大神神社は、三輪山を御神体とし、最も古い神社の一つである。
木々におおわれた境内に神殿はなく、豪壮な拝殿の正面に三輪鳥居といわれる三ッ鳥居がある。
酒の神として信仰を集め、造り酒屋の杉玉はここから授与される。
平成十九年一月九日、初詣で大神神社を訪れた。
小生の乗った 「初詣でバス」 は、 大神神社の二の鳥居前で停まった (右写真)
「 大神神社は、大和盆地の東南に位置する高さ四百六十七メートルの三輪山を
御神体とする原始信仰の形式を伝える神社である。
神社の由緒書 : 「 遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)が、 自らの幸魂(さきみたま)
奇魂(くしみたま)を三輪山に鎮められ、 大物主神(おおものぬしのかみ)もしくは、
倭大物主櫛みか魂命
(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)の御名を以って、お祀りされたのが当神社のはじまりである。 」
参道には杉の木が多いが、
神社のパンフレットに、 『 清少納言の枕草子には、
「 やしろはすぎの御社、しるしやあらむとをかし 」 と
記されているが、古来からこの山の中心は古杉で、みわの神杉として有名であった。 』 とあったので、納得した (右写真)
日本書紀には、 「 崇神天皇の御代に疫病がはやった。
天皇の夢枕に、三輪の大物主神
が現われ、疫病をはやらせているのは私だという。 大田田根子 (三輪氏の祖) を祭祀主として
大物主神を祀らせれば国は安らかになるというので、すぐに神主として三輪の神
を祀らせたところ、
疫病はすっかりなくなった。 」 ということが書かれているので、これによると、紀元前
一世紀から存在したことになる。
橋を渡ると、左側に祓戸社があった (右写真)
「 心身を祓い清めてくださる祓戸の四神を祀る。
神社に参拝の際は先ずここを参拝する。 」
左側には夫婦岩があり、その奥にしるしの杉、石段の右手には衣掛け松がある。
「 夫婦岩は、 神が鎮まる磐座(いわくら)の一つ。
三輪の神と人間の女性の恋物語を伝える二つの
岩が夫婦のように寄り添う。
縁結び ・ 夫婦円満のご利益がある。
衣掛け松は、 僧の玄賓 (げんぴん) が三輪の神さまの化身の里女に与えた衣が懸かっていた
と、 謡曲 「三輪」 で謡われた伝説の杉。 今は株だけが保存されている。 」
石段を上った右手には、巳の神杉がある (右写真)
説明板 「巳の神杉」
「 ご祭神の大物主大神が、蛇神に姿を変えられた伝承が、「日本書記」 などに記され、蛇神は、
大神の化身として、信仰されています。 この神木の洞から、白い巳(み)さんが出入りすること
から、 「巳の神杉」 の名がつけられました。
近世の名所図会には、拝殿前に、巳の神杉
と思われる杉の大木が描かれてあり、現在の神杉は、樹齢四〇〇年余のものと思われます。
巨樹の前に卵や神酒がお供えされているのは、巳さんの好物を参詣者が持参して拝まれるからです。
」
正面に拝殿、右側には勅使殿、左側には勤番所があるが、正月なので、
拝殿の一部の前におみくじ、
勅使殿前はお札交付所が仮設され見えなくなっていた (右写真)
「 大神神社は正一位に任じられた大和国一の宮で、
延喜式神名帳では名神大社に列し、
二十二社の一つである古社で、江戸時代には三輪明神とも呼ばれた。 」
初詣の一行は勤番所から入り、拝殿に案内された (右写真 正面から見た拝殿)
「 大神神社には本殿はなく、四代将軍、徳川家綱が寛文四年
(1664)が再建した拝殿の奥にある
三ツ鳥居を通して、御神体である三輪山を拝するという、上代の信仰のかたちを今に伝えていた。
正三角形に近い形の三輪山は倭青垣山や三諸山などと呼ばれて、神々が宿る神聖な山
「 神奈備 」として古くから崇められてきた。 」
三ツ鳥居は、拝殿と禁足地 (神体山の三輪山の特に神聖な場所) とを区切るところに建っていて、
明神型の鳥居三つを一つに組み合わせた鳥居を通じて、神体山を拝んできたのである。
我々は、神主の御祓いを受けた後、三ツ鳥居の脇で、御参りした (右写真)
なお、三ツ鳥居の高さは3.6m、左右の高さは2.6mで、左右には長さ十六間の瑞垣が
設けられ、優れた木彫り欄間がはめ込まれていて、拝殿と共に国の重要文化財に指定されている。
「 大神神社の御祭神は大物主神で、配祀は大己貴神と少彦名神である。
また、酒造りの神や薬の神様でもあり、サントリーの名前は三ツ鳥居からの命名といわれる。 」
拝殿の左下には、 右に参集殿、正面に祈祷殿、左に儀式殿の三つの建物が建っている (右写真)
これらの建物は、拝殿と三ツ鳥居の修復工事の際、建築されたもので、平成九年に竣工した。
樹齢千五百年の台湾檜の原木も用いられている。
以上で、初詣を終えた。
訪問日 平成二十六年(2014)一月二十日
(ご参考) 司馬遼太郎 「 街道をゆく 1巻 海柘榴市 三輪山 」
司馬遼太郎は 「 街道をゆく 1巻 」 の 「 海柘榴市と三輪山 」 の章で、 大神神社(三輪神社) について、書いている。
「 三輪山は面積ざっと百万坪、倭青垣山というその別名でもわかるように、大和盆地におけるもっとも美しい独立丘陵である。
神山という別称もある。
秀麗で霊気を感じる独立丘陵を、古代人は 神南備山(かんなびやま) ととなえて、
山そのものを神体としてまつったが、
神南備山である三輪山は、 日本における古代信仰世界の首座を占める。
(中略)
いつごろから この丘陵への信仰が はじまったのかは、 測るすべがない。 」
と記している。 遼太郎氏は、更に、
「 出雲族が祭祀していた。 古代出雲族の活躍の中心が、
いまの島根県でなく、むしろ大和であったにちがいない。
その大和盆地の政教上の中心が、三輪山である。 出雲族の首都といってもよい。
三輪山は、 神の名としては、 「大物主命」 という。
(中略)
要するに、 「ミワ」 という種族は、 大物主神を種族における最大の神として仰ぎ、
三輪山のまわりに住み、ふもとの 海柘榴市 で 市をいとなみ、
主として 大和東部地方にひろがって農耕をいとなんでいた種族であることは 異論が少ないだろう。 」
と断言している。
「 古代のある時期の大和盆地には、
カモ族(葛城山麓に住む)と、ミワ族が併存し、 そこに 崇神王朝が出現した。 」
と、遼太郎は推測し、更に、
「 崇神帝とその武装グループが、 九州かあるいは 満鮮の地からやってきた。 天孫系の信仰をもっていたが、
この地の国つ神である 「大物主神」 を崇神王朝に組入れたことは、日本書紀の話から分る。
崇神帝は、鉄を使う軽快屈強の武装集団をひきいて、大和にやってきたため、
ミワ族などの土着の農耕集団などは、立打ちできず、征服された。
その帝の帝都は、土着民ミワ族の故地である三輪山の麓に置かれ、
葛城のカモ族を圧倒して、大和盆地を平定し、国中の平和を保つため、
大和土着勢力から武器をとりあげ、石上の地に収納した。
あるとき、疫病が流行。 帝の伯母の倭と、日百襲姫が、巫女として祀らせたところ、
たちまちにして、 神の声があり、 「大物主命」を祀るべし と、いうことで、
その神の子孫を探したが、
三輪山を祀っていたミワの族長の子孫は滅ぼされて、 三輪の地にいなかったので、
茅ぬの地(大阪) の 太田田根子命 を呼んで、 土地をあたえ、 三輪山にのぼらせ、
祭主にした。 」
と記している。
遼太郎は、 海柘榴市で昼食を採ってから、 大神神社をお参りしているが、
江戸時代、 三輪大明神 と呼ばれていたのを 大神神社 に変えた理由の詮索をしている。
「 崇神帝は この三輪山が土着のミワ族の神である以上、
それを自分の族神にするわけにゆかず、 あらたに 三輪山の近くの笠縫に
天照大神をまつったことは、 日本書紀であきらかである。
その 笠縫の宮 が、 その後多少の経路をへて、 いまの伊勢の地にうつり、 伊勢神宮になった。 」
と述べている。
司馬遼太郎は、古代国家の成立を三輪神社にたくして、説明しているが、
西暦500〜600年前以前の日本は歴史の空白期とされ、
はっきりしなかったことなので、 その推理は面白く、 参考になった。