「 山の辺の道ハイク @ 柳本〜大神神社大鳥居 (続き) 」


貴方はかうんたぁ。目のゲストです!!


平成二十二年三月二十二日(秋分の日)、当日の計画の半分の柳本バス停から長岳寺まで歩き終えた。
天理市トレイルセンターは、市内で出土した土器などを展示していて、無料休憩所になっている。
見学し、一服したいところだが、後半の見所が多いので、センターには寄らないで進む。 



◎ 長岳寺 から 相撲神社 
天理市トレイルセンター 天理市トレイルセンターは市内で出土した土器などを展示していて、無料休憩所にもなっているが、 時間のゆとりがないので、センターには寄らないで進む (右写真)
トレイルセンターの外周を左にぐるーと回るように進むと、前方に森のようなものが見えてきた。 
トレイルセンターの駐車場近くの三叉路に道標があり、 「崇神天皇陵0.3km、 景行天皇陵1.7km、
大神神社5.8km」 とある。 
崇神天皇陵 道標の通り歩くと、右側の公民館の前に「天満宮」と書かれた常夜燈が建っていた。 
その先で右折して細い道に入ると、前方には鬱蒼とした森と、 その手前に堤のようなものが見えてきた。 堤道へ上ると、目の前に、 濠があった。 
これは崇神天皇陵(すじんてんのうりょう)である(右写真)
「 崇神天皇陵は、「山辺道勾岡上陵」 と呼ばれる、 全長240mの前方後円墳である。 
大和王朝を確立したといわれる崇神天皇の墓というが、古墳時代前期に築かれた、と思われる。
濠は江戸時代末期に整備されて、当初の形式とは変わっている。 」

櫛山古墳 右方に歩いて行くと、「宮内庁」の看板や遥拝所があるところに出られるが、 そのまま左折して濠を見ながら歩くと、途中に濠はなくなり、歩道も一段下がって、柵に沿って続いていた。 
道の左側には 「歴史的風土特別保存地区」 の石碑と案内板があった。  道が右にカーブすると、左側に二つの濠がある。   その間に挟まれているのが、櫛山古墳である (右写真)
案内板によると、  「 櫛山古墳は、全長160m の 双方中円墳 という、変わった形の古墳である。 
崇神天皇陵 古墳時代前期(四世紀)後半の築造で、三角縁神獣鏡を多数出土した、黒塚古墳とともに、 柳本古墳群を代表する古墳である。 」
 とあり、 双方中円墳は、全国でも僅かということだった。 
崇神天皇陵と接して建てられているので、崇神天皇と関係のある人の墓なのだろう。 
それにしても、崇神天皇陵は大きく、右手に続いていた (右写真)
この後、田畑が展開するところを歩いていく。  道の脇には、歌碑が建っていた。 
柳本町 「大和の集落」 という看板があり、  「 集落は奈良時代の条里制にもとづいて配置されてきた。 
この山辺の道沿いの古い集落も条里制に対応しています。 」
 とあった。 
右手に家が続いていて、その先、遠方には山並みが見えたが、どこの山だろうか? (右写真)
看板があるところには民家はなかったが、少し歩くと民家があり、 民家の間を抜けると、三叉路に出た。 
左折して行くと<「卑弥呼庵」という旧家の座敷を開放した喫茶店がある。  景行天皇陵へは右折する。 
景行天皇陵ろ号陪塚 この道は車が通れる舗装道路である。 しかし、すぐに左折して未舗装の道に入っていく。 
田舎道を歩いていくと、渋谷公民館があり、それを過ぎると左側の少し小高いところに、
 「景行天皇陵ろ号陪塚」 の看板が建っている (右写真)
「 陪塚とは、埋葬された首長の親族・臣下を埋葬したものである。 」  
景行天皇(けいこうてんのう)は、古事記や日本書紀に記される、第十二代の天皇で、
景行天皇陵 日本武尊(やまとたけるのみこと)の父である。  古事記によれば、「 景行天皇は奥方と子供が多く、記録に残る男子は二十一王、 記録に残らない男子は五十九王、 あわせて八十王。 」 とあるが、 それ以外は、熊襲征伐の記述がある程度で、 その存在は疑問という説もある。 
それはともかく、その先の右手にあるのが、景行天皇陵である (右写真)
「 景行天皇陵は、全長300mという壮大な古墳で、 周囲に1kmの濠が巡らされている。 
売店 ここは、日本武尊の父である景行天皇の墳墓 ・ 山辺道上陵 とされている。 」

その先の道標には、「桜井・桧原神社2.5km」 とあり、その上の方には売店があり、 あまさけなどを売っているようだった (右写真)
時計を見ると十三時二十九分で、帰りのバスの出発時間まで一時間半しかない。   桧原神社からバス駐車場までどのくらいの距離か分からないが、 ペースをあげないといけないなあと思った。 
その先の角、「額田女王歌」 と書かれた石碑のところを左折する。 
のどかな道 旅行社から受け取った地図に、 「 この辺りはのどかな道でおすすめの場所 」 と書かれているところである。  里山の良さが実感できるところで、のんびりと春の道を歩いていきたいが、 時間の制約があってはそういう訳にはいかない。  その先は右折して進んだ (右写真)
そこから五分程歩くと、「桜井・桧原神社1.9km」 の道標が出てきたが、 ここを左折すると三叉路である。  この道は舗装された車道で、右折して進むと、巻向駅にいけるが、山の辺の道は左折である。
穴師集落   ここは山の辺の道ハイクで一番賑わっていたところで、右側の陶芸品の店や無人販売所にはおばん達が群がっていたが、それを無視しながら進んだ (右写真)
なお、この道にはかわいい巫女をイラストにした 「歴史街道 山の辺の道 桜井市 」 のタイルが 埋められていた。  その先の交叉点で山の辺の道は右折するのだが、その先の巻向山の麓に、兵主神社があるので、 立ち寄ることにし、そのまま直進した。  すると、交叉点を過ぎた先、
右側に 「景行天皇纏向日代宮跡(まきむくひろみやあと)」 の大きな石柱と、左側には
景行天皇纏向日代宮跡碑 穴師坐兵主神社が建てた案内板、 その脇には常夜燈と小さな祠がある (右写真)
案内板には、「 紀元730年第十二代景行天皇・大足彦忍代別命 (おおたらしひこをしろわけ)が
即位後、この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。 ・・・  」
 と、あった。 
さらに進むと、道の左側に、「 古代の都市のようす (纏向遺跡) 初期ヤマト王朝発祥地)」 という、桜井市が建てた案内板がある。 
案内板左手から下にかけて、古代の都市国家があったと推定し、その想像図が描かれていた (右写真)
「 纒向遺跡は、巻向小学校の上にある纒向勝山古墳やその下にある矢塚古墳と 石塚古墳は早くから知られていたが、 その後の調査により、この一帯は三世紀の国内最大級の集落があり、 また、邪馬台国畿内説の最有力候補地とされるようになった。 発掘された土器などから、 祭祀を中心とした建物群ではともいわれ、初期ヤマト王権発祥の地といえる、と地元では見ているようで
兵主神社 ある。 発掘された陶器は関東、東海、四国、九州の各地からの もので、全国から人が集められていた、と推測され、発掘は今も続いている。 」

さらに進むと、鳥居があり、兵主神社の領域に入った。 
少しうす暗い林の中を歩いて上って行くと、奥まったところに兵主神社はあった (右写真)
「 兵主神社は、右側の若御魂神社、中央の兵主神社、そして、 左側の大兵主神社の三つの社殿で構成された神社である。  これらの三つの神社は創建時には別々のところにあった。 
兵主神社 若御魂神社は延喜式神名帳には式内大社となっている神社で、中央の兵主神社は、今より二千年
前の崇神天皇六年の創建と伝えられ、穴師坐兵主神社(あなしにますひょうずじんじゃ)として、名神大社に列せられている。  また、大兵主神社は穴師大兵主神社として、延喜式神名帳に式内小社となっているが、 これらの三つの神社は、応仁の乱の室町時代に、合祀されたといわれる。 」

現・兵主神社は。穴師大兵主神社のあった場所に建っている (右写真)
先程の纏向日代宮の伝承といい、神社の歴史が古いのには驚いた。 
相撲神社 神社から引き返す途中に三叉路があり、左側の道に入るとすぐの右側に小さな社殿があるので、
入っていくと、 傍らの看板に「国技発祥の地 天覧角力開祖 相撲神社」とあった (右写真)
「 今を去る二千年前、垂仁天皇七年に大兵主神社の境内のかたやけしに於いて、 野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(けはや)による天覧相撲が行われたのがこの神社の場所。 」 とあった。 
日本書紀には、「 蹴速を打ち負かした後、蹴速の当地が与えられ、 この地にとどまり、大和王朝に仕えた。 」 とある。 

参考までに、日本書紀の記述を下記する。 

『 七年の秋七月の己巳の朔乙亥に、左右奏して言さく、「 当麻邑に勇み悍き士有り。 当摩蹴速と曰ふ。  其の為人、力強くして能く角を毀き鉤を申ぶ。 恆に衆中に語りて曰はく、『 四方に求めむに、豈我が力に比ぶ 者有らむや。 何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に争力せむ 』 といふ 」とまうす。 天皇聞しめ して、群卿に詔して曰はく、 「 朕聞けり、当摩蹴速は、天下の力士なりと。 若し此に比ぶ人有らむや 」 との たまふ。 一の臣進みて言さく、 「臣聞る、出雲国に勇士有り。 野見宿禰と曰ふ。 試に是の人を召して、蹴速に 当せむと欲ふ 」 とまうす。 即日に、倭直の祖長尾市を遣して、野見宿禰を喚す。 是に、野見宿禰、出雲より 至れり。 則ち当麻蹴速と野見宿祢と角力らしむ。 二人相対ひて立つ。 各足を挙げて相蹴む。 則ち当摩蹴速が 脇骨を蹴み折く。 亦其の腰を蹈み折きて殺しつ。 故、当摩蹴速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。 是以其の 邑に腰折田有る縁なり。 野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。 』
  


◎ 相撲神社から大神神社大鳥居 
穴師 相撲神社の左側の道を進むと、山の辺の道に出たので、左折して進むと、その先で下り坂である。  下には民家が数軒、その先には田畑が広がっているのが見えた (右写真)
坂道を下って、道なりに歩くと、左側に小さな社、 その先には「山辺道」と書かれた石柱が建っていた。  また、 「 ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高くもあらしかも疾き 実篤 」 という石碑があった。 これは、万葉集の柿本人麻呂の歌を武者小路実篤が揮ごうしたものである。 
箸中集落 民家の間を抜けると、二車線の県道50号に出たので、左折して山に向かって歩く。 
両脇には民家があるが、この辺りは箸中集落である (右写真)
このあたりには古そうな家がある。  右側に常夜燈もあり、二つの祠には石仏が祀られていた。  道脇には、「 巻向の山辺とよみて  行く水のみなわのごとし  世の人われは 」 という、柿本人麻呂の歌が刻まれた歌碑などがあり、 赤いボケが満開できれいである。 
時計を見ると十四時七分。 残りは五十分程なので、大変あわてた。 
三気大神神社 こんな悠長にしている場合ではないと、ここからは前にいる人を追い越しながら進む。 
巻向川を越えると、三輪山の麓になるが、ここで県道と別れて、山裾の道を右に進んでいく。 
「 大和は国のまほろば 」と、ある案内板を通り過ぎると、 右側の塀に囲まれたところに、 「三気大神神社」 の看板がある (右写真)
道から離れて、右手の狭い道を行くと、右側に、中を覗くようなところはあったが、三気大神神社
案内板 とは何か分からないまま終わった。  更に進むと、「大神神社摂社 桧原神社」 と 「皇大神宮聖蹟倭笠縫邑」  の看板がある、 神社の境内に出る。
「(元伊勢)桧原神社と豊鍬入姫宮の御由来 」 と、書かれた案内板が建っている (右写真)
「  桧原神社は天照大神を、末社の豊鍬入姫宮は崇神天皇の皇女、 豊鍬入姫宮を祀っている。  第十代の崇神天皇の御代までは、皇祖天照大御神は宮中にてお祀りされていたが、
崇神天皇の六年に、皇女・ 豊鍬入姫宮(初代斎王)の手に託され宮中を離れ、
桧原神社 この倭笠縫邑(やまどのかさぬいむら)に於いて、磯城神籬(しきひもろぎ)を立てて、 お祀りされることになった。  その後、天照大神が伊勢へ御還幸されたが、引き続きお祀りしてきたことから、 この地を元伊勢と呼んでいる。 」  
と、あった。  石段を上ると桧原神社で、 松の下には、赤く塗られた柵と、結界を示すしめ縄で囲まれた遥拝所、 その先には三ッ鳥居がある (右写真)
桧原神社には神殿も拝殿もなく、三輪鳥居といわれる独特の鳥居が立つのみで、
豊鍬入姫宮 御神体は、かっては三輪山だったが、現在は山中の磐座である。   三ッ鳥居の左側にある社殿は、昭和六十一年に鎮座した、豊鍬入姫宮 (とよすきいりひめのみや) である (右写真)
中山道や伊勢街道で、 天照大神が、 伊勢へ御還幸されまでの 倭姫命(豊鍬入姫宮) の痕跡を 確認しながら歩いたので、 元伊勢の地を訪れることができたのはうれしかった。 
鳥居をくぐって直進すると、卑弥呼の墓ではといわれる箸墓古墳へ通じる。 
玄賓庵 山の辺の道は、左折して進む。 右側に石塔と石仏群があるが、その先左側に、
玄賓庵(げんびんあん)がある (右写真)
「  玄賓庵は、平安時代初期に興福寺の高僧・玄びん僧都が隠れ住んでいた所といわれる。  かつては山岳仏教の寺として、三輪山の檜原谷にあったが、 明治初年の神仏分離により、 現在地に移された。  堂内に、木造不動明王坐像や玄賓僧都を祀っている。 世阿弥の謡曲・三輪の舞台としても、 有名である。 」
玄賓庵から、山の辺の道を南へ向うと、左側の山手に、赤い鳥居が見えるが、参道の向こうには、
狭井神社の鳥居 岩坪池とその奥に上池があり、三輪山を背景にして、八大竜王弁財天が祀られているが、時間はないのでパス。  更に二百メートル進むと、「歴史街道 桜井市茅原です 」 と、書かれた道標があり、 「狭井神社0.3km」 とあった。  また、神武天皇聖蹟の表示もあった。 その先の小さな川に、「狭井川」 の表示があり、左側に、「狭井神社」 の石標が見えてきた (右写真)
なお、写真の赤い鳥居は参道左側の池の中に祀られているのは市杵嶋姫神社のものである。 
狭井神社 狭井神社は、大神神社の摂社で、大神荒魂大神(おおみわのあらみたまおおかみ)を祀っている。
創建の時期は定かではなく、中世以降社殿が荒廃し、 廃絶寸前だったのを復興させたといわれる。 
狭井神社の拝殿は池の脇の道を進んだ奥の方にある (右写真)
拝殿の奥には、「狭井の御神水」 と呼ばれる、薬井の霊水があり、万病にきくと参拝者が絶えない。 
この先の三叉路を右折して南に向かうと、右手の奥に久延彦(くえひこ)神社がある。 
神社のパンフレットには、 「  祭神の久延毘古命(くえびこのみこと)は、古事記に
若宮社 「 足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に 知れる神  」 とある、 知恵に優れた神で、 山田の曽富騰(そほど)と申し、 いわゆる山田の案山子である。 」 と、あった。 
更に南へ行くと、左に石段の上に、若宮社がある (右写真)
「 大神神社の祭神 ・ 大物主命の子孫の大直禰子命(おおたたねこのみこと)が祀られているので、大直禰子神社という。  若宮は奈良時代神仏習合し、大神寺、のちに、大御輪寺となったが、明治の廃仏希釈で廃寺となり、 鎌倉時代の再建とされる入母屋造の本堂(国重文指定)
大神神社二の鳥居 が本殿となって残った。 本尊の十一面観音像(国宝)は聖林寺に移されて安置されている。 」

そのまま進むと、大神神社の二の鳥居の前に出る (右写真)
「 大神神社は、正一位に任じられた大和国一の宮で、 三輪山を御神体とする、古代信仰を伝える神社である。 延喜式神名帳では、名神大社に列し、二十二社の一つで、 江戸時代には三輪明神とも呼ばれた。 」
鳥居をくぐり、神橋を渡り、神の木々といわれる、杉の林を抜けると、石段があり、
大神神社拝殿 石段を上ると、豪壮な拝殿が建っている (右写真)
大神神社には、本殿(神殿)がなく、拝殿の奥に、、「三輪鳥居」 と呼ばれる、三ッ鳥居があり、 鳥居越しに、ご神体の三輪山を拝する、形式を採っている。 
拝殿の前で、手を合わせ、祈祷し、あわてて、バスのあるところに向かう。
参道の出店の中をくぐって進むと、車道に出たが、三連休の最終日とあって、車が渋滞している。
大鳥居 JR桜井線の踏切を越えると、左手に三輪恵比須神社がある。 
その先の三叉路を左にとると、一の鳥居があり、その先には、「おんばら祭」で有名な綱越神社がある。  直進すると、車道の正面に大鳥居がある (右写真)
「 大鳥居とあるだけに大きく、高さ三十二メートル、柱間二十三メートルもあって、近くからはカメラに収まらなかった。 」
旅行社のバスはこの下の駐車場にいた。 時計を見ると、十四時五十一分で、かろうじてセーフと
駐車場 思った。  ところが、時間にここまで来られないという乗客から連絡が入り、 三十分以上待たされることになった。  駐車場の隣の白玉屋栄寿に、名物のみむろ最中を買いにいったが、あいにく休業だったので、 トイレだげで車に戻り、ひたすら待った (右写真)
三十分の時間があれば、山の辺の道を更に進み、金屋石仏を見て、この道の起点である、 海石榴市(つばいち)までいけたのにと思った。  当日は、高速道路も大渋滞で、帰宅したのは予定より二時間以上も遅くなったが、満足の旅だった。 

旅をした日     平成二十二年(2010)三月二十二日(秋分の日)


◎ 訪問地と行程

(前半)   柳本バス停 → 大和神社 → (山の辺の道へ入る) → 西山古墳 → 衾田陵(西殿塚古墳) → 
       燈籠山古墳  → 念仏寺 → 中山大塚古墳 → 長岳寺 

(後半)   長岳寺 → 崇神天皇陵 → 景行天皇陵 → 纏向日代宮跡  → 兵主神社  → 相撲神社→ 
       檜原神社・豊鍬入る姫宮 → 玄賓庵 → 狭井神社 → 久延彦神社→ 若宮社  → 
       大神神社二の鳥居 → 同 拝殿 →  同 一の鳥居 → 同 大鳥居 → バス駐車場



続き 山の辺の道A  長岳寺 から石上神宮