本坂峠は姫街道での最大の難所である。
本坂の地名は、遠州風土記によると、奈良時代、三河の東部(宝飯郡)は穂の国であった。
本坂は、穂の国へ通ずる坂であることから、穂の境と呼ばれた、とあり、それがなまって、
本坂と呼ばれるようになったといわれる。
戦国時代にはこの地に関所が置かれ、後藤氏が管掌していたが、江戸時代に入ると、
隣の気賀に関所は移っていった。
その為でもあろうか?、引佐峠と本坂峠に挟まれた三ケ日宿は幕末までは本陣が一軒あるだけで、
旅籠もないという状態だった。
現在の本坂峠であるが、コンクリートで固められた石畳道はあるが、静岡県側は倒木が散乱し、
湿気を多く薮蚊が多いので、夏歩く人は虫除け対策が必要である。
本坂峠は、標高三百二十七メートル、遠江国と三河国との国境であるが、峠は狭く見晴らしもないので、到着したという充実感がないのが残念といえるかもしれない。
平成二十一年七月五日(日)、早朝に起きて車で出かけ、車を東海道二川駅に駐車し、
そこから隣の新所原駅で天竜浜名湖鉄道にのった。
一両しかないディーゼル車で、学校が休みで、朝が早いということで、小生を含めて三名が出発を待った。
湖のへりを廻っていくのだろうと期待していたが、湖は高低差のある低い山に囲まれていて、
見晴らしは悪く、奥浜名湖はちらあとしか見えなかった。
駅と駅との間隔は狭い上、単線なので三十分位かかって、三日ヶ駅に着いた。
昼用のおにぎりはコンビニで買っていたが、駅でペットボトルのお茶を買い、いよいよ出発である。
駅から国道362号を横断して北上すると変則交叉点で、三ヶ日製菓の前を進むと、
西天王町から北上してきた道に出た。
右折して進むと信号交叉点の三ヶ日四辻に出た。
この左右の道が姫街道であるので左折して、本坂を目指していく。
前回訪れてから、約一月が経ったが、その間に梅雨に入り、
今日もどうだろうと思いながらの旅である。
ここ二日間は一時雨という状態であるし、今日も曇りという予報なので、
かえって暑くないかなと思っての決断だった。
これが吉とでるか、凶になるかは終わってみないと分からない。
本陣跡の鈴木歯科病院前を通り、西町公会堂を過ぎると、下り坂になっていく。
下り終えたところにある信号交差点を越えると、右側には三ヶ日中央外科がある。
少し歩くと、右側に三ヶ日交番があり、その先に釣橋川に架かる釣橋川橋がある。
橋を渡ると、右側に釣橋川公園の標示板がある。
その先の「姫街道」の大きな看板には、宿場と一里塚の名前がイラスト入りで描かれている。
その先にある「姫街道」の道標の下に、手作りの「姫街道 釣橋川公園」の看板がぶら下げられている。
「 街道は万葉集にのっている防人の歌から、 当時からすでに東西を結ぶ主要道路だったことが分かります。 江戸時代には、東海道本坂越(通)と公称され、東海道の脇街道として、大きな役目を果たしてきた。 (以下省略) 」
この看板の作者は、姫街道は江戸時代には東海道の脇街道になってしまったが、
奈良時代〜平安時代にはこのルートが主要ルートだった、といいたかったようである。
日本武尊は、寸座峠を越えている話が残ることから、古代の道はこちらだったのだろう。
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その先の宇利山川に架かる橋を渡ると、左側に静岡県立三ヶ日高校がある。
高校の敷地の角で、道は直進する道と左側の道に分れるが、姫街道は左側の道を行く。
ここにも、先程と同じ、姫街道の道標がある。
この道標はこの先にも主要個所に建てられているので、迷子になることはない。
道が上り坂になり、その先で右にカーブしていく。
坂を上っていくと、左側に三ヶ日みかん流通センターの看板がある。
そこを通り過ぎると、右側に火の見櫓、左側には三ヶ日みかん流通センターの看板があったが、
よく見るとこちらは工場とあった。
火の見櫓の下にあるバス停は、「釣」 という珍しい名前である。
室町時代の文書には、津里あるいは津利の表記があるようだが、
伊能忠敬が編纂した地図には釣村とあるので、江戸後期には現在の名前になっていたようである。
ここが坂の頂上で、その先からは左にカーブする下り坂となる。
右側の小高いところに秋葉灯籠の説明板とお堂が建っていた。
説明板
「 これは釣村の秋葉灯籠で、明治十四年の棟札がある。
石灯籠は大正五年十二月の刻字がある。 」
これによると、鞘堂の方が灯籠より古いということになる。
全く人通りのないのどかな道で、時々車が通り過ぎていくだけ。
地元民の生活は車に頼っているので、犬の散歩くらいしか、このあたりは歩かないだろう。
坂が終えたところで、この道は左側からの国道362号に合流したので、右折して国道に入る。
道は左にカーブ、次いで右にカーブしていく。
左側に「みかんの里日比沢」の看板があり、その脇の畑にはひまわりが植えられていて、
ちょうど見ごろといえる花が咲いていた。
少し先の右側に火の見櫓があり、その下に日比沢集落センターがある。
国道に入ったところからここまで約九百メートルという距離だろうか?
右側の道路に面したところにあるお堂の中には
秋葉山常夜燈が祀られていた。
鞘堂は床張りで、中の常夜燈は木造だった。
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二百メートル程歩くと、建右側に姫街道の道標があり、その先に華厳寺の山門があった。
「 華蔵寺は、曹洞宗の由緒ある寺で、
鎌倉初期の釈迦如来像や室町時代の大日如来像、阿弥陀如来像が安置されている。
山門も含め、なかなか堂々たる建物の寺院である。 」
その先には1日数便しかない日比沢西のバス停があった。
その先で、道はゆるく右にカーブをえがく。
そのカーブの始まりの左側に、「板築駅跡」の説明板がある。
字が薄くなり良く読めないが、橘逸勢のことが記されているようすである。
「 ここは古代の板築駅(ほうづきうまや)があったところで、
承和の変(842)で伊豆へ流罪となった橘逸勢が、その途中、この駅で病死した。
この官道駅は、 平安時代の天長十年(833の大地震により、東海道の猪鼻駅が崩壊したため、
東海道が復旧される迄の天長十年から承和十年(843)までの十年余だけ設けられたといわれる。 」
この先、道は左カーブするが、右側の小高い所を通る短い道が姫街道である。
ほぼ直線道路で、七百メートル程歩くと、日比沢川に架かる森川橋に出た。
正面に見える高い山は本坂峠のある坊ヶ峰だろうか?
橋を渡るとすぐ、姫街道は国道と別れて、右側のガードレールがある坂道に入っていく。
上り口に「姫街道」の道標があり、約百メートル上ると、
左側の木が茂っている塚のようなところに出た。
ここは安間より八里目、江戸から七十二番目の本坂一里塚である。
木立の下には、昭和五十年に三ヶ日町教育委員会により建立された、
「 旧姫街道 一里塚 」 の碑がある。
南塚は残っていなかったが、碑がある北塚には数本の木があり、塚の形を今にも残していた。
説明板
「 この一対の塚は江戸(日本橋)より72番目の一里塚である。
江戸時代(慶長年間)主要街道には一里塚を築き、松や榎等を植え、旅人の便に供するよう命令された。
姫街道にもつくられていたが、今は破壊されてほとんどなく、この塚は貴重なものである。 」
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石碑の脇に「姫街道」の道標があり、←の方向を示している。
左側の遊歩道のような道に入るとすぐ右側に祠があり、七体の馬頭観音像が祀られていた。
これらの馬頭観音は、姫街道の道路整備により、ここに集められたと推測するが、間違いだろうか?
姫街道は短い坂道で、あっという間に坂を下り、再び、国道と合流してしまった。
国道を横断して、左側の歩道を歩く。
百メートル歩くと、国道はゆるやか上りであるが、左には下る坂道がある。
姫街道はこの道に入り、国道とここで別れた。
ここは本坂集落である。
すぐにゆるやかな上り坂に代わり、国道と平行して進む。
古い家が残っている訳ではないのだが、集落はどことなく、江戸当時の雰囲気が残っていて、
街道を歩く旅人の気分になれた。
集落の中程までくると、右側の花壇の中に、「本坂関所跡」の説明板が建っていた。
説明板「本坂関所跡」
「 戦国時代よりこの地に関所が置かれ、後藤氏が管掌していた。
幕府は慶長五年(1600)、新居関所と共に施設を整備した。
後、元和五年(1619)、後藤氏が紀州に移ってからは気賀近藤氏の管掌となり、
さらに、寛永元年(1624)、気賀関所の設置に伴い廃止された。 」
その先の三叉路を右折し、国道に出ると、
国道の向こうに橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀る橘神社がある。
神社は、本坂集落が見渡せる国道より一段と高い所にあるので、石段を上っていった。
説明板
「 中央の立石が逸勢の墓、西側の祠が逸勢を祀る神社、
東側が逸勢の女(むすめ)妙仲尼の旌孝碑である。
文禄実録によれば、承和九年(842)、皇太子恒貞親王を奉じて叛を謀ったとのことで、
伊豆に配流の途中、遠江国板築駅に於いて病没したと、強いて随行した妙仲尼は墓畔に庵を結び、
父の冥福を祈った。 」
筆のつかい手とあって、境内には写経納経塔記碑や筆塚など、関連するものが納められていた。
石段を一番上まで登ると、木で作られた柵の中に、「橘神社」と書かれた小さな社殿があり、
その右側の小さな石は橘逸勢の墓と伝えられている。
橘神社に訪れたのはじつは二度目である。
最初に訪れたのは、四月初旬のこと。
この境内にある逸勢桜を見ようと訪れたのである。
大きな桜の木であるが、木の大きさに比べ、小さな可憐な花のように思えたのが、その時の印象である。
詳しいことは分からないが、山桜の一種なのだろう。
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先程の街道まで戻り、また、歩いていく。
右側の倉庫のような建物の先の民家の手前に、秋葉山常夜燈があり、
その手前に、「高札場跡と秋葉灯籠」の説明板があった。
説明板の下の石積は、江戸時代の高札場の土台ということだが、なかなか立派なものである。
「 ここは本坂の高札場跡である。
江戸時代から存在したが、制札を特に掲げていたので、高札場といわれ、
町内の例では高札場と秋葉灯籠が同じ場所にあることが多い。
この燈籠は文化四年(1807)に建てられた。」
道は右に、そして、左に、また、右にカーブしながら、上って行く。
本坂集落は千メートル足らずの短い集落なので、じきに終わってしまった。
坂の頂上で、道は二つに分れるので、右の道を上っていく。
坂の途中の左側に、「姫街道」の道標があったので、確認できた。
坂を上って行くと国道が見えるが、国道の脇の草を草刈機で刈っている人がいる。
坂の頂上は国道で、手前にまた、「姫街道」の道標が建っていた。
左手にはみかん畑が一面に広がっていて、その先に山並が展望できた。
あいにく、曇り空なので、遠くはガスがかかったようになっていたが・・・
手を伸ばせば、手が届くと錯覚するミカンの木には小さな実がぎっしり付いていたが、
早生のみかんなのだろうか?
国道の反対側には車が数台駐車している。
近くには七〜八人の人がおり、国道の脇の草を刈っていた。
話を聞くと、地元の奉仕活動として行っているという。
「 御苦労さまです。 おかげで姫街道を歩く人も助かります。 」 と、お礼を述べた。
「 どこに行くの!! 」 、と問われたので、「 姫街道を歩いている!! 」 、と答えたら、「 ここは古代から道です。
東海道の方があたらしいのだ。 」 といわれてしまった。
三ケ日の人には、そのような教えられているみたいに感じた。
国道を斜めに横断し、国道の右側の舗装された狭い道に入るとすぐ右側に、 二体の石仏を祀った小さなお堂・弘法堂があった。
説明板「弘法堂」
「 金銅製の小さな弘法大師像と御影石製の大きな弘法像が祀られている。
大正三年の本坂道改修工事時には、既にここにあったと伝えられるので、明治時代のものであろうが、本坂峠越の無事を祈ったものだろう。 」
お堂の中を覗くと、金銅製の仏像は安置されていないように思えたが、
石仏に手を合わせてこれから歩く本坂越えの無事を祈った。
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姫街道はその先の車止めで、国道に合流する。
しかし、すぐ右側に「奥浜名湖自然歩道」の案内板があり、
その下に「本坂登山口、姫街道入口」の標示がある。
「
ここで親切に思えたのは、タクシー会社の電話番号が書かれていたこと。
三ケ日駅からのバスは通学者向けなので時間帯が違い、
登山者や姫街道を歩く人には利用するのは困難である。
数人いれば、この区間をタクシーを利用することもできるし、緊急の時にも安心である。 」
字が薄れて読みずらい姫街道案内図の先に、本坂峠への細い登り口がある。
「
本坂峠は、前述したように、古くは万葉集にも登場する。
当時の三河国は二つに分かれていて、東三河の宝飯郡は穂の国だった。
本坂峠は、穂の国へ通ずる坂であることから、穂の境と呼ばれ、また、穂の坂がなまって、
本坂峠と呼ばれるようになったと古い本に記述があるようである。
穂の坂が本坂、いわれてみれば納得できる。 」
本坂峠に向かう前にやることがある。 薮蚊対策である。
完璧な方法はないと思うが、顔、手、足と外に触れるところには、虫除けスプレーを吹きかけた。
また、靴下でズボンの裾を蔽った。
これで登山開始である。
道を上ると、展望できるみかん畑の道はつかの間で、すぐに林の中に入っていった。
くもっていることもあって、薄暗く歩きを進めていくのに比例して、虫の数が増えてくる。
舗装されている道はみかん畑がなくなるあたりまで、林の中は石畳の道となったが、
この石畳の道はコンクリで補強されているので、歩きづらい。
五分位歩いたところで、旧本坂トンネルへ向かう旧国道に出た。
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ここは車道を横断して、対面の狭い道を進む。
道には、「姫街道」の道標が建っているので、迷うことはない。
旧国道を横断すると、先程より急な坂で、石畳の道なのであるが、道の半分が川になり、
水が流れ落ちてきていた。
ここ数日雨が少ないからとやってきたが、考えてみれば梅雨の真っ最中である。
ある意味では無謀な旅なのかもしれない。
今回、杖を持ってきたのが役にたった。
コンクリ石畳の道が水で滑るのだが、杖のお陰で身を保持できる。
水の少ないところを選びながら、慎重に進む。
石畳が途絶えると坂が急になり、山裾を右にカーブしていく。
その先は苔が生えた階段で、それを越えると、左右の方が高い、谷状の道になった。
その上、道の中央に倒れた幹や枝が無数に散らばっているので、大変歩きにくい。
傾斜が急なため、水はけがよいのが、唯一の救いである。
やがて、左側に苔に覆われた大きな岩・鏡岩が現れた。
「
この岩は高さ四メートル、巾十メートルあり、鏡岩と呼ばれてきた。
昔は光っていたので、旅の女性がこれを鏡にして、身づくろいをした、といわれる。
この岩は、チャートの断層である。
このあたりは、太古は海で、放散虫や海綿動物などの動物の殻や骨片が海底に堆積してできた岩石である。
チャートとは、堆積岩の一種で、主成分は二酸化ケイ素(SiO2、石英)であるので、
磨けばぴかぴかするだろう。 」
瓦礫まじりの道を上って行くと、前方にガードレールが現われた。
ガードレールに沿って上ると、先程別れた旧国道に出た。
姫街道は?と、道の左右を見ると、旧国道を左斜めに横断したところに、
狭い坂道のようなものが見えたので、それに向って歩いた。
坂の入口の左側に、「姫街道」と「椿の原生林」の丸い看板があった。
椿の原生林も姫街道を上っていけばよかったのだが、旧国道の脇に、
椿の原生林の別の看板があったのに目が行き、気が付くと旧国道を左に向かって歩いていた。
椿の原生林に興味を持ったのであるが、花の季節ではないので、
繁茂した葉が黒光するだけであったが、貫禄はあった。
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少し歩くと、左側に林道の入口があり、進入禁止になっている。
街道に戻り、坂を上っていくと、椿の原生林の説明板がある。
説明板
「 この道に沿って百数十メートルにわたって椿の原生林が見られ、樹齢二百年のものもある。
旅人は花の隧道を歩いていった。 」
花の季節には、美しい花道になるだろう。 機会があれば訪れたいものである。
枝ぶりが曲がった木の下のひっそりと静まりかえった石畳を登り続ける。
高度が高くなるに連れて、林の中が明るくなってきた。
石畳の石と砕石が混じったような道に出ると、正面に石段が現われた。
石段を十一段上ると、緑の林に入る。
下の方ではうぐいすの声しかしなかったが、オオルリかもしれないと思うのだが、
美しいさえずりが少し高い方角から聞こえてきた。
更に、上ると、道も傾斜して険しくなった。
道の右側に、「姫街道」の道標があった。
その先は尾根道のような感じなので、峠もそれほど遠くない気がした。
黙々歩くと、少し傾斜がある上に本坂峠があったが、予期していなかったので驚いた。
「 登山者の立場からいうと、先程の道標に峠までの距離を書いておいてくれると、 峠に近づくにつれて期待感が高まるのだが、 突然現れたため、達成感も消えてしまった感じである。 」
本坂峠は、数十坪程の狭いスペースだった。
右側に、「 本坂峠 327M、」 その下に、「姫街道」とある道標があった。
本坂峠は、静岡県の前身の遠江国と愛知県の前身の三河国との国境だった。
その左に四角の石積みがあり、その先には、「豊橋自然道 石巻山多米県立自然公園」 の
ばかでっかい案内板がある。
また、案内板の近くに、中山峠への道標があった。
本坂峠は、東西に延びる姫街道と南北に続く豊橋自然歩道のハイキングコースが交差していて、
富士見岩ー本坂峠ー中山峠
の道標や上浅間社0.5k、石巻分岐点3kの道標があった。
「富士見岩ー本坂峠ー中山峠」への道標や「上浅間社0.5k石巻分岐点3k」の道標はある。
時計を見ると、九時四十分、国道と別れて登り始めたのが八時五十分なので、
五十分かかったということになる。
本坂峠は、四方は樹木に囲まれて、景色が良いという訳ではないが、静かで適当に風もあり、涼しい。
「 姫街道の旅も、この峠で大半が終わったという感じかした。
持ってきたあんパンとお茶を飲み、下山にかかる。
「領主茶屋場跡」の標識もあったようだが、見つからなかった。 」
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食事後、本坂峠を下り始めたが、かなり急な所もあり、また、梅雨のため、
石が滑りやすくなっているので、転ばないように、杖でホールドしながら下りた。
杉が檜か分からないが、整然と植えられているのを見ながら下ると、
左側に「弘法水」の表示があり、苔が生えた小さな岩の下に、小さなくぼみがあり、
水が溜まっていた。
傍らの説明板
「 昔、弘法大師が当地を訪れた際、喉を潤したという伝えが残っている。 」
梅雨時でも流れている様子はないので、飲用には適しないのではないか?
その先の左側には、「 ←本坂峠 旧姫街道 嵩山宿→ 」の道標が建っている。
更に下ると、旧本沢トンネルに至るという道標が現れた。
「 旧本沢トンネルは、旧国道362号線の愛知県と静岡県の県境に掘られた、
大正四年に竣工した本坂隧道のことである。
現在の本沢トンネルは数年前までは有料だったので、このトンネルは利用されたが、
今はほとんど通らなくなった。
小生は、四月の桜撮影の時、愛知県側から静岡県に抜けたが、
左右のピラスターと黒ずんだ煉瓦に重厚さを感じた記憶がある。 」
その先にも、「旧本沢トンネル」の道標があったが、道は左右に曲がりながら下って行く。
立ち止まってよく見ると、大きな木の間に小さな木が多くあり、
下草も伸び放題になっている感じである。
道の真ん中に大きな石があるが、その上に小石が積み重ねられていた。
この先でも、大きな石があると、同じようになっていた。
登山すると、山の頂でよく見る風景であるが、街道でこうした
風景を見たことはない。
ところどころに山あじさいがあり、かれんな花が咲いていた。
更に下っていくと、水音が聞こえてくる。
右にカーブするところに、鉄管のようなものが見え、水が流れているような感じである。
思わず立ち止まり、左手の山際を見ると、「旧姫街道」の道標があり、
その下に 「水場→」 の表示があり、その脇に、「 嵩山七曲り 」 の標木があった。
ここまで左右くねくね曲がってきたが、これは嵩山七曲りということを知った。
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沢は予想したほど広くなく、水は流れているが、飲もうという気にはならず、通り過ぎた。
峠で涼しい風にあたり、身体が冷えたので、渇きを感じなくなったのかも知れない。
その先の右側に、「旧姫街道」の道標があり、
そのあたりに茶屋場があったようであるが、現在の状態ではその光景は考えられない。
一段下がってところの右側に、「嵩山七曲り」と同じスタイルの「座禅岩」と書いた標木があった。
道の中央にある大きな石がそれなのか?
これだけではどの石なのか分からない。
標木は地元のボランテアの方々が作られたのだろうと思うので感謝するが、
出来ればもっと詳しく案内戴けるとありがたい。
少し下がると、ちっちゃな橋があり、それを過ぎると三叉路にでる。
三叉路の少し手前の左側に腰掛岩がある。
先程と同じタイプの標木とその脇に小さな石標が建っている。
しだや下草に覆われれているので、注意しないと通り過ぎてしまう。
三叉路の左には、「姫街道」の道標と「浅間神社」の道標が建っている。
直進するのが姫街道で、左折していくと浅間神社である。
「 社伝には、浅間神社の歴史は古く、奈良中期(750年)に、
駿河国の富士浅間神社から勧請されたと伝えられる。とあり、古い神社である。
古来、浅間神社は、大山社(頭浅間)と原川社(腹浅間)、
そして、富士社(足浅間)の三社三神よりなっていた。
しかし、明治維新の時、神社の廃却が命じられた。
地元は運動を起こし、明治二年(1869)に据置の許可を得る。
その後、明治四十一年(1908)の神社合祀令により、大山社の大山祇神と浅間神社の祭神を原川社に合祀して、二社三神を浅間様と呼んだ。 」
頭浅間の大山社は4月に桜を撮影する時に訪れている。
旧国道の上に常夜燈と鳥居があり、かなり急なてすりのついた石段が続いている。
石段を上っていくと、質素な社殿が現れたが、「足浅間」と呼ばれる富士社である。
「腹浅間」と呼ばれる、浅間神社原川社へは大きな樹木が林立する山道を行くと、数分で到着した。
説明板「原川社(腹浅間)」には、
「 富士社の祭神は秋津姫命、原川社の祭神は木花咲耶姫命、大山社の祭神は大山祇命 」とあったので、戦後、三社三神に戻ったように思われる。
参道は姫街道と平行しているようで、頭浅間の大山社を経由して本坂峠にいける。
豊橋自然歩道の一部になっているが、当日はここで引き返した。
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姫街道は、三叉路を直進すると舗装された道に変わり、橋を渡ると石畳の道になる。
少し行くと左側に石造りの姫街道の道標が建っている。
そのまま下って行くと、車道に出た。
旧国道362号線で、下りに入ってからは初めてである。
車道を右斜めに横断し、「旧姫街道」の道標に従い、
ガードレールの外れから階段状になった石畳を下っていくと、少しじめじめした石畳に変わった。
石畳が壊れて、砂利道に変わり、木立も明るくなった左側に、「嵩山一里塚」 と書かれた木柱があり、脇には 「 江戸ヨリ七十三里 」 と書かれていた。
左側は塚のようにこんもりしていたが、一里塚なのだろうか?
その先に「旧姫街道」の道標があり、少し歩くとぱっと明るくなった。
わずかな空間であるが、空が見えるところで、道の左側には「姫街道」の大きな説明板がある。
説明板には、姫街道が平成八年に
文化庁により歴史の道百選の選定されたとあったが、今回歩いて見て選ばれる道と思った。
説明板には、嵩山宿や本坂峠から嵩山宿までの案内はなく、姫街道の一般的な説明があるだけで、参考にはならなかった。
その先には、数人が座れるベンチがあり、一服するのに好都合であった。
人の気配が全く無いところで、お茶を飲み、しばらく休憩をとった。
左手に、「どんかめ→100m」 と書かれた道標があったので行ってみたが、
右側に砂防ダムのようなものがあり、左側は小さな川があるのみである。
どんかめの道標を出すのなら、その説明をするか、行ったらなるほどと納得させる景色であって欲しい。
街道に戻り、坂道を下って行くと、右側に「嵩山不動滝方面」と書かれた道標が建っていた。
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コンクリートで固められた石畳を下りていくと、舗装された車道になり、
左手に老人看護施設が見えてきた。
更に進むと、とたん屋根の民家が現れた。
この家は、かっては茅葺きか藁葺きだったのだろう。
ここからは、道の両脇に民家が建ち並んでいる。
坂を下ると、右側に民家のような藤上公会堂がある。
道の反対側には、 「 姫街道 西嵩山宿 東本坂峠 」 と書かれた道標が建っていた。
ここが、江戸時代の嵩山宿の東入口だったのだろう。
道標の側面には、「 ましらなく 杉のむらたち 幾重にのぼりぬ すせの大ざか 景樹 」 という句が刻まれている。
香川景樹は、江戸時代天保期の歌人である。
「裏面の解説文」
「 文政元年(1818)に東下りした際詠んだ句で、彼と随行した高弟の菅沼斐雄の随行紀行袖くらべによれば、どんがめは姫街道の名勝とあり、香川景樹はどんがめを過ぎて、
七曲がり付近でこの歌を詠んだ、と書かれている。 」
その先の変則的な交差点から御油宿までは、平坦な道である。
この角には「姫街道」の矢印道標があり、西から来た人の道案内をしている。
これでなんとか、本坂峠を越すことが出来た。
昔の旅人からは、本坂峠は道が細くて険しいので箱根より大変だといわれていた、という。
歩いた感想では、箱根峠は天下の険として、距離が長く険しいが、整備されているので、歩きやすい。
この道は脇往還ではあるが、道幅は狭かったはずで、東海道の宇津ノ谷峠に似ているように思われた。
少し行くと、左に白い蔵、右手に養蚕用の屋根をした小屋があり、
その先に挟石(さぼうし)川が流れている。
このあたりは、豊橋市嵩山町であるが、嵩山をすせと読める人はほとんどいないといえる難解な地名である。
川に架かる重玉橋を渡ると、右側に藤下公会堂がある。
このあたりは宿場だった通りであるが、道には車も人もいない。
「 江戸時代、嵩山宿の人口は五百八十人程度だったが、
天保年間には本陣が一軒あっただけで、脇本陣も旅籠もなかったようである。
人の往来が激しくなった幕末になると、本陣と脇本陣が各一軒、旅籠も十軒を越える宿場に発展し、
賑わったという。 」
嵩山川沿って、黙々歩いていくと、右側に大きな案内板が現れた。
案内板には、姫街道のいわれや嵩山宿の地図が書かれていた。
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案内板の手前の夏目邸が本陣だったところで、 案内板には、建替前の写真が載っていた。
「 今も子孫がお住まいのようすであるが、
今は新しい建物が建ち、石垣と蔵が一部残っているだけである。
その手前の東海ホームとある家の門は歴史を感じさせるものだが、これと関係はないのだろうか? 」
ここで寄り道をする。
その先の国道362号には桜の木が多くある。
国道の下をくぐると、嵩山校区市民館、その先に嵩山小学校があるが、
左手の豊川用水に沿って植えられている桜は満開だった。
学校の少し先には白土神社があったが、建物は寺院のように、大きな重厚な建物だった。
市の教育委員会が建てた説明板
「 白土神社の創建は、嘉暦年間(1326〜29)と伝えられ、また、天正六年(1578)の勧請軒札には、
「地頭西郷孫九郎家員 同 隠居左右衛門吉員 」 とあり、
当社がこの地に勢力を持った西郷氏の崇敬を受け、社殿が修復されていたことが分かる。
白土社の鰐口は豊橋市の指定文化財になっている。 」
左側に川に沿って、桜の木が植えられているあたりが、「左京殿城祉」で、 川沿いの道を道なりに歩いていくと、「長孫天神社」の石標があり、脇に常夜燈、そして、鳥居があり、その奥に社殿が見えた。
「 長孫天神社の創建は、神社の社伝によると、養老三年(719)と伝えられ、
慶長六年(1601)の伊奈備前守の神領寄進状には、長彦大明神神立とある。
社殿の内陣は二社づくりとなっていて、社伝では左の方が石巻大明神、
右の方が栄宮大明神となっている。
なお、伊奈備前守とは、伊奈備前守忠次のことで、
家康が江戸に移封された後は、関東代官頭として家康の関東支配に貢献し、
利根川水系の河川改修工事で、銚子沖に川を流れるようにしたことで、有名である。 」
この後、南東に向い、三叉路を左折し、続いて右折する。
その先の左側に鉱山に入る交差点を直進すると、十輪寺がある。
「 十輪寺は十四世紀半ばに創建と伝わる寺院で、入口に東三河四郡弘法大師霊場第二番とあった。
境内には石仏が数体と庚申塔がある。
裏山には、石灰岩の岩陰遺跡である立岩遺跡がある。
遺跡からは、渥美窯の小皿と懸仏の残欠と考えられる銅片が採集されているという。 」
以上は寄り道するならと、書いてみた。
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街道を進むと、右側の煉瓦造りの囲いの中に「村中安全」と書かれた、 文政十年(1827)建立の秋葉山常夜燈が建っている 。
嵩山川を越えて、そのまま進むと嵩山交差点で、左からくる国道に合流してしまった 。
気賀宿から嵩山宿までは、引佐峠と本坂峠を越えるという険しい道が続いてきたが、
姫街道はここから終点の御油宿までは平坦な道が続く。
「 気賀宿から歩いてきた場合はここで終了すると、次回の旅は距離的に良いと思うが、
注意しないといけないのがバスの便、
嵩山バス停から豊橋駅前までの豊鉄バスは一日五便で、
最終バスは十五時二十二分と早い時間に終わってしまうからである。
なお、この先の和田辻バス停まで行けば二十時まであるが・・ 」
嵩山交差点で、国道362号線に合流するが、交叉点を右折し、800mのところに、
臨済宗妙心寺派の正宗禅寺がある。
少し歩くと、道の右側に、「 ここは姫街道 筆の里 」 の看板があった。
「筆の里工房嵩山」 の広告であるが、 江戸時代、豊橋市の前身、吉田藩の城下町では、
武士の副業として筆作りが行なわれていた。
「 豊橋の北部一帯の丘陵地帯で、筆の原料となるタヌキ、イタチなどが容易に捕獲でき、 また、東海道を往来する行商人の手で全国に販売され、今でも奈良の墨、 豊橋の筆ということで有名である。 」
先程の姫街道の大看板の地図によると、姫街道は、天神川で左折していたように書かれている。
嵩山交差点から四百メートル程歩くと、左側に嵩山市場のバス停がある。
少し行くと川が流れていた。
この川が天神川であるとすると、江戸時代には、このあたりに嵩山村の高札場や阿弥陀堂、
観音堂があったということになり、ここが嵩山宿の西の入口だったのだろう。
また、右手の自由が丘団地西端には、戦国時代、西郷氏の居城の市場城があったところである。
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旅をした日 平成21年(2009)7月5日