見附宿から池田の渡しまでの姫街道は、古くから池田近道とも呼ばれ、東海道を歩く人にも利用された道である。
東海道は、見附宿から中泉代官所へと南下し、豊田町森下付近から池田渡船場まで北上する遠回りの道だった。
それに対し、池田近道は、見附宿よりまっすぐに西に出て、一言坂を通り、池田渡船場まで斜め直線で行けたので、
この道が旅人に好まれたのは当然である。
しかし、この道にも難点があり、徒歩の人しか通ることができない狭い道であったので、
馬や荷物は東海道を経由するしか方法はなかった。
JA遠州中央見付支店の前には、江戸時代の見付宿分間絵図などを表示した大きな案内板がある。
「
見附宿は、江戸から六十里二十九町、京都より六十四里二十七町のところにあるので、
見附宿と浜松宿の間が東海道のまん中である。
見附には、日本で最初にグライダーを発明したと伝えられる浮田幸吉の墓がある大見寺や、
徳川家康に可愛がられた冷酒清兵衛の御朱印船屋敷跡がある。
しかし、見附宿南本陣の神谷家や北本陣の鈴木家、そして、問屋場などは残っていない。 」
淡海国玉神社は、遠江国の国府が見附にあったときの遠江国総社である。
主祭神は大国主命だが、多くの神を相殿に祀っている。
拝殿前の石像が狛犬でなく、兎というのもめずらしいが、主祭神の大国主命によるものだろう。
本殿の建物は、江戸時代の明暦年間に再建されたものである。
その隣にある旧見付学校は、現存する日本最古の洋風木造小学校校舎である。
玄関は、エンタシス様式に近似した飾柱を配した、三階二層建ての建物で、美しい。
二年前、東海道の旅で訪れた時、ここで、姫街道という道があるのを知ったのである。
姫街道という響きは、なんとなく、ロマンを感じさせるような気がして、姫君が歩かれた道を、
歩いてみたいと思った。
東海道と姫街道の追分は西坂町バス停がある交差点である。
東海道は交差点を左折するが、そのまま直進する狭い道が、姫街道である。
道の左側にある色が褪めた薄緑の理髪店の角には、「 遠州見付宿 これより姫街道 三州御油宿まで 」 と書かれた木製の道標があった。
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その先には加茂川に架かる河原橋があり、橋を渡ると、道は二つに分れている。
その真ん中に秋葉山常夜燈が建っている。
三叉路の左手にある西光寺は、正面は東海道に面していて、日限地蔵尊の石柱が建っている。
東海道を歩いた時、この石柱を見たが中には入らず、寺の名前も確認しないで、先を急いだ寺である。
表門は、徳川家康の別荘・中泉御殿(その後、中泉代官所になった)の門を移築したと伝えられる。
「
西光寺は、文永二年(1265)の創建で、当初は真言宗の寺だったが、弘安年間に一遍上人を迎え、
改宗し時宗の修業道場になった。 明治四十四年には、西坂にあった蓮光寺を合併した。
蓮光寺は、遠江国守・平重盛が建立したという由緒ある寺である。
合併の際、薬師如来坐像など、多くの仏像がこの寺に移された。 」
本堂などは、最近大修理を終えて、新しい建物に変わっていた。
本堂にある日限地蔵尊は、後水尾天皇の皇后(徳川秀忠の娘)だった東福門院が寄進したもの。
日限地蔵尊は、お願いしたことがその日だけに限り、霊験あらたかになる、といわれるものである。
寛政元年(1789)建立の鐘楼(山門)右側の大クスノキは、樹齢五百年の老木だが、青々とした葉を茂らせて
いた。
見附宿の南本陣・神谷家や北本陣・鈴木家の墓があるはずだが、確認できなかった。
街道に戻り、三叉路の右側の坂道を上って行く。
かなり急な坂であるが、距離は短く、すぐに平らな道になる。
道なりに行くと、右側に樹木の茂る所に出た。
歩道の右側に、「一本松跡」 の石柱を見つけたが、犬の小便がかけられていた。
飼い主のモラールが疑われる。
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更に歩くと、右側にかぶと塚公園の標石があった。
中に入ると、左側に「中部第129部隊跡」 の標柱が建っている。
更に進むと、左奥に、「第1航空情報連隊跡 通称 中部第129部隊 東海第552部隊 師 第552部隊 」
と書かれた石碑がある。
その前には、花がたむけられていて、石碑の裏側には、隊の沿革が書かれていた。
「
昭和16年12月8日 第2次世界大戦勃発し 帝国陸軍航空部隊は 国土防空の目的をもって 昭和17年1月
ここ磐田ヶ原台地に表記部隊を開隊した。
即ち、通称中部129部隊とし 秘匿名称は第1航空情報連隊と称した。
以後この地に於いて わが国最初の電波警戒機部隊として 幾多将兵を育成し、
太平洋戦争全戦域に出動し 赫々たる武勲を樹てたが、
其の多くは国土防衛の礎となって再びここ磐田の地に還らなかった。
今日この地に部隊碑を建設するに際し 併せて これ等戦友の霊を弔慰するものである。
昭和57年10月24日 第1航空情報連隊戦友会有志一同 」
左手に体育館があり、まっすぐ進むと、かぶと塚公園の案内図があった。
道の左側にある鬱蒼とした、しじまの森に兜塚古墳があるようなので、その中に入っていった。
兜塚古墳は、直径八十メートル、高さ八メートルの円型古墳で、茶碗を伏せたような形をしていた。
「かぶと塚」の名の由来は、形が兜を伏せた状態に似ていることからとある。
上に上って見て、その跡、古墳の周りを一回りしたが、見学はあっという間に終えた。
体育館の脇を抜けると、丁字路で左折すると、県道413号に出た。
県道を右に向かってすすむ。 警察西交叉点の右側に磐田警察署があり、朝の点呼みたいなことを行っていた。
二百メートル程歩くと、「磐田市一言」 と書かれた歩道橋の右側に、右に入る細い道がある。
姫街道はここで、県道と別れて、右側の道を行く。
一言集落の民家があり、左にダイハツのサブデーラーがある交差点を横切ると、右側の畑の中に、
「常夜燈」と書かれた小さなお堂があった。
中を覗き込むと、奥の方にお札を収めるような社形のものがあり、
その中には、火除けの神様、秋葉山のお札が入っているような気がした。
この建物は常夜燈の形をイメージしているようだった。
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その先で、道は二つに分れ、右は上り、左は下り坂である。
この坂は一言坂というようで、自転車を曳いて上ってきた老女の額には、汗が浮かんでいた。
急な坂を下ると、左から右に下る道にでた。 姫街道は、ここは右折である。
道を下っていくと、左にカーブする所の右側に、琴平神社跡の石段があある。
その左側に、かぶと塚への道標を兼ねた一言坂戦跡説明板が建っていた。
「
元亀二年(1572)、甲斐国の武田信玄と遠江国領主の徳川家康との間で戦いがあり、
袋井市の三箇野川の戦いで敗れた徳川軍は、浜松城を目指して敗走したが、一言坂で追いつかれ、
再び合戦となった。 これを一言坂の煙の戦いという。
このとき、家康の家臣、本多平八郎忠勝が、大槍を振り回して一人大奮戦し、枯草に火を放ち、
その中、見事に、徳川軍を退却させた、と伝えられている。
相手の武田軍も、この時の武勇をたたえ、「 家康に過ぎたるものが二つある。 唐の頭(兜)に本多平八。 」
と書いた札を磐田市の国府台に立てたといわれる。 」
道なりに坂道を下ると、左側に一言坂碑の道標があり、正面に磐田小型運送の駐車場のようなところに出た。
右側の広い道を進み、小さな祝川の橋を渡ると、三叉路に出た。
ここを左折して、直進すると、県道413号(旧国道1号)に出て、東海道に合流するが、
姫街道は右折する。
周りの景色はのどかな田舎という風情であるが、道は対面二車線で、歩道がない狭い道で、
車の通行は多い。
そのまま進むと、信号のある五差路の交差点で、対面の用水路のある左側の細い道が姫街道である。
左右に家があり、左側の家の紫陽花はすでに咲いていた。
約百メートルほど進み、最初の交差点で左折する。
進むと、こんもりとした木立があり、お寺のような家が見える。
直進する道はなさそうなので、三叉路を左折し、その先の三叉路を右折する。
垣根に覆われた家を少し進むと、右手に智恩斎の山門が見えるので、中に入って行く。
「
一本の松の木があり、正面には山門、左側に観音堂があった。
山門は、旗本だった皆川歌之助の陣屋門を移築したと伝えられるものである。
山門の左側にある観音堂は、最初は休憩所と思わせた、簡易な建物だった。 」
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観音堂の中には「一言観音」と書かれた額の下に、木枠で囲われた中に石仏が祀られていた。
「 一言観音は、一生に一度だけ願いが叶えられるとい観音様で、 武田信玄に戦いに敗れた徳川家康が戦勝の一言を願ったといわれる。 」
先程の道に戻り、直進すると突きあたる三叉路である。
江戸時代の姫街道は、ここから右斜めに進む道だったが、現在は道は消滅している。
三叉路を右折し、すぐ先の三叉路左折して進む。
以前訪れた人が、この辺りは周りが緑一色で、そよ風が肌を吹き抜け、
なんともいえない快い絶好の歩き道と書いておられたところである。
ところが様相が一変している。
田の中にはブルドーザーが工事中であり、周囲の道はダンプが行き交っている。
近くにいた工事関係者に質問すると、田圃から砂利を採取していて、年内には工事が終わり、
もとのような田に戻す、といわれた。
このあたりは、天竜川の流域だったので、地下には砂利が埋蔵されているのだ。
そのまま進むと、彷僧川にかかる豊田4号橋に出た。
向こうから犬と散歩中の女性とすれちがう。 犬が突然吠えたので、女性が叱った。
小生の日焼け防止にタオルで顔を蔽っている姿が犬には変だったのだろう。
叱られて悪かったね!!、ワンちゃん。
ここからは、弥藤太島地区。 田植えを済ましたばかりの田圃が左右に広がり、緑一色である。
空は青く、一部に白い雲が浮かんでいて、大変清々しい気分になった。
少し歩くと、交差点の右は森岡集会所で、道の奥にミニパトカーが見えた。
歩いて近づくと、右側に磐田署豊田交番があり、大通りに出た。
交番を見ながら右折して、大通りを北上、磐田バイパスのガードをくぐる。
その先右側のJA遠州中央敷地角の交差点を左折する。
交差点を渡り、道路右角の新造形創造館の前を少し歩くと、敷地左端の用水路の手摺のところに、
「池田近道(姫街道)」 の木標が建っていた。
智恩斎を過ぎた丁字路で消滅した姫街道が、ここで復活した訳である。
江戸時代、池田近道は幅が一メートル余の狭い道のため、徒歩の人しか通ることが出来なかった。
用水路左脇の道は広いとはいえないが、池田近道はこんなに広い道ではない。
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用水路の道を進み、突当りを左折すると、上新屋の集落に入る。
左側に上新屋自治会倉庫があり、その先の狭い交差点の左側に、秋葉神社御神燈がある。
御神燈には、「岩田郡井通村新屋区」 と書かれていた。
少し進むと、集落は終わりで、 三叉路の左側に小公園がある。
中に入るとブロック敷の上に、「藤と香りの道路マップ」 とあり、旧豊田町の観光施設がカラフルで、
マンガチックに描かれている。
「 藤と香りの道 :
豊田町駅をスタートし、香りの博物館、熊野伝統芸能館、新造形創造館などの施設を巡り、
熊野御前ゆかりの行興寺と池田宿の街並みを回る九キロのコースである。 」
上新屋ポケットパーク案内碑には、
第四場(逢瀬の場)として、熊野御前と平宗盛の物語が書かれている。
「 夏がきました。 熊野(ゆや)は宗盛(むねもり)にさそわれて、蛍狩りにでかけました。
蛍がとびかう中で、宗盛は熊野にいいました。 「 わたくしと一緒にくらしてくれないか 」
見付の国府で宗盛と暮らす熊野はとてもしあわせでした。
ところが、宗盛が都に帰る日がきました。 宗盛は熊野との別れがつらく、
「 どうか都についてきておくれ 」 というのでした。 」
また、賀茂真淵が天丈五年(1740)岡部日記に書いた
「 まれにわたる 天の中川 なかなかに うれしき瀬にも 袖ぬらしけり 」 という歌が刻まれていた。
この碑は、道標にもなっていて、池田の渡しまで、1360mとあった。
公園を出て、農道のような道を直進すると、五十メートル程で交差点に出る。
姫街道は、ここから右斜め前方にある白い建物の左側の方向に進むのだが、道が消滅している。
道をそのまま直進し、寺谷用水路にかかる橋の手前で右折する。
寺谷用水路に沿って進み、白い建物の先の交差点を左折して、用水路に架かる橋を渡る。
道を直進すると、住宅が多くなる交差点からは、姫街道が残っている。
先ほどの交差点で消滅した姫街道は、斜めに田畑の中を横断して、この道に合流しているのである。
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この先に、学習塾などがあるが、このあたりが池田町集落の中心地か?
信号交差点を越えて進むと、三叉路の突き当たりに豊田西保育園がある。
三叉路を右折すると、右側に新しい立派な寺が見えてきた。
大きな門構えの寺は、曹洞宗の永平寺を本山とする妙法寺である。
山門前には 「禁葷酒」の大きな石文があり、「くんしゅさんもんにいるをゆるさず(不許葷酒入山門)」 と
あるのは、禅寺として当然だろう。
墓参りにきた二人連れのおばあちゃんに聞くとかなり歴史がある寺という。
小生が立ち寄ったのは、天竜川の池田の渡しの渡船権を家康から与えられたという、
半場善右衛門の墓がこの寺にあるはずだからである。
墓地を探しても分からないので、再度、おばあちゃんに聞くと、半場家の墓は十軒位あるという。
墓には元禄の表示のものもあったが、違っていた。
諦めたころ、墓地に向かって、右側の二列目の左側の一番奥にあるのを見つけた。
古い男女の墓と思える隣に先祖代々之墓があり、その左の隣の家の墓との間に、半場善右衛門の偉業を称える
薄い板のような石碑が立っていた。
「
半場善右衛門 元亀三年、1572、武田軍との一言坂の戦いの折、徳川家康を助けたことにより、
天竜川渡船の権利と半場姓を賜った。
以来、明治維新にいたるまで、代々、その子孫は渡船方名主を務めた。 」
街道に戻り、道を進めると、交差点があり、その右側に誓渡院、左側に時宗の行興寺がある。
「 行興寺は、平安時代末期、宿場として栄えた池田の長者・藤原重徳の屋敷跡とされ、 熊野(ゆや)御前ゆかりの寺として有名である。 」
熊野御前を主人公にした謡曲 「熊野」 のハイライトは、清水寺の花見の場である。
「
池田の長者の美しい娘・熊野御前は、遠江の守、平宗盛(平清盛の息子)の寵愛を受けて、都に上がる。
その後、母が病気になるが、郷里に帰ることを許してもらえず、
宗盛が桜見物に清水寺へ熊野御前を連れて行った折、
「 いかにせむ 都の春も惜しけれど なれし東の 花や散るらん 」
(京の春の桜も惜しいけれど、こうしている間に住み慣れた遠州の桜(と、母の命)も散ってしまいそうです)
と詠い、舞った。
この歌に心うたれた宗盛は、熊野が郷里に帰ることを許した。
熊野御前は、必死になって母の看病をしたが、その甲斐もなく母は亡くなってしまう。 」
寺の境内の藤棚の下に、熊野と母、侍女の墓があった。
なお、ゆやという名は、父重徳が紀州熊野権現へ祈願をかけ授かった娘だったので、
熊野(ゆや)という名が付けられた、といわれる。
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行興寺には、熊野御前が植えたといわれる熊野の長藤がある。
「 境内の藤棚面積は、五百七十二平方メートルで、そこには、
樹齢八百年の国指定天然記念物の藤が一本、樹齢四百年の県指定天然記念物の藤が五本あり、
その他にも多くの藤が植えられている。
国の天然記念物の長藤は、熊野御前が八百五十年前に植えたと言い伝えられているものだが、
その真偽はこの藤だけが知っている。
毎年、藤の花の開花時期にあわせ、四月下旬から五月上旬にかけて、長藤まつりが開催される。 」
藤棚を進むと、西法寺薬師堂がある。
説明板
「 西法寺は、鎌倉時代の貞永年間に創建された真言宗の寺院である。
鎌倉時代から拡がった大衆仏教により、貴族中心と見られた真言宗から、
庶民信仰の曹洞宗や時宗への改宗が相次いだ。
江戸時代には、池田町内四十二の寺のうち、曹洞宗の寺が三十九で、時宗の寺が二寺、
真言宗は西法寺のみになってしまった。
現在は、浜松市に寺は移転し、当地には寺はない。 」
その先にある建物は、能舞台があり、薪能なども上演される、磐田市の熊野伝承芸能館である。
今日は月曜日で休館だった。
街道に戻ると、行興寺の対面に小さな祠の中に石仏があり、街道を歩く旅人を見守っていた。
二百メートル程歩くと、左側に長細い建物がある。
天竜川の記録パネルが掲示されている歴史風景館であるが、ここも月曜休館だった。
それでも、硝子窓越しに、中が見ることができた。
施設に隣接して建てられている屋根付休憩所には、飲料水の自動販売機があったので、お茶を買って、
一気に飲み干した。
ここで、少しの間、休憩した。
道の反対側の床屋の右側には、玉石積台座の上に「秋葉山」と刻まれた、
寛政九年(1797)の建立の常夜燈があった。
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その先は上り坂で、前方に天竜川堤防が見える。
白いガードレールで隔てられた道を上ると、天竜川堤防の手前が三叉路になっていて、
「池田橋」の跡と書かれた石碑が建っている。
「 明治十六年に幅九尺(2.7m)、長さ四百二十五間(765m)の有料橋が天竜川に架けられた。
これが池田橋である。 昭和八年に現在の天竜川鉄橋が完成するまで利用された。 」
車は、三叉路の左の方向に上っていけば、堤防の上の343号線の道路である。
三叉路には、堤防上の道路まで上れる石段があり、途中の右側の遊歩道に、
家康が与えた渡船許可状に関する説明板がある。
説明板
「
渡船場は、江戸時代初期には、少し下流にあったのが、上流の池田村と対岸の中野村に移った。
その為、見附宿から近道になる池田近道ができたのである。
天竜川の渡船は、当初は池田村が独占していたが、慶安二年(1649)に馬込川に橋が架かったので、
馬込川の渡船を運営していた船越村に権利の一部を譲った。
天竜川を東の大天竜と西の小天竜に分け、西の小天竜を池田村と船越村が隔日交代で当たることにした。
江戸時代を通して、渡船の最高責任は池田村が担い、それを運営するため、
半場善右衛門の子孫が名主(川庄屋)を務め、その下に十一軒の居番(川年寄)、
十六軒の船頭がいて、それに数十軒の渡船従事者がいた。
江戸中期には、池田村で大番船六艘、小番船二十二艘、高瀬船が十艘前後あった、という。 」
堤防道を越えて、天竜川の河川敷にある駐車場に向うと、その先に、「池田の渡し」の碑が建っていた。
「
池田渡船場は、三ヶ所あり、
通常はここから四百メートル下流の天竜川渡船場跡碑がある辺りの下の乗船所が使われた。
水量が増すと、二百メートル上流の天白神社境内にある池田渡船場碑の辺りにあった、中の乗船所に移り、
急流になると、ここの上の渡船場になり、天竜川を斜めに横断した。 」
池田の渡し碑の先に、天竜川の河原が見え、多くの人がいる。
月曜日なのにどうしてと疑問を持ちながら、
茂みを過ぎると、天竜川の川に多くの人が釣り竿をかざしている。
近くにいた人に何を釣っているのですか?、と聞くと、鮎を餌で釣るのだと、いった。
考えてみると、今日は六月一日で、鮎の解禁日だった。
鮎は友釣りと思っていたが、水温が低いので餌で釣るのだという。
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旅をした日 平成21年(2009)6月1日