伊奈街道は中山道の塩尻宿から分かれ、城下町の飯田を通り、
根羽宿までの十六宿だった。
三河から塩運ぶ中馬街道として有名であるが、飛鳥時代に始まる東山道がベースである。
飛鳥時代、大化の改新後の、大宝元年(701)に、五畿七道が制定された。
「 この時代の政治の中心は大和(奈良県)にあったので、
近畿の五つの国を結ぶ道と全国各地への主要街道として七道が設置された。
七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道と西海道を指す。
南海道は四国へ行く道で、西海道は九州へ渡っていく道である。
街道の運営にあたって、駅(うまや)をつくり、
そこには、一定数の馬を常備するよう、国司や郡司に義務付けていた。
常時馬をこれだけ置いておきなさいという制度を駅伝制といい、
陸上競技の駅伝の名の由来である。
延喜式によると、東山道(あずまさんどう)は、
東国統治のために整備された道で、近江国勢多駅(せたのうまや)を起点に、
美濃国、信濃国、上野国、下野国を経て、陸奥国に通じていた。 」
伊奈街道の前身である、信濃の東山道は、美濃国境の神坂峠を越えて、 信濃国に入り、天竜川を遡上し、 伊奈郡を通り抜け、善知鳥(うとう)峠を越え、覚志(松本市)、錦織を経て、 上田・・・というルートを通っていた。
その痕跡をさぐりながら、中津川市から神坂とうげを越えるドライブをした。
「 東山道の時代に美濃から信濃に抜けるには、
坂本駅(さかもとのうまや)を出て、湯舟沢川に沿って上り、神坂に入る。
(注) 美濃国最後の宿駅は中津川市の坂本にあったが、その場所がどこか特定できていない。
この道の幅は二メートルと狭く、しかも、別名、信濃坂と呼ばれていた険しい坂だった為、東山道最大の難所と言われた。
この坂の美濃と信濃の国境にあるのが、標高1595mの神坂峠(みさかとうげ)である。 」
現在は道が整備され、かろうじて車でもいけるが、
小生は二度通ろうとは思わない、今でも険しい道である。
そのため、
旅人は坂本駅を出発する前、峠越えが無事できるよう、神事を行なった。
その様子を詠った歌が万葉集に残っている。
「 ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り(ぬさまつり) 斎う命(いわういのち)は
母父がため 」
( 神の居られる神坂の峠越えが無事でありますように峠神祭りを行います、
あわせて、両親の長生きを願いお祈りしました )
中央道は、恵那山を長いトンネルでくぐりぬけていくが、
東山道はその南の冷川と温川に挟まれた地を行く。
平成16年(2004)4月、小生は、苦労してこの道をドライブした、
途中に延暦寺広済寮があり、神坂峠を越えると阿智村薗原に出る。
「
弘法大師空海(最澄)は、弘仁六年(815)、関東に教えを広めるため、
神坂峠を通ったが、道の険しさと途中に宿場がないことを知り、
峠をはさんで、中津川側に広済院(こうさいいん)、阿智側に広拯院<(こうじょういん) という宿をもうけた。
その結果、峠越えに苦しんだ多くの旅人が、その恩恵に預かったという話が残っている。 」
現在、中津川市霧ヶ原と阿智村薗原に、その宿の跡と伝えられるところがある。
神坂峠を下ると、
長野県旧阿智村にでたが、「広拯院跡」といわれるところに、広拯院月見堂があった。
月見堂は通称で、正式には観音堂で、観音菩薩が祀られている。
ここは月の名所だったようで、芭蕉と卓池の句碑があった。
「 此の道や 行く人なし 秋の暮 」 (芭 蕉)
「 かがやきの ますばかり けふの月 」 (卓 池)
急な坂を下って行くと、旧阿智村の中心、駒場に到着する。
「 信濃側の阿知駅(あちのうまや)があったところははっきりしないが、
駒場の集落の木戸脇付近とする説が有力である。
南信州新聞(2002年2月1日)の記述に、
「 木戸は、関所や宿駅跡に残る地名で、木戸脇の旧道を行くと、
地名に宮の脇、宮の前、清坂があり、安布知神社を通る。
この一帯が駒場の中心地区を形成していたと考えられている。 」とある。
駒場の語源についても、 「 官道の周辺に多く見られた馬の牧場から。
後になって、馬が置かれていた宿駅を指すようになった。 」 とある。
普通の駅舎には馬十頭が配備されていたが、
阿知駅には基準の三倍に当たる三十頭の駅馬が配備されたとあり、
如何に、険しい峠であったか分かる気がした。
また、駅員には徴税を免除し、駅務に専念させるようにしたことも記録に残る。
「
東山道の駅制度は、十世紀の後半の荘園制度の崩壊により、
国司、郡司の財政が窮乏したため、維持できなくなり、姿を消した。
しかし、鎌倉時代を過ぎ、室町になっても、旅人は峠神の祭りを行い、
峠を越えていたことは史実により、はっきりしている。 」
戦国時代に入り、この地を手に入れた武田氏は、木曾七宿に伝馬の継ぎ立てを命じ、 木曽道を整備するようになると、人の流れは木曾路に移っていった。
「
江戸時代に入り、中山道が五街道の一つになると、この道は落合宿からの脇街道になり、
主流ではなくなる。
しかし、阿智村駒場は、三河や美濃との交通上の要衝であることに変りはなく、
中馬街道の中継地として栄えていく。 」
今回の訪問の目的の一つに駒つなぎの桜がある。
「 源義経が東山道を下った時、馬をつないだ、という言い伝えから、
名付けられた駒つなぎの桜は、阿智村園原の谷あいにある。
広拯院月見堂より更に上にいったところだが、隣に家が建ってしまったのと、
季節が早かったことで、駒つなぎの桜の写真撮影は残念ながらできなかった。 」
しかたがないので、その上にある御坂神社を御参りして、
引き返す川の縁に山桜が咲いていた。
夕暮れの中で幻想的に感じた。
駒つなぎの桜の撮影は残念な結果に終わったが、歴史のロマンが溶け込んだ佇まいには
満足した。
東山道は、時代とともに寂れていったが、
戦国時代に入り、武田信玄が伊奈地方に足を伸ばすと、
軍用路として街道の整備が始まった。
文禄弐年(1593)には、飯田城主の京極氏が、伊奈十六宿を設置し、宿駅制を導入した。
戦国大名は、軍事、領国支配の必要から、各々の伝馬制度を整備し、
人・商品・情報の円滑化を図った。
領国独自の制度ながら、隣国との繋がりも考慮されていた。
特に、武田氏は積極的だった。
「
元和八年(1622)には、市附馬高割付を開始している。
正保弐年(1645)には飯田町名残町に、伝馬役が命じられ、
正保五年には桜町にも設置されて、伝馬役を負担することになるが、
伝馬役は地元住民の負担になるので、その負担は大変だったようである。
伊奈街道の殿様は飯田藩だけであるが、
殿様の参勤交代時や家臣が公用で出かけるときには、
宿場から人馬の提供をさせたわけである。 」
南信州新聞(2002年2月1日)の記事には、
「 飯田藩主が創設した伊奈宿の制度が発展して、慶安二年(1649)に、伊奈街道となる。 」 とある。
また、「 明治四年の宿駅制度の廃止で、本陣、脇本陣がなくなった。
明治二十年(1887)、三州街道に名称を変更、
大正九年(1920)には 県道飯田名古屋線となり、自動車が走るようになった。 」
とあり、時代とともに、街道の名称を変えたという説明になっていた。
(注) 伊奈は、伊那ではと思われる方もおられるかもしれないが、
伊奈の字は江戸時代は奈と那の両方使っていたが、伊奈の方が多かったようで、
明治になると、伊那の字になってゆく。
伊奈街道には、塩尻から、小野、宮木、松島、伊那部、宮田、上穂、飯島、片桐、大島、
原町(市田)、飯田、駒場、浪合、平谷、根羽の十六の宿場があった。
幕府直轄の街道ではないので、整備が不十分で、道幅もせいぜい二間程度だった。
信州伊奈地方の大名は飯田藩と高遠藩だけで、その他は幕府直轄の天領だった。
従って、この街道を利用する大名は飯田の殿様だけだった。
「
大名が通らないので、その分通行が自由で、幕末になると、善光寺詣りや
伊勢参りなど観光目的の旅人に利用された。
また、問屋の力が弱いことから、中馬の活躍を見る結果となった。 」
宮田宿は、飯田藩主が参勤交代で江戸に向かう時、この地を宿泊地としたこと、
伊那谷一の荒れ川、太田切川を南に控えていたことから、伊奈街道の要衝として賑わった。
宮田宿本陣は、伊那街道に唯一残る飯田藩主専用の本陣である。
宮田村の宿場町にあったのを、ふれあい広場の隣接地に移築したものである。
「 五街道には江戸幕府が定めた本陣・脇本陣や問屋が置かれ、
大名や高官の接待にあたったが、脇往還(脇街道)にはそうした制度がなかったので、
伊奈街道には幕府が定めた本陣はなかった。
宮田宿本陣は飯田藩主の宿泊施設として使われたほかは、藩の臨時の役所や役人の休憩所として使われた。 」
「たのめの里」といわれた小野宿は、伊奈街道の一番目の宿場であるが、 中山道の宿場だったときがある。
「 慶長六年(1601)、大久保十兵衛長安により、中山道が開設された時、 木曾路に入るルートとして、下諏訪宿から南下し、三沢峠越えして、小野宿に至り、 そこから西へ、牛首峠を越えて、木曽と塩尻の境、木曽桜沢を結ぶ道が選ばれ、 小野は中山道の宿場になった。 しかし、大久保長安が失脚後、中山道のルートが変更になり、塩尻峠を通り、塩尻宿、洗馬宿、本山宿を通る遠回りのコースに変更され、 小野は通らなくなった。 従って、小野が中山道の宿場であったのは十三年間だけである。 」
古来、小野は、伊那地方から木曾に米を運び、
木曾から木材を運搬する重要的な位置にあった。
そのため、中山道のルート変更後も、伊奈街道の宿場として繁栄した。
「 小野宿は、元禄と安政に大火に遭遇していて、現在の町並みは、 安政六年(1859)三月の大火後のものである。 」
現在は、国道153号が通る道筋になっているが、
そこに小野宿問屋だった家が残っている。
小野家は近世初期から庄屋をつとめていたが、中山道が廃止されて間もなく、
伊那街道小野宿の問屋場となり、幕末に至るまで務めたという家である。
「
旧小野家住宅は、安政の大火後に建築された間口十間半、
奥行き八間半という大規模な本棟造りの建物である。
切り妻造り、妻入りで、正面に胴差と妻梁という、二段の太い横架材を見せており、
棟上には、すずめおどしとその下には立派な縣魚が付けられている。
伊那街道には本陣や脇本陣はなかったので、
必要があったときは問屋や名主の家があたったとある。
この豪壮な家も本陣として使われたことがあるのだろうか? 」
小野宿問屋 | すずめおどしと縣魚 |
このあたりは、本棟造りの家が三軒の他、平入り造りの民家があるが、
大火後の再建を急いだため、北部の大工による建築と、
南部大工の建築が混在したといわれている。
道の対面の家の前には、「問屋跡」の石碑が建ち、その隣に高札場があったようである。
「
この小野の地であるが、伊那郡、筑魔郡と諏訪郡の接点になっていたので、
その帰属について、古来、紛争が絶えなかったところである。
豊臣秀吉は、天正十九年(1591)、小野盆地の中央部での分割の裁定を下し、
北方を松本領の北小野村、南方を飯田領の南小野村とした。
その後、南小野村は天領(江戸幕府領)になったが、それ以後、
現在までこの状況は続いていて、北小野村は塩尻市に、南小野村は辰野町になっている。
しかし、住民が互いに反目することもなく、南北両小野が一つの小学校、
一つの中学校に通学している。
行政区画を超えたこのような存在は特筆に値するのではないだろうか。 」
神社は二つに分かれ、信州二之宮として、国道の左側の林の中に、
矢彦神社と小野神社として、両社並んで鎮座していた。
小野の宿のはずれの集落、上島にある上島普門院観音堂は小さなお堂である。
「
ここには木造十一面観音立像が安置されている。
鎌倉末期の元亨三年(1323)、善光寺住僧の妙海の作とされる観音像で、
国の重要文化財に指定されている。 」
堂の内部を覗き込んでみたが、見えなかった。 合掌して御参りをして、小野を後にした。
問屋跡石柱と高札場 | 上島観音堂 |
田辺聖子さんが「姥ざかり花の旅笠」(文庫本では集英社文庫)という作品を出されている。
副題に「東路日記」とあるが、天保年間(1740年頃)に、九州の商家の御内儀が伊勢詣で出発したが、その後、善光寺、日光東照宮、江戸と、足を伸ばした紀行文を題材にしたものである。
「
田辺さんは、筑前国上底井野村(現在の福岡県中間市)の小田宅子さんの東路日記と、
桑原久子さんの「二荒詣日記」に考証を加えて、一つの作品に仕上げている。
この作品から、江戸時代も半分以上を過ぎると、商人の力が付き、また、
統制も緩んで、庶民の暮らしもかなり豊かになった様子が窺い知れる。 」
作品の中に、伊奈街道を旅した様子が書かれているが、興味のある部分を取り上げてみたい。
◎ 一ノ瀬村〜飯田
「
一ノ瀬村の藤屋という宿に泊まった。
妻籠から広瀬・大平、木曽峠越えはなかなか険しかった。 宅子さんは床に身を
横たえると、ほっとしたのか、おもわず弱音を吐くような歌のしらべとなる。
「 身はやつれ 日数ふるのゝ草まくら 見るもはかなきふるさとの夢 宅子 」 (原文のまま)
( 馬籠から木曽峠(現在は大平峠という)を経て約40kmの山道を歩いてきたつらかった気持を歌に
している。 )
◎ 飯田〜飯島
「
翌日、一里半あるいて飯田に着いた。 飯田は堀石見守一万七千石の城下町。
飯田は細長い町だった。
やっとぬけて二、三里四方もある駒ヶ原、
むかし駒ヶ岳からこの原まで駒が飛行してきたといういいつたえを土地の人に聞きつつ、
片桐(宅子さんは竹桐としているがこれは誤りであろう)というところに至れば、
女人たちに歓声をあげさせる光景が展開していた。
梅、さくら、桃、まさにここもまた、「 桜桃梅季一時ニ春ナリ 」(原文のまま)
とあり、宅子さんは詩魂をゆさぶられずにいられない。
「 めづらしや 梅のさくらの桃の花 さかりは同じ 木曽路信濃路 宅子 」
( 花が同時期に咲くことに驚き、歌に詠んでいる。 その夜は飯島に泊まっている。 )
◎ 飯島〜宮木
「
翌日は馬でも利用したのか、上穂、宮田、北殿、木の下と行って、
現在の辰野町宮木(みやぎ)までの強行軍であった。
そして、宮下の長浜屋に宿泊している。
( 途中に見るべきものがなかったのであろう。 )
◎ 宮木〜塩尻〜松本
「
そして、伊奈街道の最終日。
小野を経て、塩尻に着く。 塩尻はもう筑摩郡松本藩で、
ここから松本を経て善光寺へゆくのが北国西街道、善光寺道だ。
塩尻の宿をぬけると小川はあり板橋がかかっていた。 富士見橋という。 渡ると芭蕉塚。
「 露しぐれ 富士を見ぬ日ぞ おもしろき 」 とあって、さながら今日のさまを詠んだよう。 (原文のまま)
( 宅子さん達はそのまま善光寺詣りに向かっている。 )
桔梗ヶ原という曠野は、桃の木やすみれが目を楽しませたものの、雉子の声が聞え、 「 道をいそげども家路見えざり
ければ 」という心もとなさ、この日、一行は馬で越後街道をゆき、日のかたむくころ、
やっと松本に入った。
(原文のまま)
宅子さんたちは更に十五町行って、「あさまのゆば」(現在の浅間温泉)の中野屋という宿に泊まって
いる。
小生は、昨年五月の連休に松本に行き、浅間温泉に立ち寄ったが、その時、江戸時代からある温泉場であることを知っ
た。
宅子さん達は、二百六十年前にこの温泉に入っている訳である。
「
この本によると、美濃国の落合宿から信濃国の塩尻宿まで五日弱で通過している。
女性でも一日で約四十キロを歩くのだから、当時の人の健脚ぶりには驚いた。
田辺聖子さんは、宅子さん達は正規の道中手形を持っていないのではと推察されているが、それでも善光寺、日光東照宮、江戸を廻って、旅行できたのには驚きを禁じえない。
庶民のこのようなことの積み重ねが、幕末の御蔭参りに連なり、
そして、幕藩体制の崩壊に向かっていったのだろう。
旅をした日 (駒場)平成16年(2004)4月
(宮田・小野)平成16年(2004)10月