姫街道には、東海道の新居関所に対応するように気賀関所があった。
姫街道は古来から使用されていた街道なので、戦国時代にはここより西の本坂に関所が置かれていた。
東海道が制定された慶長五年(1600)には、江戸幕府は東海道の新居関所と共に本坂関所の施設を整備した。
寛永元年(1624)、旗本近藤氏の管理下で、気賀関所が設置された。
気賀宿は、東の入口、気賀関所から西の獄門畷までの五町五十三間(約六百四十メートル)の長さで、
本陣と問屋場が各一軒、旅籠は八軒だった、という。
姫街道(県道261号)は、都田川に架かる落合橋を渡ると、信号交叉点があるが、直進して進む
「 気賀は旧細江町の中心地で、現在は浜松市北区役所がある。
旧細江町は、姫街道の曲松あたりから引佐峠までと範囲は広い。
刑部城址の南東にある祝田付近では、ナウマン象化石が出土、また、陣内平古墳群や陣座ヶ谷古墳、
そして、船渡、滝峯、小野などでは九個の銅鐸が見つかるなど、縄文時代後期から、
すでに集落を形成していたという古い土地である。 」
その先の変則交差点を左折して行くと、北区役所(旧細江町役場)があるが、姫街道は直進する。
用水のような小さな川があり、その橋にも「落合橋」と書いた標柱があった。
こちらの橋の方が都田川に架かる落合橋より古そうである。
その先で、天竜浜名湖鉄道ガードをくぐる。
ガードの下には、遠鉄の気賀四ッ角バス停があった。
その先の気賀四ッ角交差点は五差路で、これまで歩いてきた県道261号はここで終わる。
正面と右の道は国道362号、左手前の道は県道49号である。
交叉点の左手前角は、姫街道 気賀関所の絵看板がある小さな憩いの広場になっていた。
また、県が建てた、「細江町 姫街道 気賀宿」 の道標もあった。
道標には、浜松宿 宿境まで三里二十三町(14.3km)、 三ヶ日宿 宿境まで二里二十七町(10.8km) と、あった。
気賀四ッ角交差点の左上の細い道を行くと用水のような川が流れているが、
これは江戸時代の要害堀である。
要害堀は関所東門脇から宿場の南側に沿って七百メートル掘られていた、という。
姫街道は国道362号で、交差点を直進する。
交差点を越えた右側の駐車スペースのようなところに、気賀関屋の説明板がある。
「 気賀は、天正十五年(1587)、本多作左衛門によって、街道の宿と定められました。
山手に山塁、南は堀川、東は関所と葦垣(よしがき)、西に石垣と矢来と枡形があり、
その中に本陣、問屋場、旅籠を始め、民家百軒が町並みをつくっていました。
気賀関所は、気賀宿の東の入り口にあり、慶長六年(1601)、
徳川家康により東海道本坂越の交通取り締まりのために創建されたといわれています。
この関所の本関所は、はじめ茅葺きでしたが、寛政元年(1789)にこけら葺き・切妻破風作り、
狐格子・瓦棟に改築されました。 嘉永七年(1854)の大地震で壊れたため、葺きかえられ、
昭和三十五年まで残されていました。
現在の建物は関屋の正面に向って左の部分三分の一で、下の間・勝手の間の部分です。
屋根の切妻破風作り、狐格子が残されています。
本番所の正面、街道をはさんで向番所と二層の望楼があり、周囲に堀と石垣、矢来が設けられていました。
細江町教育委員会 」
道の脇には、「史跡気賀関所址」の石碑が建っていた。
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その先のノズエ時計店の看板の脇に、「気賀関所跡→」 の看板があるので、狭い路地に入っていく。
→の案内に従い狭い路地に入って行くと、左に曲がるところの上に、「気賀関所跡→」 の看板があったので、
その下に行き、正面の気賀関所建物を見上げた。
ここは小路のため、建物の全体を見ることができない。
建物の前に 「細江町指定建造物 気賀関屋 東海道三大関所」の説明板ある。
「 この気賀の関所は慶長六年(1601)、徳川家康の創建で、
東海道本坂越(姫街道)の交通取り締まりのために設けられた。
関所の建物は、はじめ茅葺であったが、寛政元年(1789)に柿葺・切妻破風作り、狐格子・瓦棟に改築された。
しかし、屋根は嘉永七年(1854)の大地震で壊れたので、葺きかえられ、昭和三十五年まで残っていた。
現在の建物は、関屋の正面に向って左の部分三分の一で、下の間・勝手の間の部分であるが、
屋根の切妻破風作り、狐格子が良く見られる。
細江町教育委員会 」
イラストは気賀関所前の江戸時代の予想図である。
復元された気賀関所は、天竜浜名湖線気賀駅の南にある北区役所の西にある。
隣は細江図書館で、駐車場もある。
旅人が関所を無事通過すると、町木戸門で気賀宿に入る。
「 気賀宿は、東の入口、気賀関所から西の獄門畷までの五町五十三間(約六百四十メートル)の長さで、 本陣と問屋場が各一軒、旅籠は八軒だった、という。 」
気賀四ッ角交差点から国道362号線に沿って進み、右側の気賀小学校に通じるゆるい坂道を登る。
小学校の駐車場の右側に、大きな椎の木があり、その傍らには、「 気賀近藤陣屋遺木 江戸椎 」
という説明板が建っている。
説明板
「 気賀小学校とこの辺り一帯を陣中といい、江戸時代、旗本近藤家の陣屋(屋敷)があった所です。
近藤家は、気賀の領主で、気賀関所も近藤家が治めていました。
この椎の木は、陣屋の庭に植えられていたものといわれ、現在陣屋の面影を残すものはこの椎の木だけです。
この椎の実はとても大きく、近藤氏が毎年この実を幕府に献上したことから、江戸椎と呼ばれるようになりました。
平成6年10月1日 細江町教育委員会 」
街道に戻り、少し進むと道の右側に、「郷社細江神社」の標柱と鳥居、常夜燈が建っている。
また、道の脇には、「浄水井乃跡」の石柱もあった。
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参道を行くと、左側に「夫婦楠」という御神木がある。
石段を上り、鳥居をくぐると、細江神社の社殿がある。
祭神は、すさのうのみことと奇稲田姫命である。
境内には、樹齢は五百年といわれる、樹高二十五メートルもある大きな楠が七本あるが、
転座された頃植えられたものという。
七月の祇園祭で、御神体が都田川から浜名湖を船に乗って渡御されるのは、
下記の由来に関係するのかも知れない。
細江神社御由緒
「 名神大社 角避比古神社(つのさくひこじんじゃ 元国幣中社)は、浜名郡新居町に鎮座。
第五十五代文徳天皇嘉祥三年(850) 官社に列せられた立派な神社で、
浜名湖入口の守護神として氏子の方々に厚く信仰されていたが、
第百三代後土御門天皇明応七年(1498)八月二十五日、大地震、大津波がおこり、
神殿、建造物がことごとく流没したが、奇跡的に御神体は、村櫛をへて、
伊目の十三松に漂着、里人は陰岐大明神の地に仮宮を建てて祀った。
しかし、十二年後の永正七年(1510)、再び地震による大津波のため、気賀の赤池に漂着された。
気賀の里人はこの地に仮宮を建て、牛頭天王社と称え祀ることとなった。
以来、気賀の総鎮守としてあがめられ、明治六年三月、神社の格が郷社となったが、
戦後はこの制度は廃止となった。
赤池の里は当社より約三百米東南にあり、例祭日には神輿の渡御が行われる。 」
細江神社社殿の右手の建物は、藺草栽培の隆盛の基礎を築いた近藤用随を祀る藺草神社である。
「 気賀近藤家六代目・近藤用随は、宝永四年(1707)の大地震で、
気賀村の田畑の大半が湖水に浸かり作物がとれなくなったのをみて、大阪大番頭勤務の時代、
琉球藺(七島藺)が潮が入った田や葦が茂る深田にも適することを学んだので、
豊後国の松平氏からその苗を分けてもらい、領内の米のとれない田に広め、畳表を織る方法を研究した。
その後、全国的に遠州表として有名になり、この地方の経済を支える主な産業になった。 」
細江神社の社殿の左手には、合祀された熊野神社、その他の社殿が並んで建っていた。
その前を横目で見ながら通り過ぎると、その先に歴史民俗資料館があった。
中には、浜名湖の漁法と琉球藺の栽培と畳表の生産を一階で、姫街道と銅鐸を二階で展示していた (150円、9時〜17時、月休)
歴史民俗資料館の隣には、旧山瀬家の産屋が移築されているが、昔はこの小屋に妊婦は隔離され、
子供を産んだという。
資料館を出て、道なりに歩くと、「犬くぐりの道と」いう表示があり、その先の右側には東林寺がある。
東林寺は、天正五年(1577)の再興と伝えられる寺院で、
江戸時代には本陣を営む中村家の御退場寺に指定されていた。
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犬くぐりの道は、都田川の河岸にある蓮照寺のあたりから始まり、東林寺の前を通り、西の獄門畷に抜けていた。
「 犬くぐりの道とは、「 気賀に関所が設けられたことで、不便になった住民の為に、領主の近藤氏が設けた裏道で、道の途中にむしろを一枚たらし、その下をくぐり抜けさせた、という。 」
犬くぐりの道は、この後、右折して行くが、小生は左折して、姫街道である国道362号に戻った。
ゆるやかな上り坂を歩くと、右側の旧NTTの建物の一角に、「気賀宿中村本陣跡」の説明板が建っていた。
説明板「
気賀は、天正15年(1587)、本多作左衛門重次により宿と定められ、
東海道本坂通(姫街道) でもっとも重要な宿場となり、本陣は中村家がつとめられた。
本陣とは、江戸時代の宿場に置かれた、大名、公家、幕府役人など貴人のための宿泊施設です。
宇布見村(現在の雄踏町)の中村家は、徳川家康の次男・結城秀康が生まれた家として知られています。
中村家の次男・与太夫は、本多作左衛門の世話で気賀代官となり、
これが後に気賀宿本陣中村家となりました。 中村家は代々太夫を名のり、本陣として栄えました。
平成6年10月1日 細江町教育委員会 」
NTTの隣の民家の前には、「中村本陣之址」の碑が建っていた。
本陣跡の道をへだてた南側は、現在、本陣前公園になっている。
門のような建物の左側にお堂があり、馬頭観音が祀られている。
もとは正明寺の北側の犬くぐり道にあった小さな馬頭観音で、
この公園ができた時に移された。
馬頭観音の由来
「 上町地域内にある文化財で石塔に掘られている 「 ようじょしょりつ 」 文字と、
その上に馬頭観音像が彫られ、領主近藤家の馬頭観音ではと言われています。
(注) ようじょしょりつのようの漢字は馬偏に要という字。 じょは馬の下に衣という字、しょは曙、
りつは栗である。
この馬頭観音は気賀近藤八代用恒公の寛政十二年(1800) に建てられ、高さ約四十五糎、幅二十糎の石塔で、
平成九年度に、本陣前公園が新設されたのを機に犬くぐり道からこの公園に祀られることになりました。
国道三百六十二号線(姫街道)に面して祀られ、住民の崇敬を集めるようになりました。
国道三六二をもじって弥勒路の馬頭観音として、往来する車と人の交通安全の守護神 」
本陣前公園の道の反対側には、正明寺の説明板が建っていた。
説明板「正明寺(しょうみょうじ)」
「 山号は池松山、宗派は臨済宗方広寺派。 寺号の正明は観世音菩薩の退去の名号、正法明如来に基づいている。
方広寺開山無文元選禅師の法流を汲む、宝巌宗玉禅僧で、禅僧は永禄三年(1560)に示寂している。
江戸時代には、気賀本陣中村家の菩提寺として栄え、本陣危険な時は逃避する御退場寺に当てられていた。
十一世の○○○(字解読不能)は明和三年(1767)に方広寺の住職になった高僧である。
明治十九年、大正三年に火災に遭い、山門のみを残し、烏有に帰したが、十七世○雲和尚は東洋大学教授、
方広寺派宗務総理等を歴任し、その間、本堂・庫裏・位牌堂等を新築、鐘楼、山門を改修し、寺観を整えた。
大正十五年には、廃仏希釈で廃絶してた、隣の妙見寺を合併した。
昭和六十三年三月二十日 細江町教育委員会 」
道は下り坂になり、左にカーブし、続いて右にカーブする。
道の左側には古そうな家が数軒あった。
少し歩くと道の左側の空地に、安政四年(1857)に、地元の若者が四十両で建立した常夜燈があり、
その傍に、「気賀宿の枡型と燈籠」の説明板があった。
「 気賀は天正十五年(1587) 本多作左衛門によって街道の宿場と定められた。
江戸時代には、山手に土塁、南に堀川、東に関所と葦垣、西に石垣と矢来の枡形があり、
その中に本陣、問屋場、旅籠をはじめ、民家百軒が町並みを作っていた。
この枡形は気賀宿の西入口にあたり、一対のL字形の石垣の上に土を盛り、矢来を組み、門が設けられていた。
外敵の勢いを鈍らせるため、道を折り曲げたものだが、道路拡張のため、向い側の石垣は取り去られた。
石組の中に瓢箪の型をした石がはまっている。
燈籠は、当地の安全を、秋葉山に祈願した常夜燈で、地元の若者たちが願主となり、安政四年(1857)に
四十両の大金を集めて建てられたものである。
昭和六十三年三月二十日 細江町教育委員会 」
湿度が高いのか、石組と常夜燈も黒褐色に変わり、苔も付いていたが、歴史的に貴重なものである。
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道の反対の呉石バス停脇の路地は、犬くぐり道である。
「
気賀関所は、地元の人も通行手形が必要なため、不便だったので、領主の近藤氏が犬くぐりと呼ばれる、
むしろを一枚たらし、犬がくぐり抜ける要領でくぐり抜ける関所の抜け道を作った。
蓮照寺が東の入口で、正明寺の裏側を通り、この宿場の西の入口に出てきていたのである。
犬くぐり道は、民俗資料館からここまでは表示もあり通行可能だが、
蓮照寺のある東側は一部しか残っていない。 」
そのまま街道を進むと、左側の石積の上に「堀川城将士最期之地」の石碑と「獄門畷」の説明板が建っていた。
説明板獄門畷」
「 永禄三年(1560)の桶狭間の戦いて、今川義元が戦死した後、徳川家康の遠州侵攻を防ごうと、気賀の人々は、
領主今川氏のために堀川城を造り、最後まで戦った。
堀川城址は、ここから南に六百メートル程にある。
永禄十二年(1569)三月二十七日、堀川城に二千人の男女が立てこもり、三千人の徳川家康軍に攻められて、
落城したといわれている。 大久保彦左衛門の記録に、「 男女共なで切りにした。 」 とある。
そして、その後に捕らえられた約七百人の人々も、同年九月九日にこの付近で首を打たれた、
その首をこの小川に沿った土手に晒らしたので、「ごくもんなわて」 と言われるようになった。
昭和六十三年三月二十日 細江町教育委員会 」
この先左側に遠鉄呉石バス停があり、信号交叉点の先に三叉路が見える。
姫街道は国道と別れ、右側の狭い道に入って、引佐峠へ向かって行くことになるが、気賀宿はこれで終りである。
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小生が訪れたこの施設は平成元年のふるさと創生事業で、
江戸時代の文書で現存する本番所の一部などを参考にして再現したという。
この施設は年中無休で入所料200円、9時から午後4時30分までである。
場所は、北区役所の左側にあり、隣は細江図書館である。
「
気賀関所は、慶長六年(1601)に、徳川家康によって創建されたといわれている。
敷地は五百四十七坪(約1805u)で、裏に竹藪百十七坪(約386u)で、東側に冠木門がある。
この門に入り、正面になる北側に旅人を調べる本番所、
南側には相対して牢屋が設けられていた向番所、さらにその南に遠見に利用された遠見番所、
西側は町木戸門で気賀宿と接していた。 」
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江戸時代の関所は、幕府が所在する江戸の防衛を目的に設置された。
一般に「入り鉄砲に出女」といわれたように、鉄砲が江戸に持ち込まれることや、
人質として住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐため、関所で取締まった。
気賀関所の関守は元和元年(1619)から明治二年の関所廃止まで、旗本の近藤家が代々拝命し、
番頭二名、平番四〜五名が主に取り調べにあたった。
幕府は江戸への武器が多量に持ち込まれることを恐れ、参勤交代の大名の鉄砲携帯に数的な制限を加え、
入鉄砲の関所通過を厳しく調べた。
また、女改めは、手形の発行者や押してある印鑑、記載事項を調べ、もし違っていれば記載違いなどとし、
通過を許可しなかった。
関所役人の母親など姥があった。
本番所の前には、三ッ道具立と鑓立があった。
関所に常備された警備用武具は、初めのうちは実用的に配備されたが、
幕藩体制の確立以降は、関所の威厳を備える装飾的のものになった。
関所抜けを備えるため、向い番所(牢屋)の南に二層の櫓の遠見番所が置かれた。
この中には、姫様館という建物も造られ、江戸期の駕籠、姫様道中などを表した版画、中村本陣の
宿札、手形など関所、宿場に関連した資料が展示されていた。
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復元された気賀関所の南西の田園地帯の中に浮島のように見える三角形の土地が、家康が一日で落城させ、
守っていた住民を大虐殺した堀川城があったところで、首塚堀川城跡となっている。
城というより、砦だったようで、当時は満潮となると湖水が回り込み島となった、という。
「 今川氏真が逃げ込んだ掛川城を落そうと進軍した家康だが、
なかなか落ちないので一度三河に戻ろうとした時、気賀で住民の集団に襲われた。
今川氏の領地だった遠州という土地柄から、気賀の村民二千人がここに立て籠もり応戦した。
しかし、城主は浪人の新田友作、そして、土豪の尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田四郎義一が、
村人を結集してこの城に立て篭もったのである。
このような素人集団では家康軍には勝てない。
一死を脱がれた家康は大軍で押し寄せ、捻りつぶしただけでなく、
自分を襲った住民を皆殺しの愚挙にでたのである。 」
旅をした日 平成21年(2009)6月9日
今日の三方原追分から気賀宿までの歩きは十三時までに終わったので、都田川の橋のたもとのうなぎ屋で、
上うな丼を食べて、気賀関所駐車場に置いた車に乗り、奥山半増坊へ向かった。
奥山半増坊へ行こうと思ったのは、東海道や姫街道でしばしば道標をみたからで、街道からは離れているので、
今回は車で来たのである。
細江神社の脇の道を登っていくと、奥浜名湖国民宿舎の脇に出た。
日帰り入浴は可のようであるが、人工温泉のようなので、そのまま奥山に向かう。
道は変則交差点で、直進し、山に上る道幅一車線しかない狭い道は、
尉ヶ峰スカイラインという名が付いている道で、県道308号に出る。
右側のオレンジロードという名が付いている道を走ると、ほどなく、奥山診療所近くの三叉路に突き当たったので、
ここで左折し、県道303号を道なりに進む。
三叉路は右に行き川を渡ると、奥山交差点で、ここを左折する。
県道68号を少し進むと駐車場の案内があったので、そこに留め
たが、平日なのでこのまま走り、寺の上の駐車場に入れた方が楽だったことを後で知った。
駐車場を出て西に向かうと、右手に「奥山半増坊大権現」という看板があった。
その左手には、池の中を歩くような八橋があるが、奥山半増坊大権現の看板をくぐり、
油揚の店や蕎麦屋などがある参道を歩き、半増坊に向かった。
店があるところを過ぎると、とたんに森閑とした雰囲気に変わった。
石仏が出迎える先に、緑濃い楓の木があり、その先に山門があった。
朱塗りの山門は、昭和になって再建されたもので、地形に合わせて小ぶりに造られている。
掲額は高松宮宣仁親王の筆である。 その先には、拝観料を徴収する小屋があり、拝観料を支払った。
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その先は二股になっていて、左側の道の左側に川が流れている。
そちらの方が緩やかな坂なので、この道を行くと五百羅漢坂がある。
羅漢像は一体づつ表情が異なり、面白い。
五百羅漢の庭というのもあるが、その先の哲学の道やいろいろな所に置かれていた。
「 五百羅漢像は、拙巌和尚が大蔵経の中に、大羅漢が現在して仏法を護持する、 という記述を見つけ、 また、開山円明大師(無文元選禅師)が中国の天台山で、石橋にお茶を献じられたとき、 羅漢が身を現した、という故事にちなみ、五百体の羅漢像を安置することを発願し、 宝暦年間から明和七年(1770)に、三河の石工親子二代により作られた。 」
森が鬱蒼としていて、厳かな気分になった。左側の小川に橋が架かり、手前に常夜燈と羅漢像があり、
「椎河大龍王」と書かれた幟が立っていた。
このあたりから坂が急になり、上ってところで三叉路になるので、左折して行くと、大正十二年、
京都山口玄洞氏の寄進とある三重塔があった。
その前の空地は駐車場になっていた。 三叉路まで戻り、右側に向う。
道の左側の石段の脇に「七尊菩薩堂」の石柱が立っていて、その上にある社殿が、七神を祀る鎮守堂の鞘堂である 。
「 七尊とは、富士浅間大菩薩、春日大明神、伊勢大神宮、稲荷大明神、八幡大菩薩、梅宮大明神、北野天満大自在天神を指す。
鞘堂の中にあるお堂は、応永八年(1401)建立の間口九十センチ、奥行一メートル五十センチの柿葺の一間社流れ造りのお堂である。
鎌倉末期の建築様式を残すものとして、国の重要文化財に指定されており、静岡県で最古の建造物である。 」
その先の左手、奥まった石段を登ると半僧坊真殿がある。
「 この建物は、明治十四年の大火災の直後に三河の工匠によって建てられた権現造りである。
方広寺は「本山方広寺」として、静岡県西部地方を中心に末寺百七十寺を擁する寺院である。
黄檗山万福寺などと同じ、臨済宗の寺院で、正式の名前は深奥山方広萬寿禅寺といい、
建徳二年(1371) 後醍醐天皇の皇子・無文元選禅師(円明大師)によって開創された禅寺である。
井伊家の一族の奥山六郎次郎朝藤が自分の所領の一部を寄進して堂宇を建立し、無文元選禅師を招いた、といわれる。 」
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大現在、本殿を中心に修復工事が行われていた。
この寺は、明治十四年の大火災で七尊菩薩堂を除き、全ての堂宇が焼失したので、建物は新しい。
本堂は明治三十八年から大正七年にかけて竣工されたもので、間口三十二メートル、奥行二十七メートルで、
中央の深奥山の大額は山岡鉄舟の筆によるものである。
修復中の半僧坊総本殿の前を通り、鐘楼のところを左折すると、拝観の入口があった。
入るとすぐ、「宝物展」とある部屋に入ったが、歴代の禅師の墨跡が展示されていた。
しかし、書道が苦手な小生はすぐに退散。 その先の部屋には、本尊の釈迦三尊が祀られていた。
「
中央に釈迦牟尼仏、右に文殊菩薩、左に普賢菩薩が脇侍である。
観応二年(1351)の作であるが、最初からこの寺にあったものではない。
もとは茨城県のお寺にあったものである。
仏像の背面に、徳川水戸家の光圀の発願により修復されたという記述があり、
明治末期にこの寺に移転したようである。 」
本堂の修復でここに移されたための特別公開とあったが、穏やかな仏像でしばらく座敷に座り、ながめていた。
その先には開山堂があり、その前方には勅使門があった。
開山堂の裏を歩いて行くと、半僧坊真殿の堂内に出た。
半僧坊大権現のいわれ
「 開山の円明大師が、正平五年(1350)、中国天台山方広寺の修業を終え、帰国の途上、
東支那海で大暴風雨に遭い、船が難破する危険が生じたとき、一異人が姿を現し、
「 大師が正法を日本に伝え広めるために、無事に日本にお送りします 」といって、船頭を導き水夫を励まし、
無事博多港に到着させると、姿を消した。
禅師が、この寺を開山すると再び現れて、弟子にして欲しいと懇願した。
「 汝はそのままで半ば僧である。 あえて剃髪するに及ばず 」 との許しを得て、禅師に仕えて、修行した。 大師が亡くなった後は、「 方広寺を護持し、民に利益を与えよう」 と言って、姿を隠したと伝えられ、
方広寺を守護する鎮守として、半僧坊大権現という名が付けられたという。
明治十四年の山火事で、本堂などの建物が焼けたが、半僧坊仮堂と開山円明大師の墓地が焼け残ったことから、
火除けの神として、半僧坊大権現の名が全国に広がった、という寺で、
新しい建物しかないのは当然なのである。
それにしても、遠州には秋葉山もあり、火事の神様の多いのは何故だろう。 」
龍の彫刻があったが、見事だった。
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旅をした日 平成21年(2009)6月9日