裏木曽街道は国道256号、国道257号の中津川から下呂間で、
南北街道ともいわれた。
沿線は尾張藩の木曽五木を産したところである。
また、源頼朝とも縁がある土地のようでもあった。
高山市宮(旧宮村)の臥竜桜を撮影するため、
中央高速道中津川ICから国道247号で下呂に抜けたが、
途中のところどころに、「裏木曽街道」の表示があり、なんじゃろう、と気になった。
木曽街道は木曽海道ともいわれ、中山道のことであるが、
その他にも、木曽路にでる道を地方によっては木曽街道と呼んでいる。
(例、愛知県犬山市では前原から善師野宿を通る道をそう呼んでいる)
街道名の詮索はともかく、この道をゆっくり走りたいと思い、再び出かけた。
中津川からは少し回り道になる道(途中で恵那から来る道、実はこれが国道256号)があるが、時間的早いのは有料橋が架けられている中津川道路で、 その沿線に苗木城址があった。
「 苗木城は、木曽川の北に一段と高くそびえる、
標高四百三十二メートルの城山に築かれ ていて、
木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約百七十メートルある。
岩山の上で利用できる土地の確保が困難だったため、
建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、
自然の地形を生かして築かれた山城である。 」
明治政府の命令で城は壊されてしまったが、当時の石組みが残り、 天守跡には当時の柱穴を利用して展望台が建つ。
「 城主の遠山氏は石高わずか一万石の大名だった。 最初に城を築いたのは遠山氏の祖先であったが、遠山友政は、森長可の攻撃を受け、 城を追われ、浪人の身であったが、 徳川家康に召抱えられ、関ヶ原合戦の際、城を短期間に攻略し、その功により城を賜り、明治まで十二代統治した。 」
苗木遠山資料館は、苗木城の入口にあり、苗木城と苗木遠山家の資料が展示されている。
苗木城の唯一の建物遺産である風吹門と門扉が保管されている他、
遠山家に伝わる武具などが展示されている。
(330円 9時30分〜17時入場は16時30分まで 月休、12/27-1/5休)
少し走ると、福岡町(現在は中津川市福岡町)で、
右手から坂下町(現在は中津川市坂下町)からきた国道256号と合流する。
鄙びた田園風景だけで、昔の古い家があるという様子もない。
付知川を左右にしながら進むと、付知町(現在は中津川市付知町)に入る。
福岡町に比べると、町域も広いし家も多いが、
商店街が並んでいるというのではないので、町ではなく村という雰囲気である。
「 この地域は江戸時代、木曽谷と同様、
尾張藩の木曽五木の産地だった関係から、今でも木材加工が地元産業となっている。
数年後に行われる伊勢神宮の遷宮に使われる欅の神木を運び出す行事が行われたが、
その一本はここで伐り出されたものである。 」
林業の衰退による財政難で中津川市へ編入されたと思っていたが、
地元の人の話では、近隣町村との付き合いで合併になったといっていた。
合併間際に完成した日帰り温泉が、借金なしで建てられたというから、
本当なのだろう。
熊谷守一の遺族が寄贈した絵を展示する美術館も、
過疎の町には贅沢といえる大きなものである。
これは町の中心にある道の駅付知の中にある。
「 山を守る杣人(そまびと)の暮しは楽なものではなかった。
切り出した木材を付知川から下流に流すため、寒い風が吹く中、
「 おんぼい おんぼい 」 と、掛け声をかけながら共同作業で川を下ったことだろう。
付知峡入口の近くにある日帰り温泉のおんぼいの湯は、そこからとられたものである。 」
付知町で小生が知っているものといえば、付知峡である。
名古屋市内の小学生がサマーキャンプに行くので、
名前は知っていたが行ったことはなかった。
訪れると、谷が思った以上に深く険しいところだった。
滝といっても短いもので、滝不動様が祭られていた。
坂道になり、やがて付知と加子母の境の賽之神(さいのかみ)峠にさしかかる。
「
塞の神は、村のはずれに置かれた神様で、
村内に悪い霊が侵入するのを防ぐため祀られたものである。
岐阜、長野、群馬や静岡県では「道祖神」として男女二体の像が置かれていることが多い。 」
現在は、トンネルが出来ているので、あっという間にをくぐってしまった。
トンネルの先は加子母(かしも)>村(現在は中津川市加子母)である。
村の九十四パーセントが山、人口は三千五百人という山村である。
道の左側に加子母観音があある。
観音という地名だったことや胎内仏は金メッキしたものであることなどの由来が書いてあった。
休憩所も設けられていたので、神仰厚いものなのだろう。
「 加子母も林業で暮らしを立てていたところで、
尾張藩の管理下にあった。
尾張藩は乱伐を防ぐために「檜1本首1本」
即ち、ヒノキ一本を切ったら首が飛ぶ、という厳しい規則を作り、
檜の盗伐を防ごうとした。
尾張藩から山の見廻りなどを担う山守役に任命された、
加子母村の庄屋だった内木家は百四十年続いて、今でもある。 」
村の中心付近にあるのが、明治座である。
農村歌舞伎を上演するもので、今でも秋に公演される。
道が整備された結果、村内の集落を避けて走っていく感じで、
やがて、「舞台峠」の案内板と共に、「大杉地蔵堂」の表示が現れた。
大杉の案内に従って狭い道を入って行く。
途中に、野仏があり、昔の街道であることが分かる。
たどり着いたのは加子母大杉地蔵尊。
お堂にかぶさるように立つ杉は高さ三十一メートル、根周り二十メートルの大杉で、
樹齢千数百年と言い伝えられている国指定天然記念物である。
「
源頼朝が、建久五年(1194)に、西方三百メートルにあった地蔵堂に立ち、
この大杉を指してこの大木の下に地蔵尊を安置するよう告げたといわれる。
延命長寿、安産の守として信仰を集める本尊は、行基の作といわれる木彫り像である。
元は大威徳寺の塔頭の一つに奉祀されていたと伝えられる。 」
その左側の一角にある墓は、文覚上人(もんがくしょうにん)の墓と伝えられる。
当地に伝わるのは、「 文覚上人は、後白河上皇により佐渡に配流になり、
一度は戻ったが再度流されることとなったため、
彼が建立した大威徳寺にすがろうとしたが、旅の途中で病に倒れこの地に葬られた。 」 というものである。
「 文覚上人は平家物語に出てくる人物で、
遠藤盛遠と名乗っていた青年武士の頃、袈裟御前という人妻に懸想して、
夫を殺すつもりが彼女を殺してしまい、出家して真言宗の僧になった。
熊野、羽黒山などの荒行修行を体験し、
京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、伊豆に流された。
そこで、源頼朝と知遇を得て、鎌倉幕府の創建に貢献した。
頼朝や後白河法皇の庇護を受けて、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり、
建物を修復した。
頼朝の死後、将軍家や天皇家の激しい権力闘争に巻き込まれて、
佐渡に配流になり、その後、また対馬に流罪になる中、鎮西で、客死した。 」
地蔵堂では、袈裟御前の命日、旧暦七月9日の夜中に、
数十匹のなめくじが現れ、墓石にとりつくといわれ、
奇祭 「 なめくじまつり 」 が行われる。
坂を上ると舞台峠で、峠を示す石碑が建っていた。
舞台峠は、加子母峠とも呼ばれ、
標高七百メートルの美濃国と飛騨国の境にある峠である。
「 八百年前の鎌倉幕府の二代将軍・源頼家が、 頼朝が建立した鳳慈尾山大威徳寺に参詣した折、 列席した諸大名の退屈を慰めようと峠に舞台をつくり、 都の美しい白拍子を集めて能を催したことから、名付けられた、と伝えられている。 」
坂の途中に大威徳寺跡(下呂市御厩野)の案内があったので、 探しに行ったがどこにあるのか分からず仕舞だった。
「 大威徳寺は、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた時、
頼朝の命を受け、美濃国と飛騨国の国境、舞台峠に近いところにきて、
霊感を得て建立した、と伝わる。
寺は丈五間四方(14.4m)の本堂の他、
七堂十二坊も有する、天台宗の一大寺院であり、
14世紀〜15世紀の室町時代に最盛期を
迎えた。
戦国時代の戦争と天正地震により、壮大な大寺院はほぼ壊滅し、
その後、廃寺となり、歴史舞台から消えた。 」
こんな鄙びたところに舞台を造って能を舞ったというのだから、二代将軍・源頼家は、 源頼朝とゆかりのある大威徳寺で、自分の存在を誇示する目的で、舞台を設定したのだろう。
熊野神社の近くにある鳳凰座という建物は、 間口十八メートル三十センチ、奥行き二十四メートル五十センチという芝居小屋である。
説明文
「 江戸時代初期、近くの日枝神社の境内にあったが、
文政十年(1827)、現在地に移され、回り舞台付き、観覧席を設けた小屋になった。
今でも五月三日〜四日に地元の人により上演されている。 」
坂を下りきったところで、岐阜から高山に通じる飛騨街道に合流する。
現在は国道41号で、当時は益田街道ともいわれた道であるが、この一帯は下呂町である。
「 下呂は、奈良時代後期の宝亀七年(776)に、
都と飛騨を結ぶ「東山道飛騨支路」の官道の宿駅として、
下留駅が置かれたという古い地名である。
平安中期の天暦年間(947〜956)に温泉が発見されると、多くの湯治客が訪れるようになった。
平安貴族や歌人の中でも話題になり、訪れたものもいる。 」
温泉町内に林羅山の銅像が建っている。
全国に下呂温泉の名が広まったのは、江戸時代の学者、林羅山によるといわれる。
「 林羅山は江戸時代の儒学者として高名であった。
その彼が、詩文集に 「 摂津之有間、下野之草津、飛騨之湯嶋是三處也 」
と記したことから、天下の三名湯と喧伝されるようになった。
しかし、林羅山より百年以上前の延徳三年(1492)に、
禅僧廿数名と下呂温泉で遊んだ万里集九が、 「 温湯聯句序 」 を吟じ、
その中で 「 ・・・・本邦六十余州。毎州有霊湯。 其最者下野之草津。 々陽之有馬。 飛州之湯島。三處也。 」 と記している。
そういう意味では、室町時代に既に日本三名湯の名は確立していたといえるので、
林羅山もこれを念頭に入れ、上記を記したのだろうが、かれの知名度は抜群なので、
これで日本三名湯の地位は確定したといえる。 」
その先にある水無神社は森水無八幡神社という。
毎年二月に行われる田の神祭は別名花笠まつりとも呼ばれもの。
この祭は米作りの手順を踊りで再現するといわれるもので、
国の無形文化財に指定されている。
以上で、裏木曽街道(南北街道)の旅は終わった。
幕府の天領であった、飛騨高山から江戸に出るには、当初、
野麦峠を越え薮原宿に出る、木曽街道とか鎌倉街道とか、呼ばれていた道を使用していた。
江戸時代中期に、奈川渡から松本へ出るルートの野麦街道が出来、このルートに変更になった。
この街道は明治に入り、糸紡ぎの女工が利用したことで有名である。
街道名であるが、
美濃に向かう道を信州側では美濃街道と呼んでも、美濃側では信州街道となることが多い
。
向かっていく方向を街道名にしたようで、
鎌倉時代には鎌倉幕府に向かって歩く道に、多くの鎌倉街道を生み、今でも各地に残っている。
従って、下呂から坂下に向かう道が、木曽街道とか裏木曽街道と、
呼ばれても不思議ではないのである。
岐阜県の資料によると、
「 江戸時代、美濃国の街道は中山道を主要道として、
そこから分岐した幾筋もの脇道が走っていた。
これらの道は村道から発達したものであり、村から村へ、また郡を越えて人の通る道として、物資輸送の道として発達していった。
明治時代に入ると、政府は道路の整備に力を注ぎ、明治6年、
一等から三等までの道路を決定し、県内では中山道が一等道路、美濃路、北國街道、下街道、飛騨街道(蔵之前から金山村まで)、名古屋街道が二等道路に、中馬街道、伊勢街道、越前街道と飛騨街道が三等道路に指定された。
飛騨街道は中津川から加子母村までと、石原村から神淵村までと、
区間も定められていた。
この等級づけも明治九年九月には太政官布達にもとづき全て廃止され、
翌十年九月には国道と県道という区分に変更されている。 」
一方、下呂市のホームページには、飛騨街道ではなく、南北街道となっている。
「 飛騨と美濃を結ぶ道を東山道、
その東山道と東濃にある中山道を結ぶ道が南北街道で、
土地の人々からは鎌倉街道と呼ばれていた。
明治の中ごろまでは、飛騨と美濃を結ぶ主要道だった。
初矢峠の石畳は、東山道と南北街道の合流点から下呂へと向かう初矢峠に、
幅2m、全長80.4mの区間のみ現存しています。 」
裏木曽街道は、いろいろな資料を調べても、
国道の制度が出来る前の明治初期頃は、南北街道と呼ばれたのは間違いないようである。
下呂や荻原地区では飛騨街道は岐阜から高山を結ぶ道、現在の国道41号のことであり、
それと区別する意味で、南北街道と呼んだのだろう。
南北街道は現在の国道257号と道筋と重なるが、中馬街道の足助宿に行くと、 秋葉街道との追分にある道標に「美濃街道」と記されているのを見付け、 足助から女城主で有名な岩村藩を通って、下呂に通じていたことが確認できた。
私は、 「 尾張藩は御用林を木曽谷(長野県木曽地方)や裏木曽(岐阜県中津川地方)と
呼んでいたので、裏木曽街道は、当初は尾張藩の山林を管理するため、
福島代官所から中山道の坂下経由で付知などの管理林に通った官道であった。
その後、伊勢神宮、善光寺や秋葉神社に詣でる人が中山道に増え、
更に、林羅山により有名になった下呂温泉を訪れる湯治客が歩くようになった。 」 と考えている。
小生の考えでは、御用林の管理の為、
出向く役人が裏木曽街道と呼んていたことは容易に考えられるが、
小生の必死の調査にかかわらず、裏木曽街道という名はどこにも出てこなかったのである。 」
下呂温泉には、温泉街をぶらり歩き、散策する雰囲気が残っている。
食事抜きの宿泊が利用できる旅館も多い。
また、日帰り温泉がほとんどの旅館で採用されているので、
中京圏で日帰りツアーが多く実施されている。
今回は白鷺の湯という日帰り温泉を利用した。
下呂温泉を見つけたきっかけが白鷺といわれる。
下呂温泉を歩いていると、首なし地蔵と呼ばれる延命地蔵をみつけた。
お堂の中に四体の石仏が祀られ、赤い帽子とよだれかけが着せられていた。
旅をした日 平成17年(2005)12月