起宿から大垣宿の間には木曽三川が流れていた。
起宿から対岸の大浦へは渡船だったが、
渡船場跡には明和七年建立の起川渡船場と刻まれた常夜燈が残っている。
その先の旧南宿村は起宿と墨俣宿のほぼ中間だったので、間の宿として小休所が設けられていた。
墨俣宿へは長良川を墨俣の渡しで渡っていたが、
墨俣は江戸以前の鎌倉街道の時代に既に宿場町として栄えていたという。
大垣宿へは更にもう一つの川、揖斐川を渡らなければならない。
「佐渡の渡し」と呼ばれた渡しで渡るが、常時、渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されていた。
美濃路は、起宿から木曽川対岸の岐阜県羽島市正木町新井へを船で渡った。
今は渡船などないので、濃尾大橋東交叉点から歩いて、木曽川に架かる濃尾大橋を渡る。
この道は県道18号線で、
歩行者、自転車専用橋になっているのだが、川幅が広いので風が強く、けっこう怖い。
橋の中央を少し過ぎると、岐阜県(旧美濃国)になる。
橋を渡ると、正木町三ッ柳の交叉点があり、堤の上の道は県道184号である。
この近くに本堤改築碑が建っている。
なお、堤防の北側が大浦地区で、かっては輪中にあった土地である。
傍らの説明板
「 木曽川正木本堤の改築碑 ー 大浦地区は、
かって、くの字に曲がった木曽川の本堤の川の中にあった。
大浦輪中堤が集落を囲んでいたが、木曽川の洪水の際には、決壊し、度々惨事に被っていた。
昭和七年から昭和十三年の大工事により、本堤は大浦地区の外に築かれ、
大浦地区の当時の家数四十三軒と耕地七十五町歩は、水害から解放された。
廃堤になった敷地などが加わり、新たに約二十町歩の耕地が生まれた。 」
記念碑のある堤防の道を上流に向かうと、道の左側に「 起渡船場石灯台 」 の石柱があり、 その隣に、「 おこし川渡船場 」 と刻まれた常夜燈がある。
「
これは、起宿からの船が到着する新井側の船着場を示す起渡船場の石灯で、
明和七年(1770)に地元出身の力士により建立されたものである。
船渡場には、渡し船が常時二艘の他、旅人が多い時に備えて、置き船一艘が常備されていた、という。 」
石灯台の手前の堤防から左に下る道があるので、この道を下り、最初の交差点で右折し、
狭い道を北上する。
少し歩くと、右側の民家門前に、「 右いせみち 左おこし舟渡 」 と刻まれた道標がある。
少し行くと、県道165号で、斜めに渡るが、交差点の先に、以前はコンビニがあったが、
今は別の会社が入っていた。
左側に石仏が祀られたお堂がある。
細い道を北上すると、正木小学校前に出た。
学校の金網の中に、「美濃路」の看板があり、少し離れて、一里塚跡の石碑と看板が建っている。
ここは、不破一色一里塚があったところで、「 道の両脇に縦横九メートル、
高さ三メートルの塚があった。 」 、と書かれていた。
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学校を過ぎるあたりで、道は三叉路になるが、
美濃路は県道165号で、左の田んぼの中のくねくねした道を歩いて行く。
今日はあいにく、雪交じりの天候で、大変寒い。
逆川に架かる橋を渡り、正木須賀本村交差点にでる。
「 このあたりの須賀集落は、 昭和三十年の前半までは輪中堤が残り、街道に沿って松並木も見られた、という。 」
交差点を越えて、狭い道を進むと、
左側に「金毘羅山大権現」と刻まれた、及ヶ橋灯籠があった。
これは文政九年(1779)に建立されたもので、以前は輪中堤防の松並木にあったようである。
その先の正木町小松西交差点を直進すると、名鉄竹鼻線の踏切があり、渡った右手に須賀駅がある。
竹鼻線は単線で、駅は片側しかなく、須賀はすがではなく、すかと濁らない。
その先の松枝排水路(旧足近川)は、昔は水量が多い川だったようである。
江戸幕府はこの先の南宿村に渡し船二艘を与え、
水が氾濫したときには、渡船により美濃路を維持させた、と伝えられる。
街道(県道165号)はまっすぐ北に伸びている。
左手に旧南宿村集落(現羽島市足近町南宿)がある。
「 江戸時代、このあたりは、起宿と墨俣宿のほぼ中間にあたるので、 間の宿として小休所が設けられていたようである。 」
県道の右手に羽島市コミニティーバス元町バス停があり、
その奥に、馬場元町自治会館と村社白山神社がある。
人が集まっているので、近づいてみると、焚き火が・・・・
かってはどこでも行われていた、ドンド焼き(左義長)である。
火は消えかかっていたが、燃えカスの上には、丸餅が並べられていた。
このあたりでは、一月十日から十五日にかけて、ほとんどの集落の神社で行われている、という。
久し振りでの行事を見て、子供時代の田舎を思い出した。
南宿集落入口に戻り、車はすれちがえない細い道を歩いて、集落に入って行く。
天満神社や石仏を祀るお堂の脇を歩いていくと、道は少し広くなり、
右手に火の見櫓と足近支所(足近コミュニテイセンター)がある。
火の見櫓手前の道の角に、道標があり、その向かいに古い門構えの家があるが、
これは前述の間の宿と呼ばれる小休所だった加藤家である。
この道標は北方にある西方寺へのもので、「 親鸞聖人御旧跡 寺田山渋谷院西方寺 従是北六丁 」 と刻まれている。
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道標が示す右手には、足近小学校があり、金網塀が見えるので、行けないのではと思ったが、 行ってみると、突き当たりを左折して、通ることは出来たが、その先は畑になっていて、 ここから坂井集落までは、美濃路はなくなっていた。
西方寺へ寄り道する。
足近町2交差点に出て、県道1号(岐阜羽島線)を北上し、足近町直道交差点で左折し、右手を見ると、「 善光寺札所 聖徳太子 建立地 」 の大きな石柱が建っている。
道を入っていくと、道標にあった西方寺があった。
この寺には古い建物は残っていないようである。
説明板
「 西方寺は、推古天皇十年(602)に供奉された善光寺如来を安置したのが始まりで、同二十年(612)、聖徳太子が七堂伽藍を建立し、自ら刻んだ阿弥陀如来を安置し、
三尊院太子寺と号した。
平安時代に入ると、法相宗から天台宗になり、寺名も西方寺となった。
嘉禎元年(1235)、親鸞聖人が、関東より御帰洛のみぎり、当寺に逗留した時、
寺僧の佑善が聖人と師弟の契りを結び、浄土真宗に改宗した。
親鸞聖人は、 「 都へは もう足近き 直道の国へ 土産は南無阿弥陀仏 」 と、 詠んで、
旅立たれた、と伝えられる。 」
足近町2交差点に戻る。
美濃路は、足近町2交差点の手前で消滅して、その先は田畑になっている。
足近町2交差点から県道を七百メートル程歩くと
県道の右側に「 式内 阿遅加神社 」 と書いた石柱があり、参道の両側に常夜燈が祀られている。
その奥に鳥居が見える
「 かっての美濃路は、この鳥居の前を通っていた、という。
美濃路は、阿遅加神社の鳥居二百メートル西の辺りから、右側の細い道に入ると、復活する。 」
小生はその道までは行かず、参道を歩く。
北に四百メートル位歩くと、階段があり、上ったところに阿遅加神社の社殿があった。
上って行き、旅の安全を祈った。
「
阿遅加神社は、日本武尊を祭神とし、足近十郷(足近輪中内の村々)の惣社である。
農業用水設備が不十分だった第二次世界大戦以前は、
境内の雨石に向かって、雨乞いに参拝する人が多かった、と聞いた。 」
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阿遅加神社の上に境川の堤防に沿って続く道があるので、その道に出た。
この道(境川左岸堤防道路)は、中世(室町時代以前)の鎌倉街道である。
境川の堤防に沿った道は、先程訪れた西方寺から続いている。
「
西方寺から、西に向かって歩くと坂になり、それを上ると右側に境川が流れている。
堤の上の道に入ると、右側に「南無地蔵菩薩」の幟のある小さなお堂がある。
お堂は新しいように見えたが、石仏は何時頃から祀られているのか分からない。
この道を進むと、ここに出てきて、更に進むと、復活した美濃路の道がこの先で、左から合流してくる。 」
雪は多くなったので、持参した傘をさした。
「 前述した復活した美濃路は
坂井の集落の中を道なりに抜けていくと、境川の堤防に上り、
阿遅加神社の先に続く、小生が歩いている堤防道と合流する。 」
この地点が、江戸時代の美濃路と室町時代以前の鎌倉街道の合流点である。
堤防に上がるところに、親鸞聖人御旧跡碑があり、その脇に二体の辻地蔵が祀られていた。
「
親鸞聖人御旧跡碑は、中世の鎌倉街道にある西方寺への道標である。
「 従是東五丁 」 と刻まれていた。
辻地蔵の脇には、「 右笠松 西方寺道 」 「 すぐ 墨俣 大垣 」 と刻まれていた。 」
堤防道を西に向かって進む。
堤の下に墓地があり、その脇のお堂には二体の石仏が祀られていた。
その先の東境川橋の手前にも、石仏を祀ったお堂があった。
「
境川は天正年間に発生した大洪水までは木曽川の本流であり、
美濃国と尾張国の国境を分ける川だった。
常水時の川幅は三十六メートルに過ぎないが、堤と堤の間は四百メートル以上の幅を有し、
今でも古の大河の風格を残している。 」
橋は渡らず、堤防の道を直進するが、道には、
県道165号の標識が建っていて、道は狭いのに車は多い。
みぞれ交じりになってきたので、傘をさしながら歩いていたので、突然現れる車は怖かった。
少し行くと、道の右側に 「 旧街道 美濃路 」 と書かれた小さな石柱と、
美濃路街道の案内板があった。
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ここからしばらく歩くと、左側にお堂の屋根が見え、その先の竹やぶの前の道の脇に、
「 羽島市 指定史跡 一里塚跡 」 の石碑が建っていた。
この碑は、江戸時代、西小熊の一里塚があったことを示すもので、
平成十一年に建てられたようである。
道の両脇には、桜の木であろうか? 点々と続いていた。
そのまま、堤防道路をさらに西に進み、やがて小熊・高桑線を越えて直進すると、
右側に「太神宮」と刻まれた石灯籠と秋葉神社が祀られていた。
秋葉神社の石柱の大きさに比べ、社(祠)は小さかった。
このあたりは羽島市小熊町西小熊である。
堤の上の道の両側に家が建っている。
しばらく進むと、美濃路は堤防から右へ下り、その先の三叉路を右折すると、境川橋がある。
「
境川は、江戸時代には小熊川と呼ばれたようだが、この川には美濃路で二つ目の渡しがあり、
小熊の渡しと呼ばれていた。
渡しは、境川橋より五十メートル程下流にあったといわれ、渡し船一艘に船頭七人があたり、
大きな大名行列の際には船橋が架けられた、という。 」
今は船渡りはできないので、境川橋を渡ると、
日置江五十石という何か謂れがありそうな交差点に出た。
そのまま歩き、大江川橋を渡ると、岐阜市茶屋新田になった。
そのまま車道を歩いて行くと、左手に長良川に架かる長良大橋がある。
道の右側の狭い道を下り、茶屋新田の集落に入る。
この集落には古い家は残っていないようである。
長良大橋に通じる道の下をくぐるトンネルを抜けて、長良川の堤防の上の道を北上する。
何時の間にか、青空になっていて、長良川越しに、、
雪を被った伊吹山と墨俣一夜城が見えた。
長良大橋から二百メートルほど北上したところが、「墨俣(すのまた)の渡し跡」 と、聞いていたので、歩いていったが、堤防の上の道にはそれを示すような石碑はなかった。
長良川を渡る渡し船は残っていないので、道を戻り、長良大橋を渡る。
橋の中央部あたりから、大垣市墨俣町(旧安八郡墨俣町)になる。
「 墨俣は、江戸時代には、美濃路の墨俣宿があったところであるが、 江戸時代以前の鎌倉街道の時代に、既に宿場町として栄えていた。 」
橋を渡ると、長良大橋西交差点で、「 豊臣秀吉出世城墨俣 北へ500m 」 の大きな看板があり、そちらを向いて大きな地蔵様が立っていた。
墨俣の渡し場跡を探しに堤防の上の道を北上した。
墨俣一夜城より上流にいっても渡し場の跡らしいところは見つからなかった。
表示杭か標柱があると思っていたが、そういうものはもともとないのかも知れない、と思った。
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墨俣一夜城は、右側に長良川に平行して流れる天王川、 左に犀川が合流する三角洲の上に建っている。
「 斎藤氏が築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。
また、永禄四年(1561)ないし、永禄九年(1566)の織田信長の美濃進攻に当っては、
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかの期間で、この地に城を築いたと伝えられている。
これがいわゆる、墨俣一夜城である。
信長はこの城を足がかりに、美濃を攻略を成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。
ところが、信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一の信長公記を
始め、信頼できる史料には全く記載がない。
この城の名は江戸後期(1797年)に書かれた法橋玉山の絵本太閤記に始めて登場し、
それまでは藤吉郎が岐阜県のどこかに城を築いたという記述しかない。
また、天正の大洪水で木曽川の流れが変わり、ここに城を置く意味がなくなった、といわれる。
歴史学者には、この城の存在そのものが疑問視されていて、
秀吉が築いたとされる一夜城は実在しないというのが定説である。 」
堤防道路から、階段を下りて、犀川に囲まれている城に橋を渡り、入って行く。
現在、墨俣城跡の北西には、一夜城跡として公園が整備されている。
公園内には、大垣市墨俣町歴史資料館(墨俣一夜城)が建てられている。
「 当時の墨俣町は、竹下内閣のふるさと創生資金1億円を使って、
大垣城を模した天守と金のしゃちほこを造り、
墨俣一夜城歴史資料館として公開したものである。
資料館には木下藤吉郎の一夜城築城の様子をはじめ、
墨俣の歴史資料や風土を紹介している。
(9時から17時、200円、月休) 」
また、境内には白髭神社(式内社荒方神社の説もある)の境内社として、豊国神社が分祀されている。
天守前には木下藤吉郎の坐像があった。
秀吉の座像のある方の橋を渡り、城を出て、細い道を南下すると、右側に公衆トイレがあり、 その先にある鳥居の奥に、「史跡墨俣宿」の石碑があり、 道側には、「史跡美濃路」の標柱が建っていた。
当時の墨俣の宿場町はここから南部に位置する墨俣町上宿付近にあった、といわれる。
尾張藩士・樋口好古の著した濃州徇行記には、
「 町の長さは七町七間あり。 町の名を河端、中町、本町、西町、横町という。
町並は大体よい処なり。 中町、本町の間旅籠多し。 本陣は中町にあり。 ・・・ 」
と、宿場の様子を記している。
墨俣宿の亨和弐年(1802)の宿場の人口は千二百十八人、家数は二百六十三軒で、
周囲の村からの助郷で宿場は繁盛し、この地方の中心だったが、
明治に入り、鉄道が他地区を通ったことと、最近では大垣の商圏が拡大し、
生き残るのが大変という状態のようである。
道の反対に、大きな自然石が置かれた上に、「本陣跡」 の石碑があった。
江戸時代、このあたりが札の辻で、高札場があったところである。
石碑の文面
「 室町末期に上宿から中町、本町、西町へ街道が移り、
慶長年間にこの地に墨俣宿の本陣が置かれ、初代沢井九市郎正賢、二代目以降沢井彦四郎を名乗り、明治まで十三代続いた。 」
本陣碑の脇の「満福寺熊谷堂」の看板を見て、南に向かって細い道を歩く。
「 安永七年の墨俣宿の絵図には、道の両側が河端町で、 その先を左折して行ったところに船場だったように書かれている。 」
その先の突き当たりに、明台寺があった。
手前にあった寺町の案内板には、明台寺の東の方向に船場があったように記されていた。
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寺町は寺院が多いとあるので、右折して通りを入って行くと、あるわあるわ!!
右本正寺、左広専寺。
本正寺の山門は、墨俣宿の脇本陣の門を移転したものである。
三叉路の突き当たりに等覚寺、右側に光受寺。
等覚寺の脇の道を進むと、満福寺、その奥に墨俣神社があった。
墨俣神社は明台寺の南にあったのが、ここに移転してきたが、
その他の寺はほぼ同じ位置にあるというのは驚きである。
寺がこれだけ密集していれば、寺町の名前は納得できる。
「本陣跡」の碑に戻る。
本陣碑の脇の狭い道を西に向かうと、江戸時代の中町、本町となる。 br>
更に西へ百メートル程行くと、岐阜屋百貨店の隣に、
「 墨俣宿脇本陣 池田屋 」 の暖簾を掲げた家があった。
黒茶色の塀の中央部の門前に、「脇本陣跡」 の石碑が建っていた。
「
脇本陣は代々安藤家(一時加野家)が務めた。
現在の建物は、明治二十五年に建てられたもの。
江戸時代の脇本陣の門は、明治末に本正寺に移築されたことはすでに述べた通りである。 」
その先にも、呉服屋や電気店、大垣信用金庫など、商店が建ち並ぶが、活気があるとはいえない。
このあたりが、本町である。
大垣信金の前に、「 津島神社 秋葉神社 」 と連名の鳥居がある。
津島神社は「天王社」と呼ばれていたようで、
安永七年の墨俣宿の絵図にも、「天王橋」という表示がある。
鳥居の脇に、「 文化財 琉球使節通行記念灯籠 」 と書かれて石柱が建っている。
「 寛政三年正月、琉球使節の一行が通行の際、奉納する石灯籠に刻銘文を願い、 儀衛正、毛廷柱が執筆したというもので、石灯籠の右側奥に両名の名前があった。 」
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昼になったが、途中にコンビニや喫茶店はあったが、食堂は見当たらない。
その先で、ひつまぶしの看板を出しているのを見つけた。
奥まった店で、車は一台もないので、少し心配になったが、
入ると八〇歳近いと思われる御主人とお内儀がいた。
一番安いうな丼を注文した。
御主人は黙々作業されるだけで、お内儀はお茶を出すと中に引っ込まれた。
料理が出されるまで、持ってきたパンフレットを見ながら過ごした。
ストーブの火が暖かく感じる頃、うな丼は出てきたが、
あじは濃い目に感じたが、ひつまぶしのたれと同じなのかと思った。
御主人の話方などは関西系に思え、焼き方も関西風なので、
文化は大垣から西は関西圏に属すのではないか?、と思った。
食事を終えて、旅を再開。 正面に電気店が見える。
手前の右側に二軒だけ古そうな家があったが、それ以外に古い建物は残っていない。
電気屋の交差点を右折すると、江戸時代の西町に入る。
少し歩くと、左側のサン薬局の先に八幡神社があった。
「 正式には正八幡宮というようで、その由来には、
「 延喜式美濃神名帳には従一位荒方明神とあるが、のちに八幡神社と改められ、
応神天皇を祭神とする。
鎌倉街道は少し南に、美濃路は大鳥居の前を通る、西国、東国の要衡の地にあったので、
ここを通る多くの武将がお参りした。
旧木曽川町出身の山内一豊は特に信心が厚かったようである。 」
神社を出ると、道は犀川の堤防に突き当たると、左にカーブしていく。
堤防の一角に「美濃路」の石柱が建っていた。
車道には歩道帯が付いていないので、階段で犀川の堤防に上り、堤防道を歩いていこうと思う。
堤防へ上がる右側に、「史跡 美濃路」 の石柱が建てられていた。
墨俣宿はこのあたりで終わる。
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堤防へ上がると視野が広がり、右手に一夜城が見えた。
下には広い駐車場があり、左右の広い面積の土地があるが、さい川さくら公園とあった。
「長良川 犀川遊水地」の看板があった。
看板の文字
「 犀川南部地域は、自然堤防地に挟まれた低湿地となっていたため、
古くから内水による湛水被害の常襲地であり、
上輪中と下輪中の利害対立に明け暮れた歴史であったといってもよい。
昭和五年から国と県により、犀川、天王川の改修がされ、
昭和五十一年以降排水機の設置により、内水の排除が行われた。
更に、堀削、引堤を行い、遊水地を造ることで、効果を高める。 (以下省略) 」
従って、この下の公園は全て遊水地ということである。
堤防の道を歩いて行くと、三叉路があったが、
堤防の道が正しいと思って、そのまま歩く。
県道23号があり、右に犀川橋が見えてきた。
道の向こうにある大きな建物はSuper Center Plant-6である。
「
店は広いが、駐車場はだだ広く、商品を持って車に戻るのに難儀しそうである。
堤防脇の道路も整備されていて、「瑞穂市」の標識がある。
PLANTの店から西側は瑞穂市犀川3丁目である。
この道が正しいと歩いていったが、これは間違い。
実はこの店から南にかけての広大な空き地は、遊水地や河川改修から出る土砂を積んでできたのである。
」
正しいのは、先程の三叉路で左の道を行き、立体交差点出県道23号を越えて、
SuperCenter Plant-6よりずーと南の細い道である。
北側の土砂を積んでできた新興地は瑞穂市だが、南側は大垣市墨俣町先入方である。
北側の新興地には住宅地が生まれつつあった。
新興地が終わる辺りから安八町東結で、堤上の道の左下に集落が拡がる。
東結一里塚跡は下に降りたところにあるので、意識してないと見逃してしまう。
堤の南側の下に、明治四十三年(1910)に建てられた馬頭観音と美濃路一里塚跡の石碑があった。
かっては、上の堤の南北に一里塚があったようなので、位置が変わっている。
また、上にのぼって、堤の上の道を行く。
入方水防小屋あたりで、道はくにゃくにゃしているが、
右手に紀文フードケミファー(現キッコーマンソイフーズ)の工場が見える。
しばらくすると、県道171号線に出た。
対面の右側に、「 歴史の道 鎌倉街道 美濃路 縁結びの結神社 0.6km 照手姫ゆかりの町屋観音堂 0.5km 」 、と書かれた大きな道案内板が建てられていた。
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県道を横切り、車が通れなくなった堤防道を行く。
「倉稲魂神 米の宮之趾」 の石柱には、「 結上村区民一同 」 とあり、
五穀豊穣を願う神様の社があったようである。
その先左側にあったのは白山神社である。
そこから少し歩くと、右側に日本庭園のまちあい公園があり、 その向こうに町屋観音堂があった。
「
このお堂には、照手姫(てるてひめ)ゆかりの十一面観音が祀られているというが、
戸が閉まっていて、拝めなかったのは残念である。
照手姫といえば、歌舞伎、浄瑠璃にもなった小栗判官(おぐりはんがん)物語である。
「 照手姫ゆかりの町屋観音堂 」の由来
町屋観音堂の脇の歴史の道の案内板には、町屋観音堂について以下のように記されている。
「 この観音堂は、嘉応年間(1169〜1171)に建立された結神社とほぼ同じ時期に、
参道の東に建立されました。
明治二十四年(1891)の濃尾地震で本堂が倒壊し、また、揖斐川改修(1904)で、この地は河川敷になり、その為、二十九年の間、民家に御本尊は預けられました。
大正八年に、この地に本堂が再建されましたが、
傷んだため、平成六年に 現在の建物が建立されました。
御本尊の十一面観世音は、聖徳太子の時代の栴檀の木で彫刻された観世音で、
頭上の一寸八分(約6cm)の黄金仏は照手姫の守り本尊であります。
郷土の文学者、岡田垣斎氏の古文書並びに古来よりの伝えによれば、
『 その昔、応永三十年(1424)頃、当地に霊告により、照手姫は小栗判官との再開を願望し、
結大明神に七日間の祈願をしました。
明神が姫に告げられるのに、 「 願望叶えさすべし。
然し、守本尊は我に有縁の尊像なれば、当社に納めよ!! 」 といわれ、
姫は成就することを喜び、名残惜しくも明神(結神社)に納められた。
その後、明神は、 「 この尊像は当地に有縁の像なれば観音の上に載せ、諸民に拝ませよ 」 と告げられる。
以後、守本尊は、十一面観音の頭上に祭り、結神社と共に縁結び、
安産の神として、村民等しく崇拝の的であります。 』
小生は、中山道と東海道を歩いたが、
照手姫伝説は鎌倉街道だった幾つかの宿場に今も残っていた。
この地も鎌倉街道の間の宿があったところであったが、思わぬところで再開できた感がある。
町屋観音堂を過ぎると、町屋バス停があり、道が二手に分かれる。
美濃路はまっすぐに行って揖斐川を渡るが、小生は少し寄り道する。
この道を右折すると、結大明神ともいわれる結神社がある。
鳥居前の説明板
「 神社の創建は、第八十代高倉天皇の嘉応年間(1169)と伝えられる。
祭神は、高御参霊尊(たかむすびとのみこと)、天御中主尊(あめのみなかぬしみこと)、
神御産霊尊(かみのむすびのみこと)の三神で、
社名はこの御三神を「むすぶ」に由来し、縁結びのほか諸願成就に霊験あらたかと伝えられる。
建治三年(1277)、十六夜日記の作家・阿仏尼が、京から鎌倉に下る途中、この社を頼ね、
「 守れただ 契りむすぶ神ならば とけぬうらみに われ迷はさで 」 と、詠んでいる。
明治三十六年四月の揖斐川改修工事により、これまでの場所は河川敷となったため、
現在地に移転した。 」
境内には、江戸時代後期、嘉永六年(1855)に、
不破郡徳光村の堀小六と嘉七により寄進された彫刻燈明がある。
また、江戸時代中期、寛政五年(1793)に、向井大和守と保田加賀守に寄進された彫刻燈明があった。
三叉路(街道)に戻り、直進すると揖斐川の土手に突き当たった。
「
江戸時代には、この奥あたりに佐渡の渡しがあった。
佐渡の渡しには、常時、渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されていた。 」
今は渡し舟がないだけでなく、土手に登れないので、右折する。
そのまま進み、上の堤防道路入ったが、車が多く危ない。
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堤防道路から揖斐川側は河川敷で、畑になっている部分もあるが、
空き地や雑草が生い茂っている土地も多い。
この河川敷のどこかに結神社も町屋観音堂もあったのだろう。
その先に国道21号の新揖斐川橋が見えた。
「 小生は美濃路の旅で、木曽川と長良川を越え、ここまで辿りついた。
今は平穏に見えるこれらの土地は、
江戸時代には、至るところに小さな川が流れ、また、大部分が湿地で、
集落の周囲に堤を作って暮らす、「輪中」だったことを知った。
木曾三川の被害を防ぐ工事により、水の被害は減ったが、
その過程で、結神社や町屋観音堂の移転、そして、米の宮の消滅などがあったのである。 」
集落で見た雲晴寺の石柱は大きて立派なのに、
その奥の朽ち果てたような墓地はそれを象徴しているように思えた。
木曾三川の被害を防ぐ工事は、今も、遊水地工事等に続けられていることを知り、
水との戦いは大変だなあ、と思いながら、大垣に向かった。
「 江戸時代、美濃路の大垣宿へは、
更にもう一つの川、揖斐川を渡らなければならない。
「佐渡(さわたり)の渡し」と呼ばれた渡しで渡るが、
常時、渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されていた。 」
佐渡の渡しは残っていないので、 上流にある長さ五百二十メートルの新揖斐川橋の左側、歩道部分を歩いて渡る。
「 この橋は比較的新しく、上流側が昭和四十七年、
下流側は昭和六十一年に架橋された。
国道21号は対向二車線だが、橋はもう一車線追加できる構造になっているが、
現在はちょっと休憩という車が駐車するスペースになっていた。 」
川がなくなったと思ったところの橋の上に、「大垣市」の標識があり、
ここから大垣市和合新町である。
橋を渡ったところに、「大垣市東町」の矢印があった。
堤防上の道(県道261号)を下流へ向って、三百メートル程歩くと、
堤の右下に佐渡常夜燈が建っていた。
広報おおがきの平成十六年版に、 「 市教育委員会は10月28日、
東町1丁目地内揖斐川右岸堤上にある佐渡常夜燈を市重要民俗文化財に指定しました。
縦横約2メートル、高さ4メートルを超えるこの常夜燈は、
美濃路の佐渡の渡しの航行安全祈願、航路標識および伊勢両宮への献燈のため、
嘉永7年(1854)に建立されました。
改変されることなく現在に残るその姿は、江戸時代の街道交通や民衆の生活を知る上で、
非常に価値の高い民俗資料です。 」
佐渡の渡しのあったところは、江戸時代には沢渡東町(現大垣市東町)だったようである。
常夜燈の東側の河岸付近にあったのだろうが、確認はできなかった。
常夜燈の先の道を下りて、西へ向うのが美濃路である。
コミニティバスの東バス停があり、
道を進むと、鉤型に曲がる直前の右側に大師寺の弘法大師堂がある。
曲がった先には、立派な門の家があり、
門には「宮脇酒造合資会社」 の標札がある。
「磯波」 という銘柄のお酒を醸造している造り酒屋である。
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西東町のバス停を越えると、道は右にカーブする。
右側に「美濃路」を解説した看板があり、右側の道と合流する。
ここで、美濃路はまた、西に方向を戻す。
川に沿った道を歩き、信号交差点を越して、少し行くと、右側に小野小学校がある。
その先の右側の道角に、「 教如上人御旧跡 」 の石碑が建っている。
「 ここは専勝寺の入口で、この碑は、東本願寺初代法王となった教如上人が、 関東より京へ向かう際、それを阻止しようとする陣営から、 この寺の住職・了栄が、命を惜しまず上人を守り抜いた故事を示すものである。 」
「天然温泉」とある小野交差点で、県道50号を横断し、直進する。
やがて左手に変わった建物群が見えてくる。 大垣市ソフトピアの建物である。
道の右側の歩道を歩いて行くと、小さな川を渡る橋の手前の桜(?)の木の下に、
「美濃路」と刻まれた石柱が建っていた。
「
石柱の片側には、 「 鎌倉街道 小野の長橋跡 」 と刻まれている。
小野の長橋は、平安時代から京都の歌人によく知られた名所だったようで、
多くの歌が詠まれている。
」
道の両脇は畑である。
このあたりは加賀野という地名で、右手の東海道本線を越えた北側に、正賢寺があり、
その北に加賀野城跡の旧跡がある。
道が細くなり、三叉路で、左に緩やかにカーブする道に入る。
このあたりは今宿というが、鎌倉街道の宿駅が置かれたことから名付けられたといわれる。
美濃路は、その先、高橋接骨院前で直角に左折し、寶光寺の前を通る。
八幡神社の鳥居前、左に石仏を祀ったお堂を通ると、大通りに出た。
このあたりは三塚の集落である。
交差点を右折して、COFFEE HOUSE RANZUを左に折れ、
すぐの日電精密社員会館を右に曲がる。
東中学校の校庭横の道を進むと、新善光寺があった。
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手前を右折すると、東小学校に突き当たって、美濃市の道は消えてしまった。
大通りの小学校の前に出る。
大通りの道の右手(北側)は、イオンタウン大垣で、
これは昭和四十年頃は日本の花形業だった繊維工場の跡地である。
大通りには、新規川の手前に、「三塚の一里塚」の碑があった。
一里塚跡は跡形もなくなくなっていた。
「 新規川の橋を渡ると藤江町で、
江戸時代にはこのあたりから大垣宿だった。
大垣宿は、宿場町の東西の距離が二十六町十四間(2.9キロ弱)と長い。
天保十四年の宿村大概帳によると、家数九百三軒、宿内人口五千百三十六人で、
旅籠は十一軒、本陣は一軒、脇本陣二軒、問屋場は一ヶ所である。 」
大通りを進むと、伝馬町交差点には、「←県道212号」 、「↑↓県道258号」の
標識があり、交叉点を越えると伝馬町になる。
その先の右側に秋葉神社があり、その奥に実相寺がある。
境内に、「木像如意輪観音坐像」の説明板がある。
「 この仏像は、寛永12年(1636) 戸田大垣藩初代藩主・戸田氏鉄公が、
尼崎から大垣に移封と共に移され、後に大垣城の鬼門除けとして建立された般若院
(明治維新の神仏分離令で廃寺) の本尊であった。
像身は、榎材の寄木造で、作風は小像ながらも全体に均整がとれた大らかさがあり、
衣文線は柔らかく流麗、室町時代の作風を偲ばせ、
大和国(奈良県)の古仏師春日の作と伝えられる。
大垣市教育委員会 」
その先の右側に、大垣市指定重要文化財になっている、大垣祭山車の「松竹山車」
と「恵比寿山車」の蔵があった。
交叉点の先、右側には、順念寺があり、伝馬西交差点の右手には東本願寺の大垣別院があった。
これらは城下町だった大垣宿の防備を兼ねた寺だったのだろうか?
県道212号は伝馬西交差点で、北上して行く。
今日は木曽川を越えた羽島市の新井の渡し跡から歩いてきたが、
暗くなったので、最終日に大垣宿と大垣城の見学と垂井宿までの旅をすることにする。
急ぎ足で大垣駅に向かい、
JR大垣駅から東海道本線の快速急行に乗り、名古屋に帰った。
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旅をした日 平成21年(2009)1月12日