姫街道といわれる道は三つあった。
@ 前回歩いた池田道は、東海道の見付宿を追分として、天竜川を舟渡りし、
西渡船場から北西の津島神社の南を通り、浜松インターチェンジの南から西へ向かって、
下石田町の下石田北交差点の北側にある交差点で、本坂道と合流する道である。
A 江戸中期頃からは、東海道の安間で、東海道と別れて、北に向い、県道314号線を経て、
下石田町で池田道と合流して、市野宿へ向かう道が本流になり、本坂道と呼ばれた。
B東海道の浜松宿の連尺交差点を追分とし、国道257号線を北上して、
市野宿と気賀宿の中間にある三方原追分で、本坂道と合流するルートである。
天竜川の東岸でこのあとどうするか? 池田の渡しはないので、対岸に行くには国道1号の橋かその下に 天竜川1橋を渡るしか方法はない。
「 池田新道は、池田の渡しで天竜川を渡り、
中野町の西渡船場から北西の津島神社の南を通り、浜松インターチェンジの南から西へ向かい、
市野宿手前の下石田北交差点の北側にある交差点で、本坂道(姫街道)へ合流していた。
しかし、その道は今や殆ど消滅している、という。 」
池田の渡しはないため、五百メートル程下流の天竜川橋を渡ることにし、南下を開始する。
堤防の上の道(県道343号)は車が多く怖いので、河川敷の道を歩いた。
天竜川に架かる橋は、手前の国道1号の新天竜川橋と並んで、下流側に天竜川橋がある。
「 新天竜川橋は、2008年に工事が終了したので、歩道橋が付いていると思ったが、
付いていなかった。
しかたがなく、東海道を歩いた時と同じ天竜川橋を渡る。
天竜川橋には、橋の隅に白い線が引いてあって、これが歩道を意味しているのだが、ほとんど消えかけている。
新天竜川橋は、国道1号線(浜松バイパス)なのに対し、天竜川橋は、県道261号(旧国道1号)なので、
通行量がやや少ない上、大型トラックが少ないのはありがたい。
とはいえ、車との間隔が少ないので、死を覚悟したいと渡れるものではない。
事故にあったときはその時と覚悟を決めて、
対抗車が来るのを見るのは怖いので、車を背にしながら、一キロ弱の橋を渡り終えた。 」
橋の中間から磐田市から、浜松市となる。
池田新道の津島神社へ行くには天竜川西交叉点を右折し、約1キロ北上するのだが、
その先の道が残っていないようなので、池田新道を辿るのはあきらめた。
ここからは東海道を歩く。
橋を渡るとすぐ左折し、堤防道を三百メートルほど下流へ歩く。
右側に、「明治大帝御聖蹟」の石柱とその奥に「玉座迹」の記念碑が建っている。
「 明治天皇の行幸の際、ここに設けられた玉座に座って、金原明善に謁見したという場所で、 石碑類はそれを記念して建立されたものである。 」
その左側にあるのは、船橋之記の碑である。
「 明治元年、明治天皇が京都と江戸を往復された際、中野町村の浅野茂平が指揮をとり、七十八艘の舟を並べて、 船橋を架けたところである。 」
続いて、「船橋跡」と「天竜川木橋跡」の標柱が建っている。
「 浅野茂平は、その後、明治七年に本格的な船橋を完成させた。 その功績を讃える天竜川橋起巧碑が、中野町に建立されている。 更に、明治九年には船橋から木橋に架けかえられた。 」
その先で、右にUターンする下り坂があるが、坂を下ると右側の小高いところに六社神社がある。
六所神社は、建治二年(1276)に尾張国中野郷より勧請した、この地の産土神である。
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神社の前には、「東海道」の道標が建っている。
その先の三叉路を左折し、旧東海道である県道314号線を西へ向う。 このあたりは中野町である。
京都と江戸のちょうど中間点にあることから、中野町という地名が付いたと、いわれる。
十返舎一九の東海道中膝栗毛にも、 「 舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、 ふりわけの所なれば中の町といへるよし 」 と、ある。
その先の右側の碑は、「天竜川橋起功碑」である。
東海道を歩いた時、大きくうなぎと書いた看板があり、和風の建物だった中川屋がビルのような建物に変わっていた。
「
この店は、百三十年前の明治十年に開業した老舗で、今年の四月に新規開店した、という。
早速、うなぎ重を頼んだ。
創業当時より受け継がれてきた秘伝のタレで焼き上げているというが、
砂糖の味がして、意外にあっさりとした味にしあがっていた。
十一時四十分過ぎ、食事を終えて、旅を再開する。
街道歩きの沿線にうなぎ屋があっても、入ると長い時間待たされることが多いが、
今日は店のお客第一号だったので、このように早く食べられたのである。 」
道の左端に、「西町通り」の標柱がある。
少し歩くと、右側に「奥山大権現」とある常夜燈があり、奥にお堂が見えた。
「 奥山大権現とは秋葉山半僧坊のことである。
松林寺は、元中元年(1384)、方広寺開山の無文元選禅師が、この地の豪族、安間氏の要請により開創した寺である。
境内に延命子育地蔵が祀られている。 」
徳川家光が浜松城主に命じて建立させたという薬師堂があり、遠江四十九薬師第八番札所になっている。
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道の反対側の民家の駐車場に、「かやんば高札場跡」の標柱があったが、かやんばは萱場。
更に百五十Mメートル歩くと、金網で囲まれた空地に角に「東海道松並木跡」の標柱が建っていた。
その先右側の、白壁に黒い板が張られた粋な塀で囲まれた大きな屋敷は、
幕末は村の庄屋、明治、大正期の実業家だった金原明善の生家である。
「 金原氏は、天竜川の治水に人生を賭けた人で、明治八年に天竜川の治水に着手したが、 政府からの補助金が少なかったため、全財産を売り払って資金を作り、治水工事の費用に充てた、といわれ、 明治三十三年に天竜川堤防工事を完成させた。 」
生家の向かいの金原明善記念館では、彼の生涯を知ることができる。
治水関連道具や明善ゆかりの品々が展示されていて、入場無料。
建物の手前角に、「中ノ町村 和田村 村境 」 の標柱が建っている。
約二百メートル行くと、トの字の三叉路があり、道路は黄色に彩りされた進入禁止の標識がある。
この場所が、姫街道の追分(起点)となったところで、このあたりは、安間の萱場と呼ばれていた。
東海道は、天竜川橋を渡ったところで別れた広い道(県道312号)と合流する。
合流した三角地の金網の中に、東海道の「安間一里塚跡」の標柱がある。
江戸より六十四里目の東海道安間一里塚は、姫街道の一里塚の起点になっていたのである。
姫街道はここで、東海道と別れ、右折して進入禁止の道を北に向かう。
「 姫街道の正式名は、本坂越脇往還といい、見附宿の追分から池田に出て、池田から船渡りして、市野にいたる新道もあったが、この道も姫街道(本坂道)と呼ばれ、下石田でこの池田からの道と合流していた。 」
すぐに大通りに出るが、これは県道312号(旧国道1号)で、安新町交差点を横断して、細い道を北へ進む。
この道は道が道が狭いのに車の通行が多く、歩くのは恐い道である。
すぐに安新歩道橋交叉点がある国道1号に出る。
国道を横断するため、道の左側にある安新歩道橋に上る。
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歩道橋を降りて、高速道路に入る道のガードをくぐると、右側に了願公園がある。
そこには、「 始祖了願に因み、旧浜名郡和田村安間新田の代々名主を努めた安間本家から土地の寄付を受け開園した。 」 と、あった。
そこから僅かに進んだ右側の民家の塀際に松が植えられていて、その下に四十センチ程度の道標があるが、
よく見ていかないと見落としてしまう。
石碑には、「 右笠井、秋葉山、左市野、気賀、金指 」 と、書かれているようだが、判読できなかった。
ここが姫街道と笠井、秋葉方面との分岐点<だったのだろう。
なお、その手前の左側に、インター入口の看板があるので、そちらに曲がる車が多かった。
公園から四百メートル程歩くと、柏木橋交叉点の手前で県道65号線に合流する。
姫街道は、右側を少し歩き、柏木橋を渡ったら、その先の変則交差点を横断して、左側のファミリーマート側に渡る。
コンビニ、当時はサークルKであった。
冷たい飲み物を購入し、のどを潤した。
温度はそれほど高くないが、日差しが厳しいので、のどがかわくのである。
駐車場の三角形になっているところに、県道314号に向かって、姫街道の道標が建っていた。
この指示に従い、県道314号を北西へ進む。
県道は、道幅が狭いのに、車の通行量は半端でない。 歩道がないので、排水溝の蓋の上を歩いた。
五百メートル程先の下石田中交差点を過ぎると、
左に行く細い道があり、その角に「半僧坊道標」が建っている。
道標には、「半僧坊五里廿六町」 と刻まれている。
「 半僧坊とは、浜松市引佐町奥山の方広寺に祀られている半僧坊大権現のことである。
半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師が天平五年(1350)、中国から帰国の途中、
海難にあったところを助け、また、建徳2年(1371)に、禅師が方広寺を開山したときは弟子として仕え、
禅師亡き後は方広寺の鎮守として、祀られた、という。 」
その先の左側に常夜燈が建っていた。
ここは駐車場になっているようだが、奥の方を見るとお堂がある。
長泉庵という曹洞宗の寺院で、その中には馬頭観音像が祀られている。
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姫街道は、数分で、下石田北交差点に出て、右からの261号線と合流する。
交差点を直進し、二百メートルほど行くと、手押しボタン式信号機がある交差点がある。
ここで右から合流する道が、姫街道の池田近道のようである。
以前には、交差点の東北角に、池田への案内標柱があったようだが、角の家の塀が直されていて、
ペンキが剥げていたという標柱は姿を消していたが、歴史的に価値があるので、標柱の復活を期待したい。
道(県道261号)は左にカーブし、新大橋で安間川を渡ると、浜松市東区市野町である。 。
新しい家が立ち並ぶ道を道なりに進むと、その先の三叉路で左折(カーブ)する先の右側に、
「姫街道」の標柱がある。
このあたりは市野宿の旅籠などがあったところと思うが、当時の宿の面影は殆ど残っていない。
「
江戸時代、姫街道最初の宿場は市野宿であった。
明和元年(1764)に、東海道の浜松宿から三方原追分(現元追分交叉点)で本坂道に合流し、
気賀宿へ抜ける浜松道(現県道257号)が、幕府の道中奉行管轄となった。
旅人は宿場町として大きい浜松宿泊まり、歩く人の流れも変わり、市野宿は浜松宿におされて衰退し、
宿場機能を失った、という。 」
斉藤本陣があったところも表示がないので、分からなかった。
ただ一軒見つけた左側の料理旅館の建物が、古式そう然としていて、旅籠のイメージだった。
市野宿に現在残るのは姫街道に沿って続く県道のみである。
その先は市野町交差点。 ここは、県道45号線が左右に通っている。
交差点を横断すると、県道296号線の三叉路に突当り、左折する。
この三叉路は、車が猛スピードで間断なく行き交い、危険である。
次の交差点を左折した正面の建物を挟んで、道は二つに分れるので、261号線と別れて、右の細い道を進む。
このあたりは、宿場特有の枡形になっていたところ跡と思われる。
江戸時代には市野宿の西の入口だったのだろうと思った。
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すぐに、県道261号に出て、右折して少し歩くと、右側に熊野神社があある。
街道に面した鞘堂には、秋葉山常夜燈が納められている。
境内には、経塚碑や五輪塔などがあった。
姫街道(県道261号)は、ここから長い直線の道で、江戸時代、八丁とうもといわれた八丁畷である。
西へ約一キロ歩くと、与進北小南交差点の左側に市野ゴルフ場があり、
その先の右側には、浜松テクノカレッジ(浜松技能開発専門校)があった。
姫街道(県道261号)は、その先の三差路で右折して北上すると、右側に黄檗宗の長福寺がある。
道は、左折していくが、左折する手前の左側に、江戸から六十五里目で、姫街道で最初の一里塚跡の碑がある。
その先の小池町交差点を直進し、二百メートル程進んだ五差路で、県道261号は右へカーブするが、
姫街道はそのまま直進し、細い道に入る。
右側に屋根にシャチホコ付の立派な龍燈がある山門のある寺は、臨川山大養禅院である。
龍燈とは灯明堂のことで、内部には秋葉山常夜燈があったようだが、今はなく石板が入っていた。
寺の前の道を進むと、約百五十メートル先の貉川あたりから、約五百メートルが住宅や工場に変わり、
姫街道は無くなっている。
江原橋を渡り、次の交差点を右折して、信号交差点に出ると、県道261号に合流。
この右側には遠鉄自動車学校があったが、ここは県道261号を西に向かって進む。
遠州鉄道の踏切の左手には無人の自動車学校前駅がある。
大養禅院の先で消滅した姫街道は、踏切を越えたあたりから復活する。
有玉南町東交差点の左右に道は二俣街道である。
交叉点を越え、有玉南町市場公会堂を左に見ながら左にカーブする。
馬込大橋北交差点の左右の道は国道152号線(秋葉街道)で、姫街道はこの道を横断して
、正面左の狭い道に入る。
「
かっての秋葉街道は、このあたりは枡形になっていたようで、
浜松宿から北進してきた秋葉街道が姫街道と五十メートル程重なり、
この先の三叉路から北進して行ったように思われる。 」
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県道261号線は、道幅が狭いのだが、それにかかわらず車の通行が多い。
少し歩くと、道に左側に「馬乗場跡」の標柱があった。
そこから少し離れて「姫街道」の標柱があり、その先に立ち葵の花が咲いていた。
その先に流れる川は馬込川で、川に架かる五枚橋を渡る。
渡るとすぐ左に入る細い道があるので、
左折して細い道に入り、十メートルで右折すると、左方向に少しだけ道がある。
突きあたりは川だが、その手前に「五枚橋跡」の標柱が建っていた。
この辺りに旧五枚橋があったらしい。
「
五枚橋の名の由来は、川に置かれた石の上に、五枚の板を並べた仮板橋だったことによる。
馬込川の西岸は、下流にかけて綺麗に整備された親水公園・馬込川みずべの公園になっていている。
ゲートボール場もあるようで、お年寄り達が楽しんでいた。
細い道を西に進むと、車が通る少し広い道がある交差点に出る。
右を見ると、県道の五枚橋交差点であるが、ここは直進して住宅の中を歩く。
すると、この道は行き止りになる。
石段があるので上がると県道261号に出る。
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県道の向こうに見える坂道は、三方原台地へと上る宇藤坂である。
横断歩道のない県道を横断するが、車の通行が多い道路なので、適当に決断しないと、向こうに渡れない。
宇藤坂の狭い坂道を上っていくと、上りきった正面に黒い板壁の蔵がある。
三叉路の右側の奥に、黄色と白の家が見える。
この小路を約百メートル程歩いて行くと、突き当りに先程見えた建物があったが、ラブホテルのようである。
ホテルの外壁の左側に、「旧俊光将軍社」の標柱があり、その奥にお堂が建っている。
俊光将軍社は、戦前には、教科書にも載ったといわれる文武両道のシンボル・坂上田村麻呂にゆかりのある社である。 なお、武は坂上田村麻呂、文は菅原道真。
この社に祀られているのは田村麻呂ではなく、その子の俊光で、
社殿の前の木柱には「旧俊光将軍社」とある。
「
明治の神社統合令により、地区の神社を一ヶ所に集めてできた「郷社・有玉神社」に、
俊光将軍社の祭神は移されて、現在に至っている。
武田信玄が三万の軍勢を引連れ、この北方にある大菩薩坂を上り、三方原へと向ったと、いわれる。
また、ホテル前の三叉路を右折し、馬込川に沿って北上すると、
東名三方原SCの南東に欠下城があったが、今は城の領域が分かるという程度らしい。
将軍社から宇藤坂を登り切ったところまで戻り、街道を歩き始める。
右側に有玉西町欠下平公会堂があり、「旧姫街道」の標柱が建っている。
その先には秋葉山常夜燈が祀られている
右に三方原台地に上がる坂道があり、歩いて三方原SC方面へ行ける。
直進すると、県道261号に合流する手前の右側に、「最古の道標」と書かれて標柱があり、その脇に岩石があった。
石には、 「 右きが かなさし 左庄内道 」 と、刻まれていて、天保三年(1832)の建立、と書かれている。
姫街道の遠江国に残る道標の中では最も古いという。
それにしても、標柱がなければ、単なる庭石と思って通り過ぎる代物である。
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姫街道は豊隆団地交叉点の先で、県道261号に合流するが、ここには姫街道の道標があった。
この後は、県道の坂道を上って行く。
この坂はけっこうきつく、車も多く通行しているが、これまでの県道と違い、道幅が広くなって歩道もあるので、
安心して歩ける。
道の右側を歩くと、坂の頂上あたりにバローなどの郊外型のお店が多く、
昔の景色は一掃されているので、昔を感じさせてくれるようなものはいっさいない。
三百メートル歩くとふれあい交流センター萩原、更に七百メートル歩くと、一里塚橋交差点である。
交差点を越えて少し歩くと、左側の少し小高いところに、「一里塚」の標柱が草に埋もれていて、
その傍に追分一里塚の説明板が建っていた。
説明板「追分一里塚」
「 追分一里塚は、江戸から六十六番目、姫街道では小池一里塚に続く二番目の一里塚である。
塚の上に植えられた松は、比較的最近のものである。
大正後期までは、右側にも塚が残っていたようであるが、今は無くなっている。 」
更に、五百〜六百メートル歩くと、元追分交差点に出た。
この交差点で左からくる道(257号線)が、江戸中期に幕府の道中奉行の管轄になった、
東海道の浜松宿を起点とする浜松道である。
ここで両者は合流して、気賀宿へ進む。
交差点の左側の三方原交番が南側には、権現様跡の説明板がある。
説明板
「 昔ここに、権現様と呼ばれるお宮があった。 明治のはじめ、この地に入植した徳川の幕臣たちが、
徳川家康を祭神として祀ったものである。
現在、御祭神は、葵東照宮へ、社殿、鳥居、手洗いは、萩の原神社に移されている。 」
257号線は斜めに交差するが、姫街道は、松の木が見えてくる方向へ直進する。
元追分交差点を渡ると、離れ小島になっている所に、奥山半僧坊大権現の石柱が建っていた。
その先に、浜松市北区の表示板があった。
北区は初生町から北の旧市内と細江町、三ケ日町などの今回の合併で加えられた地区で構成されている。
少し歩くと、先程見た松の木のところに到着した。
ここから、三キロ七百メートルにわたり、道の左側に、松並木が続く。
左側の店の外壁には、姫街道と書かれて、松並木を歩く旅人の絵が描かれていた。
東名高速道路を跨ぐところにきたが、足の具合がおかしい。
伊勢街道を終えて、一ヶ月歩かなかったせいか、あるいは、日射が厳しいせいか、分からないが、
大事をとってここで終えることにした。
浜松駅までバスに乗り、駅で家族分のうなぎ弁当を買い、名古屋へ帰った。
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旅をした日 平成21年(2009)6月1日