野麦街道は飛弾高山と信州松本を結び、
古くは鎌倉往還として栄えた街道である。
江戸時代にはぼっかや岡船が通う交易の道として、
特に、海のない信州に、鰤などの貴重な海産物を運ぶ道だった。
山本茂実の小説「ああ野麦峠」で有名になった、糸引き工女達が歩いた道でもある。
秋も深まったある日、野麦街道を通り、野麦峠を越えるため、薮原から奈川に向かった。
野麦街道についてなにも知らなかったので、図書館に行き、事前に調べてみた。
「 飛騨地方から江戸や鎌倉に行くにはこの道が1番短いので、
平安のころから、飛弾高山 と 信州松本を結ぶ道として利用された。
鎌倉時代は鎌倉往還、江戸時代には江戸街道と呼ばれたようであるが、
野麦峠を通ることから、野麦街道と呼ばれる。
当初は、松本から薮原に来て、境峠を越える、奈川道を利用するルートで、
これを野麦街道と呼んでいた。
江戸中期に、黒川渡から入山屋を経て、梓川沿いを歩き、松本にでるルートが開発されたが、これも野麦街道と呼ばれた。
黒川渡コースの方が、二十キロ程短いので、次第にそちらが主流になった。
どちらのコースを通っても、寄合渡で合流し、野麦峠を越えることには変わりはない。 」
薮原宿から鳥居峠を越える途中に、中山道との奈川道の追分があり、 尾州岡船の説明板があった。
説明板
「 野麦街道は、天領飛弾国代官所のあった高山と江戸を結ぶ幹線道路として、
公用に使われるとともに、尾張藩から、尾州岡船の鑑札を受けた牛方等により、
信濃から飛弾へは、米、清酒などが運ばれ、
飛弾から信濃へは、海産物や曲物、白木などが運ばれた。
奈川集落は、東山道の時代には、岐蘇山道として、
中山道開通後は、木曽路の薮原から別れた奈川道(野麦街道)として、結ばれていたが、
薮原との間にある境峠が急なことから、
材木の運び出しに、馬を利用することができなかった。
そのため、奈川牛を使った、「尾州岡船』と呼ばれた独特の運送方法が採用された。
尾州岡船の名は、奈川村が尾張藩に属していて、
木曽福島代官の山村氏の支配下に置かれたためで、
奈川牛という馬力のある牛が使われたという。 」
野麦街道は、県道26号で、笹川に沿った道を進む。
枯尾沢の手前はすごい七曲りで、枯尾沢はしらかば平別荘地がある。
七曲りの道を上って行くと、境峠である。
そこまでが木祖村小木曽であるが、峠を越えると松本市奈川に変わり、
奈川高原入口バス停の右手にフォーレストフィールドや野麦峠スキー場がある。
かっては奈川村であったが、松本市に吸収され、村は消滅した。
その先には、奈川木曽路原体育館があり、
坂ノ曽バス停の先で川を渡り、川に沿って進むと、寄合渡バス停がある。
「 信州地方では、鰤(ぶり)は、年越しに欠かせない年取り魚とされていた。
成長に従って、
名前を変える出世魚の鰤を新たな年を迎えるのに欠かせないものとしていたので、
鰤一尾が米一俵と交換されたというほどの高価なものだった。
富山で水揚げされた鰤は塩加工され、越中街道(飛騨街道)を天秤棒で担ぎ、
飛騨の物資集積地である高山に運ばれ、そこでセリに掛けられて販売された。
高値で売れることに目を付けた高山の業者は、
競り落とした鰤を信州の正月用に、木曽や松本方面に出荷した。
これからが大変。
高山からの輸送は牛馬によっても行われたが、歩荷によるものが主であった。
歩荷(ぼっか)は、一人三十五貫というから、百三十キロという大変重い荷を担ぎ、
野麦峠を越えて、松本まで運んだのである。
一日三里(十二キロ)のペースで歩き、高山〜松本を八日で運んだ。
更に、一部は伊奈街道を使って伊奈や飯田まで運ばれた。
このようにして鰤を運んだ道なので、この道は鰤街道とも呼ばれた。 」
歩荷にとっては、一年間でもっとも稼ぎの大きいチャンスだったに違いないが、
雪が積もる季節に入っているので、ラッセルしながら、運んでいった筈だから
、命を懸けた輸送だった筈である。
これだけの重量物を担ぎ、しかも雪が降る季節に、険しい山道が歩けたものだと、
ただただ驚く次第である。
寄合渡バス停で、左折すると県道39号があり、通称野麦街道である。
寄合渡は手打ちそばが有名で、その内の一軒・手打蕎麦峠路に入った。
「 この冷涼な奈川で獲れたそば粉を昔ながらの打ち方で打ち、
山で獲って来た食材や家の畑で栽培した野菜で、てんぷらや小鉢を作って、提供される。
珍しいのが、とうじそば。 鉄の鍋に山菜などが入ったすまし汁の中に、
とうじ(木棒の先に竹ひごで編んだ小さな篭を付けたもの)を入れ、具をすくい、
椀に入れたそばにかけて、食べるものである。
そばを温かく食べる時は、とうじにそばを入れて、すまし汁に入れて、温めることもできる。
これまで訪れたところで、経験しなかった食べ方である。 」
食事後、川浦にある、尾張藩旅人宿・工女「扇屋」を訪問した。
「 扇屋は、かって野麦峠の山麓の集落・奈川川浦にあった、
尾張藩旅人宿でした。
旧奈川村の歴史資料として、ここに移築され、
使われていた当時を再現した展示館になっている。
館内には、飛騨と岡谷・諏訪との峠越えをした製糸工女の姿と、
尾張岡船「奈川牛」の道中姿を再現している。 」
(注) 現在は閉館になったようである。
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県道39号は、ここから上りで、西北西に進んでいく。
野麦街道は明治時代に入っても、製糸産業を支えた飛騨の女工たちの交通路と
してにぎわった。
「 明治四年(1871)の廃藩置県で、飛弾国は、筑摩県に編入され、
県庁のある松本市と支庁の高山市を結ぶ連絡道路になった。
しかし、筑摩県はすぐに廃止になり、長野県と岐阜県に分かれてしまう。
明治の産業改革により、岡谷・諏訪地方に製糸業が盛んになると、
この道は工女の往来する道になった。
諏訪湖の周辺の岡谷や諏訪に、紡績工場が造られると、労働力として、
飛弾の貧しい農村から娘達が集められた。
彼女達は、高山周辺から集められ、工場毎に一団となり、高山を出発。
美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で一泊、
きびしい野麦峠(1672m)を越え、奈川のどこかで一泊。
奈川渡を経て、島々か波田にもう一泊し、塩尻峠を越えて岡谷に入った。 」
少し行くと、道の右側に、「旧野麦街道」と書いた木柱が立っている。
県道はUターンして南下し、山の裾野を半周し、その先に駐車場がある。
木柱からの道は旧野麦街道で、ハイカー達が好んで歩く道である。
この道を上っていくが、このあたりはは比較的穏やかな風景である。
山本茂美が書いた小説 「 ああ野麦峠 」 は、
明治時代の幼い工女達の悲しい物語である。
野麦峠展望台には 「 飛騨を一目見たかったみねの死 」 と、
書かれた辰次郎とみねの碑があった。
碑に刻まれていた山本茂美の文面
「 政井みねは、岐阜県吉城郡河合村角川で生まれ育ち、
14才頃から毎年信州の製糸工場へ糸挽き工女として出稼ぎに行っていた。
20才のとき、出稼中病気のため倒れ働けなくなったからと、
工場の報せで、兄(辰次郎)は岡谷のみねの勤め先の山一製糸へ数日掛りで駆けつけたが、やつれ変わり果てたみねは、もう立ち上がる力もなく只々涙するばかりであった。
工場からは一刻も早くつれ出すように催促され、
兄は仕方なく準備してきた「背板」に板を打ち、布団を敷き後ろ向きにして背負い、
無情な工場を後に、泊まりを重ね、5日目にこの野麦峠に辿りつき一休みした。
みねは、余程故郷が恋しく一目飛騨の姿を見て死にたかったのだろう・・・・・
お助け小屋で買い与えたソバかゆや甘酒にも手を付け
ようともせず、「 あヽ飛騨が見える、飛騨が見える、 」
と、うれしそうにそれだけを言って、息をひきとったのだった。
これは明治42年11月20日午後2時のことである。 」
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明治時代、幼い女工の足で、松本から高山までは三泊四日かかり、
途中の野麦街道は、険しい峠越え、深い谷の縁を歩く旅で、
吹雪の時や真夏の炎天下では、多くの行き倒れがでる大変過酷な道だった。
正月の休みに、しばれる冬の道を集団となって、
家路に向かう彼女等の姿を想像すると、涙が溢れる心地がした。
野麦峠から飛騨側を見ると、一面森林に覆われた山に、取り巻くように、
県道が伸びているのが見えた。
山が果てしなく続く先に、飛騨高山はあるのである。
野麦峠には、当時あったお助け小屋が復元され、売店と食堂を営んでいた。
野麦峠を越えると、岐阜県高山市高根町野麦になる。
風景は一転し、飛騨側には深い谷がえぐり、
細長く続く道が横たわっていた。
飛騨側は、渓谷が深く、目がくらみそうなところが続く。
車もすれ違えができそうもないところが多く、
車で下ってても、恐いと思うような景観である。
「 紡績工場に出稼ぎに行く彼女らの道として利用された野麦街道は、
昭和九年の高山本線の開通で、使命を終えた。
道路も、野麦峠を通る道から、南東に下り長峰峠を通る道(国道361号)に移っていった。
今や、野麦峠を通る人は、観光か登山の人といってもよいだろう。 」
川は飛騨川になり、その渓谷が下にある。
安全を確かめ、道脇に車を止め、谷底の紅葉を撮影したが、
余りに距離があり、思うような大きさには写せなかった。
対向車もほどんどないので、青空に映える紅葉を写しながら下った。
野麦峠には下の集落までかなりの距離と時間を要するので、
自信の無い人は歩かぬようにと書かれていたが、確かにすごい急坂であった。
寺坂峠を越えると、県道39号には野麦カエデ街道の名称が付いていた。
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人口湖が見えてくると、高嶺大橋があり、 国道361号にぶつかり、正面に、高根第1ダムが目に入った。
そこを右折し、国道361号に入り、高根トンネルをくぐると上ヶ洞である。
高根第2ダムを越えて、飛騨川に沿って進むと中之宿集落で、
街道の往来が盛んだった江戸期には、いろいろな道が集まる交通上の要所だったところで、今も高根町の中心であるが、当時の面影は残っていなかった。
物流の変化
「 街道時代はこのあたりは急坂の細い道で難所だった。
積雪期には、谷から吹き上げてくる強風によって、強い地吹雪となり、
遭難者が多くでた。
地元の人達の手で葬られた遭難者の墓が多く残されている。
高山と松本の物資輸送には、ぼっかや牛が利用されたので、
中間にあたる、高根村の中之宿集落などには、牛方(どしま)を稼業とするものが多かったが、輸送方法は次第にトラック輸送に変っていった。
街道の往来が盛んだった頃の民家や集落は、交通手段の変化とダム建設による離村により、集落全体が水の中に沈み、消滅してしまったところが多い。 」
この先、秋神ダムを経ると、高山市朝日町、久々野町に入ると国道361号は終り、
県道87号に変わり、飛騨川に沿って南下し、高山本線久々野駅を越えると、
無数河交叉点で国道41号に合流する。
その先、国道を北上すると、飛騨一ノ宮を経て、高山に通じる。
小生は、高根第一ダムに戻り、高嶺大橋を渡り、国道361号で長峰峠を越え、 開田高原に出て、木曽駒の里に寄り、一服して、木曽福島スキー場脇を抜け、木曽大橋に出て、 今回のくくりとして、そばを食べ帰宅した。
高根第1ダム付近 |
旅をした日 平成15年(2003)10月