『 伊勢別街道を歩く  』


江戸時代、関西方面から伊勢神宮へ参詣する人々が利用したのは、伊勢別街道である。 
この道は東海道の関宿の東の追分で東海道と分岐、楠原宿、椋本宿、窪田宿を経由し、 津宿の江戸橋追分で伊勢街道と合流する四里二十六町程の道である。 
県道10号線が地図上では伊勢別街道とも書かれているが、旧道は県道に沿ってかなりの部分が残っていた。 
なお、今回の旅では、三重の歴史街道ウオーキングマップを利用した。 




伊勢別街道

東海道を歩いた時、関宿の東の追分に、「 是より外宮十五里 京都石見屋藤兵衛建立 天保七年丙申 」  という道標を見て、一度ここから伊勢方面へ歩いてみたいと思った。 
その後、伊勢街道を四日市宿の日永の追分から伊勢神宮の内宮まで歩いた。
平成二十二年九月一日、伊勢別街道を歩くことにした。 

名古屋駅で関西本線六時十七分発、亀山駅行き普通列車に乗ると、七時半過ぎには亀山駅に着いた。 
ここから柘植までは気動車が走る区間だが、当然、列車に接続していると思い込んでいた。 
関は次の駅で、一駅なのに三十分以上も待たないとないことが分かり、ショック。 
関駅は無人駅なので、ワンマンカーの運転手に切符を渡して下りた。

そのまま駅の近くにある道の駅に向かい、買物をしようかと思ったが、ここも九時にならないと営業しない。 
しかたがないので、トイレだけはすませて、東の追分に向かう。 
国道1号を東に向かうと県道10号と交叉する東海道関宿東交叉点に出た。
その左側にコンビニがあったので、お茶のペットボトルとパンを二個購入した。 
昼飯のことも少し頭によぎったが、途中にあるだろうとそのまま北に向かった。

木の鳥居と常夜燈、関宿の案内板があるところに出た。
鳥居は伊勢神宮の一の鳥居で、内宮の宇治橋の南詰にあったものが遷宮時にここに移設されたものである。 
鳥居の左の小高いところは一里塚だったところで、小さな石碑に「一里塚址」と書かれている。 
東海道を歩いた時、小山に「外宮十五里」の道標があったのだが、見当たらないので、どこにあるのかと探していると、 近くの家のご主人から、この道標や 「 右さんぐう道左江戸橋 」 の道標、そして、 「 常夜燈江戸京屋弥兵衛 京大坂同組合中 開運安全 享保七壬寅年九月吉日 是よりいせみち 」  と刻まれている、火袋と屋根のない常夜燈は、このあたりの整備で、町民会館に移されてたと、教えられた。 
そういわれてみれば、今から十年以上も前とは景観が変わり、 今もここに残っていたのは、「 常夜燈大阪津国屋重右衛門 江戸嶋屋佐右衛門 元文五(1682)庚申歳正月手坂組中 」  と刻まれた常夜燈のみである。
このあたりの整備が終わったら、伊勢街道の道標は元のところに設置して欲しいとおもった。 

まだ早いので、関宿の家並は人影もなく静まりかえっていた。

「  関宿は東海道の四十七番目の宿場で、本陣が二軒、脇本陣も二軒、旅籠が四十二軒あり、 鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また、伊勢別街道と大和街道の追分として栄えた。 」

ワンマンカー x 鳥居 x 常夜燈 x 関宿の家並
ワンマンカー
元伊勢神宮一の鳥居
常夜燈
関宿の家並


鳥居のところが関宿の東の追分なので、伊勢別街道はここから始まる。 
県道10号を南に向かい、東海道関宿東交叉点で国道1号を横断して進むと、鈴鹿川に架かる勧進橋が見えてきた。 

「  一の鳥居から五百メートルのところにあるこの橋が勧進橋といわれるのは、 江戸時代、洪水で度々流されたが、勧進による浄財を求めて架けることができたことによる。 」

橋を渡ると勧進橋南交叉点があるが、ここは直進すると、亀山市関町古厩である。 
橋から三百メートル行くと、県道は右にカーブするところに三叉路がある。 
伊勢別街道はここで左折して狭い道にはいる。
その角の石に囲まれたところに、大きな石柱、「史跡鈴鹿駅跡」の標柱や常夜燈などが建っている。
標柱から奈良時代には既に街道の鈴鹿駅になっていたことが分った。 
そうしたことから古厩町という地名になったのだなあと思った。 

標柱「史跡鈴鹿駅跡(御厩)」 の説明文
「 鈴鹿駅は大化の改新後、全国に駅制がひかれた折、 畿内から東国、伊勢地方に向かう交通の要衝であった関地域に設けられた駅(うまや)で、駅馬二十匹を常備し、 駅舎、厩舎、井戸等の設備が営えられ、目印に松が植えられていたとされる。 
通称、御厩の松といわれるこの場所は、駅の井戸とされる都追美井を御神体とする大井神社の旧跡であることや また駅の名残と伝えられる御厩の松と呼ばれる松の巨木があったことから、 このあたり一帯が鈴鹿駅跡と推定される。 」

祠の中には、「御厩の松」と呼ばれていた老松の根株が保存されていた。

説明板
「 老松は、直径二メートル三十五センチあり、樹齢三百五十年程だったが、 昭和五十八年三月に病害虫のため伐採された。 」

大正五年大典記念とある「式内大井神社遺跡」 と書かれた大きな石柱が建っていた。
この三叉路の手前左手に、「都追美井」という井戸が残っている。

説明板「都追美井(つつみい)」
「 延喜式内社に比定される大井神社の御神体の井戸である。
大井神社は、明治四十三年に、熊野皇大神社、笛吹大神社や宇佐八幡宮と合祀され、関神社となっている。 
ここ関町古厩は、その地名から古代駅制の馬家(交通通信に利用する早馬を乗り継ぐための施設)があったとされ、 古代以降、参宮路として、また鈴鹿川渡河点として交通史上重要な地である。
都追美井の名称は万葉集十四の駅家に関する次の歌が由来とされる。
 「 鈴が音の 駅家の つつみ井の 水を賜へな 妹が直手よ (読み人知らず) 」 
 「 早馬のいる駅の井戸の清水を頂戴したいものだ。 乙女の手からじかに。 」  
   平成二十一年三月 亀山市教育委員会            」

勧進橋 x 「史跡鈴鹿駅跡」の標柱 x 老松の根株 x 都追美井
勧進橋
「史跡鈴鹿駅跡」の標柱
老松の根株
都追美井


三叉路を左折すると、古い家並みが残っているが、この道が伊勢別街道である。
道は少し上り坂になっているが、歩いて行くと道はカーブし、急な坂に変わった。 
坂を上りきったところで、県道10号と合流するが、目の前に国道25号のガードが現れた。 
県道に入り、ガードの下をくぐると右手に名阪国道ドライブインがあった。 
バス団体旅行で国道を利用するとよく連れてこられる施設だが、こんなところにあったので驚いた。
開店はしていたが、肉まんや調理を要するものは準備中で、特に買うものはなかった。
家内の好きな関の戸というお菓子があったので、それをお土産に購入した。 

ドライブインを出ると、亀山市関町萩原と津市芸濃町楠原の境で、ここから先は下り坂である。 
右手にアフリカの動物の置物を設置した連れ込みホテルがあった。 
そこを過ぎると右側に少し入ったところに、「石山観音道」の道標があり、 「拾二丁」とあった。

道は左、右、左とカーブしながら下っていく。 
ドライブインから八百メートルのところに、草刈りをしていた男性がいたので、 庚申塔はありませんかと伺うと、対面を指さしてそこだという。  
左手を見ると確かにこんもりとした土地があり、石仏や小さなお堂が見えた。
このあたりの坂を庚申坂というのは庚申塚に由来する。 
車を気にしながら、県道を横断し、庚申塚の中に入った。 

古い家並みが残る x 名阪国道ドライブイン x 石山観音道道標 x 庚申塚
古い家並みが残る
名阪国道ドライブイン
石山観音道道標
庚申塚


庚申塚には木造瓦葺きの小堂を中心として、左右に小堂の両脇には三体の石の地蔵様が祀られていた。 
小堂の中にある青面金剛像は、三面六忿怒形をしていて、台座に三猿が掘られていた。

県道の右手を見ると、谷の対岸にこんもりとした森がある。
ここは童子谷の城跡で、 城跡の一角には覚順和尚の墓石と高さ一メートル八十五センチの覚順和尚の寿塔がある。 

庚申塚をあとにして、坂を下っていくと、県道は左にカーブする三叉路に、下に下る細い道がある。  これが伊勢別街道である。
その先の右にカーブした先の両脇の家は水害を恐れてか、石垣の上に建てられていた。
ここは江戸時代に楠原宿のあったところである。 
昭和三十一年の町村合併により、旧明村は芸濃町になり、平成の合併で津市になった。 

この右にカーブするあたりを問屋垣内と呼ぶが、道の左側に「村社明神社」の石柱が建っている。
この石柱は、明村の無格社を橘天神といわれた神社に合祀して、村社明神社と改称した時に建てたものである。 

石柱のある家の間を抜けて進むと県道10号に出る。
道の向うに大きな常夜燈が建っている。
これは文化十年(1813)に建立されたもので、「柴垣社広前」と刻まれていた。 

青面金剛像 x 石垣の上の家 x 「村社明神社」石柱 x 大きな常夜燈
青面金剛像
石垣の上の家
「村社明神社」石柱
大きな常夜燈


田畑が広がり、その奥は小高い丘で、森の中にあるのは明神社である。
境内にはおさよ池がある。

伝承
「 昔、大雨のたびに池の堤が切れたので、人柱を建てることになり、 参宮の途中で迷子になっていたさよという少女を生き埋めにしたところ、 雨が降らないのに大水が出たり、病人が出たりと災いが起こったので、手厚く供養した、という話が残る。 」 

街道に戻り、南に向かって歩いていくと、右側に火の見櫓があある。
少し歩くと三叉路、正面の道は細く、街道は右折する。 
更に、その先で左折するが、ここは江戸時代の枡形の名残と思える。

道の両脇の家は平入りで中二階的な屋根の家が多い。 
蔵には白壁の上に板が貼っていた。
そうした家がこの集落の特徴だが、街道は直線ではなく、わずかづつカーブしながら続いている。 

集落の終わりに中ノ川があり、伊勢別街道はここで途切れ、県道10号に合流してしまう。
県道10号を歩き、中ノ川に架かる神玉橋を渡り、左にカーブする坂を上っていく。

明神社の森 x 枡形の名残 x 白壁の蔵 x 中ノ川
明神社の森
枡形の名残
白壁の蔵
中ノ川


左側に狭い道があるので、県道と別れ、その道に入る。 
これが伊勢別街道であるが、木が茂っているので、風が通り生き返った気がした。
しかし、それもつかの間。 すぐに炎天下に出てしまった。 

今日の津の最高気温は三十五度を予想しているが、高台なのと田舎なのでいくらか違うだろう。 
これまでにペットボトルのお茶を二本飲みほしている。 
坂を上りきると林地区で、平入りの民家や白壁に板貼りの蔵のある家があった。
先程の集落と違い、家は新しく、建築方式もまちまちで、樹木を植えている家が多い。 
また、ほとんどの家で駐車できるスペースがあった 。
これらは驚くことではないが、先程の集落では駐車場も目につかなかったし、 人影もみなかったのにここでは多くの人をみた。 
左側に明郵便局があり、その先に林交叉点のある三叉路付近の左側の民家の間に小さな石碑が建っていた。 

「  摩耗して石碑の文字は見えないが、六十センチ程の石には 「 弘化四年(1847)十二月氏子中 」 と刻まれているもので、 その上の小さなお堂の参道を示すものである。 」

石の存在も最初は気つかず通り過ぎてしまった。 
その上、参道は草で覆われてよく見ないとその存在は確認できない。 
大変狭い参道を上って行くと、蔦が格子窓に絡まった小堂があった。
お堂の中を覗くと、台座に三猿が刻まれた青面金剛像が祀られていたので、庚申堂である。 

つかの間の街道 x 林集落の家 x 小さな石碑 x 庚申堂
つかの間の街道
林集落の家
小さな石碑
庚申堂


街道(林交叉点から県道648号になる)に戻り進むと、駒田病院の先に交叉点がある。
左の角に二階建ての木造のレトロな建物がある。
洋風の建物は明村役場として建てられたもので、合併前は芸濃町資料館になっていたが、今は閉鎖され空き家になっている。

この交叉点は蛭谷街道との追分で、直進する道は亀山市楠平尾、安知本を経て白子への道である。 
左折する細い道の先に明小学校がわずかに見えた。
交叉点を直進し、三百メートル歩くと、まだ九月一日なのに稲刈りをしていた。 
早場米なのだろうが早いのに驚いた。

少し行くと左手に明幼稚園があり、その先の左側に晋門寺の山門があった。

説明板「晋門寺」
「 この寺は慈眼山総持院晋門寺といい、真言宗古義派仁和寺に属しています。 
本尊は十一面観音と伝え、聖観音、阿弥陀如来、釈迦如来を祀っています。 
大同元年(806)、伝教大師開創と伝え、明応年間(1490-1500)に観音寺として再建、 天正二年(1574)に滝川一益によって焼き払われた。 
陶えい和尚により享保七年に本堂が再建され、晋門寺と称し真言宗と改める。 
業半ばにして利章和尚にゆずり、信徒も多く、相可の豪商が帰依し五輪の塔を寄進し、 有名な伝説幽霊の片袖の背景となった。
仏殿は寄棟造り、内陣は鏡天井で、外門、中門、本堂を軸として中央に石燈籠を置いた。
寺宝に不動明王、千手観音、聖徳太子像、薬師如来、弁財天、十二神将、幽霊の片袖などがある。  」

中門をくぐると、正面に仏殿があり、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来を祀っている。
になっている。 
手前の両側に池があり、ハスの花が咲いていた。 
境内の赤い鳥居の右手に「仁王経」と書かれた石碑が建っていた。 

旧明村役場庁舎 x 稲刈り x 晋門寺山門 x 晋門寺仏殿
旧明村役場庁舎
稲刈り
晋門寺山門
晋門寺仏殿


晋門寺を出ると道を左折して進むと、林殿町バス停がある交叉点に出た。
ここでも道を間違えていることに気がつかない。
左の小高いところに真善寺という寺院があり、交叉点を左手には県道648号の標識があり、芸濃町林と書いてあった。 

交叉点を直進すると古くて立派な家があり、屋敷門のある家もあった。
百メートル程進むと、道が突き当たるが、右に行く細い道があった。 
ここで変と思ったが、舗装されているので進んでいくと、藪のようなところを通って下っていく。 
手元の資料には細かい地図はないので確認のしようはないが、小さな橋まできて、これは違うと確信した。 
どこで間違えたのか? と思いながら、県道648号の標識のある交叉点まで戻ると、 下校途中の小学生のグループと遭遇。 
地図を見せながら、横山池の方向へいきたいというと、道を間違えているとの指摘を受け、 間違えた場所が分かった。 
小学校の交叉点で左折すべきだったのである。 

そこまで戻らなくても、晋門寺の先の幼稚園のところを左折すればよいと教えてくれた。 
このようなことで、三十分余の時間を無駄にした。 

アドバイスを受けた道を進むと、県道10号(津関線)の信号交叉点にでた。
その角には 「 右 さんぐう道 左 京道 安永五丙申年 」 と刻まれた道標を兼ねた常夜燈が建っていた。
「御神燈」と書かれた石灯籠は安永五年(1776)に建立されたものである。 
伊勢別街道は、交叉点を横断して、その先にある細い道を進むが、楠原宿はそこで終わる。 

林殿町バス停交叉点 x 屋敷門のある家 x 県道10号の信号交叉点 x 常夜燈
林殿町バス停交叉点
屋敷門のある家
県道10号の信号交叉点
参宮常夜燈


道の両脇には黄金色になった稲穂が頭をたらし、刈り取りを待っていた。
そうした風景を眺めながら進むと、また、集落が現れたが、津市芸濃町中縄である。 
この集落では平入りの家と妻入りの家がほぼ半々だった。

中縄バス停を具義ると、右手に真宗高田派新立寺がある。
江戸時代には津藩により年貢が免除されていたようである。 

その先で土手に突き当たったが、そこにあるのは縦に長い長方形の横山池である。

「  この池は土地の人の駒越五郎八が文久二年(1862)に着工し、慶応二年(1866)に竣工した人口池である。
これに投じされたのは私財二万両で、この池の完成により、この周りの二百町歩が恩恵を受けるようになったという。 」

道は池に沿って付いているが、ここは左折し、次に右折して歩いていくと、 右側に大きな石碑と小さな石碑が並んで建っている。 

「  大きな石碑は昭和九年に建立された駒越翁顕彰碑で、小さな自然石の石碑は文化二年(1805)に建立された仁王経碑である。 
仁王経碑は小生が街道を歩いていて、初めてお目にかかったものである。
仁王経碑は椋本宿に伝染病が流行しないように祈願し、侵入防止を図ったもので、椋本宿の入口に建てられたものである。   」

黄金色の稲穂 x 中縄集落 x 横山池 x 顕彰碑と仁王経碑
黄金色の稲穂
中縄集落
横山池
顕彰碑と仁王経碑


ここから先は椋本宿である。

「 椋本宿は安濃川東岸の段丘の平地にあり、西に錫杖ケ嶽や経ケ峰を望むところに位置している。  
長さは千六百メートル程の宿場だったが、 名所図会に 「 妓院や客舎も数多く、多き旅人が此の駅に足を止むる沢ならん。 」 といわれた、 飯盛女が有名な宿場だったようである。 」

道は少し行くと道は左折し、左側に真宗高田派の西性寺がある。
三重県には真宗高田派の寺院が多い。

道(県道669号)は真っすぐに伸びていて、道幅もそれなりにあるので、江戸時代の街道時代のままのものではないだろう。 
三百五十メートル程行くと道は突き当たり、道が直角に右折する。
続いて、その先のイヅツヤの先で左折する。
これは江戸時代の宿場の特徴である枡形の跡である。 

椋本宿の問屋場はこのあたりにあったが、その跡は確認できなかった。 
その先左側に、 「 東海道四十九薬師霊場 瓦岡山東日寺 」 の看板があり、その奥に山門などが見えた。 
この集落の古い家は平入り中二階屋根で連子格子が美しく、大きな家が多かった。
化粧品店、パン販売所があり、巴屋製菓舗の先には小さいが、スパーぜにやがあった。
中町バス停が近くにあり、このあたりが旧芸濃町の中心だったところようである。

昼になったので、食堂はと見渡したが、その類の店は一軒もない。 
関で購入したパン二個はすでに腹に収まっているので、スパーで何かを購入しないとやばいことになる。 
入ってみて驚いた。 商品はほぼ定価で販売されていて、弁当の類は極めて少ない。 
コンビニの方が品揃いも多く安いが、コンビニは近くにないようなので、あんころもち二個を購入。 
トイレもないようなので、手は洗えず、外に出て、炎天下に座って食べた。 
競争の激しい時代に別世界のようなところだった。 

西性寺 x 椋本宿の枡形跡 x 椋本集落の家 x スパーぜにや
西性寺
椋本宿の枡形跡
椋本集落の家
スパーぜにや


巴屋製菓舗の側にある細い道には、「 霊樹大椋 従是南二丁 」 と書かれた石柱が建っていた。

「  霊樹大椋とは、天然記念物に指定されている樹齢千五百年以上といわれるむくの大木のこと。  
  このむくの木については坂上田村麻呂の伝説もあり、この地・椋本の地名は、この大木によるものである。 」

路地を入っていくと、右手に妙光山浄源寺があったが、三間楼門も本堂も最近出来たばかりのものだった。 
また、左手に行くと、天台真盛宗 光月寺があったが、さるすべりの花がまっさかりだった。
霊樹大椋はこの寺の奥にある。 

ぜにやの前に戻ると、百五銀行の反対側の角に、「 左さんくう道 」 と、 刻まれた江戸時代後期のものと思われる自然石の道標がある。 
その傍らには、明治四十三年(1910)建立の道路里程標がある。

百五銀行前の説明板「道標」
「 この道は、東海道と伊勢街道を結ぶ伊勢別街道にあたります。  ちょうど中町から横町に曲がる角に道標と木製標柱がみられます。 
自然石の道標には「ひだりさんくう道」と大書されており、年紀はありませんが、江戸時代後期のものと思われます。 右側面には、小さく、「右榊原」 とあります。
木製標柱(道路里程標)には、「津市元標へ三里 三拾三丁目八間」 「関町元標へ弐里五丁五拾壱間」  「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」 と記されています。
これは、明治時代に、道路の起点、終点、分岐点、などに知事が定める位置に設置されました。 
この地には、明治四十三年(1910)七月に建立されました。 
現在の木製標柱は二代目。           」

横山池を造った駒越家の邸宅は、巴屋製菓舗の道を隔てたところにあり、 明治天皇が参宮の際、宿泊したとされるが、今は駐車場になっていた。

霊樹大椋道標 x 天台真盛宗・光月寺 x 道標と道路里程標 x 駒越家跡(駐車場)
霊樹大椋道標
天台真盛宗・光月寺
道標と道路里程標
駒越家跡(駐車場)


ぜにやの前の通りは中町、その先の三叉路を左折すると百五銀行の前の通りは横町である。 
伊勢別街道は県道28号で、横町を通り、突き当たりを右折し、真っすぐ伸びている。
その角地に角屋旅館がある。

「  江戸時代の旅籠で、現在も旅館として営業しており、伊勢神宮に参拝する団体に人気があるときく。 
軒下にあるのは参宮講の指定旅籠であることを示す講札である。 」 

街道は東に真っすぐ伸びているが、六百メートルも行くと、道は左にカーブし、 椋本新町バス停の先の左側に延命地蔵堂が建っている。
入口の右側には文政四年(1821)の手水鉢があり、堂内には正徳五年(1715)建立の石地蔵・延命地蔵尊が祀られていた。

「  付近の人々の寿命が短かかったため、延命地蔵を建立したと伝えられるもので、  以前は、お堂の裏に講の田があり、収穫した米で維持されてきたが、現在は七十軒の家で守られているという。 」

旅館 かど屋 x 参宮講の講札 x 延命地蔵堂 x 延命地蔵尊
角屋旅館
参宮講の講札
延命地蔵堂
延命地蔵尊


そこから二百メートル足らずの左側、民家の隣に「仁王経」の石碑が建っている。

「  ここは椋本宿の東の入口で、横山湖にあった碑と対比し、下の仁王経碑と呼ばれたようである。 
この碑も同じ文化二年(1805)に建立された自然石の碑で、疾病流行の治除が目的で、 仁王経上巻六千五百八十三字、同下巻五千六百八字を小石に一字ずつ書き写し、 これを二部、都合二万四千三百八十二個の小石に浄書し、 これを一部ずつ分けて、村の西(上)と東(下)の碑の下に埋めた、という。  」

右側のコメリの先に新屋敷バス停があり、その先の信号交叉点を過ぎると、伊勢別街道はガソリンスタンドのところで、 県道10号に合流してしまう。
県道10号はこの先に伊勢自動車道のICがあるせいか、車の交通量が多い。 
県道には歩道がなく、白い線が引いてあるだけなので、歩いていると怖い感じがした。
対向車が見られる右側を歩いて行くと、ナフコ、しまむら、パチンコ富士、AUショップがあり、 信号交叉点を右折するとイオンタウン芸濃がある。 
周囲の住民はどうやらこの周辺まで車で来て、用事を済ましているような気がした。 
セブンイレブンがあったので、百円のアイスコーヒーとお菓子を買って、小休止をした。 

伊勢自動車道の入口を過ぎると、高野尾町へ入った。 
左側に三重大学生物資源学部附属紀伊・黒潮生命地域フィールドサイエンスセンター付属農場の看板があり、 その奥には緑が広がっていた。
かっては広大な原野が広がり、都にもその名が知られていたと言われる。 

新出バス停を過ぎると、右側の「山秀園」という看板の先に三叉路があり、中央に「国道23号線8km」 の標識がある。
伊勢別街道は、ここで県道とわかれて、左の細い道に入っていく。

仁王経碑 x ガソリンスタンド x 三重大学付属農場の看板 x 三叉路
仁王経碑
ガソリンスタンド
三重大学付属農場の看板
三叉路


その先の交叉点の右側に高野尾クリニックと薬局があり、左側に地蔵尊が祀られた小さなお堂がある。
少し歩くと左側に真照山安楽寺があり、境内には延命地蔵尊を祀ったお堂があった。
高野尾集落には平入りの大きな家もあり、屋敷門のある家もあった。

集落の中を七百メートル程歩いたが、道には人影もなく静まりかえっていて、 右に平行している県道10号の周囲とは対照的だった。 
集落に石仏や石碑がほとんどないが、これは明治の神社統合令により、合祀されて他に移転してしまったようで、 かっては地蔵や山の神、庚申塚などが点在してあったという。 

二神クリニックを過ぎた先の右側に小さなお堂があった。
中に入ってみるとお堂の前に「ぜに可け松」と刻まれた石柱が建っていた。

説明板「銭掛松」
「 昔、病気になった参宮客が、旅の半ばで引き返す際、この地の松に銭を結び付け、松を拝んで立ち去った。 
別の人がその銭を取ろうとすると、銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、 この松に銭を掛けると参宮位のご利益があるという民話が残る。 」  

お堂の近くの常夜燈は、文化五年(1822)の建立である。
句碑には 「 可布多かと 松に一声 郭公 香興 」 と刻まれている。 
お堂の中には松の切り株があり、古銭を紐で吊るしてあったが、これが銭掛松の名残りである。 

地蔵尊のお堂 x 真照山安楽寺 x 屋敷門のある家 x 銭掛松石柱
地蔵尊のお堂
真照山安楽寺
屋敷門のある家
銭掛松石柱


銭掛松をでると、津市大里睦合町の信号交叉点で、県道10号に合流した。
道の左手に「OK牧場生産直売」の看板があるのは大里ミートセンターである。
そこから七百メートル程歩くと、道路標示に 「 ↑津市街地 県道10号、 斜め矢印は白塚国道23号高田本山 」 とあった。
伊勢別街道は県道と別れ、左の細い道に入る。 信号交叉点を過ぎると西睦合バス停があり、 信号交叉点を過ぎると、左手に豊里中学校がある。
左に地蔵堂があり、道は右にカーブし、中の川に架かる向沖橋を渡る。
窪田宿の西の入口には青木地蔵が鎮座している。 
豊里公民館前にあったが、現在は三興自動車工業所の向かいに移設されている。 
カーブが終わると、豊里台バス停があり、400m歩くと大里小学校入口の変則的な交叉点に出た。

ここで寄り道する。 
右折して県道410号に入り、田に囲まれた道を行くと進むと、 大澤池東交叉点の左手に「式内石積神社」の標柱があり、鳥居の奥に社殿があった。
ここは大沢池の東北の山裾で、以前は前面は田地であったが、 県道10号の開通により、道の四つ角に鎮座することになった、というものである。

石積神社の社伝
「 織田信長の戦乱により、当社は兵火によつて社宇灰儘に帰したとき、神霊は伊勢神宮に遷らせ給うた。  そして、その、いつの世か不明であるが、山田地方に非常の暴風雨が頻発して人民災害に苦んだ。  そこで、宮司が神宣を伺ひ奉つたところ、これ石積の神の崇りにつき、神霊を鈴鹿の山続きなる尾前の地、 南に溜池あり、北に里ある所に遷し祀れよとのことあり、直ちに當社の旧社地窪田階下に奉遷せられた。  以來、里人は霊験のあることを知つて、ますます尊崇するに至つた。 
祭神は大山祇神で、その他、大日霊貴命、経津主命、活津日子根命、天津日子根命と誉田別命が合祀されている。 
」 

大澤池東交叉点があり、右手にサークルKと伊勢はんぺいの販売所があった。 
コンビニで冷たいものを買い、一服した。
親鸞聖人は汐見坂から一身田をご覧になったと伝えられるが、左手の伊勢別街道はほとんど平地なので、 親鸞聖人は現在の県道のような山道を歩かれたのではないかと、思った。 
 

OK牧場生産直売の看板 x 三叉路 x 石積神社 x サークルKと伊勢はんぺい
OK牧場生産直売の看板
三叉路
石積神社
サークルKと伊勢はんぺい


先程の交叉点に戻り、伊勢別街道(県道410号)を歩く。
大里小学校入口交叉点には、「 大里窪田町 県道410 」 と書かれた陸橋があり、 左折する道の電柱には「県道650」と書かれていた。  「大里窪田町」とあるので、江戸時代の窪田宿だったところであることが分かった。 

窪田集落の道の両脇は大きな家が多く、また、古い家もあった。
この道は国道23号の中勢バイパスと繋がっていることもあり、自動車の交通量が多い。 
それに対し、民家との間隔がないので、歩いているとひやとすることがある。 

右側に白い土塀と松の木のある家が見えてきたが、近づくと屋敷門があり、 石柱に「史跡明治天皇窪田御小休所」と書かれていた。
ここは明治天皇が伊勢参拝の際、立ち寄ったところで、江戸時代には本陣だったようである。

この家の道の反対側には「天台真盛宗正福寺」の石柱があり、奥に寺院が見えた。
そこから少し先を左に入ると、後柏原天皇勅願の六大院があるが、本尊は室町時代の千手観音坐像である。 

陸橋 x 窪田集落の家 x 天皇窪田御小休所 x 正福寺入口
陸橋
窪田集落の家
天皇窪田御小休所
正福寺入口


その先は大里窪田町出口交叉点である。
左右の道は津市内を回避するために造られた中勢バイパス(国道23号)である。
そのため、車が数珠つなぎになっていた。

大里窪田町出口交叉点を横断すると、右側に赤い昔の形の郵便ポストが現役で使われていた。 
車が渋滞している脇を電柱の間をくぐりながら進んだ。 
歩道用に道に引いてある線の部分は、電柱があるところでは途切れるので、こうしたことが起きる。 

道の両脇には相変わらず、びっしり家が建っている。 
坂部バス停を過ぎると、左手に真宗高田派真楽寺がある。
その先には仲福寺があるが、藤原時代末期の阿弥陀如来座像を安置している。
江戸時代にはこのあたりは坂部村で、窪田宿の一部を形成していた。 

道はその先で、上り坂になり、JR紀勢線を跨ぐようになっているが、 伊勢別街道は上りきったところの三叉路で、右折して狭い道に入っていく。

大里窪田町出口交叉点 x 赤い郵便ポスト x 仲福寺入口 x 三叉路
大里窪田町出口交叉点
赤い郵便ポスト
仲福寺入口
上り切った三叉路


少し行くと左側の民家の屋根越しに、常夜燈が見えてきた。
この常夜燈は、窪田宿に建立された夜燈で、隣の二階建ての家と比べても高いことが分かる。 

説明板「窪田常夜燈」
「 この常夜燈は、高さは約八メートル六十センチもあり、市内最大です。  文化十四年(1817)につくられたもので、伊勢別街道(江戸橋〜関町)の宿場であった窪田の東端の近江屋・大和屋と いった旅籠(宿屋)の近くにつくられました。 
燈籠の竿には、「江州」の文字がきざまれ、これは近江国(滋賀県)の商人が伊勢神宮へ寄進したことを示して います。 台座には琵琶湖の東の地域を表わしたと思われる波模様がきざまれ、 その下にはぎっしりと千人をこえる寄進者の名前が刻まれて、蒲生郡・愛知郡・野洲郡などの商人であったことが 分かります。
では、何故ここに建立したのでしょうか。 言い伝えによりますと、近江から大勢の人で、伊勢神宮へ寄進する際、 ここまで常夜燈を運んできましたが、荷車が壊れたり疲労などで困りはて、窪田の人々と相談したところ、 宿屋の近江屋の協力によりこの地に建立したと言われています。 
その後、この常夜燈は地震によって、三回も倒れましたが、地元・関係者の協力で再建されました。 
  平成二年九月十一日          」

ここは伊勢別街道窪田宿の東の端にあたり、一身田の専修寺への追分になっていた。 
当時、近江屋や大和屋などの旅籠があったといわれる。
常夜燈は、江州(近江国)八幡宿の金物商安村弥三郎らが中心となり、伊勢神宮に奉献するため、建立したものだが、説明板に表示されている地図を見ると、、  寄進者の村々として、大津市を始め、蒲生郡、愛知郡、野洲郡などの幅広い地名が書かれていた。 
伊勢神宮に寄進する常夜燈がここにあるのは、運んできた人々が運ぶのを断念した。 」 という説を紹介しているのは面白いと思った。 

伊勢別街道はここから南東へJR紀勢線を横断するように進んでいたと思われるが、 今は行くことができない。
この先の三叉路で左折して、紀勢線の踏切を渡る。
渡ったところで右折して、線路沿いに進むと、右手にJR紀勢線一身田駅がある。
一身田駅の前の道は県道55号で、伊勢別街道は直進する。
ここで、真宗高田派の総本山専修寺へ寄り道する。
交叉点を左折すると、ここから約三百メートルの道は、以前は桜堤があったので、桜道といわれたようである。
今は桜堤はなく、道の両側には家が建っていた。

窪田宿常夜燈 x 窪田宿常夜燈 x 紀勢線の踏切 x 一身田駅
窪田宿の東端
窪田宿常夜燈
紀勢線踏切
紀勢線一身田駅


その先は変則交叉点で、道の正面に 「 右本山参詣道 」と刻まれた円柱の道標、 その隣に「一身田寺内町」の説明板、そして、その右方に朱塗りの小さな安楽橋があった。

説明板「一身田寺内町」
「 この町は、弥生文化の原始時代から小さな農業集落でしたが、15世紀に専修寺(当時は無量斎院と言った)が 建てられてからは、それを中心として発展を始め、ことに16世紀からは、町の周囲に環濠を作り、 専修寺を中心とした宗教都市の様相を呈するようになりました。  こういう集落を一般に寺内町と申しますが、一身田はその典型と言われています。 
濠(堀)は東西約500米、南北400米で、町への入口は3つしかなく、橋のたもとに門があって、 夜は閉じられ、不審な者の侵入を許しませんでした。  町には住民の自治が進行し、専修寺からは商業資金の融資が自由に受けられたので、 商工業が活発になり、町は繁栄しました。  また、濠の外には橋向という遊郭地帯も生まれました。 
環濠は昔にくらべて幅が狭くなっていますが、昔のままのところに残っており、 町は静かなたたずまいを見せています。  歴史的町並みをどうぞごゆっくりご探索下さい。 」 

安楽橋を渡ると、左側は専修寺の境内で、唐門は修理中であった。

説明板「真宗高田派本山 専修寺」
「 この寺は、もと栃木県二宮町(現真岡市)高田にありました。  親鸞上人の関東地方教化によって生まれた門弟たちの中心道場として建てられた寺で、今もそこに伽藍が残っていて、国の史跡に指定されています。 
15世紀(室町時代)になって、第10代住職、真慧(しんね)上人という方が、 東海・北陸・近畿の各地へ積極的な布教を行い、多くの末寺ができたので、 その中心寺院として一身田に建立されたのがこの寺で、やがて教団の中心が関東からこちらに移土され、 ここが本山となりました。
伽藍は創建以来2度の大火に遭い、現在は3度目の再建で、御影堂(本尊は親鸞上人像)と、 如来堂(本尊は阿弥陀如来立像)とが国指定の重要文化財、 山門・唐門・御廟が県指定文化財で、堂の背後にある庭園は県の指定名勝になっています。  また、宝物館には国宝三帖和讃を始め、多くの親鸞聖人真筆が保存されています。  」

専修寺の創建は、寛正六年(1465)で、当時は無量寿院といったが、やがて、ここが真宗高田派の本山となった。 
伽藍は創建以来、二度の火災を受けているので、江戸時代以降のものである。 
その先に山門があり、山門の前に、「 明治天皇一身田行在所 」 の石碑が建っていた。 

説明板「専修寺山門」
「 御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。 すぐ前には、道をへだてて石畳が伸び、 その途中にある石橋や釘貫門、左右にある玉保院,智慧光院、さらには古い町並みと一体となって、 本山の門前にふさわしい雰囲気をつくっている。 
2階建で、間口20m、奥行9m、高さ15.5mの大きな門である。 正面の柱間は5間で、 そのうち仲の3間は扉を付けて入口とし、2階内部には釈迦三尊像を安置している。  下層の組物は大仏様の形式をとり、挿肘木という肘木が斗にのらず直接柱に差し込まれる形になっている。  全体の形式と組物の用い方は京都の東福寺三門(応永12年(1405)の建立・国宝)によく似ており、 参考にしたと思われるが、裏側で3間分だけ屋根が張出している点(裏向背)は他に類をみない珍しい手法である。
瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)ころから建築にとりかかり、 宝永元年(1704)頃に完成したものと思われる。  柱などの部材の傷みや傾きが激しくなったため、平成5年より3年がかりで大規模な修理が行われた。
 津市教育委員会         」

山門をくぐると正面にあるのは御影堂である。
昭和36年6月国に重要文化財に指定されている。 

説明板「専修寺御影堂」
「 専修寺伽藍の中心にある建物で、真宗高田派の改祖親鸞上人の座像や歴代住持の画像(これらの像のことを御影と呼ぶ)を安置しているので、御影堂といわれる。 
正保2年(1645)の大火ののち、津藩2代藩主・藤堂高次から土地の寄進を得て、 境内地がそれまでの3倍、約3万坪に拡がった。  その境内地の中央に万治2年(1659)から建立が始められ、寛文6年(1666)に完成した。 
間口約42m、奥行約33mという巨大建築で、国指定重要文化財建造物のなかでは、 五番目の大きさであり、木像建造物では県内最大である。 
屋根瓦は約19万枚使われ、中の畳も内陣の板の間を除いて725畳も敷かれている。 外観は和様という日本的で、 重厚な建築様式になっているが、内部は金欄巻きの柱、極彩色の天井、欄間の牡丹の彫刻など豪快さが目立つ。 
本体と向拝をつなぐ虹梁上の構造が長野の善光寺本堂などと同じ構造なのも特徴の1つである。 
大工の主棟梁は江戸坂本三左衛門であったと伝えられるが、この人物は江戸幕府の御用大工だったらしく、 藤堂藩を介して専修寺の御影堂の建設に加わったと思われる。  また、脇棟梁のひとり森万右衛門は一身田の人で、その後幕府作事方の一員として活躍したことも知られている。
  津市教育委員会          」                                

道標と安楽橋 x 専修寺唐門 x 専修寺山門 x 御影堂
道標と安楽橋
専修寺唐門
専修寺山門
御影堂


御影堂の前にある立派な銅燈籠は、伊勢津宿住人の辻越後守陳種の代表的な作品である。

説明板「専修寺銅燈籠二基」
「 この銅燈籠は、辻越後守陳種の代表的な作品で笠には8個の蕨手がのびやかにつけられ、 笠の上には火焔の付いた宝珠がのせられている。  基礎と中台は側面を8つに分けられていて、基礎のは唐獅子が浮彫りされている。  全体的に釣り合いのとれた、どっしりとした重厚な風格を感じさせる燈籠である。 
どちらも飯高郡名残町(現松坂市新松ヶ崎町)の小嶋学兵衛慶次が、3人の33回忌の供養のために寄進したもので、 この3人の供養が終わった延宝七年(1679)ころに造られたものと考えられる。 
専修寺ではこの年の9月、御影堂の再建落慶法要をとり行っている。 
作者の辻氏は、津の釜屋町に住んでいた鋳物師で、この他にも 多くのすぐれた作品を残している。
   津市教育委員会       」  

御影堂の左手にある大きな建物は寛延元年(1748)の建立の如来堂である。
昭和36年に国の重要文化財に指定された。

説明板「専修寺如来堂」
「 御影堂の西にならぶ建物で、堂内中央に、 「証拠の如来」と呼ばれる専修寺の本尊阿弥陀如来立像を安置している。 
「如来堂建立録」によると、享保4年(1719)に建設が始まったといい、資金不足のために工事は30年近く要し、 寛延元年(1748)に落慶遷仏の行事がおこなわれた。 
工事については地盤が軟弱であったため、柱の基礎の部分は1.5mの深さまで軟弱な土を取り除いて、 代わりに小石を入れ、3年以上かかって突き固めた。  東南隅の礎石に「寛保三癸亥年(1743)七月十二冥、本覚道信士俗名勘六」という刻銘があり、 勘六という老人が工事の成功を祈願して人柱になったという点説が残っている。 
屋根は二重になっているが、二階はなく、下の屋根は裳階といって庇のような役目をしており、 正面には唐破風の向拝が付いている。  上の屋根の軒裏は「扇垂木」といって、垂木が扇を広げたように放射状に作られている。  軒下の組物は四手先の複雑なもので、三段の尾垂木の先は象・竜・獏の彫刻になっている。 
また、下の屋根の軒下の組物の間にある蟇股には、中国の故事に基づいた彫刻が掘られ、 屋根の左右の妻飾には鶴の彫刻がみられる。  このように全体は禅宗形式で、組物が複雑で彫刻も多く、彼名印象を受ける建物である。 
昭和58年から7年半かかって大修理が行われた。  
  津市教育委員会                」

専修寺の山門を出ると、参道の両側には玉保院と智慧光院がある。

説明板「絹本著色 阿弥陀如来像」
「 専修寺の山門前には、道を挟んで「東院」とも称される玉保院と、「西院」とも称される智慧光院があり、 落ち着いた景観を作り出している。 この玉保院に伝来するのが、絹本著色阿弥陀如来像である。
正面を向き、来迎印を結び、蓮台の上に直立している姿が大きく描かれている。  着衣部分は、農緑色と精緻なきり金文様で表され、頭から光明が四方に放たれている様もきり金で表現されている。 作者や製作年代は不明であるが、作風などから判断して鎌倉時代の制作と考えられている。  裏面には、真宗高田派の僧、真ねによる裏書きが貼られており、それによると、明応5年(1496)に修理が行われ、 専西寺(福井県大野市、現在は廃絶)に納められたとある。  また、この画像を収納する箱の蓋裏には、もとは比叡山にある松禅院に伝来したものでとある。  このことから、もとは松禅院にあったものが修理された後、専西寺へ入り、 元禄年間になり、玉保院へ移されたものであると考えらるる。 
保存状態もよく、鎌倉時代にさかのぼる優れた芸術作品である。  
   津市教育委員会        」

参道を進むと、釘貫門と石橋があった。
釘貫門は寺院と町屋を隔てる堀の北側に位置し、堀に架けた石橋と併せて、 聖俗の結界をなす装置になっていたのである。

説明板「専修寺釘貫門 一対2棟  ・ 石橋 1基」
「釘貫門(くぎぬきもん)とは、柱を立てて並べて、貫を通しただけの簡単な門のことであり、 町の入口に設けた木戸のようなものを示すこともある。  現在はここの釘貫門だけが残るが、宝暦年間(1751〜63)の木版画には他に三ヶ所矢来(釘貫門)が描かれている。
この釘貫門は道路を挟んで、同型同大の東西二棟からなり、 石橋と釘貫門の対向する親柱には高欄が設けられていた痕跡が残る。  双方を繋ぐ構造や開閉の装置を持つものではないが、専修寺では釘貫門と称されている。  釘貫門は、山内寺院と町屋を隔てる堀の北側に位置し、 堀上に架けられた石橋と併せて聖俗の結界をなす装置となるものであり、 本来の形式を留める現存する貴重な例である。

石橋は、山内寺院と町屋を隔てる堀の上に架かる橋である。  堀上に円弧状の橋板11枚を並べた石造の反り橋で、 橋の南側の橋詰では、高欄は親柱から水路に沿って折れ曲がるが、 東側では一部部材を欠き、欠損していてその一部は近年新材となっている。  制作時期は、「高田史料」第3巻(松編)の宝暦10年(1760)編に、 「三月八日、山門前石橋成ル、初渡式」 との記述があることから、 その建立時期は明確である。   」

説明板の右上には宝暦年間の木版絵図が描かれていて、 石橋と釘貫門そして山門の位置がその図で分かり、変わらなく建っていることが確認できた。

金燈籠 x 如来堂 x 釘貫門と石橋 x 宝暦年間の木版絵図
金燈籠
如来堂
釘貫門と石橋
宝暦年間の木版絵図


石橋を渡ると、商店などがある通りに出た。
上記説明板「専修寺釘貫門・ 石橋 」には、宝暦年間の木版絵図があり、石橋と釘貫門の右側は寺内、 左側は町屋が描かれ、当時の様子が分かった。

専修寺の参拝も終りこの後、先程の街道に戻る。
その先の交叉点で右折し、JR紀勢本線を越えると、例禊橋(れいけいずはし)がある。
橋は毛無川に架かっているが、ここは斎王が禊をしたところと、伝えられる。
伊勢別街道はその先で、紀勢本線の工事で道が途切れている。

交叉点まで戻り、毛無川にかかる桜橋を渡る。
左に入る道の先に鳥居が見えたので入っていくと、 鳥居の脇に一心龍王大権現と延命地蔵尊の石柱が建っているが、社にはこれらの神が祀られている。

一身田の商店がある通り x 江戸時代の参道風景 x 桜橋 x 一心龍王大権現社
一身田の商店がある通り
江戸時代の専修寺参道風景
桜橋
一心龍王大権現社


街道に戻り進むと、一身田小学校のグランドの手前に変則五差路がある。
正面にJR紀勢本線の線路が見えるが、五差路の右の細い道は伊勢別街道の名残りで、 奥はJR紀勢線の工事により分断されている。

右手に踏切を渡る大きな道がある交叉点に出た。 
県道55号は踏切を越えて行くが、伊勢別街道は一身田小学校脇の細い道を行く。
小学校のグランドを過ぎたところ右側の三叉路を入った踏切脇になぜなのか、 「南無阿弥陀仏」の石柱が建っていた。
このあたりは一身田大古曽地区だが、住宅地で、商店はみあたらない。 
この道の周辺は一身田平野である。

右手に成願寺があり、参道に永代常夜燈が祀られている。
とくにこれはというものはないので、黙々と歩いて行く。
前方左右に高架線のようなものが現れたが、これは伊勢鉄道の平野高架橋である。

一身田小学校グランド x 南無阿弥陀仏碑 x 大古曽地区住宅 x 伊勢鉄道の高架橋
一身田小学校グランド
南無阿弥陀仏碑
大古曽地区
伊勢鉄道の平野高架橋


高架橋を越えると、ファミリーマートがある四差路の先にY字路があるという変則的な交叉点に出た。
伊勢別街道はY字路をここで右折する。
道のロータリーに市指定無形文化財一身田中野獅子舞の看板があった。
専修寺のあたりに比べ、市街になったということで車の通行も家数も増えてきた。 
五六川を渡ると、右手に大乃巳所神社(見初大明神)と別当寺の慈眼寺がある。
百メートル程進むと三叉路で、道は左折していくので道なりに行く。
左手に三重短大があり、そこを過ぎると、三叉路の先に近鉄名古屋線の踏切があった。 

伊勢別街道は踏切を渡ると右折して、線路に沿って南にむかう。
家がごみごみしたところを四百メートル程歩くと、左に常夜燈がある交叉点に出た。 

「 ここは、江戸時代、津宿の上浜町で、 交叉点には、明治二十二年に再建された 「 左高田本山道東京とをりぬけ 」  と刻まれている道標と、安永六年(1777)に建立された常夜燈が建っている。 」

伊勢別街道は江戸橋西詰め交叉点である、ここで伊勢街道に合流していた。 

「 ここは伊勢街道と伊勢別街道との追分で、関宿から始まった伊勢別街道の終点である。 
江戸時代の関西方面から東海道を歩いてきた旅人は、左の伊勢街道をきた江戸からの旅人達と合流し、 この交叉点を直進して、伊勢神宮に向かって行った。 」

伊勢別街道を歩き終えたので、交叉点を右折すると、右手に近鉄江戸橋駅がある。
このまま名古屋へ向かう方法もあるが、津駅まで行って、三重のお菓子を妻へのお土産として購入、 特急で名古屋へ帰った。 

変則的交叉点 x 中野獅子舞看板 x 道標と常夜燈 x 近鉄江戸橋駅
変則的交叉点
中野獅子舞看板
道標と常夜燈
近鉄江戸橋駅





伊勢街道目次



かうんたぁ。