今から千数百年前、三輪山の南麓を起点とし、
巻向山 ・ 龍王山 ・ 高峰山 ・ 城山 ・ 高円山の山裾をめぐって、 北を目指す道があった。
「山の辺の道」 と呼ばれる道である。
日本最古のこの道の付近は、 崇神天皇 ・ 垂仁天皇 ・ 景行天皇 の三代にわたる天皇が、
宮殿を置いた、 政治と経済の中心地であった。
貴方は目のゲストです!!
平成二十二年三月二十二日(秋分の日)、旅行社が企画した山の辺の道のフリーハイクに参加した。
名古屋駅前の出発時間が遅かったこともあり、
柳本バス停近くのコンビニ前で、バスを降りたのは、十一時半を過ぎていた。
◎ 柳本バス停から長岳寺まで
柳本バス停の左手に入ると、右手に四世紀前半の築造といわれる、
全長130mの前方後円墳の黒塚古墳がある。
平成十年に、卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡が三十三面も出土して、
話題になったことを記憶している。
黒塚古墳に寄らず、国道169号を北上すると、成願寺バス停があった (右写真)
事前に渡された地図には、長岳寺へ向かうコースが書かれていたが、大和神社へ向かった。
エッソGS前には、 大和神社は五十メートル先を左折する標識があった。
成願寺バス停の先の大和神社前交叉点を左折すると、 左手の耕作している農夫の先に
、フサギ塚古墳が見える。
フサギ塚古墳は、 全長110mの前方後方墳、 後方部1辺60m、高さ9m、前方部高さ3mである (右写真)
山の辺の道は、記紀にも登場する古い道である。
往時のルートは定かではないようだが、
奈良盆地の東南に位置する三輪山から東北部の春日山まで、盆地の東端を
山々の裾を縫うように通っている道というのが通説のようである。
道をそのまま進むと、正面に大和神社(おおやまとじんじゃ) の看板と、
鳥居・常夜燈がある三叉路に出た (右写真)
鳥居の左前に、「官幣大社」の石柱が建ち、右側に神社の由来書があった。
「 大和神社は大和一国の地主神である日本大国魂大神(やまとおおくにみたまのおおかみ)
と、八千戈大神(やちほこのおおかみ)、御年大神(にとしのおおかみ)が祭神である。
第十代崇神天皇六年に、皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)により、
当地に移されたのが当社の始まり。
奈良時代には、遣唐使の出発に際し、交通安全を祈願された。 」 とあった。
かなり長い参道を歩くと、二の鳥居の先の左側に、増御子神社(ますみこじんじゃ)があり、
天孫降臨の際に道案内をした猿田彦大神と、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が祀られていた (右写真)
案内板には、 「 文治三年(1187)には、源頼朝が大和神社に太刀を奉納した、
といわれる。
祭神名にちなんだ、やまとの呼び名は、この地から奈良県全体に広がり、大和国という名になり、
やがて、日本全体が倭(やまと) と呼ばれるようになった。
第二次世界大戦では戦艦大和の守護神として祀られたが、同艦の戦没者は祖霊堂に合祀されている。 」 とあった。
大和神社の社殿は、明治初期に再建されたもので、比較的新しいものである (右写真)
この背景には、平安初期までは、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、
朝廷の崇敬
を受けて隆盛したのに、平安遷都や藤原氏の隆盛により衰微し、中世には社領を全て失い、
江戸時代には神仏習合の寺になっていたのを明治政府の手により、官幣大社となり、新たに社殿が造営された、という事情がある。
道を引き返し、交叉点を越えるとコンビニがあるが、その脇の細い道を道なりに進む (右写真)
正面に柿の木畑がある三叉路に出たので、右折して、少し上りになる道を歩いて行く。
道の脇に車を停めて何かを摘んでいたので、覗きこむとつくしを摘んでいた。
久し振りにつくしを摘む人に出逢った。
小生も、転居した当時は近くの田畑の畔につくしが出たので、幼い娘と摘みにいったが、
何時の間にか見かけなくなっていた (右写真)
道を進むと交叉点には 「東海歩道」 の道標が建っていた。
左右の道が古代の山の辺の道である。 山辺の道の名称は、古事記の崇神天皇の条に、
「 御陵は山辺の道のまがりの岡の上にあり 」 とあることに由来するといわれる。
道標の左側には、 「天理・竹之内環濠集落1.0km」 とある。
「 周辺に深い濠をめぐらして外敵から里を守る環濠集落は、
動乱の続く中世の時期に、農民たちが野武士の襲来に対抗し、
自衛のために築いたもので貴重な存在である。 」
道標の右側には、 「衾田陵・桜井0.7km」 とあるので、右折して進むと、溜池が現れた。
池の傍らに西山塚古墳の案内板があるが、池の先に見える果樹園が古墳である (右写真)
「 西山塚古墳は全長114mの古墳時代後期の属する前方後円墳である。
前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型古墳はこの古墳だけである。 」
と案内板にはあった。
その先には民家が密集して建っているので、道標に従って進むと柿畑があり、
道の分かれ目に 大神宮常夜燈と猿田彦大神碑と「山の辺の道」の標柱が建っていた (右写真)
道標に従って進むと、五社神社があり、その前の道標には 「衾田陵は左折」 とあったので、
山の辺の道から離れて、入っていく。
道なりに進むと田畑が現れ、左手にこんもりとした森のようなものが現れた。
畔道のような細い道をそのまま行くと右手に小さな古墳が見え、更に進むと左手に
鳥居のようなものが見えたので、左折して細い道を進むと、
鳥居と宮内庁が建てた 「 継体天皇
皇后手白香皇女 衾田陵 」 という看板があり、柵に囲まれていた。
先程から森のように見えた小高い丘陵は衾田陵(ふすまだりょう)だったのである (右写真)
「 衾田陵は西殿塚古墳といい、四世紀前半の築造と思われ、
大和古墳群の中でも一番大きく、
全長220mの前方後円墳である。
これまで、継体天皇の皇后、手白香皇女(たしらかのひめみこ)が葬られた。 」
とされてきたが、
継体天皇の皇后になったのは六世紀の始めであるので、
古墳が築造された年代とは合わない。 そういえば、天理市教育委員会は、
「 衾田陵の築造は四世紀前半とされるので、手白香皇女の生存年代が合わない。
それに対し、西山塚古墳は六世紀の築造なので、これが手白香皇女陵であるという説がある。 」 と、前述の西山塚古墳の案内板に紹介していた。
科学的な調査法がない明治時代に指定されたのだから、やむをえないのかもしれない。
先程の見た小さな古墳は、燈籠山古墳のように思えた (右写真)
また、この近くには、四世紀初頭の造営と考えられる全長175mの東殿塚古墳もある。
五社神社前に戻り、もう一度、道標を見ると、「中山廃寺400m」 とあるので、道標に従って進む。
道から入ったところでは白い木蓮が花をいっぱいつけて咲き誇っていた。
その先には墓地があり、燈籠山(とうろうやま)古墳 の案内板が建っていた (右写真)
「 燈籠山古墳は全長110mの前方後円墳で、前方部は念仏寺の墓地になっている。
埴輪の特徴から古墳時代前期、四世紀前半の古墳と思われる。 」 とあり、先程見た柿の木が植わっていた
のは後部の円墳の部分だったことが分かった。
案内板の角を右に曲がると、本堂の屋根と鐘楼、
十三重石塔が1、コンクリートの塀越しに見えるのが念仏寺である (右写真)
「 行基上人が開いた中山廃寺の一坊だったと伝えられるが、焼失したのを十市城主、十市遠忠が、天文十九年(1550)に再興したが、宝永六年(1709)にまた焼失、その後再建されたとある寺院である。 」
念仏寺の前には石仏群が祀られていて、道標には 「中山廃寺0.1km」 とあった。
左が菜の花畑、右が柿畑の中を進み、森に入ると中山大塚古墳の案内板が現れ、左手の小高いところに神社の社殿が見えた (右写真)
案内板には、中山大塚古墳の築造時期は古墳時代初頭で、
全長132mの前方後円墳であること、前方部は大和神社の
お旅所がおかれたために削平されていることなどが書かれていた。
その先には、「最古の御社 大和神社御旅所」 の標柱と「大和神社御旅所」 の由来という
案内板があるが、御旅所とは毎年四月に開催される大和神社の春の大祭「ちゃんちゃん祭」で、
神が休憩されるところである。
左手にある鳥居のある社殿は歯定(はし)神社で、祭神は大巳貴神、少名彦名神である。
その隣にあるのが大和神社 御旅所座神社である (右写真)
なお、ちゃんちゃんとは祭の行列で打ち鳴らす金盥(かなだらい)の様な銅鑼の音に由来する。
神社前の空地の石にしめ縄があったが、説明はなかったが、ここがどうやら中山廃寺跡の
ようである。 道の反対には、「山の辺の道」の道標があり、「桜井・長岳寺0.8km」 とある。
石畳みの道の右側には公衆トイレがあり、その下に石仏群があった。
石畳みを下ると右折して、一面が田圃であるところを歩く (右写真)
左手にはピンクと白の花が咲いているのが見え、誠にのどかな風情で、ハイクに来たのを忘れるところである。
右側には休憩施設があり、昼飯を食べている一団がいた。
その前に、万葉の歌人、柿本人麻呂が妻を亡くした際に詠んだ歌の石碑が建っていた(右写真)
「 衾道乎 引手乃山原 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無 」
( ふすま道を 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし )
妻を火葬にした引手山は、この東にある小高い山である。
その先の三叉路で右折するとすぐに左折して、細い石畳み道に入る。
この道を進むと車道に出た。
右に行くと、小生がバスを降りたコンビニの北側にある
信号交叉点に出る道である。 左折して、長岳寺に向かう。
時計を見ると、十二時四十八分、到着して一時間二十分近くが、経過していた。
参加者は、コンビニから長岳寺へ直接向かったので、今より一時間以上前にここを通過している。
拝観料三百円を支払い、長岳寺へ入ると、正面に楼門があった (右写真)
「 長岳寺は天長元年(824)、淳和天皇の勅願により、
弘法大師が大和神社の神宮寺として創建
された古刹で、楼門は、日本最古の鐘楼門であり、弘法大師が創建した時代唯一の建物である。
また、楼門手前の左手にある地蔵院は、寛永七年(1630)の建築で、
室町時代の書院造りの様式を残しており、現在は庫裏として使用されている。 」 (右写真)
隣の地蔵堂本堂は、寛永八年(1631)の建築で、延命殿ともいわれ、普賢延命菩薩を本尊とする
庫裏の持仏堂である。
楼門をくぐると、右手に庭がきれいな放生池があり、左側に天明三年(1783)に再建された本堂が建っている (右写真)
「 本堂の中尊・阿弥陀如来座像、脇侍の観世音菩薩坐像、勢至菩薩半跏像が、
藤原時代の仁平元年(1151)の仏像で、玉眼を使用した仏像としては日本最古で、国の重文指定。 その他、多聞天と増長天像も藤原期のもので、これも重文である。 」
その先には鎌倉時代の十三重石塔があり、その先には地蔵尊が描かれている石仏碑がある。
「 長岳寺は盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒三百余名を数えたという寺であるが、
兵火と明治の廃仏希釈で衰えたが、千百八十余年間連綿と法燈を守り続けている。 」
脇の石段を上ると、左手に大師堂がある (右写真)
「 大師堂は正保二年(1645)の建築で、
弘法大師像と藤原時代の不動明王を祀っている。 」
正面の拝堂の右奥にある石段を上っていくと、小さな石祠の中には石仏が祀られている。
石段を上ると左側に大きな石仏があった。
この石仏は、鎌倉時代の 弥勒大石棺仏である(右写真)
「 この石仏は古墳時代の石材を再利用したもので、
二メートル近い如来形である。 」
山の上に続く道の両脇にある石仏は鎌倉時代から江戸時代にかけての石仏であるという。
石仏が途絶えたところで、道に沿って山を下って行くと、長岳寺の墓地に出た。
そのまま進むと、長岳寺の駐車場で、案内板には長岳寺は左折とあったが、長岳寺には戻らず、坂を下ると、左側に天理市トレイルセンターがあった。
◎ 訪問地と行程
柳本バス停 → 大和神社 → (山の辺の道へ入る) → 西山古墳 → 衾田陵(西殿塚古墳) → 燈籠山古墳
→ 念仏寺 → 中山大塚古墳 → 長岳寺