江戸時代の豪商の町 今井町


今井町は橿原市に属する地区であるが、 古くは寺内町と呼ばれる独立した自治体として続いてきた集落であり、 江戸時代には多くの豪商を抱えていた。 
江戸時代の雰囲気が残る集落は、平成五年(19993)十二月、 国の伝統的建造物保存地区の一つに選定された。 
町内には国の重要文化財指定の建物十二棟、奈良県指定の有形文化財の建物十一棟、 橿原市指定文化財が六棟がある。 




近鉄橿原線八木西口駅のガードをくぐり、西側に出て左折していくと、 右側の橋のたもとに今井町の案内板が建っている。 
今井町の歴史を調べてみると、鎌倉時代までさかのぼるようである。 

「 大和国(現在の奈良県)は鎌倉時代から興福寺の荘園領で、 それを何人かの門徒が束ねてきた。  今井郷も興福寺一乗院の荘園だったようである。 
室町時代末の天文二年(1533)、守護畠山氏が支配した畿内に一揆が起こり、 今井に本願寺派の道場が造られたが、 興福寺派の越智氏により何度も破却された。 
永禄十二年(1559)の松永久秀の大和入国により、国衆の乱闘が繰り広げられたのをとらえて、 本願寺派の今井郷は興福寺から弾圧を免れることが出来た。 
今井庄は、顕如上人より稱念寺の寺号を得て、寺内町を造った。 」

稱念寺がある。 現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。 

稱念寺の案内文を要約すると、
「 寺は浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。 
寺の草創は室町末期の天文年間で、本願寺の一家衆、今井兵部卿豊寿が、 ここに本願寺の道場を建てたのに始まる。 
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、 本願寺の与力や本願寺の支城、我孫子の城主をも兼ねていた。 
天正三年(1575)の石山合戦では、本願寺の和議の使者のひとりとして、 今井兵部も織田信長の元に赴いている。 
今井氏は、代々兵部と名乗り、織田、豊臣、徳川氏に仕えて、武士と僧侶を兼帯し、 秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。 
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592〜1595)で、富綱のときである。 
延宝七年(1679)に武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を統轄していた五カ所御坊、 十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果たしてきた。 
明治十年(1877)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。  明治天皇は、二月十二日、西南の戦争による熊本城危機の知らせのため、 大阪道明寺に向かわれ、御一泊の後、堺に向け御進発遊ばされた。 」 

門前には明治天皇の駐泊されたことを示す石柱が建っていた。 
本堂は国の重要文化財に指定されているので、興味があったが、 大修理中のようで、門中には入らなかった。 
町の南西部に水濠があった。 ここにあるのは復元されたものかもしれない。

「  本願寺派の今井郷は、石山合戦では石山本願寺、三好三人衆に呼応し、織田信長に反抗し、 濠を深くし、土塁や見通しを妨げる道路を築き、西口に櫓を設けて、今西家を城構えとし、 環濠城塞都市になった。 
今井郷は町の正面入口に当たる西門の東側に、東西四百五十メートル、南北二百五十メートル、 幅五〜七メートル、深さ二メートルの濠を二重や3重に設けたとされる。  外濠は信長に降伏後、家臣の明智光秀が埋めたとされる。  この水濠は幅二メートル、深さは約八十センチ程のようだ。 」

稱念寺
     濠跡
稱念寺環濠城塞都市を示す濠跡


濠の先に見えるのは、国の重要文化財に指定されている今西家住宅である。

「 今西家住宅は慶安三年(1650)の棟札が残る今井町最古の建物である。 
本瓦葺、白漆喰塗籠、八ツ棟造りと呼ばれる大棟の両端に段違いに、小棟を設けて、 破風を前後喰違いに見せる複雑に入り組んだ入母屋造りで、一部二階建て。  白洲に見立てた土間やいぶし牢などを備え、民家でありながら 、城郭建築のような造りになっている。 
今西家は元々は武士で、旧姓は川合。  永禄九年(1566)に当地に移住し、 天正三年(1575)には、石山本願寺と組んで、織田信長と戦ったが敗れた。 
信長から赦免され、今井郷は自治権を認められて、司法も行った。 
川合氏は、郡山城主松平忠明から大坂夏の陣の功績を称えられ、 今井町の西口を守ったことから今西姓を名乗るように薦められ、 五代目から今西氏を名乗るようになったという。 
今井郷は、延宝七年(1679)に幕府の天領になり、自治領で無くなったが、 今西家は代々惣年寄の筆頭に任じられ、領主や代官の町方支配の一翼を担い、 幕末まで町方の司法権、行政権を委ねられた家柄である。 」

近くにある春日神社は今西家の旧宅地で、常福寺の鎮守のために創建された。 

「 創建年代は明らかでないが、 狩野形石灯籠の銘に 「 慶安五壬辰年仲春吉日 春日大明神奉寄進石灯籠 願主和州高市郡今井東町 」 とあることから、それ以前に建っていたとみられる。 
多くの石灯籠や手水鉢や狛犬などに堺や大坂の商人の名前が記されているのは、 今井郷が堺や大坂の商人と深い交易関係があったことを示すものである。 」

隣に旧常楽寺観音堂が建っていた。 

今西家住宅
     春日神社
今西家住宅春日神社


今井郷は信長に降伏後は商人町として、海の堺、陸の今井町として豪商が軒を並べたといい、 江戸時代の風情を残す建物は、重要文化財十二軒を含む約五百軒の古民家として、 今なお密集して建っている。 
その中の一つ、河合家は、明和九年(1772)の創業以来酒造業を営んでいる。  屋号は上品寺屋。 

「  江戸時代末期に今井町には数軒の造り酒屋があったが、今も続けるのは河合家のみ。  建物は十八世紀後半の建築で、二階建ての造りに、東側が入母屋造、西側が切妻造りになっている。 」

高木家は、酒と醤油を造っていた旧家で、屋号は大東四条屋。 

「 建物は今井町の重要文化財の中では一番新しく、十九世紀前半の建物。  完全な二階建てになっていて、二階の窓が虫籠窓でなく、出格子窓になっていたり、 違い棚の付いた座敷があったりと、新しい時代の特徴が随所にみられる。  時代とともに民家の形式が変わっていったことが理解できる。 」

家の中を見学ができるのは少ないが、古い家が残る町並を見ながら歩くだけで、満足できた。

河合家      高木家
河合家住宅高木家住宅



訪問日    平成26年(2014)1月20日





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