『 姫街道を歩く  F 嵩山宿から御油追分 』


鎌倉街道の時代に、旅人は御油の追分で東海道と分かれた二見の道を通り、 豊川宿へとまり、そこから当古を通って本坂峠を越えていた、という。 
当時は西島稲荷が賑わっていたが、江戸時代に入り、豊川稲荷にその地位を奪われ、
豊川稲荷は商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広げ、今では伏見、笠間と共に日本三大稲荷に数えられている。 




嵩山宿から豊川稲荷

平成二十一年七月五日七時、遠州浜名湖鉄道三ケ日駅を出て、本坂峠を越えて、 嵩山宿のはずれまできた。 
時計を見ると、十一時十二分、これならゴールの御油追分まで到着できそうである。 
川の向うの左側にある細い道に入り、百メートル程先の三叉路で右折し、車道歩くと、二軒屋交差点で、 再び国道263号線に合流した。

姫街道はここからしばらくの間は残っていない。 
国道を歩くと、右手の遠くに、山肌が無残にも削り取られた山が見えた。 
そこへ通じる道の入口には、「長樂鉱山入口」の表示があったので、 この地に多い石灰岩の採掘をする鉱山と思ったが、山を切り崩して砕石にしているだけのようである。
  中山道の赤坂宿でも見たが、山の姿が変わり、いたいたしい。
この会社のホームページには、六本木ヒルズに採用された、とあったので、 この業界では有名な会社なのだろう。 

真直ぐに延びる国道362号を歩いて行くと、道の左側の角に、 文政三年(1820)に建立された秋葉山常夜燈が建っていた。 
その手前に、「 右豊川 左豊橋 」 と書かれた石造の道標があったが、 この道標はそれほど古いものではない。

「 この場所は最近整備されたもので、江戸時代には、 長楽(ちょうらく)追分だったところである。
姫街道がここで豊橋(当時の地名は吉田)に向かう道と別れる追分であった。 」

その手前の長楽駐在所西の狭い道を左折し、約五十メートル行った右側に長楽寺がある。 
長楽寺の本堂に向かって左の突き当たりに、もやいの塔というのがあって、 その右下にいくつかの石仏がある。
前列右から二つ目の石仏の光背に 「 右ごゆ道 左よし田道 」 と刻まれ、道標を兼ねている。 

長楽追分から少し進むと、道の左側、竹林の一角に、「 姫街道長樂一里塚  左江戸より七十四里  右京より五十三里 」 と書かれた石碑が建っている。
これは姫街道の追分である安間からは十番目の一里塚になる。 

ここから暫くは特に見るべきものはないので、真直ぐな国道をひたすら歩き続けるだけである。  

二軒屋交差点 x 長楽鉱山 x 長楽追分 x 長楽一里塚碑
二軒屋交差点
長楽鉱山
長楽追分
長楽一里塚碑


一里塚から約五百メートル歩くと、和田辻東バス停があり、 その先は県道81号と交差する和田辻交差点である。
交差点を左折すると、和田辻バス停があり、ここを通過する豊橋駅行きは二十時過ぎまである。 

交差点を直進すると、道はすぐ右にカーブし、両側が緑の木立になると、下り坂になった。 
左に、右にとカーブが続く。 
カーブが終わった所の右側にある坂道の入口に石碑が二つ建っている。  

「  一つは、馬の顔が浮彫され、「水難除」と書かれているもので、 大正十三年に運輸関係者によって建立された馬頭観世音像である。
その隣の石碑は、松の図の下に、漢文でぎっしりと埋め尽くされているものである。 
全ては読まなかったが、ここに「弁慶首塚松」という、径七尺の二本の松の大木があった。 
一本は明治二十六年四月に、もう一本は明治三十二年九月に倒れてしまった。 
それを惜しんで、地元の有志が碑を建てた、というものである。 」

その先は三叉路の小倉橋交差点で、右折すると県道31号線で、この道を辿って行くと、 四月に桜の写真を撮りにいった新城市の桜淵公園に行ける。 

交差点の左側に牟呂用水が流れているが、 用水路の左の森は、南北朝時代の南朝の忠臣、高井主膳正が築城した高井城址である。

「  高井城は石巻山城の出城のような存在だったようであるが、 豊川の河岸段丘を利用して築かれた城である。
高井主膳正は、北朝方の高師兼に攻められ、石巻山城で抗戦したが、敗れて自刃した。 
開墾などにより、城の痕跡はほとんど残っていない。 」

和田辻交差点 x 馬頭観世音 x 小倉橋交差点 x 高井城址
和田辻交差点
馬頭観世音
小倉橋交差点
高井城址


小倉橋交差点を越えると、道は真直ぐ続いている。 
左右には緑一面の田圃が広がり、風はさわやかに吹いていた。 
車の通行は多いが、歩道もキチンとあるので、気持よく歩けた。 

五百メートル程歩くと、道は左にカーブするが、 カーブが始まる右側に中協運輸とおしゃれ貴族の赤い看板がある。 
姫街道は、国道と別れ、この二つの間の細い道を直進していく。
豊川の堤防の手前で、道は右カーブし、堤防の上に出る。 
堤防の道を左折し、少し先の右に下る道に入る。

「 姫街道は豊川、当時は吉田川といったと思うが、この川は船渡しであった。 
坂を下った先の右側の森のあたりに渡し場があったといわれ、当古の渡し場といわれた。 
この渡し場は、昭和九年に当古橋が架橋されるまで続いた。 」

豊川が見えないかと道を進んだが、両脇は畑と果樹園で、 軽トラックにタンクを載せて、農薬散布をしていたので、危険と思い、堤防道に戻り、当古橋に出た。 
橋の上から見た豊川は水が豊富だった。

国道362号の当古橋を渡ると、豊川市に入る。 
橋を渡り終えるとすぐ右折して、堤防の道を約六十メートル歩いたあたりに、 西側の渡し場があったようであるが、表示もないので確かなことは分からない。 

「  当古の渡しは、徳川家康を助けたことにより、中山家に渡船の朱印状が与えられた結果、 幕末直前の安政六年(1859)に当古村に権利が譲渡させるまで続いた、という。 」

その先の左へ下る坂道を進み、坂の途中の三叉路を右折して、西船渡の集落に入る。 
集落に入った左側の二階建ての家は、一、二階とも格子があるレトロ風の建物である。
そういえば、姫街道を歩いてきて、連子格子の家に出逢ったのは初めてかも知れない。 

姫街道は国道と平行した、狭い道を進む。 
道路に面して紫陽花が植えられている家や、屋根まで届きそうになっているのうぜんかずらが、 橙色の花を一面につけていた。 

県道380号線と交差する交差点を横断すると、東本郷の集落に入る。 
道は北西に進むが、右側の石柵の中に、文政二年(1819)建立の常夜燈があり、奥に小さな社殿があった  。
社殿は正面にしめ縄がかかっているが、両側面が丸太で支えられていた。 
如何なる神様が祀られているのか不明だが、秋葉山かなあと思ったが? 

堤防の道 x 豊川 x 連子格子の家 x 文政二年建立の常夜燈
堤防の道
豊川
連子格子の家
文政二年建立の常夜燈


神社の先の交差点を越えると本郷の集落である。 
道なりに進むと、信号のない交差点で、国道362号線に出る。

「  姫街道は、交差点の対面右角の辺りから西の寿命院の方向へ、四十五度の角度に進むのだが、 現在は道が消滅している。 」

交叉点を右折して、国道362号線を進む。 
タイヤ専門店の先から道は左にカーブする。 
道端の小さな祠に石仏が祀られていた。 

「睦美地区市民館」の標識の先に、こんもりとした森が見えたので歩いていくと、 「三谷原(みやはら)神社」 と書いた大きな石標が建っていた。 
国道に合流してから六百メートルの距離である。

神社の由緒
「 創建の時期は明らかでないが、 三河国内神名帳にある従五位上温谷天神は、この社で、昔は、雨谷天神といわれた。 
長徳年中(995−999)には牛頭天王と称した。 
明治に入り、村社素盞嗚神社となり、大正二年に天神社を合祀して、現在の名前になった。 」

三谷原神社は、八剱社も合祀しているので、祭神は健速須佐之男命、菅原道真と八千矛命である。 
かなり広い境内で、持参したパンを食べ、コーヒーはないので、ペットボトルのお茶を飲んだ。 

一息ついたところで、また、歩き始める。 
三谷原信号交差点で、道の反対の左側に移動した。 
その先に、「三河新四国霊場」の幟の立っている寿命院があった。

「消滅した姫街道は、寿命院の裏あたりを通っていて、 この辺に安間より十一里、日本橋から七十五番目になる一里塚があった、という。 
寺の裏に行くと、細い道があるが、これは姫街道と関係があるのか否かは表示がないので、分からなかった。  」

国道を二百メートル程歩くと馬場町交差点で、国道151号線と交差する。
消滅していた姫街道はここから復活する。

国道362号 x 三谷原神社 x 寿命院 x 馬場町交差点
国道362号に出る
三谷原神社
寿命院
馬場町交差点


くもり空ながら、紫外線が強いので、帽子の下にタオルを入れて、顔を隠している。 
見た人はベトナム帰りの兵士とみるかもしれない。 
馬場町交差点を直進すると、右角に「村社 熊野神社」 の大きな石標があり、 その奥に常夜燈と鳥居がある。 
社殿は、鳥居をくぐり、木立の中を行くとその先にあった。

傍らの馬場熊野神社由緒略記
「 当神社は本坂街道に沿いたるこの地に弘治二年(1556)、紀伊の国熊野より新宮大明神を奉斎創始す。 以後、吉田城主久世氏の崇敬を受けたり。 久世氏の寄進により宝永元年(1704)社殿を造営す。  明治以後、当社の社格は村社である。 
                   (中 略) 
当社にある万治二年(1659)若宮八幡の棟札は新宮にある若宮なり 」

国道263号線は馬場町交差点までである。
この交差点からは県道5号線となり、真直ぐに西へ伸びている。 
街道に戻り、歩き始めると、道の左側に、南米イースタ島の巨大なモアイ像が見える。 
よく見ると、そこは石材店で、宣伝用に作ったものだった。 

百五十メートル程先の左側にタイヤ館がある交差点がある。 
交差点を右側の狭い道を入ると、道の左側に、「豊川弁財天 三明寺」 の看板があり、 その奥に常夜燈が二基並んで建っていた。
天保十一年(1840)に建立されたものだが、塔に書かれた文字は、常夜燈でなく、 金こう燈である。 
こうの字は火の下にルという文字で、インターネットでは外字である。 

ここは豊川市豊川町波通で、三徳稲荷社と豊川弁財天三明寺があるが、 三明公園になっている。
鳥居をくぐると、左側に享禄四年(1531)に建造された三重塔がある。 
寺の諸堂の中で最も古く、国指定重要文化財になっている。 

豊川市教育委員会の説明板
「 塔の高さは十四メートル五十センチで、柿(こけら)葺き、一層、二層は和様に、 三層は禅宗様式にしたのが全国的にも珍しく、三層の軒の反り、扇垂木、 鎬(しのぎ)のある尾垂木などに禅宗様式の意匠が認められる。 」

簡単に、禅宗様式(唐様)と和様の違いをいえば、軒下の垂木が四隅に向かって、 唐様は扇状に斜めになっており、和様は屋根の縁に対して垂直になっている。 

睡蓮が咲く池に架かる太鼓橋を渡ると、正徳二年(1712)に再建された、 豊川弁財天 三明寺の本堂がある。

寺伝
「 天宝二年(702)、文武天皇が三河国に御行幸のみぎり、 宝飯池のほとりに弁財天の御霊験を得られ、大和国橘寺の僧・覚渕阿閣梨に命じて、堂宇を建立し、 呉(中国)の国の僧・知蔵法師が、教、律、論の三部経文を納めたことから、三明寺と寺号した。 
平安時代のこと。 三河国司に赴任した大江定基は、愛人の力寿姫の死を悲しみ、剃髪して寂照と改め、力寿姫の面影を弁財天に刻み安置したと、伝えられる。 
平安時代の末、一度、戦火に遭い焼失したが、 十四世紀末の南北朝時代に後醍醐天皇の皇子、無文元遷が遠州方広寺に行く途中、 ここに立ち寄り、その荒廃ぶりを嘆いて再建したと、伝えられている。 」 

熊野神社 x 三明寺入口 x 三重塔 x 三明寺本堂
熊野神社
三明寺入口
三重塔
三明寺本堂


本堂に入ると、弁財天の赤い提灯が大きいのや小さいものなど、沢山つり下げられていた。
三明寺の本尊は、大江定基が刻んだといわれる弁財天像で、本堂の中にある国重要文化財指定の、 室町時代建築の弁財天宮殿の中に納められ、十二年に一度開帳される、という。 

本堂の左手の赤い鳥居が並ぶ先には三徳稲荷社があった。
鳥居の脇に、神社のいわれが書かれた木札があったが、文字が一部読めなくなっていた。

「 大古の頃、穂の国に倭姫の命あり。  稲を作り伊勢神宮に報徳感謝をこひて奉納せられた。 
その後、倭姫の命は正一位稲生大明神の位を賜り、三州西島の地に稲荷として祀られ、 多くの人々に信仰せられた。 
宝暦年間、七世鎮山和尚は当山へ西島稲荷社よりその分身を祀ることになった。 
明治時代より三徳稲荷と称し、三つの願いが成就していただけるとして崇敬されています。 」  (一部推定した部分あり)

本堂の右手奥には江戸時代に建造された山門(薬医門)がある。
入口近くにある塚は、当山の弁財天宮殿を建立した本願光悦が、弘治二年(1655)に入定した塚で、 松を植えて後世の人々に伝えられているものである。 

鳥居と三重塔という組み合わせは、神仏混淆の時代の名残である。 宗派も真言宗から禅宗へ。 
本願光悦は江戸時代に入っているのに、塚の中で七日間読経を唱えて入定(死亡)したという。 
歴史のあるこの寺は色々な意味でおもしろい。 

姫街道に戻り、まっすぐな県道5号線を西へ向って五百メートル進むと、 「姫街道踏切」という標識が付いた踏切を渡る。
この踏切には、JR東海の飯田線と名鉄豊川線が通っている。 
豊川には名鉄だけが行っていると思っていたが、名古屋からは名鉄で、 豊橋からは飯田線が通っていたのである。 

三明寺本堂 x 三徳稲荷 x 三明寺山門 x 姫街道踏切
三明寺本堂
三徳稲荷
三明寺山門
姫街道踏切


踏切を渡るとすぐ先に、中央通り1丁目交差点がある。 

ここは豊川市古宿町中通であるが、この中通、その下の市道、ウエ地は古宿町で、 鎌倉時代から室町時代には鎌倉街道の豊川宿があったところである。 

「 旅人は御油の追分で東海道と分かれた二見の道を通り、豊川宿へとまり、 そこから当古を通って本坂峠を越えていた、という。 
西島稲荷が伊奈街道(国道151号)の観音堂交叉点の東南の一番目の交叉点を左折し、 その先に右に入ったところにある。 
宝暦年間までは賑わっていたが、豊川稲荷と台頭で、廃れていった、といわれる。

姫街道は中央通り1丁目交差点を直進するが、 江戸時代の旅人も訪れたという豊川稲荷に寄り道することにした。 
交差点を右折して、北へ四百メートル程歩くと、豊川稲荷前交差点に出た。
この交差点はスクランブル交差点になっていて、右に行くと豊川駅で、豊川稲荷は直進である。
豊川稲荷には、これまでに少なくとも三回は来ているが、貸切バスか自家用車である。 
歩いてくると、方向感覚が違うような気がした。 

左側に豊川稲荷の大きな石標と総門が見えてきた。 
道をはさんだ反対側は、「豊川いなり表参道」と書かれた門前町である。
豊川駅西口から右に路地を入り、門前通りを抜けると、正面が豊川稲荷ということになり、 「門前そば」とか「宝珠まんじょう」の看板が目立ち、客の呼び込みに余念がない。 

総門の説明板に、
「 総門は明暦二年(1656)に一度改築されたが、現在の門は明治十七年(1884)に上棟改築されたもので、門扉と両袖の扉は、高さ4.5m、幅1.8m、厚さ15センチの樹齢千年以上の檜の一枚板である。 」 、とあった。  

総門の前の両脇に、青銅製の常夜燈が並んで建っていたが、これも大きく立派なものである。
門をくぐると、右手に鎮守堂や鐘楼、立会所など大きく立派な建物がある。 
豊川稲荷は神社ではなく、寺院である。

「 嘉吉元年(1441)に開創された曹洞宗の円福山妙厳寺という寺である。
豊川稲荷は、寺を創建した東海義易が、叱枳尼天(だきにてん)を寺の鎮守として、境内に祀ったもので、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将の信仰を集めた。 」

総門からまっすぐ進むと、大きな献燈の先に山門があり、説明板があった。

説明板「山門」
「 山門は天文五年(1536)今川義元が寄進した建物で、当寺の現建物中最古の建物である。 
また、唯一の丸瓦葺造りの屋根の形をしている。 
寛政五年(1792)と昭和二十九年に修理が行われた。 
左右の阿吽の仁王像は昭和四十一年に寄進を受けたものである。 」 

豊川稲荷前交差点 x 門前町 x 総門 x 山門
豊川稲荷前交差点
門前町
総門
山門


山門をくぐり、参道を歩くと、妙厳寺本堂、正式名称は法堂で、朝、昼、夕の勤行、仏事、法要などが行われるところである。

説明板「法堂」
「 天保時代(1830-43) 二十四世の住職の時建設された建物で、総桧二重屋根瓦葺きで、 重厚な外観である。 内部は禅宗寺院特有の簡素な構造である。
ここには寒巌禅師が自ら刻んだ千手、千眼観世音菩薩が本尊佛として奉祀されている。 」

奥には、道元禅師、寒巌禅師、東海義易、歴代住職、今川義元の位牌を祀った開山堂がある。 
本堂の左手に、鳥居があり、広い参道を進んでいくと、 正面に昭和五年竣工の豊川いなり大本殿が建っている。
豊川いなり大本殿には、叱枳尼真天本体が祀られている。 

「 豊川稲荷が、全国的な信仰を集めるようになったのは、大岡越前守忠相が、 寛延元年(1748)十月、三千石の加増を受け、三河国大平藩一万石の大名となり、豊川村を知行地とし、 妙厳寺の万牛和尚に帰依したことに始まる、とされる。 
この頃は、前述の西島稲荷が繁盛していたのだが、 宝暦年間に西島稲荷の社守・鈴木平八朗(平八狐)を婿に迎えところ、豊川稲荷は大いに繁盛し、 一方、西島稲荷が廃れていった、といわれる。 
その後、庶民の間に商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まった。 
豊川稲荷は、伏見、笠間と共に日本三大稲荷に数えられ、現在の敷地面積は十一万u余り、 百余棟の伽藍があるという規模に成長した。 」

帰路の参道にあった嘉永三年の銘がある大きな青銅製の常夜燈は立派である。
その他にも、石造りの燈籠など、多くの寄進物があった。 

総門を出て、道の反対にある、「門前そば」の看板がある店に入った。 
時計を見ると十四時少し前。 
門前そばを注文すると、お茶の入ったきゅうすと茶碗、そして、いなりずし二個とのり巻が出てきた。
豊川はいなりずしを町の名物にしようとする動きがあるが、 この店のいなりずしは特色がなく、コンビニの方がうまいと思った。 
しばらく待たされたあと出てきたそばは野菜のてんぷらがついたざるそばである。 
とびきりうまいというものではなかったが、合格といえるものである。 

妙厳寺本堂 x 豊川いなり大本殿 x 青銅製常夜燈 x いなりずし
妙厳寺本堂
豊川いなり大本殿
青銅製常夜燈
いなりずし






(ご参考) 司馬遼太郎の街道をゆく

司馬遼太郎の 「 街道をゆく 第三十三巻 赤坂散歩 四 お奉行と稲荷 」 という章で、 豊川稲荷と大岡忠相のことが書かれている。 

冒頭に、 「 いまもそうだが、江戸には稲荷社が多かった。 伊勢屋・稲荷に犬の糞 などと、江戸の地口でいわれた。  落語でも、表通りの旦那といえばたいてい伊勢屋という屋号である。  おそらく江戸開府早々以来、伊勢商人の進出がつづいていたからだろう。  稲荷が多いのは、一つは諸大名がさかんに屋敷神として稲荷を勧請したことによる。  その屋敷神を民間が信仰してやがて独立した境内をもつという例が多かった。 
稲荷はその大元締である京都の伏見稲荷大社がそうであるように、神道であって、神官が斎きまつっている。 」 
と書き、 古きは農業神、のちに、商売から漁業にいたるまでの繁盛を約束する神になったとある。 

続いて、赤坂にある豊川稲荷について書いている。 
「 赤坂に、高名な豊川稲荷がある。  稲荷とはいえ、風変わりなことに、寺なのである。  形は神道の稲荷信仰と一体になって習合しているものの、本尊は、インドの神である。  それも、荼枳尼天という女身の夜叉神である。  空海がもたらし密教体系のなかに存在し、もとはインドの土俗の鬼霊で、 六ヶ月前に人の死を知り、肝とか心臓とかを食う。 足を食っている図を見たことがある。 」 

と記し、神道ではない仏教の稲荷神についての伝来の経緯と本地垂迹の習合論について、以下述べている。
彼によると、伊勢神宮の場合、その本地は大日如来で、それが日本に垂迹して天照大神になったといい、 伏見稲荷の場合も、習合は行われたらしいが、江戸時代までに神道に戻ったと推理している。 

「 三河国にあった曹洞宗の妙厳寺のように、寺院でもまれに境内に荼枳尼天をまつったケースはある。 
妙厳寺では、その後、守護神として祀った荼枳尼天のほうが有名になった。 
曹洞宗の宗祖道元の忠実な弟子に、寒巌義尹というえらい禅僧がいた。 
後鳥羽上皇の第三皇子だったということで、法皇長老と呼ばれたりした。 
寒巌義尹は二度入宋し、二度目に宋から帰るとき、船上に、狐に乗った荼枳尼天があらわれ、 仏法を守護する、と告げたというのである。 
妙厳寺をひらいた東海義易は、義尹からかぞえて六世の法孫になる。 
かれは義尹の秘話にちなみ、みずから荼枳尼天を刻み、寺の鎮守として祀った。 
それが、豊川稲荷のはじまりだという。 
この稲荷は、東海の武将たちから尊崇を受けた。 
そのなかに、駿河の今川義元、三河の徳川家康、尾張の織田信長という日本史上の名もある。 」 

と誕生の話が書かれていた。 
この後、大岡越前守忠相が登場する。 
大岡家は、家康の祖父の時代から徳川家に仕えた譜代であるが、 徳川初期には六百三十石という小身の旗本にすぎなかった。 

遼太郎によると、「 大岡家の家紋は三つあって、丸に剣輪違と四銀杏、 それに、把稲(たばねいね)という稲荷信仰をあらわすものだった。 
上が束ねた稲、下が玉垣というめずらしい紋で、この稲のほうが稲荷の神紋なのである。 
察するに大岡家の紋は、当初は玉垣だけだったのだろうが、いつのころか、豊川稲荷を尊崇することで、 玉垣の上に稲の束をくわえたのではあるまいか。
 (中略) 
いずれにしても、三河発祥の大岡氏は、早くから豊川稲荷を信仰していたに相違ない。 」

「 小身だった大岡家であるが、忠相の父の時代には、千石を越える身上になっていた。 
忠相は、五代将軍綱吉のとき、二十六歳で御書院番、二十八歳で御徒士頭、 三十一歳で御目付という重職についている。 
その聡明と無私と果断が人に知れ、上下から好まれもし、一見して輝くような存在だったようである。 
三十六歳で伊勢の山田奉行をつとめ、八代将軍になる紀州徳川家の吉宗に注目された。 
吉宗が将軍になった翌年の二月には、 普請奉行から江戸市中の司法と警察と民政をつかさどる町奉行に抜擢された。 
としは四十をすぎたばかりで、このとき、能登守から越前守に改めている。 
ときは吉宗の享保の改革の最中で、目安箱の設置や小石川養生所の誕生、 また、民間の消防組織のいろは四十七組の制度を作るなど、多忙を極めたが、 町奉行を十九年もつとめたというのは類を見ない。 
その間、何度も隠居を願いでたようである。  江戸時代には、平均して四十代で隠居するものだったようだが、忠相の場合は隠居は認められず、 官にあること五十年、寺社奉行などをつとめ、最後は奏者番のまま七十五歳で死んだ。
もっとも、石高はあげてくれた。 七十二歳のとき、ついに一万石になった。 
一万石からが、大名になる。  小さな役人から出発してついに大名になったということで、ひとびとは忠相を奇とし、 めでたさを感じもした。 まことに、絶無ではないにしても、稀少といっていい。 
このため庶民までが、「 大岡さまのお身まわりは輝いている 」 と思ったのであろう。 
やがては、豊川稲荷のおかげではあるまいかと思うようになった。 
赤坂の忠相の屋敷では、屋敷神として豊川稲荷をまつっていたのである。 」 

と書き、忠相と豊川稲荷の関係を結びつけている。 
大岡家の屋敷は現在の赤坂小学校の場所にあり、当然、豊川稲荷もその場所にあったが、 大正四年、赤坂小学校の敷地拡張の際、現在地へ移転させられた。 

遼太郎は、 「 豊川稲荷の境内に入ると、赤提灯や赤幟の列がいかにもお稲荷さんで、 香煙がたちのぼっているあたりが、神社と違っている。  それに、神社のように余白を重んじることがなく、お堂からなにやらが建てこんでいる。  お堂には、荼枳尼真天という扁額がかかっている。  あちことでおがんでいる婦人の顔つきが斧のようにするどくて、 行者をおもわせるほどにさい迫った感じがある。  このあたりも密教的で、神社のお稲荷さんのほがたかさとはちがっているように思われた。 」

と、この章を締めくくっている。 





豊川稲荷から御油追分

満腹になったので、後は御油追分を目指すだけである。 
県道5号線に戻り、西へ進むと中央通3丁目の信号交差点を越えた左側に、 レトロな感じの建物が残っていた。

交差点を越えて進むと、しだれ柳の両脇にはビルや最近の建物が建っている。 
少し歩くと右側に金屋会館があり、その 先の左側に「金屋食堂」の看板がかかっている古そうな建物があった。 
佐那川に架かる金屋橋の手前には中央通り公園がある。 
佐奈川に沿って桜並木があり、ここの桜は半端ではなく、実に見事な桜並木になる、という。 

金屋橋を渡ると、中央通5丁目に入る。 
左側のビルの屋上には、おにぎりの形をしたおにぎりかのうの看板があったが、 馬鹿でかい看板を出しただけの効果はあったのだろうか? 

「  豊川市には、戦前、豊川海軍工廠があった。 軍需工場として昭和十四年十二月に開所したが、 その後拡張を続け、昭和十八年には六万人規模の工場になった。 
豊川市の人口も昭和十九年には九万二千人に膨れ上がった。  東洋一の武器工場と言われた豊川海軍工廠は昭和二十年八月七日、米空軍の戦略爆撃により、 三十分足らずの間に三千三百発の五百ポンド爆弾が投下され、 女子挺身隊員を含む二千七百人の尊い命が奪われた。 
跡地は、豊川市役所の北西にある、名古屋大学太陽地球環境研究所の敷地になっている。 」

市役所の反対側の道の左、めん処さがみの奥に三重塔が見えた。 
新しく立派なものだが、世界心道教のものである。 
やがて正面左側にクオリティホテル豊川、市民プラザと表示されたビルが見えてきた。 
近づくと、右側に豊川郵便局、体育館前交差点を渡ると、右奥にスマートな三角形の体育館がある。 
手前の広場は駐車場かと思ったが、単なるエントランスらしい。
莫大な敷地で無駄と思うのだが、この地のゆとりといえるのか? 

消防署前交差点を過ぎるころから、空の様子がおかしくなった。 
天気予報では夜半に雨とあったが、早まるか? 
諏訪橋西交差点で県道21号と交差する。 
交差点を越えると、右側に長栄寺があり、その先に諏訪神社がある。 ここまで体育館前から約一キロ。 
諏訪神社は昭和二十年八月七日海軍工廠の空襲で、社殿が焼滅したのを、 鎮守の森とともに再建したものである。

レトロな感じの建物 x おにぎりかのうの看板 x 豊川市役所 x 豊川市体育館 x 諏訪神社
レトロな感じの建物
おにぎり形看板
豊川市役所
豊川市体育館
諏訪神社


その先の白川に架かる白川橋は橋の架け替え工事中で、仮設橋を渡った。 
その先の右折する細い道の手前には、「 國内神名帳 郡明神 是ヨリ十五丁 」 と、 刻まれた大きな石碑が建っていた。 
右折して細い道を千七百メートル行くと、伊知多神社がある。 

 社 伝  
「 養老二戌午年(718) この地に天児屋根命を祀り、郡明神という。
三河国内神名帳に明神二十二座の内、従四位下、凍(氷)明神とあり、 明和年間以降は春日大明神と称した。
嘉暦二年(1327)、五頭天王を春日明神の西に創祀する。 (以下省略) 」

姫街道(県道5号線)は長く真っ直ぐに続いている。 
八幡町交差点を左折して行くと、名鉄豊川線八幡駅がある。 
八幡町横道西交差点で県道31号と交差するが、姫街道は直進する。
交差点を渡ると、回転寿司源があり、その先に永昌寺がある。 
亀ヶ坪交差点の手前に、「 三河国分寺跡1.1km 八幡宮1km 三河国分尼寺跡0.8km 」 の道標がある。 
右側の細い道に入り、竹下交叉点で、県道377号を直進し、信号交叉点を越えた先の三叉路を右に進むと三河国分尼寺跡史跡公園がある。

「  三河国分尼寺跡を発掘調査後、豊川市により平成十一年度から十七年度に かけて保存整備が行われ、大伽藍を備えた三河国分尼寺の当時の姿を現代によみがえらせるよう、 中門及び回廊の一部を遺構の真上に実物大の建物として、また、屋根瓦は出土品にならい復元、 木部はヤリガンナ仕上げ、柱等の部材は朱塗りとするなど、奈良時代の建築様式を再現した 形で、復元したものである。 
近くに駐車場がある他、三河天平の里資料館(無料、9.00〜17.00、火休)があり、 出土品の瓦などが展示されている。

道を少し戻り、左折して大きな道に出ると、赤い幟がはためく国分寺がある。 

「 国分寺は、天平十三年(741)、 聖武天皇の詔勅によって、 全国の国府に建てられた寺である。 
三河国分寺の寺域は約百八十メートル四方で、南大門、中門、金堂、講堂を一直線に並べ、 鐘楼、七重塔などを左右に配した大伽藍だったが、平安時代の末には荒廃してしまった。 
現在の寺は、永正三年(1506)に再興されたものである。

郡明神道標 x 三河国分尼寺跡史跡公園 x 資料館展示品 x 国分寺
郡明神道標
三河国分尼寺跡史跡公園
資料館展示品
国分寺


街道に戻り、県道5号線を進むと、COFEE 古時計があったが、 屋根に取り付けられた時計はそれほど古くはない。 
その先には西古瀬川が流れていて、それに架かる筋違橋は架け替え工事中である。 
筋違橋交差点は変則五差路で左折すると、その先で国道1号線を横断し、蒲郡に抜ける県道31号である。 姫街道はそのまま直進する。 
右側の細い道の入口角に、文化八年(1811)建立された常夜燈がああり、 その奥には小さな石造りの二つの祠が祀られていた。 
また、「 県社 八幡宮 」 の大きな石標も建っている。 
八幡宮は、亀ヶ坪交差点の標識にも案内があった神社で、この細い道を行くと、県道31号を越えた先の うっそうとした森の中にある。 

「 県社八幡宮は、七世紀半ばの白鳳年中(672〜685)に、 豊前国宇佐八幡宮から勧請された。
三河国神明帳に、「八幡三所大明神」 とある神社である。 
本殿は、文明九年(1477)の建立で、国の重要文化財に指定されている。 」

県道5号線はゆるいカーブを進むと、佃交差点にでる。 
姫街道は、まっすぐ進む上り坂である。 
左側の細い道を入ると、白鳥の集落で、右側の森の中に、「県社総社」の石柱と常夜燈、 鳥居が建っていて、その奥に三河総社の社殿がある。

「  総社(そうじゃ)は、国司が、赴任地のすべての神社に参拝するのはたいへんなので、 国府の近くに国内の神社を一つにまとめた神社を造ったもの。 
三河国府の跡は、はっきりしない部分もあるようであるが、この総社神社の 右側一帯にあったというのが定説である。 」

県道を上って行くと、道の右側に「三河新四国法巌寺」の案内看板がある。
その右手に小山があり、その下に締め縄がかかった上宿神社の鳥居が見えた。

「  このこんもり茂った小山は、三河で最大といわれる船山古墳である。 
全長九十三メートル、高さ七メートル六十センチの前方後円墳である。 
古墳の上に小さな社が二つ並んでいるのが、上宿神社なのだろう。 
ちゃんと賽銭箱があるので、間違いないだろう。 

常夜燈 x 県社八幡宮 x 県社総社 x 上宿神社鳥
常夜燈
県社八幡宮
県社総社
上宿神社鳥居


その先は、上宿交差点で、県道5号線はこの先で名鉄名古屋本線を跨ぐ自動車専用陸橋となっていた。 
道の右側の歩道を歩いていた小生は、交差点を横断して進むと、右側の小高いところに、 「西明寺」の文字が見えたので、右折して坂に上り、左側に入っていった。
ここは西明寺の参道入口で、入った所には「西明寺」の石碑や「薫酒禁止」を指す文字を記した石柱が ある。 

「 西明寺は、三河国守・大江定基が、愛妾力寿姫を失い、 世の無常を感じて仏門に入り、比叡山で源信僧都の教を受けた後、大宝山の山麓に草庵を結び、 六光寺としたのが始まりといわれる。 
その後、北條時頼が最明寺と改め、徳川家康が永禄七年(1564)の今川氏との八幡砦の戦いの際、 空腹の家康が本寺で受けた恩顧を深く感じ、西明寺と改名した、と伝えられる寺である。 」

ここには、屋根の付いた柱の中に松尾芭蕉の句碑があった。
この句碑には、 「 かげろふの 我が肩に立つ 紙子哉 ばせを翁 」 と刻まれ、
側面には 「 従是凡六丁西名所二見別 」 と刻まれている。 

「 句碑は、国府の俳人・光林下が、寛保三年(1743)十月、 芭蕉の第五十回忌に際し建てたものである。 
二見別とは、姫街道の終点、東海道との追分のことである。 」

さっきの道に戻り、直進するとその先は名鉄の線路で姫街道はなくなっている。 
左側の駐車場の柵の切れるところで左折して、県道の陸橋を潜ると名鉄名古屋本線を横断する陸橋がある。
階段を登っていき、陸橋の上から名鉄電車を撮影しようとしたが、頻繁に通る電車は意地悪をしたのか、一台も来ない。 
また、雨がぱらついてきた。 あわてて陸橋を下り、道を右手にとり、その先で左折して、 国道1号線に出た。 

姫街道は、国道で遮断されているので、右折して追分交差点に出る。 
国道1号線を横断すると左折して、延長線上の道に入る。 
スパーヤマナカがあり、車で混んでいたが、そのまま進み、広い車道で左折して西へ進むと 行力交差点に出た。

突然、豪雨になり、雷が鳴り出した。 
折りたたみ傘で顔を覆い、必死に行力交差点を直進すると、そのすぐ先の信号のない交差点が、 東海道と姫街道の御油追分で、あっけないフイナーレとなった。

交差点の右角には、常夜燈、 「秋葉山三尺坊大権現道」の碑などが並んで建っていた。 
この常夜燈は御油宿の人達が建てた秋葉山永代常夜燈である。

「 秋葉三尺坊は、剣難、火難、水難に効くという信仰で、江戸中期に大流行し、 一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社と言われ、各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られた。 」

時計を見ると十六時四十分過ぎ、最後は雷と夕立ちにびっくりした旅だったが、 姫街道はこれで終了である。 
磐田市の見附から始まった旅は、思った以上に変化があり、楽しかったというのが、 旅を終えての感想である。 

西明寺入口 x 芭蕉句碑 x 名鉄陸橋 x 行力交差点 x 常夜燈
西明寺入口
芭蕉句碑
名鉄陸橋
行力交差点
常夜燈



旅をした日     平成21年(2009)7月5日




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かうんたぁ。