当麻(たいま)は、 古来、聖なる山と崇められたニ上山の東麓に広がる里で、中将姫の曼荼羅で知られる当麻寺がある。
近鉄南大阪線当麻寺駅を降り、西に参道を400m進むと、
右側に葛城市相撲館 「 けはや座 」 の建物がある。
そのすぐ西側にあるのは蹶速塚(けはやづか)で、
五輪塔と当麻蹶速の姿を彫った石碑が建てられている。
日本書紀の垂仁天皇七年秋七月己巳朔乙亥にある当麻蹶速という力士のことである。
日本書紀
「 当麻村にいる当麻蹶速という力持ちと世にある強力者を力競べをさせたら、
という臣下から提案があった。
天皇は 「 当麻蹶速は天下一の力士と聞いている。 」 といわれたが、
臣下から 「 出雲国に野見宿禰という勇士がいる。 」 と進言があったので、
即日、使いが派遣され、両者が戦うことになった。
二人は足を蹴りあい闘ったが、当麻蹶速は脇腹の骨を蹴り折られ、負けて殺されてしまった。
勝者の野見宿禰は蹶速の所領を継承した。」
日本書紀に上記の記述があり、大阪府高槻市に野見宿禰が祀られている神社があるが、
この勝負は相撲の始めといわれている。
蹶速塚は当麻蹶速を追善して、五輪塔を祭るお堂が建てられたものである。
その奥には相撲館があり、相撲に関する資料を集め展示している。
なお、蹶速の屋敷は二上山の麓、現在の当麻山口神社の近くにあったといわれる。
蹶速塚 | 相撲館 |
交叉点を過ぎた参道の両側には食事処や売店があったが、参拝の帰りに立ち寄る店のようである。
蹶速塚から歩いて500m、当麻寺の仁王門に到着した。
当麻寺は、葛城氏の一族の当麻氏の氏寺として創建されたと、伝えられる寺院である。
寺のパンフレットによると、
「 聖徳太子の弟、麻呂古親王(まろこしんのう)が、推古天皇20年(612)に、
河内国につくられたという禅林寺を、681年に役行者開創の当地に移されたものと伝えられる。
白鳳時代から天平時代にかけて金堂、講堂や東西両塔などの伽藍が完成したと見られ、
現在は、いくつかの塔頭寺院がその伽藍を守護するかたちをとっている。
はじめは南都六宗の一つ、三論宗を奉じていたが、弘仁年間に弘法大師が当寺に参籠して以来、
真言宗になる。
その後、南北朝時代に浄土宗も入り、現在では真言、浄土両宗を奉じる珍しいかたちをとっている。 」
とあった。
仁王門をくぐると、駐車場の先に梵鐘堂がある。
梵鐘は白鳳時代のもので日本最古といわれ、国宝に指定されている。
梵鐘の左手には三重塔が手前と奥に二つ建っていた。
三重塔は天平時代の建立で、国宝に指定されていて、
創建当時の二つの塔(東塔、西塔)が揃って残っているのは当寺のみということであった。
三重塔の前にある伽藍は中之坊である。
当麻寺最古の塔頭であり、高野山真言宗別格本山という寺である。
中将姫が剃髪した寺で、剃髪塚や誓の石などが伝わり、名勝庭園やボタン園がある。
当麻寺仁王門 | 梵鐘堂 |
梵鐘の脇を真っすぐ進むと、本堂が建っていた。 またの名は曼荼羅堂。
外陣は藤原時代、内陣は天平時代の建立、国宝に指定されている。
最初は千手堂と呼ばれる小さなお堂だったが、曼荼羅(まんだら)信仰の高まりと共に大きくなり、
現在は当麻寺の本堂になっている。
御本尊は当麻曼荼羅、脇仏は十一面観音菩薩である。
案内によると、
「 当麻曼荼羅には、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩を中心に極楽浄土の有様を絢爛豪華に描く。
藤原家の一族の中将姫が蓮糸で織り表したもので、その美しい極楽世界を伝えるために、
代々、転写されて受け継がれてきた。
ここに祀られる転写本は、室町時代の文亀本(重文)と、江戸時代の貞亨本の二例が現存していて、
そのいずれかが天平時代に造られた六角型の厨子(国宝)に納められ、本尊として祀られている。
その原本は国宝で、中之坊に保管され、非公開である。 」
内陣の須弥檀は源頼朝の寄進で、国宝。
十一面観音菩薩は、弘仁時代のもので、重文。
「織姫観音」とも呼ばれ、中将姫を手伝って、連糸曼荼羅を織ったとされる。
なお、当麻寺本堂に中将姫の小さな坐像が祀られている。
「 中将姫伝説 」
鎌倉時代の當麻寺縁起絵巻によると、
「 奈良時代の淳仁天皇の在世に、
横佩大臣(よこはぎのおとど)と言われた右大臣・藤原豊成(とよなり)の娘の祈願によって、
阿弥陀如来と観音菩薩が尼僧と織女に化して、
蓮糸で一夜にして極楽浄土の様子を織り上げた。
それが現在伝わる綴織(つづれおり)阿弥陀浄土変相図(へんぞうず) 通称・當麻曼荼羅である。 」 とある。
その後、この話が浄瑠璃や歌舞伎などで色々に脚色されて、中将姫伝説として今日まで伝えられてきたという。
代表的な話としては、
「 豊成の娘・中将姫は幼い頃に母を亡くし、継母のいじめに耐える日々を過ごしていた。
仏心の篤い中将姫は十六歳のとき、深い祈りの果てに二上山に沈む夕日に極楽浄土の姿を見る。
彼女は生身の仏を拝したいと祈願し、
黒髪を落とし當麻寺に入り、法如(ほうにょ)という尼となった。
満願の日が近づいた時に、老尼が現れ、「 阿弥陀仏に会いたければ蓮の茎を集めよ 」 と教えた。 言われたとおり蓮茎を集めると、老尼は茎で糸を織り、五色に染めた。
すると、織女が登場し、千手堂でその五色の糸を使い、
たちまち荘厳な浄土の相を表す曼荼羅を織りあげ、昇天。
老尼は曼荼羅の絵解きをしながら、自分は阿弥陀如来、織女は観音菩薩の化身だ、
と告げて、西方浄土に向った。
法如(中将姫)は、人々に曼荼羅を用いて阿弥陀仏の教えを説きつづけ、二十九歳の時、
二上山の間から来迎する阿弥陀仏、そして、菩薩たちの奏でる妙なる調べとかぐわしい香りの中で、
生身のまま極楽往生した、という。 」
亡くなった妻が裂織りでショールを作ったり、草木染めを楽しんでいて、
中将姫の曼荼羅を一度見たいと話していたが、生前に希望はかなえられなかった。
妻を偲びながらお参りをすませた。
薄暗い中に、弘法大師参籠之間もあった。
弘仁時代、当寺に真言密教を伝えた弘法大師が二十一日間お籠りになった部屋である。
本堂近くの池の中に中将姫の像が建っていた。
当麻寺本堂 | 中将姫の像 |
本堂の手前左側にあるのは金堂で、当寺が創建された当時は本堂だった。
その為、金堂を中心に、講堂が手前に、奥の東西に三重塔が並ぶ配置になっている。
金堂の建物は鎌倉時代に再建されたもので、重要文化財に指定されている。
金堂の中に入ると、白鳳時代の国宝、塑造弥勒菩薩像があった。
これは粘土で造られた日本最古のもので、当寺創建時には本尊だった。
その他、本尊の御前立として安置される藤原時代の不動明王像や
百済から伝来した伝えられる乾漆四天王像(重文)も祀られていた。
講堂の建物は金堂と同じく、鎌倉時代の再建である。
現在は寺の宝物館になっているといい、藤原時代の重文、木造阿弥陀如来坐像などが祀られていた。
境内には関西花の寺二十五霊場21番の西南院や法然上人二十五霊跡第9番の奥院があったが、
奥院は工事中だった。
寺を出て北に向って歩いて行くと、左側に二上山が見える。
当麻は古来、聖なる山と崇められた二上山の東麓に広がる里で、
今も民家が少なく、穏やかな雰囲気がするところである。
「 二上山(にじょうざん) は大和と河内の国境に二つの頂きが並び、
奈良盆地から見て右側が雄岳、左が雌岳。
飛鳥京から見ると、夕日が二上山の山の端に沈むことから、古来神聖視されてきた。
また、大神神社のある三輪山が太陽が上る東の山として、
二上山とともに神聖な山として信仰の対象になってきた。
十五分程歩くと、民家の一角に石光寺があった。
境内に中将姫が蓮糸を染めたといわれる染の井と、
染めた糸を枝にかけて乾かしたという糸かけ桜があるため、染寺とも呼ばれる寺である。
本堂は宝形造瓦葺き。 本尊は弥勒菩薩坐像、インド伝来という釈迦如来坐像で、
中将姫坐像も安置されている。
建物は江戸時代の文化年間に中興の祖といわれる聖阿によって建立されたものである。
ここから二上山ふるさと公園を経由し、近鉄二上神社口駅まで歩き、今日の旅は終わった。
当麻寺金堂 | 石光寺 |
訪問日 平成26年(2014)1月20日