山の辺の道ハイク A  天理トレイルセンターから石上神宮 





平成二十三年三月三十一日(木)、旅行社が企画した山の辺の道のフリーハイクに参加した。 
東日本大震災が起きたので、どうしようかと思ったが、起きて二十日も過ぎて落ち着いてきたので、 参加することにしたのである。 
前回参加して一年が経過していたが、今回はその残りの天理トレイルセンターから石上神宮なので、これで完結となる。 



天理トレイルセンターから石上神宮 

朝の出発時間は遅かったが途中すいていたので、天理トレイルセンターには十時四十五分に到着した。 
時間に余裕がありそうなので、長岳寺へ再び訪問した。 
大門前の根上り松は地面より三メートルも立ち上がった根が複雑に絡み合いながら、古木を支えているが、根元に室町時代の作と伝えられる石仏が祀られていた (左下写真)

「 長岳寺は釜口山の山麓にあることから、 「 釜口のお大師さん 」 と呼ばれている。 
長岳寺は真言宗のお寺で、天長元年(824)、淳和天皇の勅願により、弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹で、 最盛期には四十二の堂宇を数えたが、戦国時代の兵火と明治の廃仏希釈で荒廃してしまった。 」

大門を入り、平戸つづじの生け垣を進むと白塀の中に建物が見えた (左中写真)
この建物は旧地蔵院持仏堂で、その隣の旧地蔵院(庫裏)と共に国の重要文化材に指定されている。 

説明板「旧地蔵院」
「 旧地蔵院(庫裏)は、長岳寺の塔頭(子院)の内、唯一残った塔頭で、江戸時代初期の寛永七年(1630)に再建されたものである。  内部は書院造りになっており、屋根は杉皮を用いた大和葺きであるが、 玄関及び持仏堂は檜皮葺きである。 
持仏堂は延命堂ともいわれ、二間四面の小堂であるが、桃山風で美しい。  本尊は普賢延命菩薩である。 」 

拝観料三百円を払った先の左側にあるのが、上記の旧地蔵院と同持仏堂で、その先にあるのは楼門、 鐘楼を兼ねた鐘楼門である (右中写真)

「 鐘楼門は平安時代の作で日本最古のものとされ、国の重要文化財に指定されている。  また、弘法大師が長岳寺を創建した当時の唯一残る建物でもある。 」

楼門をくぐると右側に放生池があり、右手に石段と鐘堂があったが、 池の周りは写生をするグループが陣取っていた。 
池越しに見えるのは本堂で、右側に練塔、左手に桜と楓の木がある (右下写真)
楼門と桜と取り合わせは写真の恰好の被写体だが、桜のつぼみは固いままではしょうがない。 
左側の本堂は天明三年(1763)に再建されたもので、 本尊の阿弥陀三尊や多聞天、増長天等が祀られている。 

「 阿弥陀三尊は仁平元年(1151)の作で、中尊の阿弥陀如来が観世音菩薩、勢至菩薩を従えている。 
阿弥陀如来は平安になって起こった末法思想に基づく阿弥陀信仰による仏で、 観世音菩薩は阿弥陀如来の慈悲の分身、
勢至菩薩は知恵の分身である。 
阿弥陀三尊像は玉眼を使用した仏像としては日本最古。  多聞天と増長天は藤原時代のもので、八百年を経た今日でも色彩がよく残っている。 」

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室町時代の石仏
旧地蔵院持仏堂
鐘楼門
本堂

石段の左側に地蔵石仏がある。 石段を上ると正保二年(1645)建立の大師堂があり、 当寺信仰の中心である弘法大師像と藤原時代の不動明王を奉祀している (左下写真)
その奥の険しい石段を上っていくと、大石棺仏があるが、 前回行っているので、御参りはこれで終了した。 
いよいよ山の辺の道を歩き始める。 山の辺の道は案内板が完備しているので、迷うことはない。 
畑の道を歩くと、すぐに民家があるところに出たが、すぐに終わり、 坂を下りると田園が拡がっているところに出た。 
長岳寺から約十分で、柿本人麻呂の歌碑があるところに着いた (左中写真)
田圃の中に、竜王山を背景にして歌碑が建っているが、万葉の歌人、柿本人麻呂が、 妻を亡くした際に詠んだ
  「 衾道(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりとも無し 」   の歌碑である。 
 引手の山はこの歌碑の東にある竜王山で、人麻呂は妻を火葬にして、 この山並みのどこかに葬ったといわれる。 
ここには休憩できる場所もあるが、出発したばかりなので、そのまま進むと、 こんもりと樹木の茂った丘が行く手を塞いでいる。 
山の辺の道はこの丘の裾を廻るように左にカーブ、続いて右にカーブし、上っていくが、 左側の公衆トイレの下に石仏群が祀られていた (右中写真)
頂上の左側に中山公民館とお堂があり、その先には 「 最古の御社 大和神社御旅所 」 の標柱が建っていたが、この丘全体は中山大塚古墳なのである。 

説明板「中山大塚古墳」
「 古墳時代初頭の築造で、大和古墳群の南側に位置する前方後円墳。  標高約90mの尾根上に前方部を南西に向けて築かれており、 前方部付近には大和神社のお旅所がおかれたために削平を受けている。  古墳の規模は全長約132m、後円部径約73m (以下略) 」 

木立の中にある神社は大和神社御旅所の御座所坐神社で、大和稚宮神社とも呼ばれる (右下写真)

説明板「御座所坐神社」
「 この神社は北西千メートルのところにある大和神社の末社で、 大国魂大神の母、伊怒姫命と八十矛戈大神が祀られている。  もとは中山大塚古墳の前方の小高い後円部にあったが、明治維新の際にこの地に遷されたという。  毎年四月一日に催される大和神社例祭、ちゃんちゃ祭りには、 長い渡御行列が大和神社とこの神社の間を行き来するが、 その際、鉦鼓を 「 ちゃんちゃん 」 と打ち鳴らしながら進むことから、 ちゃんちゃん祭と呼ばれ、大和の春はちゃんちゃん祭とともにやってくるといわれる。 」 

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大師堂
柿本人麻呂の歌碑
石仏群
御座所坐神社


その先、山裾を進むと、正面に念仏寺があるが、建物は新しい。 
角に東海自然歩道の道標があり、その下には石仏群があった (左下写真)
その先の墓地には六地蔵を祀る祠があるが、その脇に燈籠山古墳の解説板があった。 

「 燈籠山古墳は先程の中山大塚古墳と同じ丘陵上に位置する前方後円墳で、 この丘陵上に位置する古墳は前方分を南に向けているが、この古墳だけが西に向いている。  この古墳は全長110m、後円部55m、高さ6.4m、前方部41m、高さ6.3mで、 古墳時代前期前半(4世紀前葉)。  燈籠山古墳は、前方部は墓地になっていて、その奥の果樹園が後円部である。 」 

なお、 墓地に 「 行基大菩薩 」 の石碑が建っていたので、念仏寺は行基の建立なのだろう (左中写真)
その先の右手には継体天皇の妃、手白香皇女の墓と伝わる衾田陵や西殿塚古墳があるが、 前回訪れているので、そのまま通過すると左側に池があるところに出た。 
池の先に白いモクレンが咲いている大木があり、その隣には下池山古墳がある。 
このあたりからは民家が立ち並んでいるが、左側に五所神社と鳥居と社がある (右中写真)
右手の道をいくと衾田陵にでられるところだが、山の辺の道は民家の間を進んでいく。 
「大神宮」の常夜燈と「猿田彦大神」の石碑が建っている (右下写真)
道標に従って進むと、左側に池があり、山の辺の道の道標には「竹之内環濠集落」の表示があり、 池の畔には「猿田彦大神」の石碑があった。 
池の向うの果樹園も古墳だが、そこを過ぎると見慣れた交叉点にでた。 
左側の車道は大和神社方面からの道で、前回のハイクでは大和神社からここにきて、 その後、これまで歩いた道を通り、大神神社まで歩いたのだった。 
直進する道が山の辺の道なのだが、道路工事のため、直進はできない。 

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石仏群
行基大菩薩石碑
五所神社
大神宮常夜燈と猿田彦大神碑


交叉点をガードマンにより、右折させられて、その先左に入る道を案内に従って、 柿の木が植えられているところを歩くと、
下には大和の風景を見ることができた (左下写真)
しかし、この廻り道で、菅生環濠集落の先に出てしまっていた。  その先右側に「弓月庵」という店があり、その先の左側の民家は「みちふく」という名で、 おでんを出していた。 
そこを過ぎると右側に山の辺の道の案内板があり、その奥に休憩できる場所があった (左中写真)
ここは竹之内環濠集落の入口のようだが、皆が休憩しているので、 椅子に座って買ってきたおにぎりと稲荷すしを食べた。 
時計を見ると十二時十分だったが、十五分程休憩の後、出発する。  すぐに石垣に囲まれたところに出た。 
道の左側は菜の花が咲いていて、道の両脇には白い水仙が群生していた。 まさに春と思った。 
その先の道から左側に集落が展開していて、そのまま進むと、公衆便所のある休憩所に出た。 
その先には濠があり、その先の白壁の蔵の脇まで水があった (右中写真)
この右側に広がっている集落が竹之内環濠集落である。 

「 環濠集落は聞きなれない言葉であるが、集落の周辺に深い濠をめぐらして、 外敵から里を守るようにした集落のことで、動乱の続く室町時代の頃、 農民たちが野武士の襲来に対抗し、自衛のために集落の周りに濠を築いたものである。  環濠は戦国時代には空濠だったが、現在は灌漑用に水が入れられていた。 」

集落の中を一回りしたが、道が複雑なのと三連の蔵があるなど、建物は整備されていたが、 昔の雰囲気は残っていた。 

説明板「環濠集落」
「 天理市には備前町、南六条町、庵治町などで、環濠の跡を留めているが、 標高百メートルの山麓に立地するのは県下では少ない。 」  

山の辺の道の道標に従い、右手に竹之内環濠集落を見て、 左手には信貴山系の山々(?)がかすんでみえる。 
下の県道51号までは田畑で、野辺にはたんぽぽが咲いていた。 
少し歩くと、左右に曲がるが、左側の数軒の家の中に 「せんぎりや」 の看板があった (右下写真)
農家風の家だが、店頭をみると大根を干して、乾かしたものを売っていた。 
この集落は佐保庄町に入るのだろうか?  この家以外にはその先に自動販売機があるだけで、店らしいものは一切ない。 

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大和の風景
山の辺の道案内板
白壁の塀の家
せんぎりやがある集落


道が突き当たった先に公民館があり、少し入ったところに石仏群の祠があるお堂があった。 
細い格子と蚕を飼った時代を象徴するこの地方独特の屋根のある建物の前にはベンチが置かれて、 若いカップルが休憩していた (左下写真)
山の辺の道はその先で右折し、集落を抜けると、夜都岐神社の鳥居の前に出た (左中写真)
鳥居の前には 「 山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木(をとぎ)の鳥居  朱(あけ)に立つ見ゆ 東畝 」 という歌碑が建っていた。 

「  東畝とは日本画家の廣瀬東畝のことで、文展に六回入選している。  彼は高知県高岡郡佐川村出身なので、当地との関係は分らない。  夜都岐神社の鳥居は、明治維新までは春日大社若宮の鳥居を下付されていた。  乙木の朱の鳥居は、国道169号の乙木口に神社に向かって、「式内夜都岐神社」の標柱とともにあるというが、そこまでは行かなかった。 」

また、夜都伎神社の説明板がある。

「 天理市乙木町の北方、集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、 俗に春日神社といい 春日の四神を祀る。  乙木にはもと夜都岐神社と春日神社の二社があったが 、 夜都岐神社の社地を竹之内の三間塚池と交換、 春日神社一社にし、社名のみを変えたのが、 現在の夜都岐神社である。  当社は昔から奈良春日神社に縁故深く、 明治維新までは当社から蓮の御供と称する神饌を献供し、 春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。  現在の本殿は、明治39年(1906年)改築したもので 、 春日造檜皮葺、高欄浜床向拝付、彩色7種の華麗な同形の4社殿が、末社の琴平神社と並列して、 美観を呈する。  拝殿は萱葺で この地方では珍しい神社建築である。  鳥居は、嘉永元年(1848年)4月 奈良若宮から下げられたものという。 」

石段を上ると夜都伎神社の常夜燈、右側の拝殿前には春日社の常夜燈があり、 常夜燈の名前の神社名が複数になっているのは案内板にあった事情による。  宮山は前方後円墳であり、夜都岐神社はその上にあることになる。 
拝殿は、今時珍しい萱葺の建物で、拝殿扁額には 「 夜登岐神社 」 とあった (右中写真)
拝殿の奥には朱の垣と左側に朱色の鳥居があり、その中に社殿が見える (右下写真)
左端の社殿は天児屋根命、その右側が経津主命、中央の大きな社殿が武甕槌神を祀る本殿である。 
五つの社殿は中央が一番大きく、左右に行くほど小振りとなっていた。 
本殿右側の社殿は比賣大神、右端の小振りな社殿は境内社の琴平神社で、大物主命を祀っている。 
即ち、琴平神社を除く、四社殿が当社の本殿ということになる。 
また、朱の垣の左手に、さらに垣に囲まれて八坂神社(牛頭天王社)があり、 その西側に鬼子母神の小祠が祀られている。 
なお、明治維新までは六十一年毎に春日大社若宮社殿と鳥居を下付されており、 現在の本殿は、明治三十九年に改築されたものである。 
境内では多くのハイカーが休憩を取っていたが、小生は休憩は取らず先に進んだ。 

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細い格子の家
夜都岐神社の鳥居
夜都岐神社拝殿
夜都岐神社の社殿


山の辺の道は鳥居の先で右折し、田畑が広がっているコンクリートの道だが、 左側の柿の木畑前のよだれかけした地蔵様が違和感を感じさせない。  だれが生けたのか水仙の花がひかっていた (左下写真)
このあたりから上り坂となり、右に曲がる角には山の辺の道の道標があり、 「 石上神宮まで3km 」 とあった。 
この南西には東乗鞍古墳と西乗鞍古墳があるのだが、上ることに専念していたため、存在は確認していない。 
対向二車線の車道に出たので、右折して山に向かって、車が一台も走っていない道を上っていくと、 三百メートルもいかないうちに左に入る道があり、そこに 「 皇紀二千六百年記念 道路開通碑 」 があった。 
地元ではこの道路の開通が悲願だったのだろうと思いながら、車道と別れて左に入る (左中写真)
その先の右側に二台駐車していて、 そこには 「 キンカン狩り 300円 」 の案内看板と籠が置かれていた。 
道の反対に 「 天理観光農園 峠の茶屋 」 の看板を掲げた建物があった (右中写真)
今日歩いてきた途中に、柑橘系の果物を道傍に置いて、売っている無人販売所を多く見たが、静岡や愛知などの産地品に比べると、小ぶりで色つやも今一つである。 
ここのきんかんも観光客にとって、どれほどの魅力になるものか?と思うが、近畿というフィールドの中では観光資源として成り立つのだろうと思った。 
建物の中に入ったが、買うべき商品がなく、食事をとったばかりなので、のども渇いていなかった。 
ハイカーなどは奥でコーヒーなどを飲んでいたが、そのまま出てしまった。 
終わって気が付いたのだが、今日のコースで、店らしかったのはこの家だけだったので、複数で歩き休憩を取るならば、観光農園しかないということになるだろう。  ここから坂道は本格的な傾斜になった。 
そこを上っていくと、東海自然歩道の道標があり、 「 石上神宮・天理 」 の矢印に従い、更に上っていく (右下写真)

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地蔵尊
車道と別れて左に入る
天理観光農園 峠の茶屋
更に上っていく 


時計を見ると、十三時二十分。 石上神宮駐車場の出発時間は十四時三十分なので、あと一時間と少しの時間しかないが、  峠がどの程度のものか分らないのは不安である。 
その先にも道標があり、それに沿って上ると、石畳の道があったので、上っていった (左下写真)
頂上には民家があり、その前を過ぎるとピンクのはなももと白梅が咲いていた。 
ここに 「 月まて 嶺こへけりと 聞くままに あわれよふかき はつかりの声 十市遠忠 」 の歌碑があった (左中写真)

「  十市遠忠は、室町時代末期に木沢長政や筒井氏と争い、 竜王山城によって、一大勢力を築いた人物で、墓は竜王山城の麓の長岳寺にある。  彼は堂上派の和歌を学び、三条西実隆・公条に師事したという。 」 

木立の中を歩くと下り坂に変わったので、どうやら峠は越えたようである。 
果樹が植えられているところを歩いていくと、道路工事中だった。 
右側に 「 山の辺の道 内山永久寺跡 」 の標柱があり、 石段を上ると休憩できる椅子が用意されていたが、下の景色に見る
べきものはなかった。 
石段を下りて道なりに進むと、「永久寺跡」の説明板があり、その脇に当時の伽藍が描かれていた。   

「  永久年間(1173 〜7)に建立された寺で、鳥羽天皇の授戒の師である亮恵上人の開基と伝えられています。  本尊は阿弥陀如来で、石上神宮の神宮寺として盛時には大伽藍を誇っていたと伝えられています。  その後、寺勢が衰えて、明治の廃仏希釈で廃寺となって、今ではわすかに池を残すだけで、歴史のきびしい流れを感じさせられます。 
かつては浄土式回遊庭園を中心に、本堂、灌頂堂、八角多宝塔、三重塔など、最盛期には五十以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、江戸時代には九百七十一石の朱印地を与えられていた。 」

それにしても、それだけの寺が道の左側にある池だけというのは余りに寂しいと思った (右中写真)
なお、周りの木陰を映して静まりかえる池のあたりが、内山永久寺の本堂が建っていた所のようである。 
その先の右側には 「 後醍醐帝御立場 菅御所跡 」 と書かれた石碑が建っていた (右下写真)

「 南朝の後醍醐天皇が京都花山から吉野へ落ち延びる際、一時入寺して、 「萱の御所」とされた。  中世には興福寺の末寺となり、江戸時代には大和で東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ待遇を受けていたというが、それだけに京都の天皇家や公家の反発が強かったのかもしれない。  廃仏希釈により、建物は壊されたが、僧侶は石上神社の神官になったという。  寺宝は壊されたり、売られたりして、貴重な仏像がなくなったが、 東大寺の国宝、「持国天と多聞天像」は、その昔、この寺が所有していた仏像であるといわれる。 」

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石畳の道
十市遠忠の歌碑
永久寺跡の池
菅御所跡碑


池を廻っていくと、左側に芭蕉の句碑があった (左下写真)
 「 うち山や とざましらずの 花ざかり 宗房 」  
 宗房は松尾芭蕉が江戸に下る前、まだ出生地の伊賀上野に住んでいた時代の号である。

ここから石上神宮(いそのかみじんぐう)までは十五分の距離。 
国道25号を高架下のガードでくぐると、右手に小山があり、その麓を進むと上りになり、 その先の右側には池があり、
左側には歌碑が建っていた (左中写真)
僧正遍照の  「 さとはあれて 人はふりにし やどなれや 庭をまがきも  秋のつらなる 」 の歌が書かれていた。 
このあたりは石上神宮外苑公園の一角なのだろう。 
木立の道を上ると石上神宮の境内に入り、池や歌碑を過ぎると、社殿が現れたので、今日の歩きは終了 (右中写真)
時計を見ると、十三時四十五分。 
長岳寺の拝観と休憩した時間を引くと、二時間の行程で、歩きとしてはもの足りない感じがした。 

「 石上神宮は「布都御魂大神」といわれる剣を祭神とし、崇神天皇の時代に創建された古社で、 延喜式神名帳には 「 大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社 」 と記載され、名神大社に列している。  また、日本書記には「 伊勢神宮と石上神宮だけが神宮 」 と記されている。 」

石段を上ると、左側に国の重要文化財に指定されている楼門があった (右下写真)

「  鎌倉時代の文保二年(1318)の建立で、重層、入母屋造り、桧皮葺の一間一戸の門で、 両脇に回廊が連なり、拝殿の斎庭を囲んでいる。  もとは鐘楼門で、上層に梵鐘を吊るしていたというものである。 」

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芭蕉句碑
池と歌碑
社殿が現れた
石上神宮の楼門


門をくぐると正面にあるのが入母屋造、檜皮葺、向拝付きの建物の拝殿である (左下写真)

「  平安中期の永保元年(1081)に、白河天皇が鎮魂祭のために宮中の神嘉殿を移したといわれ、 鎌倉時代に改修を受けているが、現存する拝殿としては、全国で最古の建造物である。  この奥にある本殿は、石の瑞垣を巡らせた禁足地にあるが、 大正二年に拝殿奥の禁足地に造営されるまでは本殿はなく、禁足地が礼拝の対象だったのである。 神倉は拝殿の西側にあったのだが、本殿完成時に禁足地に移転している。 」

楼門前の石段を上がった左側にあるのは出雲建雄神社である (左中写真)

説明板には 「 摂社 出雲建雄神社 式内社 祭神出雲建雄神 」 とある。
由緒書: 「  出雲建雄神草薙神剣御霊座 今千三百余年前 天武天皇朱烏元年 布留川上日谷 瑞雲立上中神剣光放現  
「今此地天降諸氏人守宣給即鎮座給」     」 
( 出雲建雄神は草薙の神剣に坐し、今を去ること1300年前、天武天皇朱鳥元年(686)、 布留川の上日谷に瑞雲が立上る中、
神剣が光を放って現れ、  「今此の地に天降り諸の人を守らん」と宣言し、直ちに鎮座された )

参道にある拝殿は、以前は内山永久寺の鎮守社、住吉神社(四所明神)の拝殿だったが、廃寺後の大正三年(1914)に移建され、出雲建雄神社の拝殿になった (右中写真)

「  鎌倉時代の建築で、桁行五間、梁間一間の切妻造、唐破風造で、屋根は檜皮葺になっている。  中央に馬道(めどう)と呼ばれる通路を開く割拝殿(わりはいでん)形式になっていて、 この形式では最古ということから国宝に指定されている。 」

石上神宮の回廊に南北朝時代の鎧櫃が保管されていた (右下写真)
応安二年(1369)のもので、マツ材、覆蓋造りで、大型の鉄錠前を備えていた。 

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石上神宮の拝殿
出雲建雄神社
出雲建雄神社拝殿
南北朝時代の鎧櫃


「石上神宮の生い立ち」
「 主祭神の布都御魂神は、神代に武甕雷神が帯びていた霊剣で、 記紀によれば、「 神武天皇御東征の時に天降られ、邪神を破り、国々を平定された威徳により、 物部氏の遠祖、宇摩志麻治命をして、宮中に奉斎された。  のち崇神天皇七年、物部の伊香色雄命が大臣の職にあった時、詔により石上の高庭の地に祀られ、 石上大神と称えたのが、石上神宮の創めである。  物部氏が累代奉仕の任務につき、素盞鳴尊が八岐大蛇を退治された天羽斬剣も祀られ、 我が国の霊剣は草薙剣を除き当宮に祀られることになった。 」 とあり、 奈良時代には物部氏が軍事を司り、武器は石上神宮の武器庫に集められていたことが窺い知れる。 」

神鶏として放し飼いの鶏がいたが、人に慣れているのか、近づいても逃げようとしない (左下写真)
境内は広く、歌碑などもあったが、その中に
 「 石上 布留の神杉 神びにし われやさらさら 恋に逢ひにける 」 
  (石上の布留の神杉ではないが、年古りて老いてしまった私なのに、今さらに恋をしてしまったよ。) 
「 未通女等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは 」 

という万葉の歌碑もあった。 
常夜燈に 「 布留社 」 というのもあった (左中写真)
石上神宮は、「岩上大明神」と呼ばれた時代があったが、地名から「布留社」とか「布留大明神」とも呼ばれた。 
布留の地名の由来だが、  「 昔 石上を流れる川で女が布を洗っていた。  そのとき川上から剣が流れてきて その布に留まったことからその剣を祀り 布留の社とした。 」  という伝承による。 布留が布都に変わっていったのだろう。 
神社の中に三十分程いて、十四時十五分入口に向かう。 振り返ると常夜燈が見えた (右中写真)
旅行申し込みの時は、石上神宮入口付近の県道の桜が満開の予想だったが、 今年は例年より春の訪れが遅く、つぼみはまだ固かったのが、ただ一つの心残り。 
全員が戻るのが少し遅れたが、十四時四十五分帰途についた。 
これで、前回と合わせて、大神神社から石上神宮までの「山の辺の道」を歩いたことになる。
令和3年(2021)4月14日、創業43年の彩華ラーメン本店に行った。  炒めた白菜がたっぷり入り、ニンニクのパンチが効いた天理ラーメンの元祖といわれる店で、 念願の味に満足した (右下写真)

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神鶏
布留社と刻まれた常夜燈
石上神宮常夜燈
彩華ラーメン本店


旅をした日     平成23年(2011)3月31日




(ご参考) 司馬遼太郎 「 街道をゆく 一 布留の里 」 

司馬遼太郎は西名阪自動車道の天理で高速道路を降り、そのあと南にとり、 東の枝道に入った。 
山の辺の丘陵地帯が起伏し、右手のやや高い台上にある森が布留の森である。 
司馬遼太郎は、布留の森ついて、次のように綴り、感動している。 

「 布留はこのあたりの古い地名である。  古代人にとって、神霊の宿るかのような景色だったのであろう。 
神にかかる枕ことばの 「ちはやふる」 のふるがそうであり、 神霊が山谷にいきいき息づいておそろしくもあるという感じが振るという言葉にあるようにおもわれる。 
この森の杉は、 「布留の神杉」 と呼ばれていたらしい。  柿本人麻呂の 「石上布留の神杉神びにし吾やさらさら恋に遭ひにける」 という歌が、この森の気分をあらわしている。 
「新撰姓氏録」の地名のあらわしかたによると、 「石上(いそのかみ) 御布留(みふる)村 高庭(たかば)之地」 という。 
森へ入っていく道がわずかにのぼりになっている気味があり、なるほど森は高庭というようにやや高台になっているらしいが、 さらに厳密にいえば、「高庭」は森のもっとも奧にある特定の一角をさす。 
布留の石上の森に入り、この森には、  測りしれぬ古代からつづいている大和の息吹がなお息づいているといった感じなのである。  つまり、大和の土霊の鎮魂(たまふり)の 「振る」 なる作用がなおもこの石上の森には生きつづけてるように思える。 」 

小生が訪れたのは最近のことだが、遼太郎が訪れた四十年近い昔のことなので、森は今より深かったのだろう。 
この後、この森と信仰の関係に触れられている。 

「  この森は、崇神(すじん)王朝という大和勢力の隆盛期に、王家が直接まつる社(やしろ)にされたというが、 むろんそれ以前の、はるかな昔から神霊のふる森として畏れられていたのであろう。 
そのころには、沖縄の古信仰がそうであるように社殿も拝殿もなく、森そのものが神の庭であった。 
白河天皇が寄進した拝殿の奥に高庭があるが、遼太郎は
  「 いわいる 「いそのかみのふるのたかにわ」 で、 この高庭こそ古代人が神がやどる場所として畏敬していた場所であり、 白河帝がつくった拝殿は余計なものながら、 しかし、高庭をおがむための施設としてつつましやかな役割をわすれてはいない。  その証拠に白河帝から八百数十年のあいだ、この森にあっては拝殿のみが存在し、本殿はなかった。 
本殿はあくまでも、「地面」でありつづけたのだが、明治後、 国家神道という、神道が変形して英雄的自己肥大したものが出現し、 そういう官僚神道が、大正二年、拝殿とかさねて流造の本殿をつくりあげてしまった。  (中略)  この石上の神のより代はあくまでも森の中の高庭だけであるものの、 しかし半面、持たされている社格が非常に高く、 伊勢神宮にせまるほどの存在であったために、 役人が国家予算を組んでとくに造営したものであるらしい。 」 

と記し、この後、ひろさが二百四十三坪の高庭の掘削について触れている。 

「 明治七年、ときの宮司が、教務省に申請してゆるしをうけ、 奈良県知事の立会いのもとに掘ってみた。  古記録では、崇神天皇の七年、帝は物部氏の祖である伊香色雄命(いかがしこおのこのみこと)という部将に命じて石上の地に剣をまつらしめた。   (中略)  その剣というのは、伝説の神武帝が日向から大和を東征するときに使った剣とされるもので、  「布都御魂大神」 という名がついていた。  伊香色雄命はそれをこの石上の高庭にうずめたという。  鍬を入れると、はたしてその剣が出てきた。 
神職たちは大いに畏れ、 「これこそ布都御魂大神に相違ない」 として、 神体として奉斉してしまったから、いまはその剣が鉄なのか銅なのか、 どのような形をしていたかなどということは、障りがあるとして秘せられている。 
ほかに、銅鏡が二面、銅鏡らしきもの二面、銅製の鏃が二本、硬玉の勾玉十一個、 さらに碧玉の菅玉がざくざく出てきて、かぞえると二百九十三個あった。  いずれもいまは文化財に指定され、この神宮の宝物になっている。 」 

この章の最後に崇神天皇について触れている。 

「  崇神天皇は二世紀から三世紀にかけて存在したこの大和の王で、 その王朝の首都が三輪山のふもとの三輪の地にあったことでほぼ確かであると推定している。  この崇神天皇が、石上に兵器庫をたて、各豪族から兵器をさし出させて収納した。  百済王からも七枝刀も送られてきたが、平安時代の桓武帝のときにこれらを京に運んだが、 そのとき十四万七千の人夫を要したという。 
崇神という古代三輪王朝のときに、この森が宗教的権威であったほかに、 兵器庫であったということもおもしろい。  ここに大和中の戦争道具を集めて物部氏という軍隊に守らせておけば、 諸豪族の反乱をふせぐことができただろう。 」

と結論付けている。 
この石上と三輪を結ぶ道が山の辺の道だが、司馬遼太郎は歩かずに車で大神神社へ向かっている。 

司馬遼太郎は「街道をゆく」で各地に行っているが、 移動はすべてタクシーで、歩くことは苦手だったようである。 




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かうんたぁ。