姫街道の名の由来と時期ははっきりしないようである。
浜松市 姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館の見解
「 浜名湖の北の道は、江戸時代入って、新居町の今切の難所を避ける道として重要視され、
見附宿から気賀宿を通り、本坂峠を越えて御油宿で東海道と合流する道が東海道本坂越、本坂道などと名付けられた。
宝永四年(1707)の大地震で、表街道の東海道で新居関所や新居宿の町屋が大破し、
白須賀宿は津波で宿場が流される惨事になった。
そのため、大名を始め、ほとんどの旅人が本坂越を往来するようになった。
近隣の町村の住民は街道の使役にかり出されたため、農作業に影響が出た。
東海道が復旧しても通る人が少ないため、東海道の宿場は困窮したため、享保二年(1717)、
幕府は大名や旗本の本坂越通行を禁止した。
そのため、時折通る行列は公家か武家の奥方、姫君が目立つようになり、いつのまにか、姫街道と呼ばれるようになったではないかといわれる。 」
2009年6月9日(火)、7時30分、追分上バス停で降り、
前回終了したやっこ寿司の前から、姫街道の旅を再開した。
天候はどんよりとしたくもり空である。
ここから3km700mの区間は、道の左側に松並木が続く。
中には赤松も混じるようだが、見事な大木もあり、姫街道の醍醐味が味わえそうである。
「 松並木を保護するため、松には一本づつ番号が振られていて、
大事に管理されている様子が分かる。
江戸時代には、松並木が道の両側にあったようで、その区間は、東は追分から前回歩いた宇藤坂迄ま
で、北の気賀方面は曲松附近まで、そして、南の浜松道は布橋迄の区間だった、という。
現在残るのはここだけだが、それでも全国で数少ない松並木である。 」
松を保護するため、幅四メートルの歩道になっている。
松が一直線に並んでいないため、自転車や歩行者は歩道の上を松を避けながら歩かなければならない。
多少不便であるが、大事な松を保護するにはやむをえないだろう。
東名高速道路をまたぐ橋上から下を見ると、高速道路は思った程混んではいなかった。
朝の通学時間なので、歩いて行く小学生、自転車を利用する中学生や高校生と歩道の上ですれ違う。
車の通行も多く、また、路地から出てくる車をあり、信号のある交差点では車が行列をつくっていた。
それを見ながら進むと、「姫街道食堂」という看板を掲げた店があった。
この沿線には食べもの屋やコンビニが多いようで、特に浜松名物のうなぎを扱う店は気賀まで
に十軒位あったのではないか?
東名高速から一キロ程の萩野原橋バス停の先の信号交差点で、寄り道をする。
右側の用水に沿った狭い道に入り、少し歩くと、調剤薬局と病院が二軒あり、その先にこんもりとした木立が見え
る。
そこにあるのは三方原神社である。
神社の由緒書
「 旧浜松城内に祀られていた東照宮を大正十一年にゆかりの地、三方原村へ迎えて、村社とした。
御祭神は家康公であるが、第二代将軍秀忠、第三代将軍家光も合祀されている。
昭和二十九年に村が浜松市に併合され村社は解消。 昭和三十二年に東照宮から現在の名前になった。
社殿には三つ葉葵紋付き茶壷と勝海舟の東照宮の扁額などが納められている。 」
社殿の中を覗くと、「東照宮」と書かれた扁額が掲げられていたが、これは勝海舟の書であろうか?
社殿の右側にある小さな祠の中には、石仏が祀られていた。
傍らの説明板
「 お堂に祀られているのは、不動尊であるが、そのお姿の脇に、右はま松道 左いけ田道 と、刻まれていることから、道標であることに間違いはない。 明治三年、士族が三方原に入植した時、野原で発見したもので、
野中の不動様と呼ばれた。 長い間風雨にさらされたが、
明治二十六年に小学校北側にお堂を建てて移し、戦後に現在地に移された。 」
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太鼓橋の先に、「三方原開墾の碑」があり、まさに三方原開墾の歴史を語る碑である。
説明板「三方原開墾の碑」
「 横田保経営の百里園製茶工場は、隆盛の時期もあったが、やがて経営不振となり、
明治三十五年、遂に工場閉鎖となった。
工場閉鎖によって大打撃を受けたのは、百二十ヘクタールの茶園の処理であった。
この全茶園が、もし帝国林野管理局に買収されると、苦心、努力して開拓した茶園は、当局の方針により、
松林化し、村の衰退を招くことは必定となった。 篤志家、大久保牧太、横山義珍、斎藤幸次郎、中村太郎三郎、
大原則政、大石和吉、原川通撤の七士はこれを憂い、全園を購入して住民に分割し、各戸の所有になるよう、
万難を排し、努力を重ねて、断固この方針を貫徹することができた。
こうして開拓地を荒廃から守った、七士の功績を称えて、昭和二年、碑が建てられた。 」
境内には、徳川家四十八代当主徳川恒孝氏が植えたという松があり、徳川氏との繋がりある神社であると思った。
鳥居の東側には、「 気賀林 」 の大きな顕彰碑がある。
「 気賀 林は、気賀村の出身で、明治二年、三方原開拓係となり、
明治で没落した士族八百戸の三方原入植の受入事業を行い、明治六年には前述の茶園百里園長として、
茶園経営を成功させた。
明治十年に、村の生活困窮者を救うために創設した三方原教貧院事業や地域行政に貢献したので、
浜松県令は三富翁という号を贈ったが、明治十六年に七十四才で亡くなった。 」
前述の百里園の倒産は、亡くなって二十年後に起きた訳である。
姫街道に戻り、延々と続く松並木をまた歩き始めた。
左側の歩道に、「姫街道松並木」という案内板がるが、姫街道の説明ではなく、松並木の一般的な説明だけで、
突っ込みが足りないと思った。
右側に「遠州鉄道姫街道バスステーション」という大きな看板があり、なにかな?と思ったが、
単なる車庫で、その前にバス停の建物があるだけだった。
のどがかわいたので、自動販売機で冷たいお茶を買い飲んだ。
その先に見えるには葵交差点である。
交差点の右側には、「三方原教貧院跡」の石柱が建っている。
説明板
「 気賀林が、明治十年に、村の生活困窮者を救うために創設した三方原教貧院の建物は、
間口八間、奥行三間半の木造平屋建、瓦葺きで、常時四家族を収容し、米麦、味噌、醤油、薪炭を現物支給し、
貧困者を救助した。 気賀林の死後、横田保が引き継ぎ、明治三十一年頃まで続いた。 」
当時の家はなく、別の家が建っていたが、家の前には多くの紫陽花が植えられていて、きれいだった。
いつの間にか、朝の通学時間は過ぎたようで、歩道を歩くひとはほとんどいなくなった。
車道の車の往来は続く。 歩道は左側にしかないので、松並木のある左側を歩く。
東海道でもこれ程長い松並木はなかった。
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葵交叉点を越えると、花川が
「ごんひち」の看板を掲げた店があるが、その先に 「権七店→」 の標柱がある。
人里から離れたところにあった茶屋跡だろう。
標柱周りは、アジサイや季節の花が咲く花壇であった。
説明板「権七店」
「 三方原追分で左に折れると、うっそうとして松並木が続いている。
ここから権七店までは家がほとんどなく、寂しいところであった。
約100年以上も続いた権七店は、近隣の人々の寄り合い所となり、
井戸端会議に花が咲いた社交の場所でもあった。
店先には山桃の木があって、そこに馬方は牛馬をつないで、休憩した。
店では駄菓子、だんご、お酒等を売っていた。 」
その前に権七バス停があり、少し先の交差点は権七だった。
権七交差点で、左に県道319号が別れていく。
姫街道(県道261号)は、道と歩道が半分の幅位に狭くなる。
松並木の松は歩道の外の斜めに傾斜した土の上にあった。
一里山南バス停を過ぎると、大山入口交差点があり、奉納馬頭観世音菩薩の赤い幟が翻る小さな祠がある。
馬頭観世音像が祀られているのかと思ったが、白青色の石が祀られていただけである。
少し拍子抜けして、ふと道の反対側を見ると、バス停の奥に、「東大山一里塚」と書いた標木が建っていた。
「 東大山一里塚は、江戸から六十七番目、姫街道では三番目の一里塚である。
木は植えられていたが、一里塚の形状を留めているようには思えなかった。
先程の馬頭観世音祠の奥に、東大山一里塚の南塚があったようである。 」
奥大谷バス停の先で歩道は無くなり、三方原追分から続いた松並木が終わった。
ここ迄が合併前の旧浜松市の領域で、道は下り坂になった。
道が左にカーブすると、右側に歩道が現れたので、右側を歩く。
和地大谷川に架かる大谷橋を渡る。
「 一里塚からここまで約二キロという距離である。
江戸時代には、川幅は六間だったが、橋はなく、川の中の石の上を飛んで渡った、という。 」
大谷橋を渡る手前あたりから、今回の町村合併で浜松市になった旧細江町で、その範囲は広く、
これから引佐峠頂上まで続いている。
橋を渡ると上り坂になるが、思ったより早く上りきった。
民家が増えると大谷バス停があり、歩道は左側に変わった。 右手には県立引佐高校柑橘農場があった。
少し歩くと、湖東交差点手前の左側の三叉路の角に、松島十湖の大きな石碑と松の木があった。
説明板「曲がり松と松島十湖の句碑」
「 ここに樹齢約五百年を経て、あたかも地中から這い出て体がよじれた竜のような松があり、
曲り松と呼ばれていました。
ここは姫街道と庄内二俣線(旧道)の交叉点で、江戸時代には、気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所であったと言われています。
「松奏離歌」と題する俳人松島十湖の句碑は、明治十六年から引佐鹿玉郡長を務めた十湖が、
明治十九年二月郡長を辞した日、曲がり松まで見送りにきた郡民との別れの感懐を詠んだ句を刻んだものです。
「 別るるは また逢うはしよ 月の友 」
月の友とは月見の仲間、つまり、友人です。 友との別れはまためぐり会うきっかけだよ、という意味です。
「御巡幸記念」の石碑は、昭和五年六月一日、即位してまもない昭和天皇が巡幸の際、
この松をご覧になったことを記念し、旧中川村第十区が建立したものです。
昭和四十八年、曲がり松は枯れてしまいましたが、名勝、史跡を後世に伝えようとする有志の努力により、
新たな松が植えられ、破損していた句碑も修覆されました。
平成十六年三月 細江町教育委員会 」
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湖東交差点を越えて、少しの間歩くと湖東西バス停がある。
その先の右カーブの左側にある内山木工所看板のところで、261号線と別れて、
ガードレールで遮断された狭い道に入る。
左側の垣根のところには、「姫街道」の道標があるのだが、垣根の勢いに負けてよく見えなかった。
二百〜三百メートル歩くと信号交差点があり、六地蔵がある。
これは老ヶ谷の六地蔵と呼ばれるものである。
かつては、裏の竹藪に刑場があり、刑死者の霊をなぐさめる為に、正徳二年(1712)に建立された、と伝えられる。
その先の北側には、静岡県が建てた、道標「夢舞台 六地蔵」 があり、「← 浜松宿 細江町 姫街道 六地蔵
気賀宿 →」 とあった。
このあたりは東平集落で、道は西に向い、老谷に入ると三叉路で北西に進み、
橋を渡ると施設気賀関所に出る二車線の道である。
しかし、車の通行はほとんどなく、道の両側には、ミカン畑や茶畑が広がり、その中に民家が点在し、
のどかな風景である。
のんびりした気分で歩くと、道は右にカーブ、そして左にカーブすると、
右側に文化八年(1811)建立の老ヶ谷秋葉山常夜燈があった。
六地蔵からここまで約七百メートルの距離である。
この常夜燈が、姫街道に入る目印で、常夜燈の奥に、姫街道の道標も建っている。
ここで歩いてきた道と別れて、右側の道に入る。
先程の道に比べて狭く、農業用の道路という感じであるが、車も人も見えない。
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二百メートル行くと、左側の老ヶ谷第二集出荷場の広場に、中央に「千日堂」と呼ばれるお堂、 右手に馬頭観音か何かは分からないが、石仏を祀った祠、左手には小さな神社があった。
説明板「千日堂」
「 寛文十一年(1671)、呉石の気賀の領主、近藤家下屋敷にあった観音像を移して祀った。
宝永年間(1704〜1710)に、阿弥陀如来を祀って、千日念仏が行なったので、千日堂と呼ばれるようになった。 」
千日堂の前の苔むした石碑は、宝永四年、浄土宗玄忠寺十四世成譽上人を導師とする南無阿弥陀仏石碑である。
三百メートル歩くと、上り坂の先に、長坂改築記念碑がある。
ここは三叉路で、右にカーブする道と直進する道があり、姫街道は、正面に姫の絵のタンクのある道に入る。
道の左側の石垣に「姫街道」の道標があるのを確認して進むと、
左側の民家の前に「一里塚」の石碑と説明板が草が繁茂している中にあった。
ここは一里塚の左の塚跡である。
説明板「老ヶ谷の一里塚と長坂」br>
「 ここはかって、江戸から六十八里目の一里塚がありました。
宿村大概帳には、 「 木立松、但、左之塚ハ気賀村地内、右ハ中下刑部村地内 」 と記されていて、
道の両側に松の木を植えた山があったことがわかります。
近くには富士見茶屋と呼ばれる茶屋もあったと伝えられています。
ここから新屋に下る坂道を長坂と呼び、今も古い面影が残る坂です。
坂の途中には桶狭間の戦いで今川義元を討った服部小平太中保次の最期の地があります。
服部小平太は天正年間にこの地の領主となりましたが、長坂を通行中、何者かに襲われ亡くなりました。
新屋には、服部小平太の霊を祀るため建てられた伝えられる宗安寺がありましたが、
明治時代の廃仏毀釈で廃寺となり、今は石段などが残っています。 」
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タンクが見える道を進むと、姫街道と姫の絵のタンクがある中央配水地を囲う柵のところで、
道が二つに分かれる。
右側の細い道を選び、じめじめした茂みの道に入っていく。
すぐの右側に服部小平太最後の地碑が建っている。
説明板
「 服部小平太中保次は、永禄三年(1560)五月十九日、桶狭間の戦いで、
毛利新助らとともに今川義元を討った功労者であった。
小平太は、信長の亡き後、家康の家臣として、勲功により当地を治めた。
もとは今川領だったこの地方には、桶狭間に出陣して戦死したものもあり、彼に恨みを持つ者もいた。
天正十五年(1587)六月、このあたりを単身で巡視の折、ここで何者かに討たれた。
彼の墓は、この下の数十メートルのところにある。 また、ここから200m北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺跡がある。 」
長坂は、江戸時代の風情が残る坂道であるが、枯葉におおわれた薄暗いところのせいか、
薮蚊が多いのには参った。
坂道を下ると、先程、長坂改築記念碑で分かれた道に出る。
正面に車止があるが、下る道が続いているので、道路を横断し、車止の間を通り、その道を下る。
すぐに下の左右の道に出たので、ここは左折した。
ここには秋葉山常夜燈の祠と「姫街道」の道標があった。
道の両脇には家が建ち並んでいるが、塀は皆 槇(まき)の木である。 浜名湖の風は強いのだろうか?
ここが新屋集落であるが、人影もなく森閑としている。
道の左側に、服部小平太を祀った宗安寺の跡があり、説明板が建っている。
説明板「新谷の宗安寺」
「 新谷は、江戸時代には落合の渡しの宿場町でした。
この新谷を見下ろす丘の上にあった宗安寺は、桶狭間の戦い(永禄三年1560)で今川義元をを討ち取った
服部小平太中保次がまつられた寺でした。 明治時代の排仏毀釈により、
現在は石段と庭の一部、石仏が残っているだけとなりました。
平成6年3月25日 細江町教育委員会 」
道なりに進むと、湖東西バス停の先で別れた県道に出る。
左手にある信号交差点には向かわず、そのまま道を横断すると、左手に刑部城址の説明板がある。
説明板「刑部城址」
「 阿王山紫城とも呼ばれるこの城は、三方を都田川に囲まれた要害の地に築かれました。
戦国時代の永禄11年(1568)12月、この地の人々(今川方の内山党と呼ばれた)が、ここに城柵を築いて立てこもり(遠州に侵攻してきた)徳川家康の軍と戦い、敗れました。
現在、県道の北側に位置する城址には、今でも当時の犬走りや井戸が残っています。
姫街道の位置は現在と異なり、この城の東側をとおって、
落合川の渡しに通じていました。
細江町教育委員会 」
小生は、こんもりとした森の右側にある三叉路の斜め右の白い建物脇の狭い道に入った。
こんもりとした森を左に見ながら進むと、左手奧に鳥居が見えるのが、刑部城跡に建てられた金山神社である。
、が、
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当時の武者走りが残っている、とあるので、金山神社の石段を上っていったが、社殿があるだけだった。
その先で刑部川にかかる橋を渡る。
「 刑部川に沿った東方には、延喜式神名帳に記されている蜂前神社がある。
また、その南東には元亀三年(1572)、京を目指す武田信玄軍三万をここ祝田坂で、家康軍一万が迎えうったが、敗走して浜松城に逃げ帰っている。 」
橋を渡ると、左折して川沿いに進み、三叉路で左折する。
この道を右折して、その先の細い道を進むと、秋葉山常夜燈がある。
「 鎌倉時代から戦国時代にかけては、戦いに勝つための秋葉信仰であったが、江戸時代になると、火防の神として庶民に広まり、秋葉山参りが盛んになった。
各地に秋葉山に向う道ができたが、細江町には二つの道があった。
この常夜燈は、落合の渡しから都田川に沿って祝田に行き、三方原へ上る道にあったものと思われる。
三叉路に戻り、三叉路を左折し、左手にある信号交差点の次の橋を渡る。
橋を渡るとすぐ左側に、金襴の池の説明板がある。
説明板「金襴(きんらん)の池」
「 昔、この辺りに美しい金襴の蛇が住む大きな池がありました、
今から四百年余の昔、この近くに刑部城という小城があり、城主が数十の城兵を擁して守っていました。
その頃、浜松城に移って来た徳川家康は、その勢力を伸ばそうと戦いを繰り広げ、
ついに家康の配下が多くの兵を率いてこの城に攻め込んできました。 その勢いはものすごく、ひとたまりなく
敗れてしまいました。
その時、刑部城主には一人の美しい姫がおりましたが、姫は敵兵にかかって恥をさらすのを嫌い、
この池に入って金襴の蛇に姿をかえ、池に住んでいると言うお話です。
また、この池には一つ目小僧がいて時々日向ぼっこをして姿を現したとか。
これが世に言う河童だったのでしょうか。 あるいは、姫の家来が姿を変え、姫に仕えていたのでしょうか。
しかし、今はこの金襴の池も埋め立てられ、現在は残っていません。
* 金襴 = 錦のきれいに金糸で模様を織り出したもの 」
道はその先の信号のある三叉路で、県道に合流する。
「
都田川と井伊谷川の合流するところを落合といい、これから下流を落合川といっていた。
江戸時代には、気賀関所の要害川になっていたため、橋はなく、人々は渡し船で渡っていた。 」
現在は渡しがないので、三叉路で右折し、二百メートル程進み、県道に架かる落合橋を渡る。
都田川にかかる落合橋は、昭和五十一年に完成した橋である。
橋上からみる都田川は、川幅も広く、水量豊富な川だった。
江戸時代、この川が浜松藩領と気賀近藤旗本領の境だった。
川を渡り終えると、姫街道二番目の宿場である気賀宿に入る。
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旅をした日 平成21年(2009)6月9日