竹内街道(たけのうちかいどう)は、
葛城市(旧当麻町)の長尾神社から竹内峠(標高310m)を越えて、
大阪府太子町に至る街道である。
日本書紀に 「 難波より京に至る大道を開く 」と記された日本初の官道で、
二上山の南を竹内峠で越え、飛鳥と難波を結んでいる。
古代は、大陸からの使節や遣隋使らが往還し、中世以降は伊勢参りや長谷寺、当麻寺詣での道として、
賑わったといわれる。
近鉄南大阪線磐城駅で降りて、南へ交叉点を越えて進むと、右手に竹内街道の幟が現れた。
うっすらとした長尾の森に鎮座するのは長尾神社である。
赤い鳥居の脇には 「 式内大社 」 の標柱が建っていた。
創建は定かでないが、延喜式神名帳に「 葛下郡長尾神社、大、月次、新嘗 」
と記されている式内古社がこの神社で、
九世紀にはこの地に鎮座していたと伝えられる。
拝殿は昭和十一年の再建。 入母屋造の祝殿屋は明治十七年の再建。
本殿は二社並立していて、向拝が付された素木の春日造を基本とした紫宸殿造である。
長尾神社の右側の竹内街道の幟が立ち並んでいるところには、
「 竹内街道は日本初の官道である・・・ 」 と記された案内があったが、
日本書紀の推古天皇廿一年(613)冬十一月の条には、
「 推古天皇廿一年冬十一月、作掖上池・畝傍池・和珥池、又自難波至京置大道。 ・・・・ 」
という記述がある。
記述の 「自難波至京置大道」 とは、難波津から京まで大きな官道が造られたという意味である。
推古天皇は、この時期、都を奈良県明日香村北部の小墾田宮に置いていた。
この都から大陸に通じる港の難波津に通じる大きな官道を造ったというのである。
難波津(現在の大阪市法円坂付近)から南に進む難波大道と飛鳥の海石榴市から西に向う横大路は既に開設済みだったというのが通説のようで、
日本書紀の記述はそれらを結ぶ道が造られたということのようである。
また、この道はどこからどこまで通っていたか、峠はどこだったかについてはっきりしなかったという。
両者を結ぶ峠としては、田尻峠(標高120m)、穴虫峠(同140m)
そして、竹内峠(同310m)が考えられる。
竹内街道とした場合、竹内峠が標高が一番高く、また、道幅も狭いという問題がある。
壬申の乱など、歴史的な舞台に登場したのは田尻峠で、この道は一度に多くの人が通れて、
道幅も広く、一番理にかなう。
ハンドキャップの多い竹内街道を官道と比定したのは、
故京都大学文学部名誉教授の岸俊男氏で、それが通説となったようである。
その理由の一つは孝徳天皇陵が大阪磯長(現在の太子町山田)にあること。
特に決めてとしてあげられるのは、
当時権勢を誇っていた蘇我氏の本拠が河内の磯長だったことからである。
蘇我氏が既にあった難波大道と横大路とを結ぶ道として、竹内峠越えの道を推し、
既存の狭い道を拡張して造ったのが官道で現在の竹内街道ということのようである。
そのため、白雉四年に蘇我氏が滅亡すると、田尻峠や穴虫峠越えの道が幹道になり、
竹内街道は裏街道になっていったという訳である。
長尾神社鳥居 | 長尾神社 |
竹内街道を歩き始めた。
長尾神社の境内を通り過ぎると、交叉点の左側に長尾の道標がある。
「 右よしの つぼさか こうや 」 と書かれているもので、
隣の自然石には 「 左 いせ はせ 」 と書かれている。
「 いせ はせ 」 とは、伊勢 長谷街道のことで、
「 よしの つぼさか こうや 」は、吉野、壺坂から下田、王寺を経て、
堺に至る長尾街道のことである。
この十字路は 日本最古の官道・竹内街道と横大路、
そして、伊勢 長谷街道と長尾街道が交差する交通の要衝に位置しているのである。
ここには最近建てられた観光用の 「 孝女伊麻碑 0.7km 」 の矢印もあった。
交叉点をそのまま直進し、西に向うとなだらかな上り坂が続いていた。
道は比較的広いが、国道166号が平行してあるので、車の通行もなく、しずかな佇まいだった。
また、道の両脇の家は江戸時代の面影を残しているようにも思えた。
この竹内集落は 「 街道を行く 」 を著者、司馬遼太郎の母の実家があったところで、
遼太郎が何度ともなく訪れていて、
遼太郎の思い出の地であったようである。
長尾の道標 | 竹内集落 |
左手に葛城市当麻スポーツセンターがあり、その先で県道30号と交差する。
交差点を越えて直進すると、傾斜が少し強くなったような気がした。
右側に明和八年の大峯山上常夜燈が建つ子まめ地蔵堂がある。
手前の道標には 「 右大峯山よしのはせ寺 左たいま寺だるま寺 」 と書かれているが、
明治三十五年の建立である。
道を直進すると、左側のなまこ壁の家前に 「 綿弓塚 」 の案内板があったので、
小路に入っていった。
右側の庭には、 「 綿弓塚 」 の案内板と石碑が建っていた。
「 芭蕉は野ざらし紀行での伊賀への帰路、
弟子の千里(ちり)の故郷である竹内宿に滞在し、
「 綿引や 琵琶に慰む 竹の奥 」 の句を詠んだ。
石碑は芭蕉没後百十五年経った文化六年十月に建てられたものである。
句碑の隣の建物は地元が造った資料館兼休憩所になっていた。 」
道は険しくなってくると、国道に合流するが、国道の右上には菅原神社などが祀られている。
また、国道の右下方面に下ると、古墳時代後期の竹内古墳群があり、公園という名になっていたので、
登っていったが、細い道があるだけだった。
竹内街道は、平石峠越えの道が左に別れていくが、そのまま進む。
その先で、国道と分れて国道下の谷筋を縫うように頂上に向うと竹内峠である。
竹内峠は小公園になっていて、
大正九年に建立された県境碑と最近建てられた「鶯の関跡の石碑があった。
説明には、 「 竹内峠は古くはうぐいすの関と呼ばれていた。 」 とある。
ここは奈良県と大阪府の県境で、そこから先は大阪府太子町である。
今回はここで引き返したが、峠から下ると道の駅 「 近つ飛鳥の里 太子 」までは、
国道を歩くことになるようである。
その先は飛鳥川に沿って蛇行しながら下ると、伊勢灯篭、
その先に餅屋橋の道標があり、「 右推古天皇陵、科長神社・・・・ 」 と、
周囲の神社などが刻まれている。
道は上の太子駅前を通り、羽曳野市駒ヶ谷を経て、同市古市と進んでいく。
機会があれば、残りの区間を歩いてみたいが、この区間は道幅が狭く、
大路とは考えられないといわれる所以である。
綿引塚 | 菅原神社 |
訪問日 平成26年(2014)1月20日