大垣は、大垣藩の城下町であると同時に、美濃路の宿場町、
更に、川運の船町港があり、水門川から揖斐川、そして伊勢や桑名へと結び、
経済都市として発展していた。
また、松尾芭蕉が奥の細道の旅の終着地に選んだ土地であり、市内の至るところに芭蕉やその弟子達の句碑が建っている。
美濃路は大垣城を避けるように十の曲り角を通り抜けて行く。
美濃路は垂井宿の手前で中山道に合流して、東海道の宮宿からの旅は終わる。
前回終了した伝馬西交差点から、旅を再開する。
美濃路は直進で、交叉点を渡った右側に武内酒造がある。
連子格子の家で、「金賞受賞紅梅」や「大垣城」などの銘柄を書いた看板があり、
造り酒屋のようである。
その先の右側には、大垣市消防団東分団の火の見櫓がある。
その先の道は枡形のように、右に曲がり
、正面は塀で覆われている変則的な交差点がある。
塀の前に、 「 美濃路 名古屋口御門跡」 の石柱と説明板が建っていた。
ここは、美濃路の名古屋側の入口があったところである。
説明板「東総門(名古屋口門)」
「 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総門の総掘内には、
古来から町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、
その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
東方に位置する東総門は、名古屋方面にあることから、名古屋口門とも呼ばれ、
明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じされた。
この門を設け、総掘に橋を架けることにより、
有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。
門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。
ここには中山道の赤坂宿へ向かう街道の門も併設されていた。 」
「名古屋口御門跡」の石柱の右側の道に入ると、
左側に水門川が流れている。
道の右手には道の右手には稲荷神社がある。
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道の左側の裏側には水門川が流れていて、 先程の塀の裏は円い舞台のようになっていて、階段で水の傍まで歩いていけた。
「 江戸享保年間の地図を見ると、交差点の東側は水門川が流れるお濠で囲まれていて、
道の一角に名古屋口門に入る橋があり、水門川は円い舞台の下を通り、
道に沿って西に流れている。
粟屋公園の右手から、円い舞台で西に方向を変え、新大橋交叉点の先で、
南に流れているのは大垣城の堀の名残りであろう。」
美濃路は「名古屋口御門跡」の石柱で、左に折れて南へと向かう。
左側に貴船神社が祀られていた。
「 大垣宿は、戸田氏十万石の城下町だったので、
大垣城を避けるように道が曲折していた。
名古屋口門から西の総門の京口門までは、十町五十九間(約1.1キロ)の長さだったが、
その間に十の曲がりがあったのである。 」
これが一番目で、本町1丁目を進むと、右側に山川医院がある。
一筋目の赤いポストのある交差点を右折するが、これが二番目の曲がりである。
少し歩くと、きれいなタイルの敷かれた、本町商店街通りに出る。
美濃街道は、ここで左折する。 これが三番目の曲がりである。
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交差点の右側の元公衆電話ボックス脇に、「高札場跡」の説明板があり、 昭和初期の高札場跡の写真が添付されていた。
説明板
「 本町の北○○札の辻と呼ばれ、ここの地に、
幕府からの禁制や通達事項を板札に書いて掲げる高札場が設けられていた。
(この後三行、文字消失により解読不能)
明治六年に廃止されたが、この高札場は、昭和になっても、掲示板として使用されていたようである。 」
アーチのある本町通りを歩くと、右側に本町薬局があり、
その先の交叉点の手前に田中屋煎餅総本家がある。
店の前の郵便ポストの奥に、
「 美濃路大垣宿脇本陣跡 」 の石柱と説明板が建っている。
説明板「大垣宿脇本陣跡」
「 脇本陣は、本陣の補助的役割を果たす休泊施設である。
大垣では本町大手の北側にあって、
もと関ヶ原の役で、大垣城を守った七騎の一人、松井喜右衛門によって創立された。
その後、戸田家の大垣入封に随従した上田家が勤めるようになった。
この脇本陣は「本町本陣」と呼ばれ、間口十二間半余、奥行き十六間半余で、
坪数百二十七坪半余もの格式ある建物だった。 」
田中屋煎餅総本家の交差点を右折すると、
右側の水路の上に、赤い囲いと青い屋根の祠がある。
その左手に古い石標、その奥に「廣嶺神社」の石柱と鳥居がある。
水路は大垣城の内堀跡で、ここ一帯は
大垣城東口の大手門跡である。
左端に「大垣城大手門跡」の説明板、
鳥居に脇には「大垣市指定史跡 大手門跡」の説明板が立っている。
◎ 説明板「大垣城大手門跡」
「 大垣城の東にあり、大垣城の正門である。
町屋の本町に通じていた。 現在、廣嶺神社が建てられており、
神社の東の水路がかっての内掘である。
城主氏家常陸介直元(ト全)のとき、松之丸に住んでいた、松井喜右衛門に替え地をさせ、
この地の警固を命じている。
大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手とする要害堅固な城郭であり、
惣郭には、大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口之門があった。 」
◎ 説明板「大垣市指定史跡 大手門跡」
「 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手とする要害堅固な城郭であった。
惣郭には、大手口、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口御門があり、
なかでもこの大手口御門は城の正門で、はじめに高麗門と呼ばれる第一の門をくぐって、
左に折れると威風堂々とした第二の門である櫓門につきあたる、
二重に城門を配した枡型形式の堅固なものであった。
明治四年(1871) 大手門を取り壊したおりに、その枡型跡に廣峯神社を移築した。
そのため、同神社境内は大手門北部の原形をよくとどめ、
東側の石垣は往時のままである。
また、その名残で、今もこのあたりを本町大手または大手通り、大手町などと呼ぶ。
大垣市教育委員会 」
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美濃路は交叉点に戻り、南下であるが、大垣城へ立ち寄る。
本丸跡にあった「大垣城 関ヶ原の戦い」の説明板を最初に紹介する。
説明板「大垣城 関ヶ原の戦い」
「 大垣城は、別名を巨鹿城とも呼ばれ、
天文4年(1535) 、宮川安定が創建されたとされる。
永禄四年(1561)に、氏家直元(卜全)が城郭を整備し、 天正から慶長にかけて、
歴代城主によって天守が築かれた。
豊臣秀吉は、大垣城を 「 かなめの所、大柿の城 」 と語り、
織田信長や秀吉と関わりの深い一門が歴代の城主を務めるなど、
関ヶ原の戦いより前から重要な拠点とされてきた。
秀吉の死後、石田三成らを中心とした西軍と、
徳川家康を中心とした東軍の対立が激しくなり、
両者の戦いは避けられないものとなった。
慶長五年(1600)八月十一日、西軍を率いる石田三成は大垣城に入り、 西軍の拠点とした。
当初、東軍、西軍ともに大垣城が天下分け目の戦場となると考えており、
家康は水攻めを企てていたとも言われている。
なお、関ヶ原の戦いでの決戦後、大垣城は一週間の戦いを経て開城している。
関ヶ原の戦い後、慶長十八年(1613)には二の丸石垣等の整備が進むとともに、 西は水門川、東は牛屋川を外堀に利用した、壮大な城郭となった。
その後も、城主戸田氏の時代に櫓や城門が配置され、
枡形虎口、馬出し、横矢等、 敵襲に備えるつくりが築かれるとともに、
外堀周辺には武家屋敷や町屋、美濃路が計画的に配置されていった。 」
大垣城へは大手門をくぐり、直進すると内掘があり、 左折する右側に大垣城東門と隅櫓がある。
「 現在の東門は大垣城の七口之門の一つであった柳口門が、 天守が復元された昭和三十四年(1959)に現在地に移築されたものである。 」
東門をくぐると二の丸跡である。
江戸時代には二の丸は本丸と共に、水堀で囲まれていた。
本丸の一角にある現在の天守は、昭和三十四年(1959)に、鉄筋コンクリート構造で、
外観復元されたものである。
「
慶長元年(1596)に完成したと伝えられる天守は、 四重四階建て、総塗りごめ様式を
取り入れた優美な城として名高く、 明治の廃城令でも破壊は免れ、昭和十一年には国宝に指定された。
しかし、昭和二十年七月、大垣大空襲により焼失。
天守再建の際参考にされたの郡上八幡城である。
郡上八幡城の天守は昭和八年(1933)に木造で再建されたが、 参考にされたのが大垣城の天守であった。
再建された大垣城天守は観光用に窓を大きくするなどの改変がなされていたが、
平成二十二年(2011)に史料を基に改修工事が行われ、
焼失前の外観に近くなるよう改修された。 」
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街道に戻り、道を南下するが、
江戸時代には旅籠や商家が並び賑わっていた所である。
本町2交差点で県道237号を渡り、直進すると、
一筋目の交差点の左向こう角にあるハウジング金物センター前に、
「 左江戸道 右京道 」 と書かれた、本町道標がある。
「
文政九年(1826)に建立されたものを昭和四十八年に復元再建したものである。
この道標は、美濃路と竹鼻街道の分岐点に建てられたものである。
宝暦の治水工事の完成と宝暦十一年の駒塚の渡しの開設で、
竹鼻街道は美濃路の短絡道として大いに利用された。 」
道の反対にある呉服屋には、「 この通りは旧美濃路です 」 、
と書かれた標札が貼ってあるが、ここで右に曲がる。 これが四番目の曲がり。
大垣は呉服屋が多いように思う。
先程の本町にも何軒かあったし、この先の左側にも、もう一軒あった。
交差点に出たら、左折する。 これが五番目の曲がり。
南へ二筋行った右角に、「 美濃路 大垣宿問屋場跡 」 の石柱が建っている。
ここが六番目の曲がりで、この家の角を右折する。
説明板「問屋場跡」
「 宿場において人馬の継ぎ立ての業務を行った所が問屋場である。
ここへは問屋役をはじめ、その助役の年寄。
事務担当の帳付、その他、馬指や人馬指が詰めていた。
大垣宿の問屋場は本町にあったが、寛文の頃にここ竹島町に移った。
問屋場は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた。 」
宝来屋の看板があるこの家の壁には、
大垣の宿場や美濃路についての手作りの説明や地図、見取り図などの街道グッツが、
壁一面に貼られていた。
右折して西へ向かうと、右側に白い塀を背に、「明治天皇行在所跡」の石碑がある。
その奥の竹島会館の玄関には、
「 美濃路 大垣宿 竹島本陣跡 」 の看板が架かっているが、
ここが江戸時代大垣宿の本陣があったところである。
明治天皇は、明治十一年(1878)の十月二十二日、東海、北陸御巡幸の帰途、
美濃路大垣宿旧本陣だった飯沼武右衛門邸に宿泊されている。
説明板「大垣宿本陣跡」
「 本陣は、宿場のほぼ中央に位置し、大名や宮家・公家、幕府役人などの貴人が
利用した休泊施設である。
大垣宿本陣は、永禄の頃、沼波玄古秀実が竹島町を開き、
はじめて本陣を創立した、と伝えられる。
以後、本陣役は、宝暦五年(1755)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、
天保十四年(1843)には飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。 」
神社の境内に、芭蕉の伊吹塚があり、次の句が刻まれていた。
「 其のままよ 月もたのまし 伊吹山 桃青(芭蕉) 」
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本陣跡を過ぎると広い通りに出るが、これが県道57号大垣停車場線である。
俵町バス停があり、この道を左折し、南下する。 これが七番目の曲がりである。
この角にある家は、街路樹で妨げられて良く見えないが、大きく立派な町屋である。
ここからは俵町で、一筋目の信号交差点を右折して、県道を越えて直進する。
これが八番目の曲がりである。
その先の右側にある白壁の卯建が上がった家は、
創業、宝暦五年(1755)、柿羊羹のつちや本店である。
「 柿羊羹は、槌屋四代目が天保九年(1838)に考案し、 五代目の明治二十九年(1896)から竹の容器が使われるようになった、という。 」
槌屋を通り過ぎると、次の道(はな街道)の所から道幅が広くなった。
広くなった道の左側の歩道を歩くと、「 史跡 飯沼慾斉邸跡 」 の石柱があった。
「
飯沼慾斉は、美濃国 大垣の医者の飯沼長顕に学び、
その後、京都に出て本草学を修めた、という人物である。
石柱を過ぎた交差点の右側には、「飯沼慾斉先生」 と書かれた銅像が建っていた。 」
美濃路は交差点を左折し、南へ向う。 これが九番目の曲がり。
牛尾川に架かる京橋の手前左側に、「 大垣城西総門跡(美濃路 京口御門跡) 」 の石柱が建っていた。
説明板「西総門(京口門)」
「 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の総掘内には、古来からの町屋である本町、
中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、
その町屋を縫うように美濃路が通っていた。
西方に位置する西総門は、京都方面にあることから、京口門とも呼ばれて、
明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。
この門を設け、総掘に橋を架けることによって、有事の際に外部との交通を遮断するなどの
防御が図られたのである。
門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。 」
橋を渡ると、この辺りから船町で、 右手の水都公園にはトイレや観光ボランティアガイドセンターがあり、 左側には、大きな円柱状の船町道標があった。
説明板「船町道標」
「 この道標は高さ約2mの円柱状の石製で、
文政年間(1818〜1830)に、大垣城下京口御門(西総門)の南、美濃路沿いに建立された。
、
その側面には「 左 江戸道 」「 右 京みち 」 の道案内、そして、上部には
旅人の道中の安全を願い、梵字(種子)が、深く刻まれている。
先の大戦で被害を受け、路傍に横たわっていたが修復され、
往時の美濃路を偲ぶ貴重な民俗資料となっている。
大垣市教育委員会 」
右側の川は水門川で、江戸時代には大垣城の左側の外濠になっていた。
右手の貝殻橋を渡ると、奥の細道むすびの地記念館(総合福祉会館)がある。
その庭には芭蕉の句碑が二つあった。
その一つには下記の句が刻まれていた。
「 ふらすとも 竹植る日は みのと笠 芭蕉 」
もう一つの句碑は
「 さびしさや すまに勝ちたる 浜の秋 はせお 」
である。
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貝殻橋に戻り、水門川の左岸を下ると、住吉公園碑と、
「飛騨、美濃さくら三十三選の地」 「奥の細道むすびの地」 の石柱が建っていた。
川沿いには、その他、いろいろな碑が立っている。
細くて背の高い碑が、奥の細道文学碑で、 碑面には奥の細道のむすびの章の一節が刻まれている。
次にあるのが如行の霧塚といわれるもの。
「 霧晴ぬ 暫ク岸に 立給え 如行 」
如行は大垣藩士の近藤源太夫で、この家に人々が集まって、
芭蕉の無事の到着を喜びあっている。
赤い手摺と欄干に疑宝珠が乗った木造の橋・住吉橋の手前に、 芭蕉ゆかりの句碑の案内碑が設置され、地図と写真入りで詳しく紹介されていた。
赤い橋から南を見ると、水門川に一隻の船が繋がれ、
その先に木造の高い塔と神社の社殿が見える。
近づいてみると、その脇に「船町港跡と住吉燈台」 と書れた説明板があった。
説明板
「 船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢桑名を結ぶ運河「水門川」
の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。
明治十六年(1883)には、大垣―桑名間に結ぶ蒸気船が就航したが、
昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
住吉燈台は元禄年間(1688〜1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てたものである。
高さ約8m、四角の寄棟造りで、最上部四方には油紙障子をはめこんであり、
形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。
大垣市教育委員会) 」
享保年間の大垣城下の地図を見ると、このあたりは濠が南に続き、
その西側は土塀が囲んでいる。
そして、この先の高橋の先が川幅が広くなっていて、船入と表示されている。
写真が捕られた年代は分からないが、旧船町港である。
船町港には、停留されているような船が活躍して、水門川から揖斐川、
そして伊勢や桑名へと結び、舟運により大垣は経済都市として発展した。
川燈台の隣の赤い鳥居は住吉神社である。
この神社はもちろん海上の守護神である。
住吉神社を過ぎると、高橋交差点で、左右の道は県道31号岐阜垂井線である。
美濃路は、交差点を右折し、右側の高橋を渡り、水門川を越える。
これが最後、十番目の曲がりである。
橋を渡ると、大垣宿は終わる。
大垣は俳句をたしなむ人には聖地といわれるだけのことはある。
大垣宿の歩きでは、美濃路と芭蕉の句碑と両方楽しめてよかった。
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大垣市は、高橋を渡ってすぐの所に、「 住吉灯台、船町港跡 」と書かれた観光案内板を設置し、美濃路のルートや説明をしている。
その隣に、 「奥の細道むすびの地 」、側面に、「芭蕉生誕三百六十年記念2004年 」 と書いた標柱がある。
「
松尾芭蕉は、元禄弐年(1689) 三月二十七日(太陽暦五月十六日)、深川の庵を出て、
東北地方から日本海側に出て、敦賀に入ったのが、八月十四日(同九月二十六日)であるが、
終焉地の大垣にはいっこうに現れなかった。
しびれをきらした門下の一人、路通が敦賀まで迎えに行き、芭蕉が大垣に着いたのは、
八月末(同十月上旬)である。
曽良も養生先の伊勢から駆けつけ、如行を始め、全員で芭蕉の無事を喜んだ。
しばらく逗留してから、九月六日(同十月十八日)、船問屋の木因宅から曽良と共に、
伊勢神宮の式年遷宮を見るため、大垣を後にした。
およそ百六十日に及ぶ奥の細道の旅の疲れが抜けぬまま、
芭蕉は多くの門人に惜しまれながら、桑名に向かったのである。 」
その様子を描いたのが、「 芭蕉翁と木因翁 」 と書かれた台座の上の銅像で、 伊勢へ旅立つ芭蕉とそれを見送る木因の像である。
その像の先には、谷木因の道標がある。
木因は、芭蕉の歓迎の意を込めて、建立したと伝えられる道標で、
表面には「 南いせ くわなへ十り ざいがうみち 」 と書かれている。
くわなへは、伊勢の桑名と季語の桑苗を掛詞しており、
道しるべの方向を俳句で表しているものは、大変珍しい。
その奥には、四角い石に丸く掘り込んだ中に、奥の細道結びの句が彫られている。
この句は、普通は、ふたみに であるが、ふたみへ となっているのが初案だという。
「 蛤の ふたみに別 行秋ぞ 芭蕉 」
続いて、縦長の大きな自然石に彫られているのが、 木因白桜塚 と呼ばれるもの。
「 惜しむひげ 剃りたり窓に 夏木立 白桜下(木因) 」
前述した以外では、大垣を離れて伊勢に旅立つ日、 芭蕉は友と送別の連句のやり取りをした連句塚。
秋の暮れ行く先々は苫屋かな 木因
萩にねようか荻にねようか 芭蕉
霧晴ぬ暫ク岸に立給え 如行
蛤のふたみへ別行秋ぞ 芭蕉
芭蕉をひとときでも留めようとする如行の句に対し、 芭蕉は別れを惜しみつつ伊勢二見への新たな旅の決意を示していると言われる。
住吉橋の先にあるのは、大きな自然石に彫られた 三反句塚である。
隠家や菊と月とに田三反 芭蕉
(注) 住吉公園は、先程歩いた水門川の東側とこちらの西側を含めた区域で、
その中心をなすのは芭蕉と弟子たちの句碑で、
住吉橋近くに、芭蕉句碑の案内板がある。
それを参考にして、見学するとよいだろう。
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いよいよ最後の行程に入る。
美濃路は高橋町交差点から西へ向って、県道31号(大垣垂井線)を進む。
ここからしばらくの間、古い町屋が多く残っている。
二階が低く格子造りで袖壁を持っていたり、黒い腰壁に覆われた大きな二階建ての蔵があったり、両側に卯建のある家があったりする。
船橋4交差点を越えて歩いて行くと、左側の黒い漆喰壁の家の先に
、 「みつめはし 」 と、書かれた石柱があったが、どういう意味だろうか?
船橋5交差点と船橋6交差点を越えて進むと、左側の常楽寺には「旧戸田藩祈願所」 とあり、「 弘法大師が四十二歳の時作った毘沙門天王を祀っている 」、とあった。
その先は船町7交差点で、地下道をくぐり、対面に出る。
その先、左側の工業高口バス停の左側に、愛宕神社の鳥居があった。
その奥には「玉の井山車」と「恵比須山車」の格納庫があり、小高いところに社殿がある。
なお、バス停の手前には、「いつつめはし」 と書かれた石柱があった。
神社の隣の正覚寺入口には、 「史跡 芭蕉 木因遺跡」 という大きな石柱が建っている。
木因は、船町の船問屋の家に生まれ、名は正保 丸太夫と称し、木因はその号である。
説明板「 大垣市指定史蹟 芭蕉・木因遺跡 」
「 俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友 谷木因(たにもくいん)をはじめとした大垣俳人を
訪れてのことである。
木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。
そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士近藤如行ら
貞享、元禄年間に大垣俳人の先駆をなし、多くの俳人を芭蕉門下とした。
元禄7年(1694)、芭蕉が大阪で病没すると如行らはこれを深く悼み、
正覚寺に路通筆 「芭蕉翁」 追悼碑を建てた。
さらに、木因の死後、芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て、「芭蕉・木因遺跡」 とした。
大垣市教育委員会 」
中に入ると正覚寺の本堂の先に、いくつかの碑があるがのが、
説明板にある芭蕉 木因遺跡である。
「芭蕉翁」と書かれた丸い自然石は、芭蕉没後百日目の追善法要として建立された追悼碑で、
路通の筆で、「芭蕉翁 元禄七戌年十月十二日」 と、刻まれていた。
左側の丸い石碑が木因碑だろうか?
その他にも、「 あかあかと 日はつれなくも 秋の風 芭蕉 」 などの句碑があった。
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道路を隔てた向かいに、水神神社がある。
大垣はかつて揖斐川、水門川、杭瀬川などの河川を利用した舟運が盛んで水の町と言われたことと関係がある神社なのだろうか?
街道(県道31号)を西に向かう。
左側のうだつがあがった家の隣には「千石餅」の看板があり、洋和菓子店である。
その先の久瀬川町2交差点で、養老鉄道(旧近鉄養老線)を踏切で渡る。
久瀬川町3交差点を過ぎると、右手に大垣西小学校、そして、左側に杭瀬川郵便局がある。
久瀬川町4交差点を越えると、雪を被った伊吹山が正面に大きく見えた。
京阪近鉄バスの久瀬川四丁目のバス停には、
「 有難や 雪をかほらす 南谷 芭蕉 」 と書かれていて、大垣は芭蕉一色と思った。
小さな橋が架かる山王用水を渡ったところで、左折し進むと、「 親鸞聖人御旧跡 永寿寺」
の石柱が建っていた。
ここで右折すると古い家並みが現れた。
ここは左側の道を歩くが、袖壁を持った家など、古い家が残っている。
左に緩くカーブすると、若森町4丁目である。
道の右側は、杭瀬川の土手で高くなっている。
左側の大きな古い家は以前は商売をしていたように思えるが、
背の高いフェンスに囲われていた。
右側に秋葉神社の大きな石柱があり、奥に石の鳥居と秋葉神社の建物がある。
美濃路はその先で右折し、杭瀬川(くいぜがわ)に架かる、旧塩田橋を渡る。
橋の手前には、お地蔵様と思えるお堂があった。
この川を舞台に、慶長五年(1600)九月十四日、関ヶ原の戦いの前哨戦の杭瀬川の戦いが行われた。 (詳細は巻末参照)
杭瀬川は昔の揖斐川だといわれるが、橋を渡ると左側に、塩田の常夜燈がある。
塩田常夜燈は、木製の彫刻が施された豪華なものである。
江戸時代の後半になると、中山道の赤坂宿の赤坂港と東海道桑名宿の桑名港との川運が盛んになり、昭和初期まで続いた。
説明板「静里町塩田常夜燈」
「 この常夜燈は、高さ約4.3mの銅板葺 (当初は茅葺であった)で、
明治13年(1880)8月に、杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識、
そして伊勢両宮への献燈として、塩田港の西岸に建立された。
当時は、杭瀬川の水運がこの地方の物資輸送に重要な役割を果たしており、
特に赤坂港と桑名港との間で、船の運行が盛んであった。
その中継港としての塩田港は、常に20〜30隻の船が停泊し、
船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋等の店が軒を並べ、大変賑やかだった。
大垣市教育委員会 」
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旧塩田集落(現在は大垣市静里町)の右側には、袖壁を持った二階建ての家が数軒並び、
塩田港時代の風情を感じた。
道は左にカーブすると、右側の寺の門には、鯱鉾の瓦が乗っていて、
門前の石柱には、「偏照山功徳院長源教寺」 とある。
その先には、静里第一陸閘(りくこう)がある。
陸閘とは、堤防の一部を通行出来るよう途切れさせてあるが、
増水した時には両側をゲート等により塞いで、水の浸水を防ぐ施設である。
長源寺の前を道なりに右に曲がった所の左側に秋葉神社、その先の左手に法永寺がある。
そのまま歩くと、静里バス停がある県道31号に出た。
道の反対側には、美濃路があるのだが、車の通行が多いので、渡ることができない。
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仕方がないので、その先の静里町交差点に行き、を右折して県道を横断し、反対側にでた。
そして、右折して、美濃路の細い道に入り、百メートル程歩くと、三叉路にでた。
美濃路はここを左折する。
なお、この道を右折して行くと、杭瀬川の土手に突き当たり、
その上に「谷汲山」の常夜燈が建っていて、その右には静星陸閘がある。
美濃路を数百メートル歩くと、左側に久徳(きゅうとく)一里塚がある。
説明板
「 徳川家康は幕政の基盤を固めるため、全国主要街道の整備に努め、
慶長9年(1604)には、その路程標として一里塚を築かせた。
一里塚とは、一里(約4q)ごとに、街道の両側に五間(約9m)四方の塚を築き、
その頂に榎などを植えたもので、旅人の里程の目安となり、乗り賃支払いの基準とされたほか、
休息の場でもあった。
この一里塚は、東海道と中山道を結ぶ美濃路に構築されてもので、南側だけであるが、
榎が残るなど、ほぼ原型に近く貴重な史跡である。
大垣市教育委員会 」
久徳一里塚は南側だけしか残っていないが、 塚の上の榎は想像していたより大きく、左右、そして、天に向かって伸びていた。
道の反対にあるのは瓊瓊杵(ににぎ)>神社の石標と鳥居である。 社殿は奥に入ったところにある。
「
瓊瓊杵尊は、天照大神の孫で、高天原から地上に降り立ったとされる神で、
高天原と地上をつなぐ神として、歴代の天皇の祖先神になったとされる。
また、瓊瓊杵尊が高天原からもって来た稲の種が、地上での稲作の起源になったともいわれ、
穀物の神様として崇められているが、瓊瓊杵神社という神社名は珍しい。
」
左側の民家の前には、常夜燈があり、その先には火の見櫓が見える。
火の見櫓の右手に静里小学校がある。
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少し歩くと、太平洋工業の工場前に出た。
この先の「整地碑」があるところで、美濃路は消滅しているので、
工場前の道を左折し、県道31号に出て、県道をしばらく歩く。
中曽根バス停を過ぎると、道の右手の田畑の先に、山が削り取られ変形した風景が見られるが、その麓にあるのが、中山道の赤坂宿である。
美濃路は、荒川町東交叉点を過ぎたところにある大垣自動車学校の手前で右折し、
一筋目の道を左折すると、復活する。
その先の右側に社があり、交差点はやや右に曲がっているが、直進すると、
左側に白髭神社がある。
「 白髭神社は、滋賀県高島市鵜川にある神社が有名であるが、
祭神は猿田彦命である。
延命長寿白鬚の神として広く信仰を集め、道祖神と共に、交通の安全を司る神でもある。 」
道は、その先で大谷川に突き当たり、左側の県道に合流してしまった。
大谷川に架かる大谷川橋を渡る。
大谷川橋は最近架け替えられたようで、歩道部分もしっかりしていた。
橋を渡り終えると、長松町に入った。
ここは少し高台になっているからだろうが、正面に雪を被った伊吹山が大きく見えた。
その先の道は、整備途中か、行先がフェンスになっていて、どう行ったよいか、分からない。
美濃路は北に行くはずなので、右折して、川の土手の道を歩いてみた。
川の反対(右手)に、二つの大きなお堂のようなものが見えた。 勝光寺と蓮正寺である。
心配になって、土手道を下り、民家の間をくぐり、
西側の道に出て北上すると、左側に立源寺があった。
どうやら、この道が美濃路のようである。
その先の左へ入る道の左側に、二基の道標を見つけた。
「 手前の小さな道標には、 「 従是 南宮社 近道 」 とあり、 後の背の高い道標には、左側に、「 ← 」の下に、 「大垣 岐阜 」、 右側には、「→ 」の下に、「垂井 京都」 とあり、それらの下に 道 と刻まれていた。 」
その先に目線を移すと、道の右側の新和建設と看板のある敷地の一角に、
南宮神社の四角の標柱と南宮大社元鳥居址の丸い石柱が建っていた。
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その先の交差点で左折して進むと、右にカーブし、また、左に曲がる。
左側の奥に寺院があり、入口の右側に 「 曹洞宗 二十九番 瑞雲山龍松禅寺」、
左側に「北面延命地蔵尊」 という石柱が建っていた。
続いて、右にカーブ、そして、左にカーブするが、左手に敬恩寺がある。
とにかく、道がくねくねしている。
北へ向かって進むと、左側に大きな常夜燈があり、隣に説明板がある。
常夜燈は「大神宮」と刻まれた常夜燈で、説明板はそれの説明と思っていたが、違っていた。
説明板は二つの仏像のもので、
「 大垣市指定文化財 木造薬師如来坐像は、もと、神宮寺の本尊で、平安中期の作、
もう一つは木造十一面観音立像で、もと遮那院の本尊で、江戸初期の作とされるが、
両寺とも、明治の神仏分離令廃寺になった。 」
、とある。
隣に赤い幟がはためく寺・金梁山慈應寺があるので、
二つの仏像はこの寺に保存されているのだろう。
その先からは、道の両脇に、田圃が拡がるが、 住宅化の波は押し寄せているようで、ところどころに住宅が建っていた。
その先、国道二十一号のガードの下をくぐり、直ぐに左に曲がり、
国道の脇の道を西に向かう。
右側に、「村社八幡神社」 の石柱があり、右手に八幡神社の建物が見える。
そのまま歩くと、道は長松町東交叉点の手前で、国道21号に合流し、
美濃路は、また、消えてしまった。
仕方なく国道を行く。 長松町東交差点を地下道をくぐり、反対側に渡る。
そのまま国道を進むと、左側にジェームスという黄色の看板が見える。
右側に、狸の置物があり、「神仏両部 福乃宮」 とあるのは、新興宗教のようだった。
その先の綾戸口交差点の手前から、不破郡垂井町に変わった。
綾戸口交差点は、左からきた県道31号(岐阜垂井線)と斜めに交差するが、
美濃路は斜め右へ入る道である。
右側に飛行機の形をしたものを看板にしている喫茶店があった。
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その先から、道は左にカーブし、道幅が狭まった。
左側に「御嶽教不破神明教会」の看板を出している家がある。
大垣周辺は水害に襲われた歴史があるので、信心深いのだろうか、と考えながら、
歩いていると、
右側に菊の御紋章と付いた鉄柵に囲まれた、「伊勢両宮献燈」 と書かれた、
立派な常夜燈があった。
美濃路最後の一里塚である綾戸の一里塚の跡は、残念ながら見付けられなかった。
道はなだらかに、左、右にカーブしながら、伊吹山に向かって進んでいく。
右側の家の一角に、「美の路」と書かれた石碑があった。
その先には、「明野山地蔵院光堂寺」 の案内板もあった。
綾戸集落は、落ち着いた風情であるが、街道を走る車の数が多い。
右側に、「 村社六社神社 」 の石柱と一対の常夜燈と石の鳥居があり、 奥へと参道が続いていた。
六社神社を過ぎると、綾戸北交叉点で、県道228号を横断する。
道は右にカーブし、道幅が広くなる。
JR東海道本線の踏切を斜めに渡ると、右手に東小学校がある。
道の右側の歩道の電柱に、 「 これより美濃路松並木 」 の標識があり、
その標識に 「 ここは垂井町綾戸、熊坂長範物見の松200m→ 」 と、
小さく書いてあったので、それにつられて右側に入って行った。
その先の三叉路には、細長い道標があり、「 傳武内宿祢公墳 長範物見松 ○○北一丁 」 、とあるが、 ○部は読めなかった。
そこから百メートル程行くと、右側は東小学校の敷地、左側に小山のようなものが現れたが、
これは綾戸古墳である。
説明板「垂井町指定史跡 綾戸古墳(円墳)」
「 綾戸古墳は、平地に位置する古墳時代終末期(七世紀以降)と見られる円墳。
墳丘の大きさは直径三十二bと大きく、周濠や葺き石の一部が確認されている。
かっては横穴式石室が開口していたとする記録が残り、特異な須恵器の三足壺や鏡が出土したと
伝えられている。
ここから東へ約一キロのところには、三角神獣鏡や石製品が出土した前方後円墳の国史跡・
矢道長塚古墳がある。
垂井町教育委員会 」
比較的大規模な周湟を持った円墳であることから、
この地方を治めていたかなりの豪族の墓と考えられ、竹内宿禰の墳墓という伝承もある。
傍らに 「 謡曲・熊坂 と熊坂長範物見した松 」 の説明板もあった。
「 熊坂長範(張範とも)は、平安時代の大盗といわれ美濃国赤坂で、
鞍馬から奥州に下る金売吉次一行を襲い、同行していた牛若丸(義経)にかえって討たれた
、という伝説的人物ですが、これを脚色したのが謡曲「 熊坂 」です。
牛若丸が強盗を斬ったことは、「義経記」などにも書かれていますが、
これ等を参考にしてえがかれたのが謡曲でしょう。
その長範がめぼしい旅人を物色するため様子をうかがっていたというのが、この一本松で、
「物見の松」といわれています。
松のあるところは中仙道と東海道が左右に走る中間にあり、
昔は草がぼうぼうの青野ヶ原だったといわれていますが、今も当時の面影を残しています。
付近は古墳で、かっては濠があったといいます。
謡曲史跡保存会 」
古墳上の松から旅人を物色していたことから、物見の松といわれる、とあるが、
円墳を一回りすると、数本の松があったが、これであるという説明はなかった。
あくまでも、伝説上の松のようである。
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美濃路に戻ると、美濃路で唯一の松並木が現れた。
右側のユニチカのゴルフ練習場あたりから始まり、ユニチカの工場に沿って、約一キロの間に、ところどころに、数十本の松の木が残っている。
右側が多いが、中には左側にもあって、両側が松というところもあった。
博愛会病院を過ぎると、最後の一本と思える松の下に、「 この道は美濃路 ここは垂井町 」 の標示があった。
松並木がなくなり、信金やドラッグストアのある、流交差点を渡ると、
右側に垂井郵便局がある。
少し歩くと、右側の 「 美濃路 追分蕎麦 」 の看板がある建物の先の三角地に、
「←中山道 美濃路→」の標柱が建っている。
ここは、垂井追分で、右側から来た中山道に、左から来た美濃路が合流する。
道路の脇の金網の前に、茶褐色の自然石の道標と説明板が建っている。
説明板「垂井町指定史跡 垂井追分道標」
「 垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点に当り、たいへんにぎわう宿場でした。
追分は宿場の東にあり、旅人が道に迷わぬように自然石の道標が建てられました。
道標は、高さ一・二 b、幅四十 a、
表に、「 是より 右東海道大垣みち 左木曽海道たにぐみみち 」 とあり、
裏に、 「 宝永六年巳丑十月 願主奥山氏未平 」 と、刻まれている。
この道標は、宝永六年(1709)、垂井宿の問屋・奥山文左衛門が建てたもので、
中山道にある道標の中で、七番目ほどの古さである。
また、ここには高さ二b の享保三年(1718)の角柱の道標もあった。
平成二十一年一月 垂井町教育委員会 」
ここは平成十六年に中山道を歩い時、訪れている。
この道標で、宮宿から七つの宿場を経てやってきた美濃路の
十四里二十四丁十五間(60km弱)の旅は終わりである。
「
多くの河川を越える旅というのが印象である。
中山道を歩いて垂井追分道標を見た時、
いつかは美濃路を歩こうと思ったが、その望みを果たすことができた。 」
日が傾き始めた相川橋を渡ると、垂井宿の案内板に再会した。
垂井宿は中山道の旅で歩き済みなので、JR垂井駅まで歩き、電車に乗り帰宅した。
なお、垂井宿の様子は、
小生のホームページ、
中山道の垂井宿をご覧下さい。
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旅をした日 平成21年(2009)1月29日
慶長五年(1600)九月十五日午前八時過ぎ、霧が晴れた関ヶ原で、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まったが、それに先立つ九月十四日、杭瀬川で東軍と西軍の戦いがあった。
西軍の石田三成は、慶長五年(1600)八月十日、大垣城に入城し、西軍の本拠地とした。
東軍の徳川家康は、九月一日、江戸城を出発し、十三日に岐阜に到着。 十四日の未明に出発し、赤坂岡山の本陣に入った。
家康の到着の知らせが、大垣城に届くと、西軍の士卒が動揺し始めたので、島左近勝猛は、三成の許可を得て、蒲生郷舎と共に、杭瀬川に向かった。
島左近は、兵五百人を率い、一隊を伏兵として残し、池尻口から川を渡り、稲刈りをして、敵を誘いだした。
東牧野には、東軍の中村一栄がいた。
挑発にのって、部将、野一色頼母は、兵を率いて西軍を攻撃した。
島左近は、偽って敗れ逃走したので、東軍は川を渡って追撃した。
ところが、南一色付近で、西軍の伏兵が現れ、左近の本隊が引き返してきたので、挟み打ちにあい、中村隊は苦戦に陥り、頼母以下三十余人、雑兵百数十人を討たれた。
三成等はこの戦勝を喜び、大垣城下で首実験を行った。
その夜、石田三成は、なにを思ったのが、雨のぬかるみと暗闇の中、決戦の場になった関ヶ原に向かった。
大垣城は三重にお濠で囲まれた水城だったので、ここで守っていたら、結果が変わったかも知れない、という意見もある。
この戦いが、関ヶ原の戦いで、西軍唯一の勝ち戦だった。