「 山の辺の道ハイク A  長岳寺 から 石上神宮 」


貴方はかうんたぁ。目のゲストです!!



平成二十三年三月三十一日(木)、旅行社が企画した、 山の辺の道のフリーハイクに参加した。 
東日本大震災が起きたので、どうしようかと思ったが、起きて二十日も過ぎて落ち着いてきたので、 参加することにしたのである。 
前回参加して一年が経過していたが、今回はその残りの天理トレイルセンターから石上神宮なので、これで完結となる。 



朝の出発時間は遅かったが途中すいていたので、天理トレイルセンターには十時四十五分に到着した。 
時間に余裕がありそうなので、長岳寺へ再び訪問した。 

◎ 長岳寺から御座所坐神社 
大門前の根上り松は地面より三メートルも立ち上がった根が複雑に絡み合いながら、 古木を支えているが、根元に室町時代の作と伝えられる石仏が祀られていた (左下写真)

「 長岳寺は釜口山の山麓にあることから、  「 釜口のお大師さん 」 と呼ばれている。 
長岳寺は真言宗のお寺で、天長元年(824)、淳和天皇の勅願により、弘法大師が大和神社の神宮寺として創建された古刹で、 最盛期には四十二の堂宇を数えたが、戦国時代の兵火と明治の廃仏希釈で荒廃してしまった。 」

大門を入り、平戸つづじの生け垣を進むと、白塀の中に建物が見えてきた (左中写真)
この建物は旧地蔵院持仏堂で、 その隣の 旧地蔵院(庫裏) と共に、 国の重要文化材に指定されている。 

説明板「旧地蔵院」
「 旧地蔵院(庫裏)は、長岳寺の塔頭(子院)の内、唯一残った塔頭で、江戸時代初期の寛永七年(1630)に再建されたものである。  内部は書院造りになっており、屋根は杉皮を用いた大和葺きであるが、 玄関及び持仏堂は檜皮葺きである。 
持仏堂は延命堂ともいわれ、二間四面の小堂であるが、桃山風で美しい。  本尊は普賢延命菩薩である。       」 

拝観料三百円を払った先の左側にあるのが、上記の 旧地蔵院 と 持仏堂 で、 その先にあるのは、楼門と鐘楼を兼ねた鐘楼門である (右中写真)

「 鐘楼門は、平安時代の作で、日本最古のものとされ、国の重要文化財に指定されている。 
また、弘法大師が長岳寺を創建した当時の唯一残る建物でもある。 」

楼門をくぐると、右側に放生池があり、右手に石段と鐘堂があったが、 池の周りは写生をするグループが陣取っていた。 
池越しに見えるのは本堂で、 右側に練塔、 左手に桜と楓の木がある (右下写真)
楼門と桜と取り合わせは写真の恰好の被写体だが、桜 のつぼみは固いままではしょうがない。 
左側の本堂は、 天明三年(1763)に再建されたもので、 本尊の阿弥陀三尊や多聞天・増長天等が祀られている。 

「 阿弥陀三尊は、仁平元年(1151)の作で、 中尊の阿弥陀如来が観世音菩薩と勢至菩薩を従えている。 
阿弥陀如来は、平安時代末に起こった末法思想に基づく、阿弥陀信仰による仏で、 観世音菩薩は、阿弥陀如来の慈悲の分身、勢至菩薩は知恵の分身である。 
阿弥陀三尊像は玉眼を使用した仏像としては日本最古。  多聞天と増長天は藤原時代のもので、八百年を経た今日でも色彩がよく残っている。 」

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室町時代の石仏
旧地蔵院持仏堂
長岳寺 鐘楼門
長岳寺 本堂

石段の左側に地蔵石仏がある。 石段を上ると、正保二年(1645)建立の 大師堂 があり、 当寺信仰の中心である、弘法大師像と、藤原時代の 不動明王 を奉祀している (左下写真)
その奥の険しい石段を上っていくと、大石棺仏があるが、 前回行っているので、御参りはこれで終了した。 
いよいよ山の辺の道を歩き始める。 
山の辺の道は、案内板が完備しているので、迷うことはない。 
畑の道を歩くと、すぐに民家があるところに出たが、すぐに終わり、 坂を下りると田園が拡がっているところに出た。 
長岳寺から約十分で、万葉の歌人・ 柿本人麻呂の歌碑があるところに着いた (左中写真)
歌碑は、田圃の中に、竜王山を背景にしてが建っている。
  「 衾道(ふすまじ)を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりとも無し 」
この歌は、柿本人麻呂が、妻を亡くした際に詠んだ歌である。
引手の山は、この歌碑の東にある竜王山で、人麻呂は妻を火葬にして、 この山並みのどこかに葬ったといわれる。 

ここには休憩できる場所もあるが、出発したばかりなので、そのまま進むと、 こんもりと樹木の茂った丘が、行く手を塞いでいる。 
山の辺の道は、この丘の裾を廻るように左にカーブ、続いて右にカーブし、上っていく。
左側の公衆トイレの下に、石仏群が祀られていた (右中写真)
頂上の左側に、中山公民館とお堂があり、 その先には 「 最古の御社 大和神社御旅所 」 の標柱が建っている。
じつは、この丘全体が、 中山大塚古墳 なのである。 

説明板「中山大塚古墳」
「 古墳時代初頭の築造で、大和古墳群の南側に位置する前方後円墳。 
標高約90mの尾根上に、前方部を南西に向けて築かれており、 前方部付近には、大和神社のお旅所がおかれたために、削平を受けている。 
古墳の規模は全長約132m、後円部径約73m      (以下略)   」 

木立の中にある神社は、 大和神社御旅所 の 御座所坐神社 で、 大和稚宮神社とも呼ばれる (右下写真)

説明板「御座所坐神社」
「 この神社は、北西千メートルのところにある、大和神社の末社で、 大国魂大神の母 ・ 伊怒姫命と、八十矛戈大神が祀られている。 
もとは、中山大塚古墳の前方の小高い後円部にあったが、 明治維新の際に、この地に遷された。 
毎年四月一日に催される、大和神社例祭 ・ ちゃんちゃ祭りには、 長い渡御行列が大和神社とこの神社の間を行き来する。
その際、鉦鼓を 「 ちゃんちゃん 」 と打ち鳴らしながら進むことから、 「ちゃんちゃん祭」 と呼ばれ、大和の春は、ちゃんちゃん祭とともにやってくるといわれる。 」 

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大師堂
柿本人麻呂の歌碑
石仏群
御座所坐神社


◎ 御座所坐神社から石上神宮
その先、山裾を進むと、正面に念仏寺があるが、建物は新しい。 
角に東海自然歩道の道標があり、その下には石仏群があった (左下写真)
その先の墓地には、六地蔵を祀る祠があるが、その脇に「燈籠山古墳」 の説明板がある。 

説明板「燈籠山古墳」
「 燈籠山古墳は、 中山大塚古墳と同じ、丘陵上に位置する前方後円墳で、 この丘陵上に位置する古墳は前方分を南に向けているが、この古墳だけが西に向いている。 
この古墳は全長110m、後円部55m、高さ6.4m、前方部41m、高さ6.3mで、 古墳時代前期前半(4世紀前葉)。 
燈籠山古墳は、前方部は墓地になっていて、その奥の果樹園が後円部である。 」 

墓地に、 「行基大菩薩」 の石碑が建っていたので、念仏寺は行基の建立なのだろう (左中写真)
その先の右手には、継体天皇の妃 ・ 手白香皇女の墓 と伝わる、衾田陵や、西殿塚古墳があるが、 前回訪れているので、そのまま通過すると、左側に池があるところに出た。 
池の先に白いモクレンが咲いている大木があり、その隣には、下池山古墳がある。 
このあたりからは、民家が立ち並んでいるが、左側に五所神社の鳥居と社(やしろ)がある (右中写真)
右手の道をいくと衾田陵にでられるところだが、山の辺の道は民家の間を進んでいく。 
「大神宮」の常夜燈と、「猿田彦大神」 の石碑が建っている (右下写真)
道標に従って進むと、左側に池があり、山の辺の道の道標には、「竹之内環濠集落」 の表示があり、 池の畔には、「猿田彦大神」の石碑がある。 
池の向うの果樹園も古墳だが、そこを過ぎると見おぼえのある交叉点にでた。 
左側の車道は、大和神社方面からの道で、 前回のハイクでは大和神社からここにきて、 その後、これまで歩いた道を通り、 大神神社まで歩いたのだった。 
直進する道が山の辺の道なのだが、道路工事のため、直進はできない。 

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石仏群
行基大菩薩石碑
五所神社
大神宮常夜燈と猿田彦大神碑

交叉点をガードマンにより、右折させられて、その先左に入る道を案内に従って、 柿の木が植えられているところを歩く。
下には、大和の風景を見ることができた (左下写真)
しかし、この廻り道で、菅生環濠集落の先に出てしまっていた。 
その先右側に、「弓月庵」 という店があり、その先の左側の民家は、「みちふく」 という名で、 おでんを出していた。 
そこを過ぎると右側に、「山の辺の道」 の案内板があり、 その奥に休憩できる場所がある (左中写真)
ここは、竹之内環濠集落の入口のようだが、皆が休憩しているので、 椅子に座って買ってきたおにぎりと稲荷すしを食べた。 

時計を見ると、十二時十分だったが、十五分程、休憩の後、出発する。 
すぐに石垣に囲まれたところに出た。 
道の左側は、菜の花が咲いていて、道の両脇には白い水仙が群生していた。 まさに春と思った。 
その先の道から左側に集落が展開していて、そのまま進むと、公衆便所のある休憩所に出た。 
その先には濠があり、その先の白壁の蔵の脇まで水があった。
この右側に広がっている集落が、竹之内環濠集落である (右中写真)

説明板「環濠集落」
「 天理市には、備前町・南六条町・庵治町などで、環濠の跡を留めているが、 標高百メートルの山麓に立地するのは県下では少ない。 」
「 環濠集落は聞きなれない言葉であるが、集落の周辺に深い濠をめぐらして、 外敵から里を守るようにした集落のことで、 動乱の続く室町時代の頃、 農民たちが野武士の襲来に対抗し、自衛のために集落の周りに濠を築いたものである。 
環濠は、戦国時代には空濠だったが、現在は灌漑用に水が入れられていた。 」  

集落の中を一回りしたが、道が複雑なのと、三連の蔵があるなど、建物は整備されていたが、 昔の雰囲気は残っていた。 
山の辺の道の道標に従い、右手に、竹之内環濠集落を見て、 左手には、信貴山系の山々が、かすんでみえる。 
下の県道51号までは田畑で、野辺にはたんぽぽが咲いていた。 
少し歩くと、左右に曲がるが、左側の数軒の家の中に、 「せんぎりや」 の看板があった (右下写真)
農家風の家だが、店頭をみると大根を干して、乾かしたものを売っていた。 
この集落は佐保庄町に入るのだろうか? 
この家以外にはその先に自動販売機があるだけで、店らしいものは一切ない。 

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大和の風景
山の辺の道案内板
白壁の塀の家
せんぎりやがある集落

道が突き当たった先に公民館があり、少し入ったところに、石仏群の祠があるお堂があった。 
細い格子と蚕を飼った時代を象徴する、この地方独特の屋根のある建物の前には、 ベンチが置かれて、若いカップルが休憩していた (左下写真)
山の辺の道は、その先で右折し、集落を抜けると、夜都岐神社の鳥居の前に出た (左中写真)
鳥居の前には 東畝の歌碑が建っている。
 「 山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木(をとぎ)の鳥居 朱(あけ)に立つ見ゆ 東畝 」   

「  東畝とは、日本画家の廣瀬東畝のことで、文展に六回入選している。 
彼は高知県高岡郡佐川村出身なので、当地との関係は分らない。 」

夜都岐神社の鳥居は、明治維新までは春日大社若宮の鳥居を下付されていた。 
乙木の朱の鳥居は、国道169号の乙木口に神社に向かって、「式内夜都岐神社」  の標柱とともにあるというが、そこまでは行かなかった。

鳥居の近くに、「夜都伎神社」の説明板がある。

説明板「夜都伎神社」
「 天理市乙木町の北方、 集落からやや離れた 宮山(たいこ山ともいう) に鎮座し、 俗に春日神社といい 春日の四神を祀る。 
乙木には、もと、夜都岐神社と春日神社の二社があったが 、 夜都岐神社の社地を竹之内の三間塚池と交換、 春日神社一社にし、 社名のみを変えたのが、 現在の夜都岐神社である。 
当社は、昔から奈良春日神社に縁故深く、 明治維新までは、 当社から、蓮の御供 と称する神饌を献供し、 春日から若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。 
現在の本殿は、明治39年(1906年)改築したもので 、 春日造檜皮葺、高欄浜床向拝付、彩色7種の華麗な同形の4社殿が、  末社の琴平神社と並列して、 美観を呈する。 
拝殿は萱葺で この地方では珍しい神社建築である。  鳥居は、嘉永元年(1848年)4月 奈良若宮から下げられたものという。 」

石段を上ると、夜都伎神社の常夜燈、 右側の拝殿前には、春日社の常夜燈があり、 常夜燈の名前の神社名が複数になっているのは、説明板にあった事情による。 
宮山は前方後円墳であり、夜都岐神社はその上にあることになる。 
拝殿は、今時珍しい萱葺の建物で、 拝殿扁額には 「 夜登岐神社 」 とあった (右中写真)
拝殿の奥には、朱の垣と、左側に朱色の鳥居があり、その中に社殿が見える (右下写真)

「 左端の社殿は天児屋根命、その右側が経津主命、 中央の大きな社殿が武甕槌神を祀る本殿である。 
五つの社殿は中央が一番大きく、左右に行くほど小振りとなっている。 
本殿右側の社殿は比賣大神、右端の小振りな社殿は境内社の琴平神社で、大物主命を祀っている。 
即ち、琴平神社を除く、四社殿が当社の本殿ということになる。 
また、朱の垣の左手に、さらに垣に囲まれて、 八坂神社(牛頭天王社)があり、 その西側に、鬼子母神の小祠が祀られている。  明治維新までは、六十一年毎に、春日大社若宮社殿と鳥居を下付されており、 現在の本殿は、明治三十九年に改築されたものである。 」

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細い格子の家
夜都岐神社の鳥居
夜都岐神社拝殿
夜都岐神社の社殿

境内では多くのハイカーが休憩を取っていたが、小生は休憩は取らず先に進んだ。 
山の辺の道は鳥居の先で右折し、田畑が広がっているコンクリートの道である。
しかし、左側の柿の木畑前のよだれかけした地蔵様が違和感を感じさせない。 
だれが生けたのか水仙の花がひかっていた (左下写真)
このあたりから上り坂となり、右に曲がる角には山の辺の道の道標があり、  「 石上神宮まで3km 」 とあった。 
この南西には東乗鞍古墳と西乗鞍古墳があるのだが、上ることに専念していたため、 その存在は確認していない。 
対向二車線の車道に出たので、右折して山に向かって、車が一台も走っていない道を上っていく。
三百メートルもいかないうちに左に入る道があり、そこに 「 皇紀二千六百年記念 道路開通碑 」 がある。 
地元では、この道路の開通が悲願だったのだろうと思いながら、 車道と別れて左に入る (左中写真)
その先の右側に二台駐車していて、 そこには 「 キンカン狩り 300円 」 の案内看板と、籠が置かれていた。 
道の反対に 「 天理観光農園 峠の茶屋 」 の看板を掲げた建物がある (右中写真)
今日歩いてきた途中に、柑橘系の果物を道傍に置いて、売っている無人販売所を多く見たが、 静岡や愛知などの産地品に比べると、小ぶりで色つやも今一つである。 
ここのきんかんも観光客にとって、どれほどの魅力になるものか?と思うが、 近畿というフィールドの中では観光資源として成り立つのだろうと思った。 
建物の中に入ったが、買うべき商品がなく、食事をとったばかりなので、のども渇いていなかった。 
ハイカーなどは奥でコーヒーなどを飲んでいたが、そのまま出てしまった。 
終わって気が付いたのだが、今日のコースで、店らしかったのはこの家だけだったので、 複数で歩き休憩を取るならば、観光農園しかないということになるだろう。 
ここから坂道は本格的な傾斜になった。 
そこを上っていくと、東海自然歩道の道標があり、 「 石上神宮・天理 」 の矢印に従い、更に上っていく (右下写真)

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地蔵尊
車道と別れて左に入る
天理観光農園 峠の茶屋
更に上っていく 
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時計を見ると、十三時二十分。 石上神宮駐車場の出発時間は十四時三十分なので、あと一時間と少しの時間しかないが、  峠がどの程度のものか分らないのは不安である。 
その先にも道標があり、それに沿って上ると、石畳の道があったので、上っていった (左下写真)
頂上には民家があり、その前を過ぎると、ピンクの はなもも と、白梅が咲いていた。 
ここに、戦国武将 ・ 十市遠忠のの歌碑が建っている。
 「 月まて 嶺こへけりと 聞くままに あわれよふかき はつかりの声 十市遠忠 」  (左中写真)

「  十市遠忠は、室町時代末期に、木沢長政や筒井氏と争い、 竜王山城によって、一大勢力を築いた人物で、墓は竜王山城の麓の長岳寺にある。  
彼は堂上派の和歌を学び、三条西実隆・公条に師事したという。 」 

木立の中を歩くと、下り坂に変わったので、どうやら峠は越えたようである。 
果樹が植えられているところを歩いていくと、道路工事中だった。 
右側に 「 山の辺の道 内山永久寺跡 」 の標柱があり、 石段を上ると休憩できる椅子が用意されていたが、下の景色に見る べきものはなかった。 
石段を下りて、道なりに進むと、「永久寺跡」 の説明板があり、 その脇に、当時の伽藍が描かれていた。 

説明板「永久寺跡」
「 永久年間(1173 〜7)に、建立された寺で、 鳥羽天皇の授戒の師である、亮恵上人の開基と伝えられています。 
本尊は阿弥陀如来で、石上神宮の神宮寺として、 盛時には大伽藍を誇っていた、と伝えられています。 
その後、寺勢が衰えて、明治の廃仏希釈で、廃寺となって、今ではわすかに池を残すだけで、 歴史のきびしい流れを感じさせられます。  かつては浄土式回遊庭園を中心に、本堂・灌頂堂・八角多宝塔、・三重塔など、 最盛期には五十以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、  江戸時代には九百七十一石の朱印地を与えられていた。 」

それにしても、それだけの寺が道の左側にある池だけというのは余りに寂しいと思った (右中写真)
周りの木陰を映して静まりかえる池のあたりが、  内山永久寺の本堂が建っていた所のようである。 
その先の右側には 「 後醍醐帝御立場 菅御所跡 」 と書かれた石碑が建っている (右下写真)

「 南朝の後醍醐天皇が、京都花山から吉野へ落ち延びる際、一時入寺して、「 萱の御所 」 とされた。
中世には興福寺の末寺となり、江戸時代には大和で、東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受けていたというが、それだけに京都の天皇家や公家の反発が強かったのかもしれない。  廃仏希釈により、建物は壊されたが、僧侶は石上神社の神官になったという。  寺宝は壊されたり、売られたりして、貴重な仏像がなくなったが、 東大寺の国宝、「持国天と多聞天像」 は、その昔、この寺が所有していた仏像であるといわれる。 」

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石畳の道
十市遠忠の歌碑
永久寺跡の池
菅御所跡碑


◎ 訪問地と行程

 トレイルセンター →  → (山の辺の道へ入る) → 柿本人麻呂歌碑 →  中山大塚古墳
  → 御座所座神社 → 中山大塚古墳 → 燈籠塚古墳 → 下池山古墳 → 五所神社 
 → 竹之内環濠集落 → せんぎりや→ 夜都伎神社 → 天理観光農園 → 久峠の茶屋
 → 十市遠忠歌碑  → 永久寺跡 → 管御所跡 → 芭蕉句碑 → 石上神宮



続き 山の辺の道A 長岳寺から石上神宮 (後半部) 石上神宮