馬籠宿は、中山道の第四十三番目の宿場で、木曽十一宿の一番南の宿場であった。
かっては、長野県木曽郡山口村に所属していたが、平成の市町村大合併の際、
越県合併により、中津川市に編入になった。
明治二十八年(1895)と大正四年(1915)の大火により、
古い街並みは、石畳と枡形以外は全て焼失した。
馬籠峠がある県道前広場には、 「馬籠峠頂上標高801m」 の標柱と、 「歴史の道 中山道」 の説明板が建っている。
説明板 「歴史の道 中山道」
「 中山道を別名木曽街道というのは、
江戸から京までの69次のうち、木曽に11宿あり、
しかも険阻な道だったからでしょう。
この地図(省略)の範囲には、 大桑村内の野尻宿
(江戸から40番目)、 南木曽町内の三留野宿(同41番目)と妻籠宿(同42番目)、
山口村内の馬籠宿(同43番目)の四つの宿場がありました。
当町(南木曽町)における中山道の道筋は蛇抜け災害などによって、
何回か変更を余儀なくされ、ことに三留野宿と野尻宿の間には
羅天という難所があり、通行不能になることはしばしばでした。
そこで迂回路として、野尻宿 ー 与川 ー 上の原・三留野宿 のいわゆる、
与川道が用いられました。
江戸時代に、
京都から江戸への将軍家へ六人の姫君が中山道を通って降嫁していますが、
うち二人までは与川道を用いています。
享保16年(1731)の伏見宮家比宮と文化元年(1804)の有栖川王女楽宮がそれです。
昭和53年から行われた歴史の道整備事業では、
本来の中山道である十二兼・三留野宿が鉄道と国道でほとんどが破壊されているため、
古道がよく残っている与川道を復元整備しました。
当町(南木曽町)の根の上峠から
馬籠峠間19.595kmの歴史の道のほとんどは、江戸時代そのままの景観を伝えており、
「 木曽路はすべて山の中 」 であることを体験できる数少ない道の一つとなって
います。 」
馬籠峠は、平成十七年の馬籠集落の越県合併により、
長野県木曽郡南木曽町と、岐阜県中津川市馬籠の県境になった。
それまでは馬籠の新茶屋が長野県と岐阜県の県境でした。
馬籠峠頂上の広場には峠の茶屋があり、飲み物を買い、しばし休憩。
茶屋の傍らに、 「馬籠峠」 の石碑と、 正岡子規の句碑 「 白雲や 青葉若葉の 三十里 」 が建っている。
正岡子規は、明治二十四年(1891)に、木曽路に来て、 紀行文 「かけはしの記 」 を書いている。
馬籠峠に立つと、広々とした美濃の平野が望まれ、左には恵那山がどっしりと座っている。
「 峠の先の妻籠などの木曽谷は、狭く狭鬱(きょううつ)な道なので、
木曽路を歩いてきた旅人は、景観が一変することに気づく。
これまで歩いてきた木曽路とはうって変って明るく伸びやかな斜面が前景にある。
この峠にきて、 木曽路をようやく抜けるのだという感慨に浸ったことだろう。 」
県道脇に、 「妻籠宿・馬籠宿郷土環境保全地区」 の案内板があり、 その横に、 中北道標 「←馬籠宿2.2q 妻籠宿5.5q→」 がある。
峠から馬籠宿へ向かう。
県道7号の下り坂を百メートル下ったところで、県道と分かれ、右の道に入る。
この分岐点には、 中北道標 「←馬籠宿2.0km 妻籠宿 5.7km→」 がある。
下り坂を進むと、左手に峠村の鎮守熊野神社があり、
境内には、樹齢五百年の大樹が聳えている。
熊野神社の参道の左側に、 明治天皇御小憩記念碑 がある。
熊野神社より間の宿であった峠集落に入る。
峠集落は、宝暦十二年(1762)の大火により村の大半が焼失したが、その後は大火に 遭わず、往時の面影を色濃く残している。
卯建(うだつ)の立派な家や桟の入った古い家が多く、最盛期には民宿が七軒あった ようだが、現在は一〜二軒しかない。 民宿 桔梗屋も、その一軒である。
集落を下ると左側に、 今井家住宅(中津川市景観重要建造物指定) がある。
島崎藤村の 「夜明け前」 にも登場する、牛方組頭・今井仁兵衛住居跡である。
建っている建物には、数百年の歴史を感じることができた。
説明板 「間の宿 ・ 峠」
「 宝暦十二年(1762)に集落の殆んどが消失する大火があった後、火災がないことから
、この集落の家屋は江戸中期以降の姿を今にとどめている。
江戸時代、この集落の人々は民間の荷物を運搬する牛方を家業としており、
俗に岡船と呼ばれ、美濃の今渡から遠くは信濃の善光寺まで荷物を運んだ。
安政三年(1856)八月、この牛方と中津川の問屋の間に起きたストライキ(牛方紛争)は
藤村の 「夜明け前」 にも登場する。 」
集落の終わりの左側に、峠之御頭頌徳碑がある。
安政三年(1856) 峠村の牛方と中津川の問屋の間に運賃の配分を巡って
争いが起こり、この争いを牛方に有利に解決した牛行事(頭)今井仁兵衛を讃えた
顕彰碑である。
県道側には 「茶屋」 というバス停がある。
ここは茶房峠で、江戸時代には峠の茶屋が
置かれたところであることから名付けられたのだろう。
県道の右側の中山道を進むと右側に東屋(休憩小屋)とトイレがある。
この広場には十返舎一九の狂歌碑がある。
「 渋皮の むけし女は 見えねども 栗のこわめし ここの名物 」
「 古くから峠の名物は栗こわめしであった。
江戸期の戯作者十返舎一九は文政二年(1819)、木曽路を旅して、
「岐蘇街道膝栗毛」 の馬籠宿のくだり、上記の狂歌を詠んでいる。 」
この峠の名物は栗こわめしだったのであるが、渋皮がむけた女と 戯れていて、絶妙である。
その先で県道に突き当たるが、横断して清水旧道に入る。
ここには、 中北道標 「←馬籠宿1.3q 妻籠宿 6.4km→」 がある。
更に回り込んできた県道7号線を横断し、
ガードレールの切れ目から歩道の井戸沢旧道に入る。
ここには、 中北道標 「←馬籠宿1.2q 妻籠宿 6.5km→」 がある。
井戸沢を井戸沢橋で渡り、御食事処樹梨 の前を通過する。
店前のメニューに、 峠の茶屋の名物栗こわめし を見付けた。
その先の三叉路を右の梨子ノ木坂の石畳道に入る。
この分岐点には、 中北道標 「←妻籠宿6.7km 馬籠宿 1.0km→」 がある。
梨子ノ木沢には熊出没注意標識と熊除けの鐘がある。
石畳道を進むと、右側に男女双体道祖神が祀られている。
丸い石の中で手を重ねた二人の道祖神。 上部には太陽(陽)と月(陰)が彫られて
いた。
梨子ノ坂の石畳を下ると、右手の沢向こうに、石置き屋根の水車小屋がある。
中北道標「←馬籠宿0.3km 妻籠宿6.8q→」 がある。
橋を渡り水車小屋に近づくと、 水車塚 がある。
水車塚は一メートル五十センチほどの高さの石碑で、
碑の表側には島崎藤村の筆跡で、
「 山家にありて 水にうもれる 蜂谷の家族四人の記念に 島崎藤村 しるす 」
と刻まれている。
説明板「水車塚の碑」
「 明治三十七年(1904)七月、水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され
、一家四人が惨死した。
難を逃れた家族の一人、蜂谷義一は、たまたま藤村と親交があったことから、
後年に供養のため、藤村に碑文を依頼して建てたものが、この水車塚である。
碑の裏には、「信濃の国」 の作詞家である浅井洌(きよし)の撰文が刻まれている。 」
街道に戻り、県道を横断すると、石畳の先は土の道である。
再び、県道に合流して塩沢橋を渡り、右の急な石畳の階段を上がる。
ここには、「←馬籠宿 旧中山道」 の道標と、 中北道標 「← 馬籠宿300m 妻籠宿 7.4km→」 がある。
石畳の上り坂を進み、きつい階段を上りきると、一気に視界が開ける。
ここから石段を下ると広場に出る。 馬籠上陣馬跡 である。
「陣場」
「 このあたり一帯の地名を「陣場」という。 天正十二年(1584)
に徳川家康と豊臣秀吉が戦った小牧山の決戦のとき、木曽路を防衛する豊臣方は、
馬籠城を島崎重通に固めさせていた。 家康方は兵七千をもって木曽に攻め入り、
その一部は馬籠城を攻略すべくこの地に陣を敷いた。 故にここを「陣場」と呼ぶよう
になった。 」
民家の脇に道標があり、その方向に展望台がある。
展望台のすぐ下の県道に出る手前に、高札が建っている。
「高札場」
「 江戸時代には村人たちに法令などを徹底遵守させる目的で、板に墨書したもの
を掲示する場所を定めたが、それは村の入り口や庄屋宅の近くなど人目につきやすい場所
が選ばれ、藩の厳重な管理下におかれていた。
文字が読めない人が多いその当時、 正月になると、庄屋は村人をこの場所に集めて
読んできかせ、これを守るように言い聞かせた。
現在復元されているものは、
正徳元年(1711)に公布された 「御朱印、毒薬等の定書き」 や、
明和七年(1770)の 「徒党禁止」 の札などで、
復元の際に読みやすいように楷書に書き直した。 」
坂道は県道7号線に突き当たる。
右側の上但馬屋の脇に、大きな 「中山道馬籠宿」
の石碑があり、 「江戸江八十里半 京江五十二里半」と刻まれている。
県道を横断すると、馬籠宿の宿並に入る。
「 馬籠宿は、入口から出口まで、二町三十三間(400m程) の長さの宿場町であった。
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、家数六十九軒、宿内人口七百十七人(男360人女357人)、本陣1、脇本陣1、
旅籠十八軒であった。 」
当地を旅した太田南畝の 「壬戌紀行」 によると、 「 馬籠は駅舎のさまひなびたり 」 という有様であった。
「 馬籠宿は、馬籠峠と十曲峠に挟まれた、狭隘の地に位置し、
尾根に宿並がある為、水の便が悪く、強い風に晒される為、度々大火に見舞われた。
明治二十八年(1895)と大正四年(1915)の大火で石畳道以外は全て灰塵に帰した。
その後、復興するも、 明治二十五年(1892) 木曽川沿いに国道が開通すると、
宿場としての使命が終え、陸の孤島となり、衰退の一途を辿りました。
しかし、昭和四年(1929) 島崎藤村が、「夜明け前」 を著すと、
一躍観光地として復活を果し、
国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。 」
藤村は、「夜明け前」 の中で、「 街道の両側には一段づつ石垣を築いて、
その上に民家を建てたようなところで、風雪を凌ぐための石を載せた板屋根が
その左右に並んでいる。 」 と、著している。
今もこの風情はほのかに漂っている。
ここから宿場の京方入口まで、下り坂が続いている。
宿に入って、だらだらした坂を下ると、道の右側に、 馬籠脇本陣資料館 がある。
「 ここは、蜂谷家が勤めた馬籠脇本陣である。
蜂谷家は酒造、金貸しもした金満家で、屋号を八幡屋とし、問屋も兼ねました。
脇本陣は明治の大火で焼失し、跡地は馬籠脇本陣資料館になっている。
館内には当時の場所に上段の間が復元され、焼失を免れた貴重な什器、衣服、
民具等を展示しているほか、木曽五木(ヒノキ、サワラ、アスヒ、コウヤマキ、ネズコ)
の実物見本がある。 また、藤村の夜明け前の資料になった馬籠宿役人の記録等が
展示されている。
初代源十郎から、四代百年にわたって書き残された文書は、 「夜明け前」
の重要な資料となった。 」
史料館前にある山口誓子の句碑には 「 街道の 坂に熟れ柿 灯を点す 」 とある。
「 この句で詠まれた柿は、市田柿などの大きな柿ではなく、
この辺りに多い山柿の小さな鈴なりなった姿ではないだろ
うか?
小さな柿がろうそくのように浮き出してくるとの表現は秀逸。
赤く熟しても、だれも取らない道脇の柿に思いを込めて、木曽路の秋をしみじみとうたっている句である。
脇本陣の隣が大黒屋跡である。
大黒屋は、問屋、年寄役を勤め、造り酒屋を兼ねました.
今も軒下に名残の酒林を吊り下げている。
「 大黒屋は、藤村が幼い胸にほのかな初恋の燈をともしたおゆうさんの
家である。
大黒屋十一代目の大脇兵右衛門が四十四年間記しつづけた日記が、
夜明け前の構想のもとになったといわれ、大黒屋は 「伏見屋」 という名で登場する。 」
大黒屋の隣が、藤村の生家・島崎本陣跡で、現在は藤村記念館になっている。
本陣門脇には 「馬籠宿明治天皇停駅之蹟碑」 がある。
「 馬籠城主であった、島崎監物の子孫・島崎家が、
本陣を代々勤め、問屋を兼ねました。
幕末、水戸天狗勢の幹部が島崎本陣に宿泊した。
その時の様子を藤村は夜明け前で、「太鼓の音だ!! おのおの抜身の槍を手に
した六人の騎馬武者と二十人ばかりの徒歩武者とを先頭にして、
各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た」 と著している。
明治天皇は、 明治十三年(1880)巡幸の際、旧本陣に宿泊された。
本陣の建物は、明治二十八年(1895)の大火で消失してしまった。
同地に建つ藤村記念館では、「夜明け前」 などの原稿や初版本の数々を見ることが
できる。 」
島崎藤村は、 現在の藤村記念館の場所にあった馬籠宿本陣で生まれた。
「 父・正樹が、
明治政府と木曾自由林の没収で争い、破れてしまったので、九才の時東京に移り、
銀座の泰明小学校に入り、三田英学校などで学び、明治学院を卒業した。
東京に移って五年後の明治十九年(1886)、父正樹は郷里にて狂死した。
小説 「夜明け前」は、 明治政府と争そった父の生涯を、
青山半蔵 という名前で描いた私小説である。
家産が傾き、父が狂死するという不幸に遭ったことが、
彼の人生観に色濃く反映していったのだろう、と思われる。 」
本陣の隣りが、四方木屋(よもぎや)である。
大正十四年(1925) 島崎藤村が、長男楠雄の為に、古民家を移築改装した建物である。
現在は子孫が茶房を営んでいる。
馬籠郵便局を過ぎると、左側の五平もちかなめやの前に、
「160m永昌寺 180m島崎藤村墓→」 の標柱がある。
標柱向いの右手小路を進むと、永昌寺がある。
「 永昌寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、永禄元年(1558)の創建である
。
島崎家の菩提寺で、 「夜明け前」 に、 「万福寺」 の名前で登場する。 」
石段を上がった山門脇に、石仏群が
ひっそり並び、鐘楼や本堂のたたずまいがいかにも禅寺らしい。
島崎家の菩提寺で、門前から左に入った暗い木立の中に、 島崎家代々の墓が並んで
立っている。
「 島崎家の墓には戒名がなく、その中に藤村の墓がある。
墓には、 藤村の本名の春樹
と記されていて、遺髪、遺爪が埋葬されている。
藤村の墓は亡くなった地の大磯の地福寺にあり、
藤村の遺骨は、終焉の地、神奈川県大磯の地福寺に埋葬されている。 」
その先に父島崎正樹の墓があり、墓石の正面には 「島崎正樹 島崎縫子 之墓」、 裏面には 「明治廿九年十月二十五日歿」 と刻まれている。
街道に戻ると、左側には 槌馬屋資料館 がある。
「 島崎正樹と親戚関係であったところから、正樹に関する資料を 中心に、 正樹自筆の掛軸、書や藤村初恋のおゆうさんの顔写真、当時の歴史的資料等 を展示している。 」
道の向かいに、旅人御宿但馬屋(現民宿)があり、約百十年前の囲炉裏を残している。
次いで左側に清水屋資料館がある。
清水屋原家住宅は、 中津川市景観重要建造物である。
「
資料館になっている清水屋原家は、宿役人を勤め、島崎家と親交が深かった家で、
藤村は、馬籠に帰農する長男・楠雄を原家に託しました。
八代目の一平氏は、藤村の小説 「 家 」 で、 「 森さん 」 の名前で登場する。
館内には、古文書や藤村の書簡や掛軸等が展示されている。 」
馬籠宿の最後は、枡形になっていて、そこに 水車小屋と常夜燈が建っている。
県道に出ると、交叉点の右角に、 大きな 「馬籠宿」 の石碑が建っている。
石碑には、 「中山道 馬籠宿 江戸江八十里半 京江五十二里半」 と彫られている。
馬籠宿はここで終わる。
馬籠宿 岐阜県中津川市馬籠 JR中央本線中津川駅からバス30分馬籠下車。