伊勢神宮の正式参拝順序は二見が浦〜外宮〜内宮である。
古から最近までは伊勢参拝の前に、穢れをはらうため、二見浦の立石浜でみそぎをするのは習わしであった。
しかし、現代はその風習は廃れ、伊勢参りは外宮か内宮、あるいはその両方を参拝することで済ましていることが
多い。
今でも二見興玉神社の近くにみそぎ場はあるが、二見興玉神社で藻塩を使った御払いで代用されるのが通常である。
高校時代の友人と毎年旅行しているが、 「 伊勢街道は全部歩いたが、二見が浦には行けなかった。 」 と話したら、伊勢神宮には久しく行っていないので、訪れたいという。
小生も二見が浦に行くチャンスと、その話にのった。
妻の助言もあり、鳥羽から二見ヶ浦そして伊勢神宮というコースになった。
平成二十一年九月十六日、横浜からくる友人をJR名古屋駅で迎えて、
近鉄名古屋駅で九時二十五分発特急伊勢志摩ライナーに乗る。
久し振りの再開であいさつを交わし、珈琲とパンを渡して、旅行計画を説明していたら、
気がつかない間に時間が過ぎて、十時四十二分、鳥羽駅到着した。
駅を降りた後、列車の撮影をする。
近鉄は特急を伊勢から大阪と名古屋へ走らせているが、
路線で車体は違い、いろいろなタイプが走っている。
撮影が終わると、駅を出て桟橋に向かう。
訪問先は賢島か鳥羽かを検討したが、鳥羽の方がおもしろいだろうということになり、
最初に鳥羽湾をめぐる遊覧船に乗ることにしたのである。
駅から桟橋までは思ったより近く、あったいう間に着いてしまった。
乗る船は十一時半発なので、三十分近くある。
しかたがないので、桟橋に停泊している船などを写して時間を過ごす。
対岸に見える白い建物は、今夜泊まる鳥羽国際ホテルである。
桟橋は小生達が利用する遊覧船だけではなく、近隣の島々へ行き来する小さなフェリーなどが運行しているようで、待っている間に出航していった。
やがて、鳥羽湾めぐりの船が到着。
乗船客を降ろすと、待っていた我らを乗せて、すぐに出航した。
屋上もあるのだが、乗りくんだ船内の部屋で、窓越しに外を眺める。
以前訪れた時もこのコースに乗ったが、海上の景色に変化が乏しいので、よく覚えていなかった。
ウエイトレスというにはおばちゃんといったほうがピンとくる女性が、飲み物や食事の注文をとりにきた。
それが終わると、船内スピカーから、かもめへ餌があげられる、というアナウンスがあり、餌を売りにきた。
友人は、「 おもしろそうだから行ってみる。 」 というが、小生はそのまま窓の外の風景を見ていた。
木が生い茂った小島や海に浮かぶ筏などの景色が展開するだけなので、すぐに飽きてきた。
船室内を見るとほとんどの人が後方デッキに移動したようで、がらんとしている。
小生も 鴎の餌つけとはいかなるものかの見学に加わった。
かもめの水兵さんの童謡があるので、かもめはかわいいというイメージがあるが、
実際は獰猛な鳥でからすも負けてしまう程である。
それが餌を持っている人の手を目がけて飛びついてくるので、大多数の人は餌を持っていられず、
食べる前に手を離してしまう。
東北の松島でも行っていたが、松島のかもめはうまく餌をさらっていた。
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あちらはえつけの歴史が古く、遊覧船の数も多いので、かもめも経験豊富で腕を挙げているのかもしれないと、
思った。
餌はすべて海に落ちていくので、鴎は群れをなして、餌を拾っていた。
風の関係もあるのか、左側にかもめは群がり、右側には少なかった。
友人も餌を買って参加しているのだが、右側にいたので、かもめにめぐりあえたのは少なかったようであるが、
初体験というからこれはこれで、よい思い出になったことだろう。
餌やりが終わると、イルカ島の案内アナウンスがあり、島に到着したので、あわただしく下船する。
イルカ島へはこれまで立ち寄らなかったので、どのような島か興味があった。
イルカショーの案内に従い、会場に行き、早速ショーを見る。
全国にある水族館で同様なショーが行われているが、ここのは小規模なものなので、インパクトに欠けたが、
海の一部を仕切って飼育している点は珍しい。
有料リフトでのぼれる富士見展望台からは鳥羽湾を一望することはできるが、距離は短く料金は高い。
その近くで行われたアシカショーは一匹だけの貧弱なもので、特に見に行くものではないと思う。
売店の話では、海水浴ができるビーチ(日向島海水浴場)があるので、
夏は賑わうようであるが、近鉄の経営でなければ、とうに閉鎖されているだろうと思われる施設である。
昼食を終えて船に乗ろうとしたら、下船の改札口にいたため、乗船を断られ、次の便を待った。
アシカ島の施設は昭和50年代のもので、時代おくれであるが、我々老人にはのんびりできた感じで、
損をしたという感じはなかった。
御木本真珠島か鳥羽水族館のどちらか一つしか見学する時間しかなかったので、友人の希望を聞いて水族館に行くことにした。
小生は無類の水族館好きで訪れたところに水族館があれば、必ず寄ることにしている。
鳥羽水族館が開館したころ、ラッコの餌やりが人気を呼び、小学生だった娘が見たいというので、近鉄を利用して
日帰りで訪問したという思い出がある。
三回訪問しているが、久し振りなので楽しみ!である。
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入館するとアシカショーが行われるというので、イルカ島で見たばかりだが、こちらはどうかと訪れた。
入場者数は全国でもトップクラスとあり、会場は満員。
舞台照明や色彩に優れ、ショーにストリーがあり、ユーモアもあって、見ていて飽きさせなかった。
その後、館内を見て歩く。
巨大水槽では大阪の天王山や沖縄の美らみ水族館の方が大きいように思われたが、
収容されている魚の種類では多いのではないか?
順番に水槽を見て行くと、あっという間に数時間過ぎた。
照明や説明も的確でいつ訪問しても納得できる水族館である。
ゆらゆら泳ぐカサゴは紫を背景にして美しく撮影できた。
娘と見にきたラッコへの餌やりは現在も行われていたが、当時のような人気はないようで、観客は少ない。
ラッコが餌をもらい、腹に乗せて、食べる姿はかわいい姿は変わらないが、水槽が汚れていて見ずらかった。
人気を集めていたのはジュゴンである。
ジュゴンに人参を細切りしたものを飼育員が水槽に潜って餌として与えるショーが行われていたが、
これは面白かった。
ジュゴンはのんびりと餌を食べるのであるが、飼育員が餌を与えようとすると、
それを狙ったウミガメや魚が横取りしようとする。
飼育員がそれを制止するが、亀はそれでも食い下がってなんとか人参を手に入れようと努力するしぐさなどが
面白かった。
ジュゴンはこんぶなどの海草や人参などの野菜を主食にしていることを初めて知った。
友人は疲れた様子なので、喫茶店で一服した後、水族館を出た。
鳥羽駅のロッカーに寄り、荷物を出し、駅に迎えに来ているマイクロバスで鳥羽国際ホテル別館潮路亭に向かった。
潮路亭は純日本旅館で、温泉施設が併設されているので、到着するとすぐ湯船に向かい、露天風呂で湯につかり、
のんびりと雑談に興じた。
秋のシルバーウイーク前であり、また、早い時間だったので風呂は貸切状態で、その間訪れたのは一人だけだった。
その夜は日本料理と日本酒で杯を重ねて、二人とも満足して、就寝となった。
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二日目の九月十七日。 山際から朝日が上がり、今日もよい天気のようである。
今日の予定は二見ヶ浦から内宮へ行き、夕方は鳥羽に戻るというもの。
高校の修学旅行で伊勢から奈良、京都と廻ったのは、今から五十年以上も前の出来事であるが、
それ以来、二見ヶ浦へ訪れていないので、二見浦の朝日を見ながら、思い出が語られればと思ったが、
鳥羽からではその時間には間にあわない。
二見浦へは三重交通のCANバスを使用する。 CANバスは一日乗り放題で千円である。
鳥羽バスセンターから出ているので、散歩を兼ねてバスセンターに向かい、バスに乗り、夫婦岩東口で降りた。
バス停前の二見シーパラダイスの売店の中を歩いて行くと、二見興玉神社の赤い鳥居がある道に出た。
赤い鳥居の先には、境内社の龍宮社が祀られていた。
「 龍宮社の祭神は海の神である竜神大神と大綿津見神である。
寛政四年(1792)に二見郷江村が大津波により大損害を受けた後、
五十鈴川の河口に竜神を勧請したのが神社の始まりとあり、
現在地に移転してきたのは最近のことのようである。 」
そのまま歩くと、右手に夫婦岩が見えてきた。
「
古くは、伊勢神宮を参拝する人々は最初に二見浦へ訪れたのがしきたりで、 これを「浜参宮」といった。
夫婦岩沖には、神が寄りつく興玉神石(現在は海中に没して見えない)があり、
周辺の立石浜は神々がいる常世の国から寄せる波が最初に届く聖なる浜と信じられてきたことから、
この浜は伊勢神宮の禊場として人々の信仰を集めてきた。
なお、興玉神石は、夫婦岩の沖合七百bの海中にあり、猿田彦大神ゆかりの霊石と伝えられてきた、という。 」
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伊勢講が盛んであった戦前くらいまでは、外宮から内宮へ廻る神宮参拝や神事に参加する前には、
この浜でみそぎをするのが慣わしになっていた。
みそぎ場は現在もあり、「 静かに!! 」 の注意が書かれていたが、遷宮行事への参加者は当然だが、
その他の人のみそぎは稀という。
二見興玉神社の説明文
「 本来は海水につかって禊をするが、現在は二見興玉神社に参拝し、興玉神石より採取した無垢塩の海草で、
身を清めるおはらいで代用される。 」
二見興玉神社で、これから外宮と内宮をお参りすると報告し、お参りした。
社殿にかえるのお守りがあったが、猿田彦大神のお使いが蛙であることによるという。
「
二見興玉神社は、天平年間(729〜748)、行基が二見浦の裏山に太江寺を開山した時、
境内に鎮守社として設けた興玉社に、
境内にある天の岩屋の中に祀られていた三宮神社を、明治四十三年(1910)年に合祀して出来た神社である。
興玉社の猿田彦大神と三宮神社の宇迦御魂大神を祭神として祀っている。 」
三宮神社が祀られていたという所に行くと、「天の岩屋」の表示板があった。
洞窟だろうと覗いてみたが、はっきりしなかった。
お参りを済ますと、その先には二見浦の旅館街があったが、小生が修学旅行で泊まった頃と違い、
旅館の数は減少っていた。
温泉がないこともあるが、江戸時代に普通だった浜参宮という参拝方法が小生も同じであるが、
現在では知られていないため、
伊勢神宮の内宮と外宮、時には内宮のみをお参りして帰ってしまうことによるのだろう。
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二見浦表参道のバス停から、再び、CANバスに乗り、内宮に向かった。
バスは伊勢・安土桃山文化村を経由し、内宮前に到着した。
昼食をとるのを兼ね、おはらい町を見学することにした。
内宮の 門前町として発達してきたこの町は、明治の初めまでは多くの御師が存在し、神宮に代わって神楽をあげたところから、「おはらい町」と呼ばれるようになったという。
道の両側には、伊勢地方独特の切妻、入母屋、妻入り様式の家屋が土産物店や菓子屋、旅館として軒を連ねている。
町の中央あたりに、伊勢名物赤福本店があった。
「
建物は、明治十年(1877)の建築であるが、赤福の創業は宝永四年(1707)というから、今から三百年程前である。
皇大神宮(内宮)前の五十鈴川のほとりで、やわらかい餅を晒餡(さらしあん)でくるんだものを、
「赤福」 という名で発売した。
当初は砂糖が貴重品だったことから、塩味の餡であったが、八代将軍吉宗のさとうきび栽培奨励により、
砂糖が手に入るようになったことから、次第に黒砂糖餡を使うようになった。
現在の白砂糖餡になったのは明治に入ってからと、いう。 」
友人と一緒に建物に入り、受付で赤福セット(350円)を注文すると、奥の広間に案内された。
すこし待つと、お盆に番茶と赤福餅が三個乗った皿が運ばれてきた。
餅の上の餡に三筋の線が引かれているが、これは五十鈴川を表したものという。
手作りで、搗きたてなので、うまかった。 あっという間に、食べ終わり店を出た。
赤福前の交差点の先には「おかげ横丁」というのがある。
お伊勢さんのおかげという感謝の気持を持って、平成五年に誕生させたという町で、約二千七百坪の敷地内には、
江戸から明治にかけての伊勢路の代表的な建築物が移築、再現されている。
、
芝居小屋を除けば、みやげ店や食べもの屋などのショッピングタウンというものである。
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芝居小屋の上には役者絵が挙げられていたが、ここに入るには三百円かかるが、内容がはっきりしなかったので、入らなかった (右写真ー屋根の上は役者絵)
伊勢名物に伊勢うどんがあるので、看板を見つけてその店に入った。
伊勢うどんは、やわらかく茹でた極太の麺に、たまり醤油をベースとした黒く甘みのあるつゆを、
少量かけていただくものである。
見た目と違い、やわらかくこしがないので、最初食べた時は頼りなく感じた。
たまり醤油がどす黒くて不気味に感じ、塩からいのでは思ったがこれまた、予想に反していた。
こうした経験をしている小生は悠然と食べたが、関東人の友人はどう感じだろうか?
食事の後、おはらい町に戻り、神宮道場や祭主職舎などの歴史的建造物を見ながら歩く。
猿田彦神社へお参りするため、交差点を渡って、鳥居前に出た。
猿田彦神社の本殿は、「さだひこ造り」 と称する特殊な妻入造で、
欄干、鳥居に八角の柱を使っている独自の建物である。
猿田彦神社に祀られるのは猿田彦大神である。
「 日本書記によると、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨を先導をしたのは猿田彦大神とされ、古来、交通安全、方位除けの守護神といて、各地で信仰されてきた。
天孫降臨を終えた猿田彦神は、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まり、その子孫は、宇治土公(うじつちぎみ)として、
伊勢神宮の要職を務め、猿田彦大神を私邸内に祀ったのが猿田彦神社の創祀という。 」
境内には、芸能の神・天宇受売命(あめのうずめのみこと)を祀る佐瑠女(さるめ)神社があった。
神社の説明板
「 天照大御神が天岩窟(あめのいわや)に籠られたときに神楽をされ、
大御神が再び現れて平和な世を迎えられたと伝えられる。
天孫降臨の際は、猿田彦大神と最初に対面、大神が御啓行(みちひらき)の後は詔により、
ともに伊勢に来られ、功により媛女君の称号を受けられました。 」
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猿田彦神社前からバスにのり、一つ先の内宮前で降り、友人を内宮の正面にかかる宇治橋の前まで案内する。
現在遷宮のため、宇治橋は架け替え工事中で、参拝者はその脇の仮橋を渡る。
遷宮時に掛け替えられる宇治橋は、壊された後、新橋の工事が行われるが、
それから半年経た時で、工事はかなり進捗している様子だった。
「
宇治橋は、長さ百一b八十a、幅八b四十a、渡り板には、約六百枚の檜が、すりあわせと呼ばれる、
船大工独特の技術で並べられて作られる。
宇治橋の渡り始めは、四十日後の十一月三日で、
旧神領から選ばれた渡女を先頭に全国から選ばれた三代揃いの夫婦らが橋を渡る。 」
右折すると神苑で、右手に大正天皇御手植松があり、火除橋がある。
その先に鳥居があり、その先の右手の五十鈴川御手洗場は、参詣する前に心身を清める場所である。
ここで、五十鈴川の水で清めた。
その上に滝祭神がある。
「 滝祭神は皇太神宮(内宮)にある境内社である。
滝祭大神を祀っているが、内宮が出来る前から地元民により信仰されていた古い神社なのだろう。
五十鈴川の対岸には、「風日祈宮」という風の神を祀る別宮があるが、
鎌倉時代の元寇のとき、神風を吹かせて日本を守った、といわれた神である。 」
そこを過ぎると、二の鳥居で、それをくぐると、神楽殿があった。
その隣にあるのは、五丈殿と御酒殿、由貴御倉などがある。
左手に石垣が現れ、そこには別宮遥拝所があり、籾だね石があった。
その先、左側の石段の上は今回の式年遷宮で平成二十五年に新しい正殿が建てられる新御敷地である。
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その先右側の御贄調舎は、お祭の時にお供えするアワビを調理する儀式が行われるところである。
その反対側に三十段程の石段があり、上った先に廻りを四重の垣根に囲まれた御正殿がある。
「
皇大神宮(内宮)は、垂仁天皇二十五年に天照大神を当地に祀るため、祠が建てられたのが始まりと伝えられる。
天武天皇から持統天皇の時代に現在のような大きな社殿になり、
二十年に一度の式年遷宮もそのころ始ったようである。
御正殿は唯一神明造りの古代様式を伝え、妻造りの平入で萱葺きの屋根には十本の鰹木(かつおぎ)がのせられ、
東西両端の破風板の先端が屋根を貫いて千木(ちぎ)となっているが、
四本の千木(ちぎ)の先端は水平に切られている、と警備員から教わった。 」
石段を上ると鳥居があり、その奥に幕に覆われた建造物(板垣南御門)があるが、
ここから先は撮影禁止である。
御正殿は生絹の御幌(御幕)を通してしか、対面できないし、皇室関係者以外はここで参拝するのである。
参拝後、荒祭宮へ向かう。
左側に稲を納める御稲御倉(みしねのみくら)と
古い神宝を納める外幣殿(げへいでん)がある。
その先には石段を上ると荒祭宮があった。
荒祭宮は、内宮の境内にある別宮の一つであるが、天照大神の荒御魂(あらみたま)を祀っているので、
内宮の次に参拝することになっている。
「
社殿は、内宮に準じ、内削ぎ(水平に切られている)の千木と偶数の六本の鰹木を持つ萱葺の唯一神明造の建物である。
他の別宮に比して社殿の規模が大きく、幅二丈一尺二寸、奥行一丈四尺、高さ一丈四尺八寸あり、
南に面して建っている。 」
以上で、皇大神宮 (内 宮)の参拝は終わった。
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友人も満足したようなので、おはらい町で一服後、再び、CANバスに乗り、鳥羽バスセンターに戻る。
駅前から鳥羽国際ホテルの送迎バスに乗り、ホテルへ行った。
今晩とまるのは鳥羽国際ホテル本館で、案内された部屋から湾内が一望でき、
室内が広い立派な部屋だったので、友人も喜んでくれた。
昨日入った露天風呂まで送迎してもらい、入浴後はホテルのレストランでフランス料理とワインを飲み、
いい気持になって早めに寝てしまった。
最終日の九月十八日も天気に恵まれて、鳥羽湾はおだやかな様相を呈していた。
当初の計画では松阪へ寄ってとしていたが、友人が疲れている様子なので、朝のんびり出発し、
横浜に早めに到着の方がよいだろう、と 豊受大神宮 ( 外 宮 )のみの見学に変更した。
朝食をとり、宿泊精算後、送迎バスで鳥羽駅に行き、近鉄の鈍行で伊勢市駅まで行った。
伊勢市駅から外宮まではタクシーに乗る程の距離でないので、てくてく歩くことにした。
すぐにバス停がある表参道に着き、表参道火除橋の前に立った。
表参道手水舎の向かいにある、高さ十米、樹齢千余年の楠の大木は平清盛が勅使として参向したとき、 冠に当たった枝を切らせたという逸話から、その名が付いたといわれるものである。
「 豊受大神宮(外宮)は、内宮より五百年も後の雄略天皇二十二年、天皇の夢に天照大御神が現れ、 「 自分一人では食事が安らかにできないので、 丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように!! 」 という神託があったので、 内宮に近いこの山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのに始まる、とされる。 」
緑の濃い木立の中を歩いて行くのは気持がよいものである。
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第一鳥居、第二鳥居の先に神楽殿があり、その先には九丈殿と五丈殿と広場がある。
「
表参道から見て手前の建物が九丈殿で、建物正面の長さからその名称が付いている。
豊受大神宮の摂末社遙祀の祭典が行われるところである。
五丈殿は表参道から見て奥の建物で、雨天のときの修祓や遷宮諸祭の饗膳などが行われる。
その前の庭は大庭といわれ、遷宮祭の玉串行事や幣帛点検の儀式が行われる。
手前左隅(西南)の榊は、一本榊または廻榊(めぐりさかき)と呼ばれる。
昔は、お祭りが終わると神職が冠につけていた木綿(ゆう)をこの榊の枝にかけたといわれるものである。 」
その先の右手には豊受大神宮(外宮)の御正殿があり、内宮と同じ唯一神明造の様式であるが、
鰹木は奇数の九本で、千木が垂直に切られているなど、いくつかの違いがある。
ここも内宮同様、鳥居をくぐった外玉垣南御門までしか入れず、そこからの撮影は禁止である。
伊勢神宮の正式参拝順序は外宮より内宮なので、我々は逆になったので、 神様には申し訳ないとお詫びしながら、外玉垣南御門の前で参拝を終えた。
「 豊受大神宮(外宮)には、天照大神などの神様に食事を出す御饌殿(みけでん)と日々供える食事の神饌を整える忌火屋殿(いみびやでん)があり、 内宮の神様は外宮まで食事をとりに来ていたことを知った。 」
御正殿の道の反対側には、亀石と三ッ石がある。
「
外宮正殿前の道を曲がり、別宮の参拝へ向う水路に架かる石橋の平らな大きな石が亀石と呼ばれているものである。
三重県最大の横穴式古墳の高倉山古墳入口の石だったと伝えられるものである。
その近くに結界を結んでいる中に三つの石がある。
式年遷宮の時、お祓いをする場所で、三ッ石の上に手をかざすと感じるパワースポットとして有名である。 」
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亀石の先には外宮別宮の風宮と土宮があり、その先の高台には多賀宮がある。
右側に少し入ったところにあるのは下御井神社である。
「
小さな社殿の中には清らかな水をたたえる御井戸がある。
神宮内のお祀りには外宮の御神域に上御井神社があり、
そこから汲み出された水を使用するが、不都合が生じた場合にはこの下御井神社の井戸を使用するという。 」
帰りは北御門に出て、大通りに出て交差点を渡ると、月夜見宮への道に出た。
月夜見宮には前回も訪れているが、駅の近くにあり、伊勢路の旅の最後として寄ろうと思った。
道の分かれ目に、「月よみのさんぐうみち」の道標が建っていた。
「
月夜見宮は、外宮の別宮で、祭神は月夜見尊命である。
地元では外宮北御門から月夜見宮へ至る道は神様が通る道として、道の真ん中は歩かない、穢れた者は通らないという風習があったとか。
今も「神路通り」と呼ばれて親しまれている。 」
道の左側にある土蔵のある古い屋敷の前には「東邸」という石柱が建っている。
古今伝授の創始者、東常縁を祖に持ち、漢学者の東夢亭などの文墨の才人を輩出した家系の末裔の家である。
そのまま直進すると、大通りの対面に月夜見宮の入口があった。
中に入ると若い女性が真剣に拝んでいた。
日本書紀には、「 祭神の月夜見尊は、伊邪那岐命と伊邪那美命の子で、天照大御神の弟にあたり、
夜之食国(よるのおすくに)を治めるようにと委任された 」 と記されている。
森閑した林の中にある神社は雑踏から隔離された別の世界にいるような感じがした。
伊勢市駅に向かう途中で、「御所世古」と書いた石柱を見た。
市内には○○世古の石柱が建っているが、世古とは迫(さこ)とも呼び、家と家との間の狭い小路のことのようである。
以上で友人との伊勢路の旅は終わり、
この後、近鉄特急で名古屋駅に戻り、昼食後、新幹線で帰る友人を見送り、帰宅した。
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旅をした日 平成21年(2009)9月16日〜18日