馬籠峠でこの地の土豪の襲撃にあい、奮戦したが、 ついに下り坂で従者三十余名とともに討死した。 
天正十四年(1586)三月四日のことである。 
当時、木曽氏と小笠原氏は何度も兵戈を交えており、こうした因縁からこの争いも起きたと思われる。 」 

倉科祖霊社を過ぎると山道になり、男滝女滝分岐東の三叉路に出る。
左の山道が小生が歩いた中山道だが、右の下りは男滝、女滝に直接行ける道である。 
ここには、 中北道標「←4.6km男滝・女滝を経て馬籠宿 ↑4.6km 馬籠宿/妻籠宿 3.1q→」 がある。 

中山道を行くと、左側に庚申塔・馬頭観世音文字塔・地蔵尊が祀られている。 
鬱蒼と繁る国有林の中を進み、小橋を渡ると林道に出るので右折する。 
ここには、  中北道標「←妻籠宿3.6km  馬籠宿 4.1q→」 がある。 
土道を下ると県道7号線にでるので左折する。 
この分岐点には、 中北道標「↑妻籠宿3.7km 馬籠宿4.0km→」 がある。 
中山道旧道口(男滝女滝分岐西)で、滝を見るため左折し、県道を下る。
一石沢を滝上橋で渡り、左手の石置き屋根の滝見茶屋手前右の丸太風階段を下ると、男滝が見えてきた。 
女滝とは少し離れてあり、比較的小ぶりの滝である。 

「 滝周辺は険阻なため、中山道はしばしばつけかえられ、 幕末頃までの中山道は滝の下を通っていた、という。 
江戸時代、男滝女滝は旅人に名所として親しまれ、憩いの場であった。 
この滝は吉川英治の 「宮本武蔵」 に、 武蔵とお通のロマンスの一場面として登場する。 
また、「 滝壺に秀吉の関白就任祝いの贈呈用の金の鶏が舞い込んだ 」 という倉科伝説 が伝わっている滝でもある。 

滝見学後、元きた道を引き返す。 
急な階段を上ると県道で、男だるバス停と駐車場、公衆トイレがある。 
県道7号線を進むと右側ガードレールの切れ目に木造橋が現れる。 
ここが一石沢旧道東口で、この分岐点には 木製道標「↑馬籠宿 4.6km 妻籠宿 3.7km→」  がある。 

下り谷道標   男滝
  男滝
  女滝
とうがめ澤分岐道標
男滝
女滝
一石沢旧道東口

一石沢を木造橋で渡り、左の土道を進む。 渡詰めにはトイレがある。
小さな木橋を渡った先で県道7号線を横断する。 この横断点の手前に 中山道自然石道標がある。 
県道に国史跡中山道の解説板がある。 

解説板
「 南木曽町を南北に貫く中山道は、その大部分が昭和六十二年十月三日に、  「国史跡」 に指定されました。 
中でもこの付近は中山道の形状がよく残っている所ですが、 主要地方道中津川南木曽線の拡張工事に伴い、 一部を施工範囲に含めざるを得なくなりました。 
関係機関(文化庁・長野県木曽建設事務所・ 南木曽町教育委員会)での協議の結果、車道敷になる中山道については破壊することなく、 形状を維持したまま埋蔵保存を実施しました。 」 

峠入口バス停のところで、県道を横断し、向いの一石栃口旧道の石畳道に入る。 
旧道口には、 中山道一石栃口自然石道標「左旧道」がある。 

歩いて行くと、途中から砂利道になり、木橋を渡って進むと、 右側に 「天狗の腰掛け」 といわれるサワラの巨木が現れる。 

っ説明板 「サワラ合体木」 
「 サワラの大木は樹齢300年、樹高41m、胴廻り5.5m。 
このあたりの地名は、神居木(かもいぎ)であるが、 神居木とは、下肢が立ち上げって特異な枝振りになっている針葉樹のことをいう。 
傷つけたりきったりするとたたるとされ、杣人(そばひと)はこの木の下を通ることをいやがりました。 
この木のように両方に枝が出た木を両神居という。 
享保元年(1716)頃、木の伐採を行い、切株の横に幼木二本植えました。
文久三年(1863)幼木は成長しながら一本の木になりました。  」  

急坂を上り、小さな橋を渡ると、 「一石栃白木改番所跡」 と書かれた木の門が見えてくる。 
白木改番所は、盗木を見張るために設けられた木の関所で、 木曾五木(ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ)の原木や板だけでなく、 加工物の檜笠や漆器に至るまで監視していた。 
門をくぐった左側の空地が番所跡である。 

説明板 「一石栃の白木改番所跡」 
「 白木改番所は木曽から移出される材木を取り締まるために設けられたもので、 檜の小枝に至るまで、許可を示す刻印を焼いてあるかどうかを調べるほど厳重で あったといわれる。 
木曽の森林資源は領主たる尾張藩にとって、それほど重要なものだったのである。 
番所は最初下り谷に設置されていたが、蛇抜け(地崩れ)によって、ここ一石栃に移転した。 
「木曽谷諸事覚書」 には、寛延二年(1749)のことと記されている。 」  

その隣にあるのが一石栃立場茶屋で、家の前に木舟の水場とトイレがある。 

説明板 「立場茶屋」 
「 立場茶屋は、宿と宿の中間にあって、旅人に休息と利便を与えた。 
一石栃(いちこくとち)は妻籠宿と馬籠宿の中間に位置し、往時は七軒ほどの家があって 栄えていたが、今では牧野家住宅一軒だけになっている。 
牧野家住宅は江戸時代後期の建物で、当初は間口が十間もある大きなものであったが、 現在は南側が切りとられて八間に縮小されている。 」 

人影もなく、家の前の手洗いの水は静かに時を刻んでいた。 
紫陽花が幽玄に見えた。  

石畳道    一石栃白木改番所跡
   一石栃立場茶屋
石畳道
白木改番所跡
栃立場茶屋

番所前から右の坂を上ると左側に子安観音堂がある。 
その傍らにある枝垂れ桜は過去二回の蛇抜けにも耐えてきた老木である。

説明板 「子安観音と枝垂桜」 
「 この地には一石栃沢流域に住むものは難産しないという古くからの言い伝えがあり、 信仰の対象として子安観音が祀られていた。 
棟札によれば、その昔は西谷にあったが、 文化年中(1810頃)現在地に移り、その後慶応元年(1865)蛇抜けによって流出したため、 再建したとのことである。 
毎年四月十五日に下り谷地区の人々によって盛大にお祭りが行われる。 
枝垂桜は慶応元年と明治三十七年の蛇抜けにも耐えてきた古木で、町天然記念物に指定されている。 」  

立場茶屋から峠道の上り坂を進むと、熊除けの鐘がある。 
木立の石畳の道を上って行くが、かなりの急な坂である。 
最後の力をしぼって上って行くと石畳の道になり、県道7号線前の広場に出る。 

白木改番所跡から二十分程で、馬籠峠がある県道前広場に到着する。 
広場には 「馬籠峠頂上標高801m」 の標柱と、「歴史の道 中山道」 の説明板が 建っている。 

 説明板 「歴史の道 中山道」  
「 中山道を別名木曽街道というのは江戸から京までの69次のうち、木曽に11宿あり、 しかも険阻な道だったからでしょう。 
この地図(省略)の範囲には、大桑村内の野尻宿(江戸から40番目)、南木曽町内の三留野宿(同41番目)と、 妻籠宿(同42番目)、山口村内の馬籠宿(同43番目)の四つの宿場がありました。 
当町(南木曽町)における中山道の道筋は蛇抜け災害などによって何回か変更を余儀なくされ、 ことに、三留野宿と野尻宿の間には羅天という難所があり、通行不能になることはしばしばでした。 
そこで迂回路として、野尻宿ー与川ー上の原・三留野宿のいわゆる与川道が用いられました。 
江戸時代に、京都から江戸への将軍家へ六人の姫君が中山道を通って降嫁していますが、  うち二人までは与川道を用いています。 
享保16年(1731)の伏見宮家比宮と文化元年(1804)の有栖川王女楽宮がそれです。 
昭和53年から行われた歴史の道整備事業では、 本来の中山道である十二兼・三留野宿が鉄道と国道でほとんどが破壊されているため、 古道がよく残っている与川道を復元整備しました。 
当町(南木曽町)の根の上峠から馬籠峠間19.595kmの歴史の道のほとんどは、 江戸時代そのままの景観を伝えており、  「木曽路はすべて山の中」 であることを体験できる数少ない道の一つとなっています。 」 

馬籠峠は、平成十七年の馬籠集落の越県合併により、 長野県木曽郡南木曽町と岐阜県中津川市馬籠の県境になった。 
それまでは馬籠の新茶屋が長野県と岐阜県の県境でした。 

馬籠峠頂上の広場には峠の茶屋がある。 
茶屋の傍らに、「馬籠峠」の石碑と、 正岡子規の句碑が建っている。 
  「   白雲や   青葉若葉の   三十里   」 
正岡子規は、明治二十四年(1891)に、木曽路に来て、 紀行文「かけはしの記 」 を書いている。 

馬籠峠に立つと、これから行く道の景観が一変することに気づく。 
この先には広々とした美濃の平野が望まれ、左には恵那山がどっしりと座っている。 
これまで歩いてきた狭く狭鬱(きょううつ)な木曽路とはうって変って明るく伸びやかな斜面が前景にある。 
木曽路をようやく抜けるのだという感慨がいやおうなくおこってくる。 

子安観音堂    急な石畳道    馬籠峠頂上    峠の茶屋
子安観音堂
急な石畳道
馬籠峠頂上
峠の茶屋



◎ 馬籠峠 〜 馬籠宿

県道脇に 「妻籠宿・馬籠宿郷土環境保全地区」 の案内板があり、 その横に、 中北 道標「←馬籠宿2.2q 妻籠宿5.5q→」 がある。 
馬籠宿へは、峠から県道7号の下り坂を百メートル下ったところで、県道と分かれ、 右の道に入る。 
この分岐点には、 中北道標「←馬籠宿2.0km 妻籠宿 5.7km→」 がある。 
下り坂を進むと左手に峠村の鎮守熊野神社がある。
境内には樹齢五百年の大樹が聳えている。 
熊野神社の参道の左側に、明治天皇御小憩記念碑がある。 

熊野神社より間の宿であった峠集落に入る。 
峠集落は宝暦十二年(1762)の大火により村の大半が焼失したが、その後は大火に 遭わず、往時の面影を色濃く残している。 
  卯建(うだつ)の立派な家や桟の入った古い家が多く、最盛期には民宿が七軒あった ようだが、 現在は一〜二軒しかない。  
民宿 桔梗屋は、今も営業をヅづける民宿の一軒である。 

集落を下ると左側に、 今井家住宅(中津川市景観重要建造物指定) がある。 
島崎藤村の著所「夜明け前」に登場する、牛方組頭・今井仁兵衛住居跡である。 

 説明板 「間の宿・峠」
「 宝暦十二年(1762)に集落の殆んどが消失する大火があった後、 火災がないことから、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今にとどめている。 
江戸時代、この集落の人々は民間の荷物を運搬する牛方を家業としており、 俗に岡船と呼ばれ、美濃の今渡から遠くは信濃の善光寺まで荷物を運んだ。 
安政三年(1856)八月、この牛方と中津川の問屋の間に起きたストライキ(牛方紛争)は 藤村の 「夜明け前」 にも登場する。 」 

無言で建っている建物には数百年の歴史を感じることができた。 
集落の終わりの左側に、「峠之御頭頌徳碑」 がある。 

「  安政三年(1856)、峠村の牛方と中津川の問屋の間に、運賃の配分を巡って争いが起こり、 この争いを牛方に有利に解決した牛行事(頭)今井仁兵衛を讃えた顕彰碑である。 」

峠集落    民宿 桔梗屋    今井家住宅
峠集落
民宿 桔梗屋
今井家住宅

県道側には 茶屋バス停がある。 
江戸時代には、峠の茶屋が置かれたことから名付けられたのだろう。 

県道の右側の中山道を進むと、右側に東屋(休憩小屋)とトイレがある。 
この広場には十返舎一九の狂歌碑がある。 
 「  渋皮の  むけし女は  見えねども  栗のこわめし  ここの名物  」 

 「 江戸期の戯作者十返舎一九は文政二年(1819)、木曽路を旅して「、 「岐蘇街道膝栗毛」 の 馬籠宿 のくだりで、上記の狂歌を詠んでいる。 」  

この峠の名物は栗こわめしだったので、渋皮がむけた女と栗こわめしと対比させ、戯れていて、絶妙である。  」

その先で県道に突き当たるが、横断して清水旧道に入る。 
ここには、 中北道標「←馬籠宿1.3q 妻籠宿 6.4km→」 がある。 
回り込んできた県道7号線を横断し、ガードレールの切れ目から、歩道の井戸沢旧道に入る。 
ここには、 中北道標「←馬籠宿1.2q 妻籠宿 6.5km→」 がある。 
井戸沢を井戸沢橋で渡り、御食事処樹梨の前を通過する。 
店前のメニューに、峠の茶屋の名物栗こわめしを見付けた。 

その先の三叉路を右の梨子ノ木坂の石畳道に入る。 
この分岐点には、 中北道標「←妻籠宿6.7km 馬籠宿 1.0km→」 がある。 
梨子ノ木沢には 「熊出没注意」の標識と、熊除けの鐘がある。 

茶屋バス停    御食事処樹梨    梨子ノ木坂
茶屋バス停
御食事処樹梨
梨子ノ木坂

石畳道を進むと、右側に男女双体道祖神が祀られている。 
丸い石の中で手を重ねた二人の道祖神。 
上部には太陽(陽)と月(陰)が彫られていた。 

梨子ノ坂の石畳を下ると、右手の沢向こうに、石置き屋根の水車小屋がある。 
  ここには、 中北道標「←馬籠宿0.3km 妻籠宿6.8q→」 がある。 
橋を渡り水車小屋に近づくと、水車塚がある。 
水車塚は、一メートル五十センチほどの高さの石碑で、碑の表側には島崎藤村の筆跡で、
  「 山家にありて 水にうもれる 蜂谷の家族四人の記念に   島崎藤村しるす」 
 と刻まれている。

「水車塚」 の碑 
「 明治三十七年(1904)七月、水害のため、ここにあった家屋は一瞬にして押し流され、一家四人が惨死した。 
難を逃れた家族の一人・蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、 後年に供養のため藤村に碑文を依頼して建てたものがこの水車塚である。  
碑の裏には 「信濃の国」 の作詞家である、浅井洌(きよし) の撰文が刻まれている。  」  

街道に戻り、県道を横断すると石畳の先は土の道である。 

男女双体道祖神   水車小屋   水車塚   土の道
男女双体道祖神
水車小屋
水車塚
土の道


◎ 馬籠宿

再び、県道に合流して塩沢橋を渡り、右の急な石畳の階段を上がる。 
ここには 「←馬籠宿 旧中山道」 の道標と、 中北道標「← 馬籠宿300m 妻籠宿 7.4km→」 がある。 
石畳の上り坂を進み、きつい階段を上りきると一気に視界が開ける。 
ここから石段を下ると広場に出る。 馬籠上陣馬跡である。 

説明板「陣場」
「 このあたり一帯の地名を「陣場」という。 
天正十二年(1584)、徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、 木曽路を防衛する豊臣方は、馬籠城を島崎重通に固めさせていた。 
家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。
故にここを 「陣場」 と呼ぶようになった。  」  

民家の脇に道標があり、その方向に展望台がある。 
あいにくガスがかかり視界不良であった。 
展望台のすぐ下の県道に出る手前に高札が建っている。 

説明板「高札場」 
「 江戸時代には村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書したものを掲示する場所を定めた。
それは村の入り口や庄屋宅の近くなど人目につきやすい場所が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。   
文字が読めない人が多いその当時、正月になると、庄屋は村人をこの場所に集めて読んできかせ、 これを守るように言い聞かせた。 
現在復元されているものは、正徳元年(1711)に公布された「御朱印、毒薬等の定書き」や、 明和七年(1770)の「徒党禁止」の札などで、復元の際に読みやすいように楷書に書き直した。」 

坂道は県道7号線に突き当たる。 
右側の上但馬屋の脇に、大きな 「中山道馬籠宿」の石碑があり、 「江戸江八十里半 京江五十二里半」  と刻まれている。 

馬籠宿へ到着した。 馬籠峠より、一時間の距離だった。

「  馬籠宿は、入口から出口まで、二町三十三間(400m程)の長さで、 天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、家数69軒、宿内人口717人(男360人女357人)、本陣一、脇本陣一、 旅籠18軒であった。 
太田南畝の壬戌紀行によると、 「 馬籠は駅舎のさまひなびたり 」という有様であった。 
馬籠宿は、馬籠峠と十曲峠に挟まれた尾根に位置し、 狭隘の地に宿並がある(民家が並ぶ)為、水の便が悪く、強い風に晒され、度々大火に見舞われた。 」

藤村は、夜明け前の中で、
 「 街道の両側には、一段づつ石垣を築いて、その上に民家を建てたようなところで、 風雪を凌ぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる 」 と著している。 
今もこの風情はほのかに漂っている。 

馬籠宿はすでに訪問済みである。

馬籠宿の訪問記は、     中山道 馬籠宿をご覧ください。

景色    高札場    上但馬屋と中山道馬籠宿碑
展望台からの景色
馬籠宿 高札場
中山道馬籠宿碑

妻籠宿  長野県南木曽町吾妻  JR中央本線南木曽駅からバス7分妻籠下車。  

(所要時間) 
三留野宿→(1時間10分)→かぶと観音→(50分)→妻籠宿→(30分)→大妻籠集落→(1時間)→一石栃茶屋跡
→(20分)→馬籠峠→(1時間)→馬籠宿



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