気賀から三ケ日までの道は整備されているので、トレッキングコースとして人気が高い。
姫街道での難所は本坂峠と引佐峠であった。
引佐峠は海抜二百メートルの高さで、岩根から約二キロの道のりである。
奥浜名湖が展望できる景勝地でもあったので、ここには茶屋があり、大名や姫君が通行の際は、
湯茶の接待が行われた、という。
江戸幕府に献上されるベトナムからの象が長崎から京都を経由して運ばれた際、
三ケ日宿から引佐峠の上りで悲鳴をあげ、象鳴き坂という名が付いた、とある。
平成二十一年(2009)二月二十三日、気賀宿から三ケ日の大谷橋まで歩いた。
姫街道本陣前公園を出発し、国道362号線を西に進むと左側の空地に、
安政四年(1857)に建立された秋葉山常夜燈とその奧に枡形石垣がある。
江戸時代、枡形から中(東側)が気賀宿であった。
江戸時代には、宿場を出た先の右側、呉石バス停の脇に、「犬くぐり道」 という関所を通らないで、
抜けられる道があった。
住民の便宜のため設けられた道だが、はたして住民だけしか通らなかったのだろうか?
その先の左側の石積の上に、「堀川城将士最期之地』の碑がある。
少し進むと三叉路で、姫街道はここで国道362号線と別れて、右側の道に入って行く。
道の両側には比較的新しい家が建ち並ぶ。
少し歩くと、右側に「活民院殿参道』の石柱がある。
「
活民院殿とは、江戸時代中期の大地震で被害を受けた気賀の復興に功績を残した領主・近藤用随の法名で、
街道から外れた山手に近藤家の墓がある。
近藤家代々の遺体は、江戸下谷の称仰院か細江の初山宝林寺に葬られたが、呉石のこの地にも祀った。
この付近を下屋敷とか御所平と呼んでいる。
近くには、近藤家のお姫様が皮膚のできもので困ったときに願をかけたらきれいに治ったことから姫地蔵と呼ばれる、天和二年(1682)建立の石地蔵がある。 」
その先の右側に「知足山全得寺」の標石が建っていて、その近くに、「新田喜斎」の供養碑があり、知足院跡である。
「 右手の山の中腹に建っているのが全得寺で、その先に寺へ登る参道がある。
永禄年間に堀川城将の一人、竹田十郎高正が全得寺を創建し、一族の菩提寺とした。
知足院は、堀川城主・新田喜斎を祀った寺で、大正十一年に全得寺へ併合された。
本尊の地蔵菩薩は、喜斎の持仏といわれ、全得寺に祀られている。 」
続いて右側に諏訪神社の鳥居、その前に秋葉山常夜燈のような祠がある。
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民家の庭先の梅が満開で、ほのかな花の香りが鼻に届いた。
ひっそりとした道はやがて下り坂となった。
呉石川の手前の右側に、呉石田園公園の看板があり、その奥には公衆トイレと休憩できるスペースがあった。
傍らには、奥浜名湖地域の藺草栽培を紹介した大きな案内板が建っていた。
「
藺草栽培については、民俗資料館でしっかり学んできたが、内容はほど同じである。
気賀にとっては、領主の近藤用随と藺草が一番印象に残ることなのかも知れない。
小生にとっては、公衆トイレがあることが印象に残った。 」
街道との一角には、「呉石学校跡」の碑と二宮尊徳坐像があった。
呉石田園公園は呉石小学校の跡地に造られたのだろう。
その先の小さな呉石川の橋は工事中で警備員が立っていた。
橋の上の左のガードレールに 「 姫街道→ 」の標示(道標)が、道路には 「 ←長楽寺」の標示(道標)がある。
「
長楽寺は、
大同年間に弘法大師が創建したと伝えられる古刹で、梵鐘には嘉元三年(1305)四月十日と刻まれている。
また、小堀遠州の作と伝えられるどうだんつつじの庭がある。 」
長楽寺には寄らずに直進すると、右側に計測機のアマノの建物があった。
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その先の三叉路は右側の直線の道を進む。
道はゆるい上り坂となるが、左側に 「是より金地院道五百○(○字解読不能) 」 と書かれた道標があり、
その下に 「 金地院↑ 」 の看板がある。
坂を登っていくと、三叉路の角に自然石があり、「 金地院→ 」の看板があり、
自然石の先には「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑と小さな祠があった。
この自然石は、地元では道祖神と伝えられるものらしい。
「
金地院は、定光山金地院が正式名称で、臨済宗妙心寺派の寺院である。
開山は紀州興国寺法燈国師の法孫こうがん和尚。 建武年間の創建と伝えられている。
彦根藩井伊家の祖先は、井伊谷の豪族であった。
南北時代、井伊家は南朝について、当地域の北朝勢力と争いました。
後醍醐天皇の皇子・宗良親王は、井伊家を訪れ、三岳城を拠点として戦いました。
しかし、この地域の南朝勢力は北朝方により一掃され、親王も信州に逃れ、
井伊家もいったんこの地域の拠点を失いました。
延元三年(1338)三月、宗良親王が出陣のため、井伊谷を出立された際、
妃の駿河姫(井伊道政の娘)も見送るため同行されました。
しかし、この地に到り、急病で亡くなった。
姫の葬送を金地院で行い、その後は姫を開基として祀っています。
寺には 「金地院殿慶岩寿永大禅定尼」 という位牌があります。
明治九年(1876)の火災により、観音堂(享保14年建立)と山門(天明8年建立)を除き、焼失荒廃した。
明治43年以降、本堂、鐘楼、位牌堂などを再建し、今日に至る。 」
金地院には寄らず、左側の道を姫街道は進む。
道はやや急になり、カーブして行く。
直線になった先の交差点の左側に畑があり、細い道があるので入って行く。
そこには二つの社が建っている。
説明板「ニ宮神社」
「 宗良親王の妃、駿河姫を祭神とする。
南北朝時代の初期、後醍醐天皇の皇子・宗良親王は、南朝勢力の増強をはかって、
井伊谷(引佐町)の豪族井伊道政のもとに滞在していた。
親王は、道政の娘駿河姫を妃とし、一子尹良親王をもうけたといわれている。
延元三年(1338)一月(三月の説も)、親王は、奥州からの北畠顕家の軍と浜名の橋本(新居町)で合流し、
京に上ろうと井伊谷を出陣した。
駿河姫も、親王を見送るたためこの地に来たが、急病になって翌日十日に亡くなった。
近くの金地院で火葬をし、親王の御座所のあった所に社殿を建て、姫の持っていた鏡を祀って、
二宮神社とした。
境内社の若宮神社は、尹良親王を祀っている。
平成元年三月二十日 細江町教育委員会 」
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左側のよう壁の二宮神社説明板あたりから下り坂になった。
坂を下りきると、ガードレールの付いた橋があり、その下に流れるのは小森川で、変則的な交差点になっている。
姫街道の道標があり、橋を渡るとすぐ、左側の狭い道に入る。
道はカーブしながら続いているが、百五十メートル程歩くと三叉路に突き当たる。
そこには姫街道の道標が建っているので、その指示に従い右折する。
その先の左に登る細い道が姫街道である。
ここからは山道のような道で、道なりに進むと右側の林の入口に、
「 ここには巨大松があったが心なしの人のため枯れ果ててしまった。
ついてはこの森の幹や枝を切る悪質な行為は、絶対にしないで欲しい。 」 という看板がある。
これは里人が山村修理の霊を慰めるため、松を植えたと、という歴史があり、
山村氏の子孫と思われる方のお願い看板が建ったといるということらしい。
その先の右側の小さな土地に、堀川城戦死者之墓と自然石に刻まれていた山村修理之墓、そして、 山村修理の墓の説明板があった。
説明板「山村修理の墓」
「 戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。
気賀の領主で今川方の新田友作は、かって今川義元の家臣であった尾藤主膳、山村修理等とともに、
永禄10年から11年(1567〜68)にかけて堀川城を築きました。
しかし、遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により、永禄11年3月には落城してしまいました。
永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を
企てました。 このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と呼ばれたのが、菅沼二郎右衛門、
鈴木三郎太夫と、後に旗本近藤家を築いた近藤石見守です。
遠州に攻め込んだ家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め、地元民男女1500〜
1600人とともに堀川城に立てこもりました。
しかし、永禄12年(1569)3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城、
捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。
落城のとき舟で逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。
かって、ここには松の古木があり、「修理殿の松」 と呼ばれていました。
細江町教育委員会 」
ここからはかなり急な上り坂になるが、その距離は短かい。
上りきると、右側の小高くなっているところに、「一里塚 姫街道」と刻まれた石碑と山田一里塚跡の説明板があった。
天保十四年(1843)に編纂された、本坂通宿村大概帳には、「 木立無之、但、左右之塚気賀村地内 」
とある一里塚で、江戸から六十九番目、姫街道では五番目の一里塚である。
説明板「姫街道 山田一里塚跡」
「 街道の一里毎に、道の両側に土を盛り、松や榎を植えて標識としたものを一里塚といいます。
距離と、かご賃など人馬の賃銭などの目安とされていました。
戦国時代には造られ、江戸時代の初めには、江戸日本橋を基点として、全国の主な街道に造られました。
細江町気賀字山田にある姫街道の一里塚は、江戸日本橋から69里めの一里塚でした。
「 くたびれたやつが見つける一里塚 」 誹風柳多留
平成6年3月25日 細江町教育委員会 」
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その先の三叉路の辺りから急な下り坂道である。
道は右にカーブし、続いて左にカーブし、その先は上り坂であることが、高台のここから見下ろせた。
坂を下ると、左側の車道と合流したので、右折して車道を進む。
右側の道脇のガードレールがあり、その先には民家の前に池があり、
「ダイダラボッチの足跡」の説明板が立っている。
説明板「巨人伝説の池 ダイダラボッチの足跡」
「 琵琶湖を掘った土を運んで富士山を造ったという、伝説の巨人、ダイダラボッチの足跡と伝えられる池です。
尉ヶ峰に腰をかけて弁当を食べたとき、ご飯の中に入っていた小石を浜名湖に捨てたら、礫島ができたそうです。
そして、腰をかけた尉ヶ峰は、少し低くなってしまったそうです。
巨人伝説は日本全国に伝えられていて、古くは奈良時代の風土記に書き表わされたものもあります。
その多くは現在の地形の成り立ちを、巨人のしわざとして説明するものなのです。
細江町教育委員会 」
その先の三叉路(東山田の辻)に右角に馬頭観音と道祖神が祀られている。
もとは数メートル離れたところにあったようであるが、仲良く並んで建っていた。
馬頭観音は風化がすすみ、道祖神は文字で道祖神と書かれた文字碑で、「豊川みち」と刻まれていたらしい。
姫街道の道標もあった。
馬頭観音と道祖神の左側の道を進み、ミカン畑の中、再び坂道を上って行く。
坂の途中に、ミモザが数本あり、真黄色な花を咲かせていて、美しかった。
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道脇に、清水みのる氏の詩碑が建っていた。
「 姫街道
清水みのる
尋ねようもない 幾歳月の流れの中で
姫街道は 今も静かに息づいている
細江町長 早戸新一書 」
清水みのるは森の水車や田端義夫の帰り船の作詞で有名である。
坂の頂上付近まで行くと、左手一面に奥浜名湖が一望出来る地点に到着した。
小引佐(こいなさ)と呼ばれる姫街道の中でも最も景色のよい所で、
引佐細江、東名浜名湖橋、舘山寺遊園地が見渡せた。
すぐ先の三叉路は、右側が上り、左側の道は下るようになっているが、
姫街道は左の下る道である。
分岐点には、「小引佐」の大きな説明板と姫街道の道標が建っている。
説明板「小引佐(こいなさ)」
「 ここは小引佐と呼ばれ、姫街道の中でも引佐細江(浜名湖の入り江)の景勝の地として知られています。
岩根に向って西に下りる坂の降り口には賽の神と、坂の途中にはお地蔵様が祀られています。
お地蔵様は、江戸時代の終わり頃この付近で処刑された、
「キヨゾウ」という人の霊を弔ったものという言い伝えがあるそうです。
ここから東へ四百五十メートル程下ると、東山田の辻には馬頭観音と道祖神が祀られています。
これから引佐峠を越えて西に向う旅人が、峠越えの無事を道祖神やお地蔵様に祈り、
また、引佐峠を越えてきた旅人が難路の無事を感謝して、ここで一息入れて景色を楽しんだことでしょう。
南側の宝渚寺山にはマンサクの群落(細江町天然記念物)があります。
春一番の二月から四月に開花し、山肌を黄色く彩ります。
昔も今も小引佐の峠道を行く人々の目をなごませてくれます。
細江町教育委員会 」
その先右側に、塞神と四体の石仏が祀られていた。
このあたりから、坂道は、坂道は石畳道に替った。
江戸時代のものなら価値があるが、最近整備したものである (右写真)
石畳は街道気分になるようにと設置したものだろうが、でこぼこした割り石を並べ、
コンクリートで固めた道は、誠に歩きにくい道だった。
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寒冷紗の架かるみかん畑を過ぎると、林の中に入り、右にカーブすると、岩根集落に出た。
下りたところの道は車道のような道だが、その先で、道の幅が半分になり、
左側はガードレールでふさがれている。
この合流点を左折して進むと、二百メートルのところに天竜浜名湖鉄道西気賀駅がある。
その先の右側の家の庭は広く、早咲きなのか、しだれ桜の若い木が満開である。
水仙とあしびの花も咲いていて、春のたよりを運んできていた。
道の右側に薬師堂と常夜燈が建っている。
もともとは、引佐峠越えの旅人の休息所にもなっていたという。
説明板「薬師堂」
「 岩根地区の姫街道沿いに建てられた辻堂です。 創建年代は明らかではありませんが、
本尊の薬師如来の台座の裏の銘文から、天保6年(1835)に再建されたことがわかります。
お堂の西隣には、文化2年(1805)に建てられた秋葉山常夜燈があります。
また、この西の道を北へ500m谷に沿って登ると、
阿弥陀如来坐像(町指定文化財)を祭る阿弥陀堂があります。 」
道は岩根川にかかる橋の先で突当るが、姫街道の道標があるので、左折して進む。
民家の石垣のある急な坂を上ると三叉路で、姫街道の道標に従って右折する。
百メートルほど舗装道路を進むと、右にカーブするところの左側にしっかり石を敷き詰めた石畳の道がある。
姫街道の道標があることを確認して、石畳の道を上って行く。
「 岩根から引佐峠までの間で、古い石畳が残るのは姫岩のすぐ下と、
引佐峠の下の二ヶ所のみという。
道幅はともに一メートル程であり、両側に雑木が茂り、昼間でも薄暗い。 」
薄暗い林の中を行くと、
赤い着物を着せられた石仏があるので、なんなのだろうかと思ったいる内に、姫岩に着いた。
屋根のある休息所では数人の人が休憩していた。
その手前にある平らな岩が姫岩といわれる岩である。
江戸時代の文書に、「平岩御休憩所」 とある十畳位の広さの平らな巨石で、
姫街道を通る大名や姫君に近藤家の家臣が出向き、湯茶の接待をした。
その為、当時は茶屋場とかまどがあったという。 」
説明板「姫岩」
「 昔、新居の関所の入鉄砲出女の取締や浜名湖の渡しを避けて湖の北を通る道がありました。
この道は主に女性たちが通るので、「姫街道」の名が付きました。
眼下に浜名湖を望み、街道随一の眺めの良いところです。
昔、お姫様の行列も、ここで休み、「 お姫様。 お駕籠からお降りくだされ 」 と、
駕籠からお姫様がお降りになると、 「 まあ、 よい景色 」 と言って、しばらく景色を眺めながら、
石畳の道を歩いたそうです。
また、この八畳ほどの平らな岩は、「平岩」とも呼ばれていましたが、
いつの間にか 「姫岩」 と呼ばれるようになり、この上に座ると良いことが起こると言われています。
近くには、お姫様に上げるお茶を汲んだと言われる「姫様井戸」が今も残っています。
細江町観光協会 細江町教育委員会 」
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木が茂っているためか、今はそれ程見晴らしは良くない。
その先の舗装されている細い道を登っていく。
途中に何度か分かれ道があるが、右側の道をいく。
姫街道の道標が整備されているので、迷子になることはない。
やがて、巾の狭い山道のようになってきたが、道は舗装されていた。
かなり高いところにくると、梅が咲き、浜名湖の一部がちらと見えた。
更に進むと左側に視界は広がり、みかん畑の下に浜名湖と集落が見えた。
三叉路で、右の道をとると、林の中の暗い石畳に変わった。
この辺りの石畳は幅一メートル程である。
敷かれた石も、場所によっては古いので、その部分は当時の石畳の一部なのかもしれない、と思った。
石畳の道を十分位歩いたか? 周りが明るくなったかと思うと、石畳の先に石段が現われた。
石段を登っていくと、姫街道の道標があり、その先には「七号支線農道」の標識がある舗装道路に出る。
雨が降ったのか、石段が濡れて白く光っていた。
舗装道路を横断した先は、広場のようになっていて、屋根のついた休憩スペースと公衆トイレがあった。
休憩スペースを利用させていただいて、持ってきたおにぎりを食べ、
お茶で咽喉を潤し、しばしの休憩となった。
この広場は奥浜名湖展望公園というようだが、浜名湖の展望はあまり期待できない。
「
休憩した東屋の脇にある木の石段を登り、アップダウンのある道を行くと、十五分でみはらしの丘にいける。
ここからだと浜名湖の展望がよいようである。
往復三十分はもったいないとあきらめた。 」
トイレをすませた後、七号支線農道を少し下り、浜名湖の一部を眺めたが、平凡な風景しか見えなかった。
姫街道に戻り、旅の続きをスタート。
森の中に続く石畳の道を道なりに登っていくと、十分たらずで引佐峠に到着。
頂上には、大きな木柱に 「 姫街道 引佐峠 」 と書かれたものが建っていた。
「
岩根から約二キロの道のりにある引佐峠は、
海抜二百メートルの高さで、旧細江町と旧三ケ日町の境になっていた。
姫街道では本坂峠に次ぐ難所であり、また、景勝地でもあったので、ここには茶屋があったようである。 」
引佐峠は奥浜名自然歩道 佐久米コースの通過点にもなっているので、 浜名湖佐久米駅3.0km 尉ケ峰2.7kmと記された自然歩道の道標も建っている。
「
この峠の南方の国道362号にある寸座峠の「寸座」という地名は、征夷大将軍、坂上田村麻呂が東征の途中、峠を越えて、現在天竜浜名湖鉄道寸座駅にある石に、一寸座ったことから
名付けられた、とある。
田村麻呂はこの峠は通らなかったのだろうか? 」
ここまでが旧細江町である。
歴史民俗資料館で戴いた「細江町史跡図」 という資料は、資料的な価値があり、
ホームページを作成するのに大変役にたった。
この場を借りてお礼申し上げます。
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峠を越えると、旧三ケ日町の領域になる。
明るい林の中の石畳道を進むが、石畳の上には枯葉が積もっているので、
体重をかけると少し滑り、足場が悪い。
坂も急であるので、細心の注意で歩く。
その先は道幅も狭くなり、一層急になったと思ったら、象鳴き坂である。
説明板「象鳴き坂」
「 1729年(享保14年)広南国(現ベトナム)より献上の象が、将軍お目見えのため、
京都から江戸へ下る途次、船で渡る今切 (浜名湖) を避けて、姫街道を通った。
象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを象鳴き坂と付けた。
当時の書物によると、象は牡であった。 」
象でなくても、雨の日にここを歩けば辛いと思うよ。
道は象鳴き坂の先も、左から右にというように、くにゃくにゃしながら、S字カーブを描きながら、
林の中を下っていく。
周りの景色は次々と変わり、その先、右側に分岐して行く道があるが、
姫街道の道標の指示通りに道を進める。
直線の道になったころは石畳の道幅も広くなったような気がした。
すると、薄暗い雑木林の中の
左側の木の間に、「石投げ岩」と書いた看板と岩がある。
看板には、 「 引佐峠を登り下りする旅人がこの岩に石を投げて旅の無事を占った、といわれる。 」 と書かれていた。
その奥に、緑にこけむし、赤茶色になった落葉のようなものかぶさっているのが、石投げ岩のようである。
このあたりは石は落ちていないし、投げるには道幅が狭い。どこから投げるのかなど、
吉凶を占う方法が書いていないので、この岩を見ただけでは今一つ、ピンとこなかった。
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先程までの石畳と違い、割り石をコンクリートでしっかり固めたものなので、
車道を歩くのと一緒だが、滑りそうになる分だけ、歩きずらかった。
左手の木々の間からは、視界が開け、遠くの山々が見え、眼下にはみかん畑が広がり、麓までは近い。
途中からは農道として利用されると思われる道に代わる。
三ケ日みかんの生産農家の生活道路なのだなあ、と思いながら、
どんどん高度を下げていった。
その先、下り切りったと思えるところで、左側からの道と合流し、平坦の道を進む。
左側のみかん畑の一角に、「旧姫街道 一里塚址」の石碑が建っている。
追分の安間から六番目の姫街道の一里塚跡である。
説明板「大谷一里塚跡」
「 ここは江戸より70番目の姫街道の一里塚である。
江戸時代日本橋を基点として主要な街道に一里毎に塚を築き、松や榎等を植えて旅人の便に供するよう、
命令された。 昔は街道をはさんで両側に5間四方の土盛りがあった。 」
平坦な下り坂を歩くと、左手に和田牧場があり、牛舎のような建物が見える。
そこに行けば新鮮な牛乳が飲めるような気もしたが、そうした看板も出ていなかったので、
往復する手間が煩わしいと、直進した。
右側の広い庭のある民家のみかんが実った生垣に、消えそうな文字の「大谷茶屋跡」の看板があった。
この茶屋では大名や姫君のも茶湯の接待をしたようで、一般の旅人も休憩したり、草鞋を補給したいう。
これから、引佐峠へ登るひとも、下ってきた人もここで一服し、英気を養っただろう。
その先に咲くピンクのしだれ梅が満開だった。
天気が晴れならもっと映えるのかも知れないが、梅の花ということもあるのか、
薄曇りの中で、潤いもあって見事である。
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坂を下って行くと、正面に白い建物がある三叉路に出るが、ここは左折して進む。
カーブしながら下ると、三叉路でるが、その手前、左側の樹木が茂っているところが
「黒坂の森」といわれるところであり、道脇に六部様の矢印標示(道標)があった。
道標の矢印に従い、林の中を登っていくと、石で組まれた祠がある。
その脇に「六部様(修行僧円心の墓」 の説明板がある。
説明板
「 1767(明和4)12月29日、大谷村と都筑村との村境で、
生き倒れになった六部の忠道円心を祀ったところである。
背負っていた厨子と中の仏像は大谷の高栖寺に子授観音として祀られている。 」
六部様とはなにか?、と調べてみると、
「 六十六部の略で、六十六部廻国聖のことを指す。 」 とある。 日本全国六十六ヵ国を厨子を背負って読経しながら巡礼し、 一国一ヵ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教者のこと。 」 とあった。
六部様の墓とされる石祠の右側には二体の石仏も祀られていた。
この時代の旅は、死を覚悟して出立し、行き倒れになったらそのまま放置されることが常だった。
それは修行僧といえども、同じだったのではないか?
このように手厚く祀られたのは、大谷村の人々の心の優しさ以外はないのではないか?
姫街道に戻り、三叉路を直進する。 道は突当る三叉路で、
道幅の広い県道に出る。 ここは姫街道の道標に従って左折する。
県道を西南へ進み、都築大谷川にかかる大谷橋を渡ると、浜松市北区三ケ日町駒場である。
日が陰ってきたので、今日はここで終わる。
この後、奥浜名湖温泉 かんぽの宿 浜名湖三ヶ日に寄ったので、汗を流し疲れをとることができた。
(注)現在は閉鎖になったようである。
天竜浜名湖鉄道東都筑駅から名古屋に帰宅した。
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平成二十一年(2009)六月九日の午後、大谷橋から三ケ日宿を歩いた。
都築大谷川にかかる大谷橋を渡ると、大きな「姫街道案内図 東部方面」 という看板が建っていた。
前回歩いた姫街道のルートの大雑っぱな紹介板である。
右側にある屋敷門のある家の生垣の一角に、「大谷代官屋敷」と書かれた説明板があった。
説明板
「 ここは、江戸にいる大谷近藤家に代わって、支配した代官の大野家の屋敷である。
今も子孫が居住している。 」
大谷橋の方に少し戻った盛土した小高いところに、白い案内板が見えたが、看板の文字が風化していて、
「安形伊賀屋敷跡」 と読むのがやっとだった。
戦国時代、今川氏の配下だった佐久城主浜名氏の重臣だった安形伊賀守正道の屋敷跡の
ようである。
県道308号を西南へ少し進むと、右に入る道があるので、姫街道道標に従って、この道に入った。
このあたりは駒場集落であるが、古い家は見渡らない。
また、家を囲む生垣は風に強いといわれる槇が多かった。
二百メートル歩くと交差点があり、そこから道が狭くなった。
右側に火の見櫓があり、右に入る道があるので入って行くと、慈眼寺がある。
明治初年の駒場村の大火で古い寺は消失しましたが、後年に佐久米の阿弥陀堂を購入し、移築された、とある。
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庚申堂は、三間四面の建物で、青面金剛像が祀られている。
説明板「猿堂山慈眼寺」
「 明治初年の駒場村の大火で古い寺は消失しましたが、後年に佐久米の阿弥陀堂を購入し、移築されました。
この庚申堂は、三間四面の少々凝った建物です。
中には青面金剛像が祀られ現在でも十三年に一度、庚申(申年)に大祭があります。
堂の格天井には弘化四年(1847)に描かれた、内陣三十六枚、外陣六十枚の美しい花鳥画があります。
描いた画家は地元三ヶ日の岸派石川晶斎・福田半香・などです。
三ヶ日町教育委員会 」
境内にある一対の常夜燈のうち、左側が秋葉山常夜燈で、文化二年(1802)の建立である。
その奥にある小さな建物の棟瓦には「秋葉山」とあり、昭和五十三年に地元民により建立された常夜燈で、
今も住民が毎夕お灯明をあげている。
慈眼寺を出て街道に戻り、二百メートル程歩くと、東名高速道路に突き当たる。
そこには、「姫街道」の道標と「東名高速道路で分断された姫街道」という説明板がある。
説明板を見ると、 「 姫街道は高速道路を横断して、右折して進む道であったが、
昭和44年開通の東名高速道路によって分断された。 」 とある。
道がないのはどうしようもないので、「姫街道」の道標に従い、右折して高速道路沿いに進む。
道幅の広い三叉路に出るので、左折して、高速道路のガードをくぐる。
ガードから二百メートル歩くと、三叉路があり、左からの道が高速道路で分断された姫街道である。
右カーブする道の右側に、「姫街道」の道標が建ってい、この後、この道を進む。
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川を渡ると三叉路の右側の道に入り、山沿いに道なりに進み、その先の交差点で正面の車が走れない細い道に入る。
約百五十メートル先に三叉路がある。
姫街道は直進する道であったが、消滅しているので、右折して東名高速のガードをくぐる。
道なりにUターンして上り、右へカーブして高速道路沿いの道を進み、
五百メートル先で左折、高速道路の大里歩道橋を渡ると、先程消滅した姫街道がここで合流する。
この先の農道のような道を七百メートルいき、宇志川に架かる橋を渡る。
百五十メートル程先の交差点の右側には「瓦塔遺跡」の道標が建っていた。
ここから距離がありそうなので、行かなかった。
「 瓦塔は、奈良時代から平安前期にかけて、経済的などの理由から木造の代わりに、
瓦で建立された小塔である。
建立された瓦塔はすべて破壊し、東京都の東村山と当地で発見された破片で復元されたものが存在するだけである。
遺跡跡には、奈良博物館に保管されている復元瓦塔のコピーが置かれている。 」
交差点の先の細い坂道には「姫街道」の道標があったので、登るとすぐ下り坂になった。
ここは宇志集落で、左側の畑の角には、「茶屋跡」の説明板と「墓地 竹茂の墓」の標示板がある。
片山竹茂は、江戸後期の宇志八幡宮宮司で、俳諧の指導者として尊敬されていたという人物である。
説明板「茶屋跡」
「 ここは宇志の茶屋跡である。
「宿村大概帳」に大名や姫など身分の高い人が通ったとき、茶屋で接待したことが記されている。
一般の通行人もここで休んだり草鞋を買ったりした。
三ヶ日町内にも引佐峠・大谷・駒場等にあったようだ。 」
少し先には「高札場跡」の説明板も建っていた。
この辺りは間の宿のようだったのかも知れない。
左右に家が増えてきたと思ったら、「姫街道」の道標がある車が通る広い道に出た。
ここは右折して進むと、少し先に三叉路があり、
左折して進むと右側に三ヶ日地域自治センターという建物がある。
この建物は旧三ヶ日町役場庁舎で、現在は三ヶ日協働センターを名称を変更している。
姫街道は三叉路を直進し、坂道を上っていく。 大通りに入ったところから六百メート
ル歩くと、消防署の分署があり、火の見櫓が建っていた。
道はここで二つに分れ、右側は上りの道、左側は下りである。
左側の火の見櫓の下に植栽があり、
その中に「旧姫街道 一里塚址」 の石碑と「三ヶ日一里塚跡」の説明板が建っていた。
説明板「三ヶ日一里塚跡」
「 ここは、江戸より71番目の一里塚である。
江戸時代主要な街道には、江戸(日本橋)を基点として、一里毎に塚が築き松や榎等を植え、
旅人の便に供するよう命令された。
慶長年間といわれる。 昔は街道をはさんで両脇に五間四方の土盛りがあった。 」
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姫街道は左の道なのでここで左折し、坂を下って行く。
このあたりから、江戸時代の三ヶ日宿に入ると思われるが、はっきりしたことは分からない。
坂道を下って行くと、左側にフードセンターはなしょうがあり、その対面に三ヶ日郵便局がある。
その前には、「 夢街道 東海道 」 「←嵩山宿二里十八町(9.7km) 、「 三ヶ日町 姫街道 三ヶ日宿 」 「気賀宿 宿境まで二里二十町(10km)→」 の道標があった。
この道標は県が東海道の沿線に建てているもので、東海道を歩いている時、大変世話になった。
ここは三ヶ日集落で、その先の左側に萬屋旅館の看板があり、更に進むと豊文堂書店の手前の交差点は信号がないのだが、一時停止になっているので、車が必ず止まって進んでいた。
「 三ヶ日宿は、姫街道一番の難所、本坂峠と引佐峠に挟まれた宿場で、 峠を越える旅人で賑わった、といわれるが、旅籠の数はそれほど多くなかった、という。 」
その先の日野酒店には、「吟醸酒三ヶ日宿宿姫街道」の看板があった。
静岡銀行の先に、三ヶ日四辻の信号交差点がある。
手前の右側の石川接骨院の前に、「三ヶ日宿伝馬問屋跡」の説明板がある。
説明板
「 問屋石川家は、幕末・明治の画家、石川昌斎の生家である。 」
交差点を越えた左側の岡田医院前に、「三ヶ日本陣跡」の説明板がある。
本陣には、享保三年(1718)、八代将軍吉宗の生母・浄円院も泊まっている。
説明板
「 ここに姫街道三ヶ日宿の本陣「小池家」があった。 (中略) 江戸末期の文化二年(1805)に測量のため、
本陣へ泊まった伊能忠敬は、「 家作よし酒造をなす 」 と日記に記している。 小池家の末裔は梅原家である。 」
道の反対の右側には古い由緒ありそうな重厚な建物があり、裏には倉や幾つかの建物が続いている。
このあたりが石川脇本陣だったところのようであるが、確認できなかった。
その先の左側には西町公民館があり、その先には古そうな家が何軒か残っていた。
資料を持たないので分からないが、坂を下ったあたりまでが三ヶ日宿だったのではないか?
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旅をした日 (気賀宿から大谷橋) 平成21年(2009)2月23日
(大谷橋から三ヶ日宿) 平成21年(2009)6月9日