大平街道は中山道の妻籠宿と三州街道の飯田宿とを最短で結ぶ街道であった。
街道で唯一の宿場は大平宿であるが、この宿場は数奇な運命を辿る。
街道の誕生や宿場の今昔を回顧しながら、街道を走った。
田辺聖子さんが、「姥ざかり花の旅笠」(文庫本では集英社文庫)という作品を出されていて、副題に「東路日記」とある。
九州の商家の御内儀・小田宅子さんが、伊勢詣に出かけ、
さらに、善光寺、日光東照宮、江戸と足を伸ばした紀行文が東路日記である。
「
その中に、伊勢から善光寺に向かう道として、
女改めの厳しい木曽福島関を避け、中山道の妻籠から飯田に抜け、
伊奈街道に出る道を使用したことが分かった。
また、妻籠から清内路を経由して阿智に抜ける道があるのに、大平峠越えを選び、
かなり難渋した上、飯田に至っている様子が書かれていたので、どんな道かに
興味をもち、木曽駒ヶ岳に行く途中、この道を通ってみた。 」
妻籠から国道256号を飯田方面に向かって上る。
急坂なので、宅子さん達が苦労したことはおおいに分かった。
広瀬を過ぎると、ろくろ細工木地師の里があり、
左に入る案内標識「県道8号」があった。
これが大平街道である。
シングルナンバーの道なのに、カーナビでは季節限定通行禁止の表示が出て、
通行確認を要すとある。 冬季は走行不能なのだ。
入ったところでは、そうした大変という認識はなかったが、しばらく走るとなるほどと納得できた。
道幅は車両1台〜1.5台分しかなく、左右は崖や谷あるいは樹木が生えていて、
車のすれ違いが困難。
その上、カーブが無数にあり、左右にくねくねと曲がって続いている。
これまでの経験でも短い距離にこれだけのカーブはなかったと思う。
両脇は檜か杉か分からないが、
手入れされた樹木に覆われた道をくにゃくにゃと登ること数刻。
小田宅子さんの東路日記に 「 奥ふかき山にて険しき処なり 」 と描かれているが、その風景は今も変らない。
空間が開けたところに出た。
標高1、358mの大平峠(おおだいらとうげ)である。
木曽峠ともいうのは木曽と信濃の境だったということだろう。
1軒の茶屋があり、少し先に展望台がある。
朝五時なので、茶屋は営業していないのは当然だが、住んでいる気配もなかった。
駐車場もあったので、車を降りた。
目の前に、斉藤茂吉の歌碑が建っていた。
「 麓にはあららぎといふ村ありて 吾にかなしき名をぞとどむる 茂吉 」
「
この歌は、昭和十一年(1936)、茂吉がアララギ歌会に出席するため、
三留野から大平峠を越えて飯田へ旅した時、詠んだ歌十七首の一つである。
蘭(あららぎ) という地名は、広瀬付近に残るが、
茂吉が かなしき名をぞとどむる と、詠んだのはどういう意味なのか??
展望台から風景も朝霧で、もやっとしていてはっきりしなかった。
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車を走らせる。
トンネルを抜けると、下りのカーブが多くなり、注意して走行する。
やがて右側に家が見えてきた。 大平宿の跡である。
「 東路日記の宅子さん達は、妻籠から五里の大平峠を越え、 やっとの思いでここに着き、桜屋という茶屋で休憩をとっている。 」
ここで街道の歴史にふれる。
「
万葉の時代から室町までは伊那谷を通る東山道があったが、
戦国時代には衰退したようである。
江戸幕府は、伊那谷ではなく、木曽谷を通る中山道を開通。
しかし、木曽谷の村々の食料は伊那谷に依存していたので、
物資輸送には妻籠から清内路を経由して阿智に抜ける道(清内路街道)を利用していたようである。
大平(おおだいら)街道は、江戸時代中期の宝暦年間(1751〜64)に開削された道で、
妻籠と飯田を最短に結んでいたが、
険阻な道だったので、利用者はさほど多くなかったようである。 」
街道開設には木地師が関係している。
大平街道の歴史
「 大平街道は、飯田の商人、山田屋新七が大蔵五平次等と共同で、
山林開発のため飯田藩に願い出て幕府の了解を得て、
宝暦年間(1751〜64)に開道した道である。
大蔵五平次は、木地屋と呼ばれる木地物の原料になる木材を求め、
山中に漂泊した民であった。
木曽谷は尾張藩の領地で木を切ることが御法度であったので、
飯田では木地の入手が困難であった。
飯田町の豪商、山田屋新七は大平に目を付け、新道の開削を願いでたのである。
飯田藩としては冥加金も入ることなので乗り気であったが、
尾張藩との境界が入り組んでいるので問題が起きることを恐れ、
幕府の了解を取り、山田屋達商人の金で道の建設が進められ、
併せて大平宿が開宿した。
翌年、藩主の堀親長が大阪勤番を命じられ、
大平宿から中山道に出て浪速に向かったが、その時、大平宿で休憩しているが、
その時利用したのが、紙屋という屋号の道開設の申請した、
木地師棟梁の大蔵五平次の家だった。
当時の大平街道は飯田から松川を左下に見ながら進んで谷に降り、
市之瀬で松川を渡ってからは、大足峠を見上げつつ沢沿いに真っ直ぐに登り、
峠からはまた沢沿いに下り、大黒川を渡って行った。
関所は尾張藩との境の峠付近には置かれず、麓に近い市之瀬に置かれた。
明治時代に入り、木曽谷に鉄道が開通するのを見込み、明治三十二年から三十八年にかけて、馬車が通れる道(現在の県道)が建設された。 」
宅子さんの日記に、
「 あはれましらに似たるおもかげ 」 と書き、
ここの住民が古着やぼろきれを着て、まるで猿のような生活だったとあったので、
本当かしらと疑問を持っていたが、木地師は山間を漂泊する民ということで納得できた。
「
大平宿は、大平街道で唯一の宿場だったが、
旅籠だけではやっていくのは難しく、林業や木地生産が本業といったほうがよく、開道の翌年、飯田藩の殿様が立ち寄った頃は家は五軒しかなかった。
その後、養蚕が加わったこともあり、幕末の安政三年には二十八軒、
百七十人と増えた。
明治に入ると、養蚕や林業に加え、炭焼きで繁忙を極めるようになった。
戸数も七十五戸を数え、切り妻、せがい造りで、板葺きに石を載せた屋根の大きな家が建てられた。 」
鉄道の開通でこの街道を人が行き来し、宿場も繁盛した時期もあったが、 昭和四十五年、廃村になり、住んでいた家は空き家のままになっている。
大平宿の盛衰
「 宝暦五年(1755)に藩主の堀親長が大阪勤番に向かう際立ち寄った頃の大平宿は大蔵五平次の家を含め五軒だけだった。
大平街道は飯田への距離は短いが、険阻な道だったので、
この道を通る人はさほど多くはなかったので、
旅籠で食べていくのは難しく、林業や木材加工などで生計を営んでいた。
百年後の幕末の安政三年。 この頃になると、養蚕業も加わり生活が安定したこともあり、集落は二十八軒、百七十人に増えている。
明治に入り、谷を真っ直ぐ上る道ではない、現在の道が新設され、
馬車での運搬ができるようになった。
明治四十二年、木曽路に三留野(現南木曽)駅が開設されると、
鉄道のない伊那谷全域から人と物資がこの街道に押し寄せてきた。
飯田から三留野まで約四十キロの距離だったので、一日コースであり、
大平宿は昼食したりする茶屋宿として繁盛した。
一般的には麦飯が普通というときに、大平宿の人は白米を食べていたという。
現在残る建物はそうしたことを背景に、江戸後期から明治時代に建てられた。
戸数も七十五戸を数え、絶頂期を迎えた。
木材は馬車で飯田に送られるようになり、加工は行われなくなった。
大正に入ると、三留野から飯田の間にバスが通り、
伊那谷で一番の早く郵便や新聞が届く都会になった。
しかし、そうした繁栄は長く続かなかった。
伊那谷を南下してきた伊那電鉄(現飯田線)が飯田まで開通すると、
交通上の価値は急落し、大平宿は単なる一山村に逆戻りしてしまった。
また、養蚕も昭和に入り衰退期を迎える。
それでも炭焼きに生活の糧を求めてなんとかやっていたが、
昭和の高度成長期にエネルギー革命(炭から石油への転換)が起き、
この村の産業が崩壊、昭和四十五年、集落を捨てて集団移住し、
この村の歴史は閉じた。 」
現在も当時の家が二十軒ほど残るが、 民間のボランテァ 「 大平をのこす会 」 によって維持活動が続けられている。
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坂を下り、谷を渡り、カーブし、坂を上ると、飯田峠(標高1235m)である。
峠という感じがしないところで、見晴らしが悪い。
更に、じめじめしたところを何箇所が通り、くねくねとした道を走らされた。
途中に観音像が建っていたのが印象に残るだけである。
「 実はこの道は、江戸時代に建設されたものではなく、 明治に入り、車を走らせるために建設されたもので、 旧道は新道完成を期に廃道になっている。 」
旧道は川に沿って直登する感じの道であったようで、
飯田から登ってきた幕末の志士・清河八郎が西遊草で、
「 山坂を八町ばかり辛ふじてのぼり、
また、降りて大平村にいたり、午食をなす。
此処にいたる迄は坂壱里ばかりして、草木老いしげり、一入難儀の道なり 」
と書いているが、正に険阻な道だったのであろう。
こうした道を房子さん達は何故選んだか?
著者の田辺聖子さんは、
彼女等は道中手形を持っていなかったと推察して、
「 大平から一里半下れば裏番所というのがある。
市之瀬関所で飯田藩の預かりで上下女改めとあるが、
こころやすく通してくれたのだろう。 」 と書いている。
江戸後期になると、善光寺や日光などの観光目的なら、
幕府管理以外の関所は大目に見てくれたようである。
飯田市上飯田に入ると、左眼下に谷が見え、
やがて松川ダムが見えてきた。
旧道がどこを通っていたか分からないので、
市之(一ノ)瀬関所や彼女等が泊まった市之(一ノ)瀬村も、
どこか分からなかった。
左側に人家があるところに出た。
手前の左側に松川入大山祇神社があり、
道端には 「南無妙法蓮華経」 と刻まれた達筆な石碑が建っていた。
「 後で知ったのであるが、
少し左に入った風越山の麓に猿庫(さるくら)の泉があり、
名水百選に選ばれている。
機会があれば訪れて一口飲んでみたい。 」
そのまま車を走らせると、自然に飯田市内に入っていき、大平街道越えは終わった。
この道を走っての感想。
「 駐車できるところがない、すれ違いで難儀する。
大平宿以外見るものもないが、朝が早かったこともあり、
野鳥の囀り(さえずり)を聴くことが出来た。
ツーリングには最適なコースで、秋の紅葉時がよいのでは!!
車でのドライブはあまりすすめられない(行かれる場合は飯田から大平峠で引き返す方が無難) 」
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旅をした日 平成17年(2005)7月
田辺聖子さんの「 姥ざかり花の旅笠 」は、
筑前国上底井野村(現在の福岡県中間市)の小田宅子さんの「東路日記」と、
桑原久子さんの「二荒詣日記」に、考証を加えて、一つの作品に完成させたものである。
作品を読むと、江戸時代も後半に入ると、商人の力が付き、
また、統制が緩んで、庶民の暮らしがかなり変ったようずが窺い知れる。
作品の中で、中山道の落合宿から馬籠、妻籠と行き、ここから伊奈街道に入っていく様子が書かれている。
関連ある部分をピックアップしてみる。
落合宿では
「 中津川を越え、落合という宿に着く。
ここが美濃と信濃の境である。
五街道細見には 「 この宿賤(いや)し 」 とかかれてあるが、
そこから一里五丁行って馬籠。 いよいよ信濃路である。
「 いとあやうし 」 という印象だが、風が烈しい地方なので、
板屋根が剥がれないためだろうか。」 (原文のまま)
とあり、板葺きの屋根の上に丸い石を点々と載せていることに主人公が驚いている。
九州では瓦屋根か茅葺屋根だっただろうから、
板葺きで板壁、屋根に石というのは一種のカルチアーショックだったようである。
次に、薬師寺の狐膏薬の記載があった。
「 当時、木曽路を行く人は坂路に足を痛めるので、
買い求める人が多かった。 」
とあるが、小生が訪れたときには虫封じの薬をこの寺で売っていた。
この日は馬籠宿に泊まっている。 宅子さんはここで一句を詠んでいる。
「 ふみならし ひとつ越ゆればまたひとつ つきぬは木曽の み坂なりけり 久子 」
妻籠から飯田へ向かう部分では、
一里ばかりゆくと妻籠村、 「 ここなる橋のもとより、女が旅する人の福島の番所を避くるぬけ道あり。
奥ふかき山にて険しき処なり 」 (原文のまま)
とあり、主人公一行は、大妻籠の先の橋場より飯田に抜ける山道を選択している。
木曽福島と箱根の関所は吟味が厳しいので有名なので、それを避けるルートとして大平峠越えが選ばれたようである。
橋場から広瀬までの登りはきつく数里あり、
「 先に峠を登る人のかしらをふむ様にしてのぼる心地す。 くるしき事いはんかたなし 」
と、この間の様子が表現されているが、車でもけっこうきつかったので、歩くのは大変だっただろうなあと思った。
また、立ち寄った広瀬村の住民の貧しさには驚いている。
「 髪はぼうぼう、着物の残骸といってもよいといえるものをまとっていた。 彼らは櫛を作って世渡りしていた。 」
宅子さんは木曽山中住民の貧窮の様を見て、 「 あわれましらに似たるおもかげ 」 と一驚しているが、
小生は島崎藤村の父が明治政府の木曽の木の管理を住民に願っているのもこのような貧困が背景にあったのだと思った。
宅子さん達は妻籠から五里の峠を越え、大平に着き、
桜屋という茶屋で休憩をとった後、一里半下って、裏番所に出頭している。
「 ここを関守る人にこひてこころやすくすぎて 」 と、上下女改めは簡単であったように記されている。
田辺さんは、「 五街道細見によると、
一ノ瀬関所は飯田藩の預かりで、きびしいとあるが、
裏番所を通ればこころやすく通してくれたのだろう。 」 と
、推測されている。
江戸時代もこの時期に入ると、万事金次第ということかも知れない。
自由に通れるということで、五街道を避け、
脇往還が利用されることも多くなっていたのだろうか?
宅子さん一行は一ノ瀬村に泊まり、翌日、堀石見守の城下町、飯田宿に入っている。