『 せせらぎ街道(郡上・清見街道)を歩く 』


せせらぎ街道は国道472号に付けられた愛称である。
郡上市八幡町から高山に至る街道で、江戸時代は郡上街道とか清見街道と呼ばれていた。 
当時のものは残っていないが、沿線に連なる山々の紅葉や川の流れに惹かれて、ここ数年訪れている。




せせらぎ街道

国道472号は郡上市城南町交叉点に始まり。高山市を経て、富山県射水市新港の森交叉点に至る、 百四十キロほどの長距離道路である。
せせらぎ街道と呼ばれる郡上市八幡町から高山間以外は他の国道と重複しているところがほとんどである。 
江戸時代、郡上街道と地元では呼ばれていたとあるが、中山道加納宿(岐阜市)から北上し、 郡上八幡を経て、白鳥から越前大野に抜ける道は、一般的には郡上街道と呼ばれている。
越前街道と呼ばれることがある。
そういう意味では清見街道の方が正確なのかも知れない。

「 この街道は飛騨側に塩、茶や穀物を、美濃側に北陸富山からの鰤(ぶり)や高山からの物産を運ぶ上で重要なルートだった。 
現在は対向二車線の道路で快適に走れるが、二十年前まではひどい道路で悪戦苦闘した、 と地元の人達はいっていた。

明宝村は宇治川合戦で活躍した薄墨という名馬の産地であるので、このあたりは牧になっていたのだろうか?
小川峠から明宝奥住集落を見ると、山の囲まれた谷合いにひっそり佇むように民家が続いている。
郡上から走ってきた国道は郡上明山(郡上市明宝)で新しくできた飛騨美濃有料道路に出る。 
右側にある国道が旧郡上街道で、国道も通行できるのだが、道が狭く九十九折の山道になるので、 ほとんどの車は有料道路に入って行く。 

江戸時代の郡上街道はこれより一キロほど北の坂本集落から入って行った。 
江戸時代の国学者の田中大秀は、本居宣長のいる伊勢松坂で修行し、郷里の高山へ帰る時、 この街道を利用した。
この峠越えが険しかった様子は、彼の記述で分かる。

「 坂本のたむけといふは手を立てたらんごとくそびえたり。 
からうじてあへぎのぼれば、みねは美濃国と飛騨国との界なり。 
国のかたに下り初めたるに、谷より吹きのぼる風こよなう寒し。 
霜もいとふかし、足にさわりて石のまろび落ちけるに伏したる鹿、おどろきてにげゆく。 」

旧明宝村奥住      郡上明山付近
旧明宝村奥住
郡上明山付近


坂本側の登り口に坂本口番所が置かれていたが、その跡に現在は石碑が建てられている。 
なお、飛騨美濃道路明宝側料金所の手前を右に入ると、明宝温泉湯星館という日帰り温泉施設がある。

「 街道の入口が坂本から明山に変わったのは、明治維新以降である。 
地元の事業家・國田玄秀が、荷車でも登れるようにと、明山集落から裏山の丸山を登り、 その後は尾根伝いに行く新道を作り、これまでの坂本からの道につなげた。 」

国道は当時の坂本村から名付けられた坂本峠(標高979m)にさしかかり、 峠を下ると大原(高山市清見)に出て、坂本トンネルを越えた飛騨美濃道路と合流する。 
飛騨美濃道路に合流すると、馬瀬川が流れ、右側に「パスカル清見」という道の駅がある。 
隣にはホテル風の宿泊施設があった。 

その先の三叉路で右折すると、馬瀬を経由し、飛騨街道の萩原に出るが、道を直進すると上り坂になった。 
馬瀬川は左右に蛇行しながら深い谷を形成していて、覗き込むと少し恐く感じた。

やがて、標高千百メートルの西ウレ峠に到着した。 

説明板
「 ウレとは、古語で末梢とか一番先という意味で、 位山・川上岳・竜が峰・西ウレ山と、続く山並みの中の西の端にあることから、「西ウレ峠」と呼ばれている。
日本海と太平洋との分水嶺になっていて、馬瀬川は木曽川から太平洋へ、 川上川(かおれがわ)は日本海に注いでいる。 」

峠が整備されたのは明治初年で、それまでは楢谷から東にある龍馬峠を越え、中野に出ていたが、 龍馬峠は野麦峠と並ぶほど歩行が困難だったとされる。 

前述の田中大秀は、
「 行き行きて、龍ケ峰を越ゆ。 今朝霜ふみければ、あかかり出来て、いといたきを念じつつ、 うめきのぼりけるに、古天より龍馬ここに下りし其馬とて、蹄のあとあるを見てたつの馬今もありせば鞍置きてのりかけてゆかましものを 」
と、歩行が大変だった様子を記している。 

明宝温泉湯星館
     馬瀬川      西ウレ峠
明宝温泉湯星館
馬瀬川
西ウレ峠


西ウレ峠には、「せせらぎ渓谷」と刻まれた大きな石碑とその隣に石仏を祀る小さな祠が祀られていた。
旧清見村史によると、龍馬には次のような話が残っているという。 

「 神代の頃、高天原の祖神様は、竜よりも速く空を飛ぶ龍馬という駒を川上岳(かおれだけ)と白山の女神にお使いとして遣わした。
龍馬は川上岳の女神の使いで、白山に向かっていると、眼下に大好物の山笹の大草原を発見したので、 舞い降りて腹いっぱいになると眠りこけてしまった。
祖神様はそのまま眠らせてやろうと考え、龍馬を石にしてしまった。 」 

龍馬峠の途中に竜馬石があるが、直径三メートル、周囲十メートルほどの古代に産する安山岩で、 表面に鱗のような紋があることから、いろいろな話が生まれたようである。 

「 龍馬峠は西ウレ峠の整備とともに利用する人が減り、さびれていったという。
竜ヶ峰は現在、飛騨共同模範牧場になっているが。その先には道がなく、 地元の人さえ道の存在が分からなくなっていると聞いた。 」

西ウレ峠に祀られている石仏は、龍馬峠にあったものを移したのであろうか?? 
坂を下ると、国道は川上川に沿って蛇行していく。 
このあたりは紅葉で美しかった。
大倉トンネルをくぐると、おおくら滝への遊歩道があったが、 台風の被害で通れないとあったのは残念であった。 
機会をみて再度訪れようと思う。

江戸時代の道は、飛騨国中案内に 
「 本道は阪村より峠を越す事なり、有巣峠といふ。 なお、尤大川通は有巣村迄一里半餘も可有之候。 」  
とあり、 二俣(巣野俣)から有巣(あっそ)峠を越えて坂下に出る道であった。  
有巣峠を越える道は四キロほどで、それほど急ではなく、馬車が通れる道に整備されていた。
車も走ることが出来たが、一台がやっと通れる巾しかなく、二十五ものカーブのある道だったという。 
  「 下本村は大川通りにて有巣村より流る川筋なり、 此川通は通路不成、本道は阪村より峠を越す事なり、有巣峠といふ、 尤大川通は有巣村迄一里半餘も可有之候。 」    とあるように街道として使えなかった。 
その後も、道の整備が続けられた結果、永久橋が架かり、道も立派になり、 現在はこちらの道を通るようになったため、有巣峠越えの道は三十年位前までは 使われていたが、廃道になり今では道のありかも分からなくなってしまったという。 

現在の地名の巣野俣は有巣村、中野村、二俣村が合併した際、それぞれの名をとって付けられたものである。 
川に沿って、幅の広い平滝、石楠花渕といった渓谷美が続いていた。
やがて旧清見村の中心地に入る。 
レストハウスせせらぎには多くの観光バスが止まっていた。
高山観光あるいは郡上に向かうのにトイレ休憩として利用されるのであろう。

せせらぎ街道(郡上街道)には歴史的な建造物はなく、石仏も少しあるだけで、歴史街道としては物足りないが、春の新緑、秋の紅葉がすばらしく、渓流や滝もあり、歩くのにことかかないなど、大変魅力的の道である。

西ウレ峠の石仏
x 紅葉が美しい x 東京オペラシティ x レストハウスせせらぎ
西ウレ峠の石仏
紅葉が美しい
川上川の平滝
レストハウスせせらぎ






高 山

三日町で右折するといよいよ高山市の中心部に入っていく。 
飛騨高山は古(いにしえ)から、 越前や越中そして美濃、信濃に通じる交通の要路であった。

「  天正十三年(1585)、豊臣秀吉は越中の佐々成政を攻め落としたが、 その際、越前大野城主・金森長近に飛騨を治めていた三木氏を攻略するよう命じた。 
金森氏は飛騨の城を次々に攻め落とし、三木氏の居城である松倉城(高山市西之一色町松倉山)を 攻め落したのである。 」

金森長近は、その功により、天正十四年、飛騨国三万三千石を賜り、領主となった。 
関ケ原の戦では徳川方に付き前線で戦い、上有知(美濃市)一万八千石と金田(大阪府)三千石の加増 を受けている。 
金森氏は国入りをすると、高山外記によって築城された天神山城跡に、 天正十六年(1588)から高山城を築き始めた。
慶長五年(1600)に本丸と二の丸が完成し、その息子・金森可重(ありしげ)により、 慶長八年(1603)に三の丸が完成した。 
城跡を訪問したが、今は史跡らしいものはほとんど、残っていなかった。

「  高山城は、御殿風の古い城郭形式時代の城である。 
本丸は東西五十七間、南北三十間の広さで、本丸屋形が建っていた。 
本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。 
二の丸は東西九十七間、東西八十四間の広さで、東西の平地で構成され、 東側の曲輪には庭樹院(頼ときの母)屋敷を中心に、鬼門櫓や東の長屋があり、 東南に裏門、西方に横櫓門があった。 
東側の曲輪が現在二の丸遊園地(二の丸公園)になっている。 
三の丸は東西百二十間、南北九十三間の広さで、 勘定所と八棟の米蔵があり、 水堀が東側と北側をくの字形で囲んでいた。 
それと平行し、城を囲む高台に武家屋敷、その下に町人町、東山に寺院を配置するという、 城下町の構築も行なった。」それと平行し、城を囲む高台に武家屋敷、その下に町人町、 東山に寺院を配置するという、城下町の構築も行なった。
今日の高山の区画はこの時に決まった。 
金森氏の統治は六代百年程続いたが、 その間、商業振興や山林、鉱山開発に力を入れて、藩財政の強化に務めている。 
六代目藩主・金森頼時の、元禄五年(1692に)、出羽国上山藩(山形県上山市)へ転封となり、 高山は天領となった。
理由ははっきりしないようだが、飛騨の豊富な資源(鉱山、森林等)に幕府が目を付けて、 横取りしたという説があるが、明治に至るまで幕府天領になっていたことを 考えるとうなづける話である。 
高山城は、転封三年後の元禄八年(1695)、城の維持が困難になったという理由で、取り壊された。 」

二の丸公園
     本丸屋形跡      天守跡
二の丸公園
本丸屋形跡
高山城天守跡


城下町は、城の北東に延びる通称空町と呼ばれる高台と、 その西方低地地一帯で、 西側は宮川、東側は江名子川に囲まれた東西五百米、南北六百米の範囲であった。  

「 武家屋敷は城の西、北、東の三方を取り巻く形で配置されていた。 
西は大洞谷から中橋に至る宮川の右岸に階段状に配置、 城の北東は空町一帯から江名子川そいに建てられていた。 
町人町は宮川と空町の間の低地に、一番町、二番町、三番町と、南北に道路が走り、 東西の道路は南北の大通りと食い違って交差する横丁が多くあった。 」

飛騨高山では高山陣屋前や宮川の河岸などで、朝市が行われている。 
日枝神社の近くに「高札場跡」の石柱があり、「 1729年一之町から移され、 毒薬・人売買・駄賃・切支丹・火付等の高札が常時かけてあった。」 とある。
宮川にはあざやかな赤の中橋が架かっている。
飛騨高山は「鬼殺し」に代表される辛口の酒で有名である。
「飛騨高山 銘酒山車 打江屋」の暖簾が架かり、軒下には酒屋を示す杉玉が吊るされていた。

高札場
     中橋      銘酒山車 打江屋
高札場
中橋
銘酒山車 打江屋


飛騨高山代官は、高山城の代わりに金森家の下屋敷を使って政務を行った。 
これが現在残る高山陣屋である。  

「 高山陣屋は、元禄五年(1692)から慶応四年(1868)までの百七十六年間続いた。
三代、伊奈代官までは関東郡代との兼務、 四代森山代官から飛騨専任となったものの、 江戸に在任していたようである。 
直接執務を行うようになったのは七代長谷川代官から、 安永六年、検地を行い石高が増えたことから、飛騨代官は飛騨郡代に昇格した。 
合計二十五代の代官、郡代が執務を行った。 」

高山陣屋を訪れた。
玄関之間は、文化十三年(1818)に改築されたが、そのままの姿で、 十万石格を示す二間半の大床や、床の壁一面の青海波の模様が目を引く。 
式台は身分の高い武士が駕籠で乗り付けるため、低くしつられている。 

高山には高山ラーメン、みたらし団子、五平餅、飛騨牛など、食べてみたいものが多い。
それらを食べ、赤べこや飛騨春慶塗を置く店をぷらりぷらりと歩いて、楽しんだ。

高山陣屋門      高山陣屋玄関      古い家並み
高山陣屋門
高山陣屋玄関
古い家並み


旅をした日     平成17年(2005)12月


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かうんたぁ。